戦前の学者・学界の歴史
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明治時代から昭和初期にかけて活動した日本人の学者orお雇い外国人について語るスレッドです。
法学者、経済学者、歴史学者、社会学者、心理学者、医学者、生物学者、地球科学者、天文学者、数学者、物理学者など分野は問いません。
戦前とありますが、1950年代くらいまではみ出てもOK。
科学史や教育史のスレッドを別に建てたい人は、そのようにして構いません。 大学のかずがすくなかったから学者の権威はいまとはくらべものにならないほどたかかった。 法学部の俺としては京都帝国大学の瀧川事件を想起せずにはいられない。
この時に瀧川の罷免を強行した人物が、文部大臣の鳩山一郎(ぽっぽの祖父)。
ちなみに、瀧川は戦後に京都大学総長として復活するが、
この時にはあろうことか反動化して学生運動の弾圧に乗り出した。 戦前じゃなくて、
戦中だけど湯川秀樹って海軍の原爆開発に関わってたらしい。 戦前の大学はけっこうすごかったみたいね。経済学なんかでも海外の著名な文献なんか
外務省経由でほとんどリアルタイムで入手・翻訳してたみたいだし。現代より、より「国家機関」
的だったんじゃないかとおもう。外務省だとか内務省だとかと ラファエル・パンペリー(駐日大使ハリス、蝦夷地)
フランシスコ・コワニエ(薩摩藩、生野銀山)
エラスムス・ガワー(徳川幕府、佐渡鉱山)
ルイ・ラロック(住友家、別子銅山) 東京大学経済学部は1919年に法学部から独立。
高野岩三郎(宇野弘蔵の妻の父)の主導によるものだが、
高野は国家からILOの代表に任命され、
それを名誉に思うどころかILOの代表は労働者でなければならないと主張して東大教授を辞職。
高野の後任として経済学部を指揮すると目された森戸辰夫、大森義太郎も
マルクス主義への傾倒を理由に相次いで東大を追放され、
経済学部の運営は混迷を極める。 高野岩三郎は東京大学経済学部の創設者の他、
日本統計学会初代会長、NHK五代目会長、大原社会問題研究所初代所長の肩書きを持つ。
また、京都大学の憲法学者、鈴木安蔵(京都学連事件の被告人の一人)とともに憲法研究会を結成し、
この文書がGHQの憲法草案の原案になったといわれる。 東京大学は設立の当初は文学部、理学部、医学部。
帝国大学令と同時に司法省法学校、工部大学校、東京農林学校(駒場農学校と東京山林学校)が併合され、
帝国大学法科大学、帝国大学文科大学、帝国大学医科大学、帝国大学理科大学、帝国大学工科大学、帝国大学農科大学に再編。 黎明会は吉野作造と福田徳三が連合して結成した大正デモクラシーの団体。
主な会員は吉野作造、福田徳三、森戸辰男、穂積重遠、新渡戸稲造、朝永三十郎、永井潜、滝田樗陰。
滝田樗陰は学者ではなく『中央公論』の編集者。
同誌は『改造』の擡頭まで教養主義と民本主義の雑誌として左派の知識人に読まれる。
明治文化研究会は関東大震災を期に失われた明治時代の文化を再発見しようとする吉野作造の団体。
主な会員は吉野作造、宮武外骨、尾佐竹猛、小野秀雄。
小野秀雄は日本新聞学会(現:日本マス・コミュニケーション学会)の初代会長。 京都帝国大学の設立は1897年。
日清戦争で獲得した賠償金を原資に、第三高等学校を拡充した。
当初は法科大学、医科大学、文科大学、理科大学の編制。
東北帝国大学の設立は1907年。
長岡半太郎(物理学者)、牧野伸顕(文部大臣)、古河財閥の提携によって
仙台に理科大学を作ろうという構想が生み出されたことに始まる。
単科の帝国大学は認可し得ないとの国策により、
北海道の札幌農学校と合併してキャンパスの連携のない名目的な総合大学として設立。
九州帝国大学の設立は1911年。
京都帝国大学福岡医科大学を分離させ、八幡製鉄所に人材を送り込むため工科大学を設置。
東北帝国大学と九州帝国大学はどちらも文系の学部を置かなかった。
地方では官僚や文人の養成よりも国土の開発に携わる技術者を量産する方が効率的なため。
東北帝国大学では間もなく医学部と工学部が設置されるが、法文学部の設置は1922年と遅い。
実は東京帝国大学も草創期には理工学に力を入れていた。
法学部の優位が鮮明になったのは、帝国議会の開設と条約の問題に対応するため
早急に文系の官僚を生み出す必要に迫られた1890年代あたりから。 地方の帝国大学よりも東京の旧制専門学校の方が歴史は古い。
1880年代の中葉から末葉にかけて示し合わせたように建学が急増する。
その中でも1880年〜1881年に創設された明治法律学校と専修学校は特に早い。(東京専門学校すら1882年)
英吉利法律学校、和仏法律学校、日本法律学校はラッシュの最中。
意外にも獨逸学協会学校は1883年で英吉利法律学校の1885年を越す。
官立専門学校では東京高等師範学校(筑波大学)、女子高等師範学校(お茶の水)、
東京音楽学校、東京美術学校(ともに東京藝術大学)も1880年代の後半に設立。 少し古いですが、やはり吉田松陰先生を誰か熱く語ってください 明六社はアメリカ留学から帰ったばかりの森有礼が1873年に結成したネットワーク。
主な会員は森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西周、津田真道、中村正直、杉亨二、箕作麟祥。
実は主催者の森はこの中では最年少で26歳。他はみな40歳前後。
内部では森有礼・加藤弘之を中心とする国権の派閥と福沢諭吉を中心とする商人の派閥に分かれた。
どちらもイギリス・アメリカの思想に依拠。フランス法学者の箕作麟祥も当時はコモン・ローに傾倒。
機関紙の『明六雑誌』は意外にも讒謗律、新聞紙条例を理由に1885年に廃刊となっている。
明六社は1880年に解散し、その人脈は東京学士会院→帝国学士院に継承。
東京学士会院は1879年に文部卿の西郷従道が福沢や加藤に諮問して結成したもの。
森はまだ存命だが参加していない。東京学士会院は学術団体から官僚と実業家を排除するのが狙い。 >東京学士会院は学術団体から官僚と実業家を排除するのが狙い。
現代とはえらい違いですね。逆に明治の勢いを感じます。 東京学士会院の会長は、福沢諭吉が3ヶ月だけ初代を務めたほかは、
ほぼ加藤弘之と西周の交代制。一度だけ法学者の細川潤次郎が就任。
日露戦争の直後(1906年)まで存続。
帝国学士院に移行してからは、加藤弘之、穂積重遠(法学者)、
菊池大麓(数学者)、桜井錠二(化学者)、長岡半太郎(物理学者)の順に就任。
東京学士会院では維新直後の国情から社会科学の研究者が優勢だったが、
帝国学士院の時期には徐々に自然科学の研究者が擡頭して院長の座を独占。
(大正デモクラシーが終わりつつある1926年に最後の文系の穂積重遠が退任)
戦後の日本学士院は、文系の会員は第一部、理系の会員は第二部に所属し、
第一部と第二部から交互に会長を選出することが慣例となっている。
2011年の時点で歴代会長は11人おり、在任期間はおよそ5年。
人文科学の擡頭により、社会科学派の会長は1994年以降1人も誕生していない。
また、東北大学の1人を除き全て東京大学の出身者で占められている。 理系で帝国学士院の院長に選ばれた三人(菊池大麓、桜井錠二、長岡半太郎)は、
理化学研究所の設立当初の大幹部でもあった。
菊池大麓は理化学研究所初代所長、桜井錠二は初代副所長、長岡半太郎は主任研究員に選ばれている。
理化学研究所は第一次世界大戦の影響でドイツからの薬品の輸入が途絶えたことで、
日本の独力で薬品を開発するために1917年に設立された。
渋沢栄一、高峰譲吉、明治天皇が設立に関与しており、国家機関といえる。
戦前の有名な研究者には、ビタミンの発見者の鈴木梅太郎、文理融合を目指した寺田寅彦がいる。
理化学研究所は戦時中には理研コンツェルンとして軍需産業に加担した。
その事業の一部は市村という商人に買い受けられ、現在のリコー、三愛となっている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています