【佐幕】楢山佐渡・雲井龍雄・但木土佐・河井継之助
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>5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが
ネタだとは思うがいったい現地で何を調査してたんだよw 雲井って江戸の三計塾で桂、広沢(真臣)、品川と同門だし、京でも時山、広沢と仲が良かった
長州系に知己が多かったんだな。だから討薩の激では長州を外してるし、集議院寄宿生にも推薦された
集議院を辞めてからも帰順部曲点検所からの嘆願では広沢が便宜を図ってくれたようだね
奥羽諸藩で長州とこれだけ人脈がある人間は、わりと珍しいのか? >>40
盛岡藩に奥羽列藩同盟脱退を勧めていただけ。
九条総督もそれを一番期待していたのが、盛岡藩。
まだ楢山佐渡が盛岡に帰ってきていないし、勤王思想がある家老や家臣、支藩など多数あったからな。 いくつかの支藩は出兵拒否したんだっけ?
>>38-39
うーん、藩内問題か 楢山の帰国って異常に遅いね。仙台藩が早く秋田に出兵しろと圧力かける有様じゃん
河井自身は慶応3年、4年と越後諸藩を佐幕側から纏めて圧力をかけてるんだけどさ。
ただ藩内の分裂を恐れて小千谷会談まで方針を明示しなかったと思われる
現に稲垣家ら上士の一部は参戦せず。
安田鉚蔵の蟄居処分の後は暗殺計画が出て藩校崇徳館が監視対象になっている
新政府軍が目前に迫って戦うしかなくなるまで引き延ばしたとも言えなくもない (3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について
慶応4(1868)年4月29日、現在の宮城県刈田郡の関宿という場所において、仙台藩の代表として、家老の坂英力(さかえいりき)、
但木土佐、真田喜平太、米沢藩の代表として、家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談を行ない、そこで会津藩の嘆願についての協議を行なっています。
この時の様子は、会津藩側の史料である『会津戊辰戦史』にも、仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』にも記載がありますが、
『仙臺戊辰史』の方がよりリアルに詳しく書かれていますので、その当時のやり取りを『仙臺戊辰史』を参考にして、少し分かりやすく再現してみましょう。
この関宿会談で、仙台藩の重臣であった但木土佐は、会津藩の梶原に対して、まず次のように言いました。
「今回、会津藩が謝罪降伏を申し入れる際には、城を明け渡すことはもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すべきではないかと思うがいかがでござる?」
(首謀者とは、鳥羽・伏見の戦いの首謀者を指しています)
それに対し、梶原は次のように反論しました。
「藩主公の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、
生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。
鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。
それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13c.htm >>48
首謀者問題は米沢でも庄内でも非常に揉めたからな。
米沢は実質的な首謀の千坂だけは庇うことで一致したが衆議紛々。
後で宮島が戦犯指名された色部の子孫に相当気を配ってる
庄内は最初は戦犯指名そのものに困惑して会津と同じ回答、結局戦死した石原を届出。
ただし会津に関しては梶原のこの回答は無責任と言わざるを得ない
自分らが京における政治行動を引っ張ったのだから、明らかに藩公の寵を頼んでのゼロ回答
この後、真田に怒られてさすがに首謀差出に同意したものの、上洛反対派だった西郷頼母を首謀指名する可能性がない以上、
藩内で首謀取りまとめなんてできっこなかっただろう 戦乱の時代には武士道なんて不要。
武士道が必要なのは平安の時代。 ワタミの会長が心の師にしてるそうです
https://twitter.com/#!/watanabe_miki/status/177046779781586944
わたなべ美樹 @watanabe_miki
河井継之助 私の心の師です。ありがとうございます。
RT @toshiki_matsui: 「世の中になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ」。
河井継之助の言葉です。信念を貫くことには批判はつきものだと思いますが、めげずにがんばってください。 >>57
河井の立身が藩侯の引き立てによるもので藩侯の意思に忠実だったこと、
慈眼寺会談の決裂を伝えたあと、和平派の三島に「俺の首と三万両を持って行け」と言ったり、
長岡で負けた後はここに置いていけと言ったあたりはキレイに忘れてるんだろうな 会津と仙台に巻き込まれた他藩が気の毒だな。庄内は斟酌すべき事情があるけど
長岡も会津問題がなければ河井と言えども恭順を選んだだろうに 司馬の作品"峠"下巻終盤に司馬が小千谷会談の場所になった寺を詣でる件りで
地元の老人が"継之助は寂しかったと思いますよ"って洩らす場面
キョロマの岩村の小僧ごときに陽明の徒河井の志が分かってたまるかよ 四海波でも切れる時は切れる
三味線枕にチョイトコリャ
二世三世 小千谷に西郷隆盛がいればおもしろかった
せめて黒田でもよかったけど 周りに迎合しないってのはさ
強い信念があっての事だよな
無私、無欲なんてのは最低限の素養で
西郷や大久保は維新の英傑って評価されてるし幕府を倒した革命の推進派の側に属した人物なだけに
死後も崇められてる(西郷は反乱を起こしたから賊軍の扱いだが)
河井のような美意識に殉じた侍が死後に正当に評価されないってのは歴史の宿命かな? 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり 明日、無料イケメン祭り開催。
URL貼れないから
メーンズガーデン ってググってみて
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3X3 『柳は萌ゆる』、 平谷美樹 楢山佐渡が主人公の歴史小説だ。
俺は楢山佐渡指揮する兵士によって焼き討ちにされた方の地区に住んでいるが、この小説楢山佐渡をやけに美化してないか?w
南部兵士によって扇田はほぼ焼けてしまったが、その時楢山佐渡は焼き討ちにする兵士をとがめているんだよな。
これ史実なのかw
楢山佐渡は米代川渡河に手間取って、大館城の攻略時に遅刻するが、それなのに、更に遅れた兵士を叱責するんだよね。
これをしっかり描いているかあ?こっちは史実だぞ。
まあ、岩手の新聞に連載された小説のようだから、秋田の人間だから遅れて知ったよ。しっかし、なんで「秋田の火付け」なんて
言われているんだよ、おいw 旧幕府軍もガトリング砲は持っていたが、活用できなかったらしい。弾を運んでいた兵士が撃たれたらしく... ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています