【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3
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幕末歴史ロマンー水戸天狗党の悲劇
−明治維新を待てなかった人々−
http://member.nifty.ne.jp/sasanuma/historio/tengu-to.html
明治維新も目前となった1865年,北陸の港町敦賀で,はるばる水戸からやってきた
武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。「天狗党」とよばれた彼らは,
なぜ敦賀に来たのか。そして,なぜ処刑されなければならなかったのか
【幕末の】水戸天狗党【悲劇】2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history2/1163300094/ ちなみに諸生党の生き残りは明治維新後、藩籍封還、廃藩治県による秩緑処分や戦死手当を一切受け取れなかったとか
迫害の上じり貧にされては、水戸に居ても「生きるも地獄、死ぬも地獄」だったろう
ここまで報復を受け賊軍のままにされて、後に慰霊碑が造られたのは数十年後。それも政府は渋々の模様だったことから如何に睨まれていたかがわかる
もっともそれは諸生党が巻いた種ではあるが 諸生党の慰霊碑建立に尽力したのは天狗党の生き残りだったとか。
自分が殺し損ねた相手に自分達の慰霊碑を建てられるという皮肉。 慶篤と田沼を、結局天狗党は報復しなかったな
慶篤は敦賀の処刑を安心したと嘲笑い、田沼は処刑した張本人なのに処罰なし
そのまま明治を流れたことを党員はどんな気持ちでいたのだろう
今でもそのしこりを上の子孫にぶつけたいという思いがくすぶってるのだろうか… 天狗党自体"よかろう様"である慶篤を当てにならず、ゆえに慶喜を頼ろうとしたので
慶篤が天狗党を快く思っていないのは重々承知。天狗党が復権した頃に心労で死去。
田沼=金次郎が田沼邸へ来たときは既に死にかけていてあだ討ちのやりよう無し。
しかし田沼が死んだ後も本当に死んだのか疑う旧水戸藩士が執拗に田沼邸に押しかけて来たという。
>>58
水戸内の抗争を思えば手ぬるい感じがする
特に田沼はそのまま首をとって晒しにしてもおかしくなかったろうに
それで歴史から何もありませんでしたと、記載さえされなかったことになるとは…
他の天狗縁者からしてみたら、遺恨を断ち切るには影響が弱いでしょ だから納得できない旧天狗党縁者が田沼邸に押しかけてきて本当に死んだのか
いちいち確かめにくることが暫く続いた。
水戸に入国して3週間で病死したって、どんだけ天狗が嫌いなんだよ慶篤
水戸が天狗に政局乗っ取られたくらいで情けなすぎる。その程度で病気になる理由がわからん
つか天狗に謝ってから逝くべきだった そういえば、明治以降の天狗と諸生の確執はそれからどうなったのだろうか?
会津のように未だ遺恨の残っているのだろうか 明治以降も加波山事件とか血盟団とかきな臭いことやっていたので、
会津のように幕末維新で止まっているわけではないから複雑。 恨み一つってわけじゃなさそうだね
しかしなんだろう
どれだけ酷い処刑をすれば、歴史に残らないほどの報復をされるのか想像出来ない
本当に八つ裂きとか遺体放置の墓禁止とかしたんだろうか
だとしたら明治以降、諸生が天狗を恨むのは逆恨みじゃないのか 天狗側の生き残りが諸生派戦死者の慰霊碑を建てるぐらいだから天狗側がみんな揃って
復讐に拘っているというわけでもなさそうだが。 水戸の歴史書の中に、諸生党とは別に奸党という呼び方をするものがある
その全て、市川らはこの奸党に配置されてるけど、これは本当は諸生党は市川らとは関係ないという言い分? 武士だけじゃなく、庄屋、農民でも天狗だ諸生だやってたんだよな
維新後でもわだかまりはそれは凄かっただろうね 農民層に対する尊王教育にも水戸藩は力を入れ、
郷校を藩領各地に建て、農民層への尊王思想の普及に努めた。
諸生党を蔑視して奸党と呼んだときくけど
諸生党以外の反天狗の保守グループもまとめて奸党と記したとも考えられる
市川は諸生党とは別の保守の一派だったという説もあるみたいだし
>>61
毒かなにかで天狗の残党に暗殺されて
体面上病死ってことで片付けたんじゃないとか勘繰ってしまう そこまで簡単じゃないだろう、毒殺。
と思ったが、その頃には殿の回りも天狗党に入れ替え済みかな。 >>70
その説は可能性が高いな
慶篤の天狗党に対する行為が冷淡だし、諸生の仕打ちを喜んで安心とか言ってたから
その事を憎まれてもやむを得ないと思う
むしろそうあってほしいと思う俺がいる 諸生党の主だった人物はもう水戸を脱出しており
さいみ党が報復で白昼諸生党の残党や家族を殺してまわっても
誰にも止められないような状況下で
3週間で病死というのがいかにもあやしいけど
本当に病死でそんな事実がなければ勿論、
あったとしても証拠なんて残すわけないから真相は不明だな
殿様の死に様なんて一部の人間しか知らないだろうに
当時、暗殺されたのではという噂の類はなかったんだろうか
あやしいと思っていても口にするのはタブーみたいな空気だったのかな 市川等は慶篤の死を聞いて"殺りやがったな!"と憤慨したという 天狗党の主だったものは処刑という辱めを受けたのに、諸生党の主だったものは戦死という名誉を遂げていることに
少し不条理を感じるのだが 後暗黒時代のことを記載している歴史書は少なからずあるけど
明治2年以降の天狗と諸生の争いや、明治における諸生の仕返しがどんなんだったかを記したのって全くといっていいほどないよね
やはり凄惨なことは少しでも抹消したかったのだろうか どちらにとっても抹消したい過去だから、落ち着いた後も語る人が
居なくなっちゃったんじゃないか? >明治2年以降の天狗と諸生の争いや、明治における諸生の仕返しがどんなんだったかを記したのって全くといっていいほどないよね
山川菊栄の"幕末の水戸藩"に淡々と抑揚無く愚かしいことやばかげたこと様々な事件が記されている。
(博打で負けた奴が相手に"天誅"加えたとかわけの分からないことまで)
"全く無い"のではなくあまりにも痛い話が列挙されるので読まれないだけなのではないのだろうか。
諸生党の市川って、最期は逆磔の刑に処されたんだよね?幕末の時代に水戸藩の執政までのぼりつめた。
幕閣で例えたら老中クラスの人物でここまでの残酷な処刑法で命を落とした人物っていないよね.
小栗上野介忠順だって斬首だったから。 祇園寺ってとこに墓があるらしいけど墓参りする人いるのかな...
常磐神社内で市川の名前を言ったら、追い出されそう。
>幕閣で例えたら老中クラスの人物でここまでの残酷な処刑法で命を落とした人物っていないよね
井伊直弼だって政敵の一族郎党を皆殺しにするような暴挙は働いていませんから
政権奪取後の反対派粛清、カウンタークーデターによる失脚と処刑って経緯は似てるね。
違う点としては、水戸藩ほど過剰な粛清が行われなかったことかな。
椋梨ら俗論党が2回目の粛清を行う為にそうせい候に処刑者リスト提出したら、
「ちょっと考えがあるからこれ預かっとくわ」って言われてそのままスルーされたって話もある。
井上馨や山縣半蔵はこれで首の皮一枚繋がったとか。
これがイケイケドンドンで執行されてれば、クーデター後はもっと凄惨な報復措置が採られたかもしれんね。
水戸の悲劇は、エスカレートする粛清をどこかの時点で止められる人が居なかったからではないかと思う。 福井県民なんだけど、旧暦12月、つまり今の1月に
美濃から山道越えて越前に入ったというのは正直とんでもないと思う。
真冬の揖斐市〜大野市ルートなんて現代でも誰も通らない。というか通れない。
積雪量でいえば暖冬の年でも2メートルは堅い。まともに雪降ったら3〜4メートルは積もる。
1000人近い人数で大砲まで引っ張って、犠牲者一桁で脇道の蝿帽子峠越えるって、
佐々成政のさらさら越えの次ぐらいに凄い。そして偉業の傍らで家燃やされた大野藩の村民涙目。 慶喜様なら我々の思いが分かってくださるという信念が彼等の行軍を支えていた。
最後の山越えの前にも水戸から美濃まで
討伐命令を受けた諸藩との交戦や冬の山道の強行軍を続けてきて
満身創痍のうえに慶喜が討伐軍を率いていると知って精神的打撃を受けても
天朝様に尊攘の志をきいていただくという一念だけで隊が維持されたのは
他に道がなかったというのもあるだろうけど
天晴れを通り越してここまでくると思想教育の怖さを思わずにはいられない 尊皇攘夷の大本山であると同時に幕藩体制の支持者でもあった天狗が壊滅したことは
相対的に長州を中心とした倒幕を志す尊攘派が影響力を増す一因になっただろうけど
もし東湖が存命で天狗を抑えるなどして
水戸の尊攘派が健在なままだったらその後の歴史はどうなっていただろう 藤田東湖は中々達者だが、身内でグダグダ騒ぎ出すだけでますます混乱が深まっただけ。
by 勝海舟 勝は筋金入りの水戸嫌いで慶喜の腹心の原市之進も"頭は切れるが裏のある陰険な奴"と貶している。
>>80
逆磔の刑って、頭を下にする磔? 手が逆になる磔?
市川なんで天狗党の家族を残酷に虐殺したんだろ。
でも自分自身は最期にうなぎ食わしてもらったという。
そりゃ水戸から尊皇攘夷思想を根絶やしにするためだろう
天狗残党の報復は思想のためというよりその怨恨からだろうけど >>92
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411432149 >>92
(135)東大教授・山内昌之 市川三左衛門
ttp://sankei.jp.msn.com/life/news/111027/art11102708150004-n4.htm そいつの【幕末から学ぶ現在(いま)】は嘘が多すぎてアテにならない。
この大虐殺は幕末最大の汚点だろう
この大虐殺が歴史から抹殺されたようになっていること自体不思議なこと
幕末を描くのなら龍馬や新選組ではなく天狗党惨殺に悲劇的な歴史事実を
隠さず描くべきだ!!
幕末維新の作り話はもうたくさんだね 対立構図が薩長対会津といったものじゃなく同じ水戸人同士の殺し合いなうえ
一族皆殺しのようなえげつないことをやってしまったから
創作の題材にもしにくいし水戸の人もあまり掘り返されたくないだろう 天狗にやたら同情的なレス多いけど天狗も十分狂ってる。
天狗の異常な尊皇攘夷原理主義とくらべて
思想的には諸生党のほうはいたってまっとうだけど
先に家族にまで私刑を加えたせいで天狗より印象が悪い k62ptju(^-^)/ EBkczpGtO 京都の王者 岡本監督 うむ。
藤田東湖と戸田忠太夫が安政の大地震で一日で亡くなってしまったのも…。
特に藤田は一度助かったのに…。 天狗党の乱がなければ戊辰戦争は起こらなかった可能性はあるかな 義烈千秋っていう天狗党を描いた歴史小説が面白かった
家系図を見たら、うちの先祖はどうやら諸生派の中の市川勢に
属していたらしい。
もともと小石川の藩邸勤めだったが、おそらく天狗党の乱前後に
水戸へ戻り、その後市川、朝比奈らと共に会津へ向かったとある。
・・・が、ご先祖様は会津の手前で仲間と離れ、そのまま尼崎まで逃走したとあった。
事実だったなら、会津戦争を回避した先祖のファインプレーというか、よく生き残ったな、と。
今度歴史館に行って水戸藩士の名簿を買って真偽を確かめたいと思う。
会津から尼崎まで、よく逃げおおせたなと、 おつかれまです。
愛国者同志、恩讐の彼方にですね。 歴史館に行ってきて史料を閲覧してきました。
手がかりになるようなものはありませんでしたが、一代記を読み進めるうちに
「大洗の願入寺に件の先祖の父親の墓があるらしいこと、
願入寺にて松平頼説の娘ではないかと思われる人物の警護にあたっている。」
ということがわかりました。
尼崎では伊佐具神社の神職として働いていたようで、
久我建通から役職を賜ったと書いてあり、驚きました。
かつて争った相手方からの命にどう思ったのかはわかりませんが、
歴史の皮肉さを感じました。
諸生派という立場から、維新後もしばらく素性を隠していたようで、
一代記も世の中が安定してから残したようです。
学芸員からも、諸生派のその後が書かれてものはかなり珍しいと言われました。
天狗党の逸話は現在でもタブーにしている地域はある。
虐殺したされた地域が隣接したり合併で益々表に出来なくなっている。
又、虐殺の方法もグロすぎて歴史に出来ない事が多すぎる。 小説で興味もって史実を調べたいんだけど
岩波の幕末の水戸藩が絶版になってる
ほかになにかいい資料ない? 茨城県庁北側の県開発公社ビル1Fに
川又書店いうのがあって、そこの郷土史コーナー充実しているから
そこをのぞけば? >123
先日亡くなった祖母の49日で帰省した際に聞いた話。
祖母(さらにその母親?)が、明治初期に水戸から逃れてきた士族の娘だったらしい。
一年ほど農家の縁の下に隠されて、生き延びたという話から、おそらく書生党の残党だと思う。
その後、「士族は使い物にならん」と陰口をたたかれながら、ずいぶんと苦労したらしい。
うちの地元(那珂町)では、天狗、書生の話は未だにタブーになっている。
双方、shareにならない陰惨参逆非道な行為をやりまくった。
政敵とはいえ、幼児赤ん坊まとめて大量に粛正とか完全に常軌を逸しており、自分にその血が
流れていると思うと、本当にいやーな気分になる。親戚の中には、未だに先祖が頃した人々の為に
毎日念仏を唱えている人もいるよ。まじで。 >>54
武田の3歳児を処刑し、八つ裂きされ、
田畑に捨てられ墓も立てられてない人は誰?
乱後の私刑による諸生党による粛清や
それに対する天狗残党の報復の総犠牲者数ってどれくらいになるんだろうか
たぶん戊辰戦争の犠牲者(靖国に合祀されている人数)の内には含まれていないんじゃないかと思うけど
乱の全体では名前がわかってるだけで約三千人、総計で五千人以上といわれてるってなんかで読んだが 長州の所謂俗論派の幹部でもたいして出世はできなかったけど
新政府に出仕した人もいるってのに
水戸は武士道を理解してなかったんだな
大義ではなく私情で動いていたのかな 水戸は主だった武士が維新の頃には死に絶えてしまい雑魚同士で殺しあっていた グロい逸話でスンマソですが、ご先祖は農民だったが天狗系で睨まれ
同じ農民より一族郎党全部皆殺し。
子供らは三日間何も食わせなかった犬の群れに放り込まれて食べられて
廻りのみんなはゲラゲラ笑っていたそうで。
で、子供を食ったその犬をみんなで食べたとか
(実のところ子供は犬に食われたのではなく【自主規制】と推察)
そこへ京都からターミネーター天狗党がやってきて、今度は関係者をバラバラに
して死体を肥だめの中にぶちこんで翌年の肥料に・・・・
ところが、その肥だめを使った作物は育つどころか枯れてしまった。原因は栄養が善すぎたそうで。
どこの田畑かは差支えがあるので書けないが、天狗・書生の乱では
こういった農民同士の虐殺逸話が多すぎることからタブー視される。 祖先が水戸の佐竹旧臣系庄屋(本家は今も健在)なんだが…
じいちゃんの代から神奈川で本家とは親交がない
天狗か諸生かやっぱ伝わってるのかな? 大概は先祖に天狗党に参加して生きて帰ってこなかったとかいう程度で
地元全体が天狗諸生に分かれて争ったなんて話は極端な例だろ。 まぁ本家の柱に天狗が切りつけていった刀傷があったらしいが
諸生なのかな。。 >>135
あべこべではないだろう
俗論派は正義派を処刑はすれど、その家族には手は出さなかったし、
クーデター起こした高杉らの家族も無事
その後、実権を握った正義派に処刑された俗論派は椋梨一人だけで、
他の俗論派は罷免や降格をくらっても命まではとられて無い
土佐でも勤皇党が多数処刑されたが、その家族にまでは手を出されていないな
家督断絶になって生活に困窮することはあったようだが
生き残った勤皇党は薩長には及ばずとも新政府で出世している
当時の武士道云々はわからんが、水戸も家族らの処刑までしなければ
復讐の連鎖はある程度止められたと思うなあ 山川菊栄の本を読むと、一部だけとはいえ壮絶ぶりが伝わった。
あと、市町村史も天狗関係だと北関東の人達は口をつぐんでしまう。
水戸内戦後の明治維新でさえ、恨みで殺したなど逸話があるぐらい。
隣近所が諸生・天狗系の郷士だったから壮絶ぶりが伝わるけど
口伝としか残らないよな。
それが現在の選挙運動などの地方利権にストレートに絡むから益々言えなくなる。 一応うちの先祖も佐竹旧臣系の庄屋ながら名字帯刀だったらしいが、【郷士】になるのかな? 諸生系はあらかた逃亡し残った者も殺害されたり家財を略奪されたりして
壊滅的な打撃を受け盛り返すことは出来なかった。
今現在は梶山にしろ高野にしろ天狗系。 >>143
はて
じゃあうちはなんだったんだろうか?
今も本家はでかい構えで続いてる様子だよ
中立とかできたんだろうか?
調べたら同じ名字が天狗の敦賀組や諸生党名簿に 複数名あるんだが 天狗だったら水戸城下から離れていて
市川の手が届かない位置にいたので助かったのだろうし
(どうもうちの先祖はそんな感じ)
諸生だったとしたら維新前は立場が低く財も無かったので目をつけられず、
維新後になんらかの事業で成功をして大きくなったとか。
まぁ、とりあえず藤原秀郷流の佐竹旧臣、名字帯刀だったみたいなんだ
祖父が子供の頃、二親が相次いでなくなり一家は離散、幼い頃住んでた家はかなり
大きくて、バッチなんかは東京で警察官になったりして帰郷にはじいちゃん達に靴やらなんやら買って帰って来てくれたらしいんだ
それでじいちゃんだけクラスで靴履いてたり、それをからかったガキ大将を崖から突き落としてしまったりしたらしいW
いずれにしろ色々な不幸(おそらくは経済面も、口を濁してあまり教えてくれなかったが)が家にふりかかり離散したみたいだ 諸生派の士分は士籍が剥奪されて、士族の受けられる公債秩禄の支給が認められなかった。
維新後の身分の扱いである程度は憶測できる。
その後、兄弟姉妹は、東京に出て商店に勤めた爺ちゃん、海軍兵学校から飛行機乗りになって戦死したおじさん、東京経由で北海道に渡ったおばちゃんなど、皆色々な運命をたどった
長男は茨城(水戸市)にふみどどまり商売に成功し大きな家を建てたみたいだ
一度写真を見たが立派だった
二代連続で婿取りしたみたいで写真見たが恰幅のいい美男だった 吉村の小説では維新後に
天狗が諸生を弾圧した事は書かれていない。
その割には藤田東湖や戸田銀次郎、武田耕雲斎のような直言の家臣・配下が居ない 斉昭は別に排外主義者ではない。攘夷の代表に見えるのは後世の作為だよ。
朝廷への入説でも開国を肯定していた。戊戌の密勅ですぐに返還する決断したのに
尊皇一筋に見られたのは幕末を生き残った息子の慶喜の画策だろ。 本人がいなくなってから、本人の意思と違う解釈で
担ぎ上げるのは歴史上の手口だからな。
>>147
藩内での権力争いレベルの足の引っ張りあいならまだしも
ガチの殺し合い憎しみあいだもんな… 慶喜の横浜鎖港が良くも悪くもこの一件に大きく絡んでいるのは
案外言われていない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています