お前結局、史実をまったく踏まえてないね。
何度も繰り返すが、岩倉は薩長と敵対する同盟を作れなどとは言ってない
>>3で言われてるのは妄想。
ただし、新政府が会津(追加的に庄内)攻撃方針を貫く限り、
天保飢饉で極度の財政貧窮にある「会津以外の」奥羽諸藩は迷惑この上ない。
なぜなら…のちに久保田藩が現実にそうなったが…最前線に立つのは奥羽諸藩だから
鳥羽伏見で公然と新政府に敵対状態に入った徳川宗家に比べて、
この時期の「会津以外の」奥羽諸藩は長州征伐の先例に倣い、首謀者差出での処分に希望を繋ぐ人士が多かった
岩倉は対幕強硬派に分類されるが、そういう雰囲気を読むのもまた巧かったんだよ
江戸攻撃の段階で出兵に消極的な奥羽諸藩の藩士が、西郷に代表される主戦派に必ずしも同意していなければ
とりあえず新政府の方針は別物だと示唆して宥める必要性は極めて高かった

新政府も大坂を占拠し当座の軍資金を確保したとは言っても、
江戸を制圧するまでは奥羽諸藩を少なくとも友好的中立の状態に置いておく必要があった
(広沢に見るように、会津藩の責任論を棚上げにしても、江戸進駐後も奥羽諸藩の準同盟国化に気を配った人間もいる)
同じことは対会津藩方針に言えることで、この時期仙台藩の遠藤は会津藩の梶原に
「首謀者なしとと言う回答は何事か」と極めて厳しい叱責を飛ばし、撤回させたりしている。

そんな状況で岩倉と西郷が完全に同一歩調を取り、南部藩が仙台藩への義理立てから話を全てねつ造する
と言うストーリーのほうが不自然なんだよ