(3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について
 慶応4(1868)年4月29日、現在の宮城県刈田郡の関宿という場所において、仙台藩の代表として、家老の坂英力(さかえいりき)、
但木土佐、真田喜平太、米沢藩の代表として、家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談を行ない、そこで会津藩の嘆願についての協議を行なっています。
 この時の様子は、会津藩側の史料である『会津戊辰戦史』にも、仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』にも記載がありますが、
『仙臺戊辰史』の方がよりリアルに詳しく書かれていますので、その当時のやり取りを『仙臺戊辰史』を参考にして、少し分かりやすく再現してみましょう。


 この関宿会談で、仙台藩の重臣であった但木土佐は、会津藩の梶原に対して、まず次のように言いました。

「今回、会津藩が謝罪降伏を申し入れる際には、城を明け渡すことはもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すべきではないかと思うがいかがでござる?」
(首謀者とは、鳥羽・伏見の戦いの首謀者を指しています)

それに対し、梶原は次のように反論しました。

「藩主公の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは出来ない。なぜならば、鳥羽・伏見の戦いに関係のある者は、そのほとんどが戦死しており、
生き残っているのは一両名だけである。これらの者は皆、我が藩のために忠義を尽くした者であるので、もし彼らの首を斬れば、藩内は動揺してどんな変事が起きるかもしれない。
鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも「私一身の罪であって、その他の将の誤りではない」と記載して、朝廷もこれを受理しているではないか。
それ故に、もし我が藩に罪があったとしても、その罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」

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