なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか3
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過去スレ
第二次長州征伐を語る
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1003537751/
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1302410387/
第二次長州征伐参加兵力:幕府軍
総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承
芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
(本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)
石州口(浜田藩、福山藩 約7千)
大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
(上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)
小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)
補足:
・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)
・旭日丸 (木造帆走船 500トン 幕府所有)
・翔鶴丸 (木造外輪汽船 350トン 幕府所有)
・八雲丸 (汽船 トン数不明 松江藩所有)
・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。
とりあえずこんなところでしょうか? 関が原の戦い 味方の内通によりあり得ない負け
馬関攘夷決行 勝ち
馬関攘夷戦争 長州藩は引き分け・江戸幕府の不戦敗
禁門の変 先遣隊だけ負け
小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち
鳥羽伏見の戦い 勝ち
中越戦争 勝ち
会津戦争 勝ち
箱館戦争 勝ち
日清戦争 勝ち
日露戦争 勝ち
長州軍、薩長同盟締結から薩長政府まで(1866年から山縣有朋の死の1922年まで)
負け知らず、全戦全勝のまま歴史から消える。薩摩軍も西南戦争を除いて全く同様。 大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125
短ミニエー 60 1,440 24 15.000
ミニエー弾 50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250
大型拳銃 33 20.625
小型拳銃 25 15.625 おもしろい議題だが、この方面の研究は意外と進んでいない。
小説だけの世界やね 山口の郷土史家や出身者だとどうしても長州側の史料が多くなるし、
それ以外のからの研究者だとボロ負けの戦いを研究しても楽しくないし、
そもそもそこまで敗戦の記録が残ってなかったりするからな。
そして未だに明治維新を民衆による革命史観とか、軍国主義と天皇制イデオロギーに移った原因
とみる連中などがいて面倒くさい。
庶民混合の従来の構造を破壊する偉業とかいう左翼と、
いや長州藩も小規模とはいえば占領地の石見の一揆を鎮圧した民衆の敵だとかいう左翼。
こういうゴミどもが消えないと歴史研究は進まない。
三宅紹宣とかも酷かったなあ。田中彰もたいがいだが。
前スレの幕府マンセー厨ほどじゃないがなw 荒井郁之助みたいなのがもっと早く幕臣になっていたらのう 俺もこの話ずっと気になってたんだ。
第一次のときは諸藩も幕府側についたのに、
第二次はやる気の無い藩が多かったよね。
ほとんどの藩が第一次の処分で終わったと思ってたんじゃないか
一度目は御所に攻め入った責任を問うという大義名分があるが、
二度目はただ単に出頭命令に従わないという幕府と長州の間だけの問題
他藩にとっちゃ関わりたくないわな 戊辰戦争に関する歴史書はクソほど出てるのに
本当に長州征伐に関する本は皆無だよな。 長州の内部から見てみたら
とにかく気の毒なのが、何見ても
トップのそうせい候が褒められた事がない悲しさ
毛利敬親もほとんど語られる事がないから
よくわからん 論文なんかだと、まぁ名君って評価はないにしろ、天保の改革の保護とかそれなりに評価してるのを見かけたり、
臣下からそれなりに慕われてたり、チラリと光る逸話も皆無ではないが、まぁ全体的に印象薄いよね。
維新後すぐに隠居するし、久光公みたいな灰汁もないし。
愚昧な事績も無ければ、周りを引っ張って何かしたって事績もないから、
要するにキャラ付けが非常に弱い。 石州口は国境の津和野藩の日和見に加え、浜田藩、紀伊藩軍の装備が旧式で
長州軍に一方的に撃たれまくった、ということでまぁ負けるわな、と思う
だが、芸州口の敗戦に関しては幕府側に言い訳は通じないな
数で勝ってたうえ、彦根藩敗北以降は近代化装備の幕府歩兵隊、紀伊藩近代化部隊が前面に
出て戦ってたのに、それでも押されまくり
こりゃもう幕府側に本気で長州を潰す気がなかったのだとしか思えない
広島藩が長州寄り中立で長州と交渉させて時間稼ぎしてたのもあるけど 幕府歩兵隊と紀州軍は、一進一退のいい攻防をしてると思うぞ。
数で勝ってるのにそれでいいのかという疑問は残るが。 肥後藩がそのまま幕府側で戦ってたら、
歴史も変わったかもと思う。 まあ肥後藩も実学党と国権党に分裂して、結局は新風連の乱となるわけだが。
新政府にいいように使われただけだったなw
元田永孚みたいな中々、骨のある奴が居る。 >>13
紀州藩6000VS長州藩1000。
位の差があったな。まあさらに紀州藩だけじゃないし。
長州はいくつもある街道を分散して防衛していたから、
200人VS6000くらいじゃなかったかなと。
長州藩がかなり苦戦したというのも分かる。 大村益次郎は新式銃に対応した軍組織を整えたのは偉いけどそれだけだろ
幕末で一番凄いのは西郷だなやっぱ。江戸で騒乱引き起こして薩長に不利な情勢を一気にひっくり返して戊辰戦争に持ち込んだ政略は凄い
さらに江戸の騒乱の時に江戸の警備担当者で結果的に責任取らされるハメになった庄内藩の連中に対して寛大な処置を施したのも懐が広くて立派だ
伊藤みたいな小心者だったら自分が死ぬまで虐め抜いてただろうな。暗殺されてザマァだわ NHKの番組で前にやってたけど
西郷と大村の組み合わせは
幕末の中でも、最強の組み合わせの1つだと
超体育会系の西郷的人間が
超理系の大村的人間を抱擁し、能力を発揮させ
軍(組織)を動かして行くっていう
今の組織にも通じると思った
大村的人間は人を扱う事ができない
また、扱うのも難しい
ただ、新しいイノベーションには必要な人物
>>21
その組み合わせをちょっと小さくしたのが大山(西郷従弟)と児玉(大村の孫弟子)かね
こっちは海江田みたいなのがいなくて良かったな >>18
寛大な処置に感謝するのは、おかしい。
御用盗は許せない(怒) >>14 15 16
肥後と幕府歩兵隊・紀州の洋式部隊を、ひとまとめにするのはどうですか?
肥後の議倒れというのも、ありますから意見を統一するのは大変でしたでしょう。 >>23
『大西郷全集』という史料を読めばわかることだが、西郷は薩邸浪士に「戦争にはならないから静かにしていろ。暴れるな」と命じているぞ。
むしろ関東尊攘派の相楽総三らの西郷の命令を無視しての暴走でしょw。 >>26
本当。
まぁ、正確には薩摩藩邸留守居役の吉井が、江戸薩摩藩邸伊牟田昇平と益滿休之助宛の書簡で命令を発している。
西クが吉井にそう命じただろうことは、『大西郷全集』に収録されている西クが国許へ宛てた書簡で、
江戸薩邸焼き討ち事件の第一報報告で、「鎮静にしているよう命じたはずだが、何が起こったのかわからない」と連呼し、
西ク自身が混乱しまくって慌てた様子が読み取れる。
この事は、『近世日本国民史』でも書かれていることだぞ。 ついでにいえば、同書簡で西クは、「徳川に先手を打たれた!くやしいぃぃっ!」
とかなんとか書いて、やったら悔しがっていますな。
きっと討幕戦を自分達から奇襲的にやろうと思っていたのに、先に江戸の薩摩藩邸を奇襲的に潰されてしまったと思ったのだろう。
西クが悔しがる姿は珍しいので必見ですよ。
アメリカは南北戦争でライフルで戦列歩兵やったおかげで
大損害出していたけど、長州や幕府が輸入した教本はライフルに
対応できていたの? >>29
長州には蘭学者の大村益次郎がいて、教本を翻訳配布した。
幕府にはフランスから来た教官がいて、実際に手取り足取り伝授した。 西郷も討幕をしない限り、重要なポストは得られない
そうした下級武士の欲望がご一新なんだよ
農地改革が行われるまでの農村の体制などを見てもそれがわかる
坂本龍馬モ武器商人ダッタシネ! >>31
西クも桂も重要ポスト狙ってねぇよw。そもそも彼らは漠然と大名議会制ぐらいしか考えてない。
大名議会制だから、西クは島津の殿様を桂は長州の殿様を介在して政府に参加する。
彼らに直接重要ポスト狙ったらと入れ智恵したのが龍馬でしょ。
わざわざ閣僚名簿まで作ってきてさ。 だったらなんで重要なポストに一時的とはいえありつけたのか
幕府温存のままじゃ雄藩の下級武士のままで終えるのはみえてたわけ!
討幕すりゃその手柄で良い地位をゲッツ!
んで結局討幕へと進んだのがご一新 どうも諸侯会議だけじゃ話が進みそうにないと見えてきた賢侯会議、だろw
最初は一番上の議定は公家と諸侯で、藩士は参与どまりだった。
御前会議にさえ出席することができなかった。
岩倉もなんとか公家で使える奴を発掘しようとしたけれど、
結局どうにもならず、下で実際に奔走してた徴士らがやるしかなかった。
形式的な儀式だろw名簿とかこしらえているけどねw
天皇すらお飾りなんだぜw歴史上お飾りの名目上の
人間なんて何人いたと思ってるんだよ。坂本龍馬は武器商人。 大名制会議は、まだ地方分権状態だったので
一時的に大名をなだめる制度に過ぎなかった
あれで、西郷らに野心がなかったと
裏付けにしているのか >>29
日本は平原が少ないので大軍が展開できるところが少ない。
戦列歩兵がとても難しい。
そしてそういうのは長州のスナイパー軍団からしたら的なんだよな。
4000人くらいだが、それだけの数が分かれて、尚且つ組織的に行動して、
みなが自律的に活動できる軍って実は驚異なんだよな。
そんな事を幕府軍がやったら、その場で脱走兵が出てくるだろう。 >>37
伏兵で銃撃、撤退してるところを銃撃しながら白兵戦 >>36
西郷はすぐに国に帰って藩政みてる
木戸は体調が悪くて辞めさせて辞めさせて辞めさせてでなけりゃ休ませてといってる
だいたい、最初のうちは諸侯がちゃんと政治参加してるぞ 形式だけじゃない
それでうまくまわらなかったってだけだろうが 史料嫁
そもそも野心だけで政権とって何とかなる時代状況じゃねえよ 視点が古臭いんだよ 大村益次郎ってなんであの時点で
西郷が暴発する可能性を読み取ってたんだろ
司馬の創作?
>>39
天皇と同じ、お飾りメンバーだよ。すでに実権は軍を握ってた薩長などを中心とする
人間の手に遭った。 >>41
違うよ。お飾りメンバーじゃないよw。史料読んでね。
春嶽なんてバリバリで働いてるじゃん。 ほかにもけっこう働いてる諸侯いるよな。
史料をちゃんと読めば、お飾りだったのとがんばってたのの区別はちゃんとつくw
最初からお飾りだったのは皇族ぐらいじゃね? あれは権威付けだから。
残念ながら、諸侯では徳川以外は一般への権威付けにはならんのよ。お飾りの意味なし。 諸侯でもほんの一握りが携われただけで、全く名前が挙がってなかった
薩長メンバーがかじ取りしていくけどなw重要なポストは いきなり下級武士の名前がずらずら載ってたら体裁悪いだろw
春獄のどこが重要なポストで薩長メンバーの様に中核を担い仕切ってたっていうんだw こういう馬鹿と話すの疲れるなあ…
じゃあ、幕政時代に、トップが実際の政務をやってた藩がどのくらいあるのよ?
もともと、有名な殿様には有能なブレーンと実務部隊がいるのよ。中級下級武士のね。
全国的な政治への移行にあたり、地方分権的な発想を排除していくためにも
そういうやり方じゃ立ち行かなくなって実力主義での登用。ブレーンや実務部隊が表に立つことに。
ただでさえ中央政府は新しいことやるには人材不足だったからな。幕臣だって登用。
下級武士がいきなり権力に目覚めてうんたらっていうのは
そう主張したいがために、表層を取り上げてぎゃいぎゃいいってるだけだろうが。
維新直後は、長州の木戸あたりはそうでもなさそうだが、
薩摩や土佐は諸侯会議=上院・一般士族その他=下院って発想だよね
ああ、木戸も立憲のこととからんで上院のための華族創設を構想したんだっけ
殿様たちをがんがん海外留学に送り込んでんのもその教育のためか 結局群を抑えているものが実権を握るようになっているんだよ
武士が力を伸ばしたのも結局軍事力を持ったの一言に尽きる
維新当時、軍事力を支配していたのが西郷などの下級武士
>>47
結局人脈がモノを言うのよ。春獄だって中核にはいなかったからね。
新政権の中心には薩長下級武士が牛耳ってたのは事実
幕府のまま存続されては、一生うだつの上がらない、結局家柄で
今後どうなるかわからん、だから倒幕に突き進んだだけ
坂本などは商人なんでね、新政権のほうが商売をやりやすいと踏んでたんだろうね
紀州藩ともいざこざ起こすわ本当に金に汚いなぁと思うね 平氏も結局軍事力で武士でありながら太政大臣まで上り詰めたようなもん
清盛の白川落胤は後付とみている
清盛の父が朝廷と深いつながりを持ち経済的な力もあるだろうが
決め手は軍事力だろう
軍事力を抑えているものが実権を握るようになってるんだよ 断片的に一方的に維新の人物は清廉潔白だったととらえるのもどうかと思うぞ
坂本は商人だし、実際下級武士が牛耳ってたし
俺様の様な見方もまた重要なわけなのよ 病死でなく家茂が長州に暗殺されたとしても、撤退したかな 小笠原が撤退を決めたのは家茂没の報告より前だったらしいから、
家茂が暗殺されても、もしくは死んでなくても小倉口は撤退してたのだろう 小笠原が上坂したのは、熊本藩引き揚げという事態にまで発展してどうにもならないから報告に行ったのだろ
別に撤退を決めたわけじゃない
>>13
幕府歩兵隊は2年前まで天狗党に負けてたレベルだよ。歴戦の諸隊を相手に飛躍的に進歩した
素直に褒めてやれよ 軍事力が決め手というより、薩長盟約にある通り、
瞬殺されなければあとは何とでも落としどころはあるという性格の戦争だな。
民主党の不信任決議みたいなもんだ。財政、経済要因のほうがはるかに大きい。 >>40
西郷と特定したわけではないだろ。ただし薩摩、土佐を警戒するのは当然
それだけ薩摩の軍事力はずば抜けている。その軍事力を掌握し得るのが西郷以下
警戒するのは国民皆兵制論者としては至極当然だろう >>7
>俺もこの話ずっと気になってたんだ。
>第一次のときは諸藩も幕府側についたのに、
>第二次はやる気の無い藩が多かったよね。
昔に観たNHK「さかのぼり日本史」では
さっき懲らしめたのに、なんで幕府はまた攻めるのだ?
・・・と諸藩のひんしゅくで足並みが揃わない
幕府の権威再興とばかりに意地になって攻める分だけ
長州側も意地になって抵抗
というのが理由と聞いた 番組を見たオレ的解釈では、
やらなくてもいい戦争で負けてしまい
むしろ融和的な国内統合の機会を逸した
と、聞こえた 1回目は禁門の変で朝敵になったという大義名分があったけど
2回目は度重なる財政負担が嫌悪されたのと大義名分が弱かった。 >>62
勝は敗戦処理させられるまでは長州征伐からは外されてたろ
ただ、勝が幕府海軍を指揮してしまったらもっと醜態を晒していたかもしれん 成功していたら慶応の改革はどうなっていたでしょうか? 成功するとしたら慶喜陣頭指揮、会津藩兵投入だろうけど戦争に突入した時点で失敗なのね。
関門海峡が人質になってるんだから
それと外国公使が関門海峡の戦闘を認めること
(現実には100%あり得ない。現に戦闘の最中に小笠原長行がパークスから抗議を受け、
幕府海軍の行動は停滞している。それでなくとも幕府海軍は艦の損傷を極度に嫌がってたけど)
慶喜が直率の兵を率いて前線に出て見張ってないと、諸藩どころか幕府軍ですら嫌がってそもそも戦闘にならない。 パークスが干渉してきても、打ちのめせ(怒)。
慶喜直卒はまだしも、会津は囮になればまだしも、役立たず >>68
木戸も、例の連合艦隊に降伏した時の条件の砲台撤去の緩和をパークスに打診して断られてるよw 高杉が倒れてから小倉口の長州藩兵は精彩を欠いていますので
あと少しはやく高杉が倒れていれば小倉口から上陸して普通に勝てたと思います 小倉口が敗れたのは軍事的要因とか高杉の先見の明と言うより、
単に幕臣(千人隊)、久留米、熊本、小倉が互いにまったく協力しようとせず、
小倉が長州の方面軍との前線で孤軍になってしまっていたのが1つ
制海権を取るべき幕府海軍も出動を露骨に嫌がってたのが1つ
そして第1次攻撃の後のパークスの海峡での戦闘中止の申し入れと小笠原の応諾が1つ
さらに関門海峡で戦闘が長期化した場合の京阪の幕軍の大軍の補給と、一般物価に与える影響が1つ
だから、まあ長州に高杉がいようがいまいがなかなか攻め込むのは難しかっただろう
やはりカギを握るのは慶喜出馬だね。慶喜が禁門の政変なみに断固として督戦していれば1個くらい口が押されて、
それをきっかけに講和して体面を保てるだろう、なんて思ってたのが間違いの元だった。 彦根と高田があまりにもあっさり負けたからだろ
圧勝とわかりきってたから第1次も第2次も諸藩が集まったわけだし
長州の軍事力=蛤御門と誰もが思ってたわけだ
話が違うってことで、戦意もなくなるわな
なぜ勝てなかったか?
長州が予想に反して強かったからだよ もじどおり、各参加藩が個別に撃破されたってとこでしょうね。 長州のミニエー銃と言っても、
実態はエンフィールド銃でしょう。
エンフィールド銃を標準装備した軍隊でなければ、
長州には勝てませんよ。
戊辰戦争の時に伝習隊はシャスポー銃を装備していたので、
弱かったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83 >>76
そうですね。
慶喜が出陣しても手遅れでしたね。
せめて幕府歩兵隊、小倉、肥後が共同作戦を、とっていたら。
榎本がいたら艦隊射撃で多少なりとも、援護が出来たでしょう。
パークスが何か言ってくれば、内政干渉するなといえばよかった。 >>75
幕軍が三八式歩兵銃と九五式野砲を装備していれば勝っている。 まあ、数じゃなく質と士気の問題だろ
野砲までの装備は要らないが
一木支隊をガダルカナルに上陸させずに
山陰道に派遣しておけば楽勝だろ 下関戦争、蛤御門、高杉内紛って
長州は戦争慣れしてたのもある
それらの経過と結果を見つつ
大村がいろいろ補充、補正、軍制改革をした
少し過小評価しすぎたんだと思う 直弼が存命なら、どうなってたか分からないな
幕府の権威が失墜してる事が何よりの敗因だろう >>83
討たれていなければ、どうなったでしょうか。
井伊直弼が生きていれば、慶喜の将軍就任はあり得ないから
少なくとも史実は大きく変わっていただろう。
先ず大政奉還もないだろうし、恭順もないだろうな。
それ以前に、長州征伐に至る経緯も別物になっているだろう。
幕府の支配が続くか徳川が滅びるか、もっとメリハリの効いた歴史になっていたのでは無かろうか。 10万対2万五千
慶喜にやる気あれば長州は敗戦必至
第2次長州征伐は武器云々なんて問題ではありません >>85
井伊直弼が水戸浪士を撃退したら、長州征伐ならぬ水戸征伐がおこなわれ慶喜に先陣を、命令するでしょうな。
>>86
慶喜が指揮をとるなら、徳川茂承と交代ですね。 >>85
メリハリがある歴史になっていたでしょう。
そもそも幕府に統率力・士気あったら外圧に屈しないし
諸藩が付入る隙もないわけで長とも戦争にもならない 井伊直弼がいたとしても
陣頭の彦根藩が潰されて面目を失うと統制が乱れると思われ 良スレ発見
我が家の言い伝えによると四境の役の大島口の時に鉄然に賛同しスポンサーとなった数人の内の1人がご先祖様らしい
家系図見ると幕末前後に没者が居ないことから政府軍による制圧後に打ち首にはなってない
西郷は江戸に突出して行き詰った
それを打開し戊辰戦争を勝利に導いたのが大村
大村がいかに維新に決定的役割を果たしたかは靖国神社に銅像が建っていることでわかる 阿部正方が奥出雲で毒を盛られ出陣できず、大村益次郎にやられたから 薩摩の動きがよくわからん
薩摩は長州征伐の時になにをやっていたのか? 1.少し前に秘密裏に薩長同盟締結(秘密同盟であり幕府側はこの事実を少し後まで把握せず)
(これは後に小説家が夢想した対等の同盟ではなく、
・長州への武器供給の代わりに米を薩摩が受け取る
・長州の戦争に薩摩は関係しない
・長州の求めている朝敵認定解除に、薩摩は全力で取り組む
この程度のことしか決っていない。
要するに薩摩は長州を幕府疲弊のための鉄砲玉として利用し、長州が生き残るか否かは長州次第と突き放した格好)
2.尾張藩と協調し反出兵論を展開
(長州との問題は第一次長州出兵時に完全に解決しており、
これを蒸し返すのは総大将の尾張徳川慶勝及び停戦をまとめた総参謀西郷隆盛への侮辱である、とのこと)
3.反出兵論に従い割り振られていた西洋船を用いた萩上陸作戦を断り、出兵に参加せず >>99
薩摩は長州との同盟いかんに関わらず、家茂の上洛を脅威と見て猛反対していた。
ぶっちゃけ中央政界では長州藩はこの時期プレーヤーではないから、一会と薩摩の紛争
>>82
純軍事的に言うなら、旺盛な戦闘意欲を持っていた指揮官・一橋慶喜が会津藩兵を芸州口に投入する気でいたのだから、
それが実行されていれば勝機は充分あるよ。小倉口の解兵はその場合はあり得ないので。
ただしそれは政治的には不可能に等しい。 もともと幕長戦争って、幕府の予定にない戦争だったから幕府がやる気がなかったというだけだからね
小倉口の幕府海軍の露骨なやる気のなさを見たら一目瞭然w 外国人が「日本の政治的意思決定は誰が行っているのか?」と不思議がるわけだよな。
日本は公論、輿論の果たす役割が大きいから独裁的意思決定が不可能
一会+幕府で、当時のパワーの3割強くらいは占められただろうが、残りの藩が「とにかく良く話し合ってください、戦争だけは勘弁して」
と言うイラク戦争状態だったので負けましたw >>101
会津藩兵を投入して状況が変わるなら、鳥羽伏見で負けないよ。
旧式装備で投入しても的になるだけでしょ。
>>103
イラク戦争で勝ったのはアメリカだよね。輿論、公論なんて戦闘で勝利すれば
ついてくるよ。 石州口は福山藩、紀伊藩きてたけどやる気がなかった。濱田藩が戦った。濱田藩は鳥羽伏見、脱藩して上野まで戦った。 >>104
洋式化する前の禁門の変の長州兵にすら突破されてしまった会津は
どんなに士気が高かろうと勝目ないよなあ 広島に派遣されてた長州藩士や、支藩の岩国藩が幕府と時間稼ぎの調停工作やって
幕府軍首脳に断固攻撃させる意思を持たせなかったのが大きいように思うな
長州の姿勢は武備恭順で内心はどうあれ、幕府に対しては頭を下げていたからそりゃ気勢もそがれるというもの >>104
いや、彦根藩は緒戦の反省に懲りて、慶喜出馬を控えた第2次攻勢ではかなり健闘してるよ。
そのころになると幕府艦隊も艦砲射撃で長州軍を少しずつ牽制するようになっていたし、
会津藩兵を慶喜が直接率いていったら、諸藩の解軍がなくなる。会津藩兵はまさに弾除けになって莫大な損害を出すわけだが、
士気の高さと言う点から言えば他の追随を許さないから、勝敗は分からなくなった。
ただ、現実的に京摂の守護から会津藩を手放すと言う選択肢はなかったんじゃないかと思う。
それと、第1次長緒B征討で尾張慶緒氓ェ纏めた条件bス故にして戦荘�牛sするこbニは、
当試桙フ公論・輿論bノ反する行為とbオて受け止めらb黶A不参加や解封コに対する心理涛I抵抗が著しく演コがったのは確bゥだよ。
瑞シ南雄藩も幕府荘、の「紛争の蒸bオ返し」と捉えbト、不参加に雪封黷トいった。 会津藩は松平容保の配下だし、近代銃兵化の具合も長州征伐時はまだまだだったからなぁ
慶喜が率いるならあくまで幕府歩兵でいいと思う
あと後知恵全開なら水戸藩の内紛を何とかすることかねぇ
長州征伐時の慶喜は特にバックボーンになる勢力が安定してなかったからか、
その姿勢が幕府よりになったり雄藩よりになったりフラフラしてる印象
2000〜3000くらいの水戸藩兵が直接慶喜を後援できるよう京都に駐在してたら
もっと堂々と出来たのにと惜しまれる >>110
>士気の高さと言う点から言えば他の追随を許さないから、勝敗は分からなくなった。
合理性がない。どの記録を見ても会津軍といえば、略奪に現れ戦闘では弾除けにもならない弱兵だし。 禁門の変では戦闘ではあまり役に立たなかったけど
勝敗に関係無いところで放火して回り戦災を増やした迷惑な存在だからな 新撰組を会津の監視につけて、士道不覚悟で処刑しまくれ >>112
と言うか、べつに会津藩を投入する必要もないんだよ。
慶喜の出馬を予想した芸州方面は奮起して攻勢に出ているわけで。
幕軍は総司令官とその直率部隊が戦場に現れなかった時点で、
諸藩の統率が取れようもなかった。とくに徳川茂承の総督辞任騒動の後は。 >>115
>慶喜の出馬を予想した芸州方面は奮起して攻勢に出ているわけで。
鳥羽伏見の戦い終盤でも慶喜直々の抗戦宣言が出て一時幕軍が勢いを盛り返したってエピソードがあったなぁ
安倍総裁のインフレ誘導提案だけで株価回復・円安になる今の状況と何だかダブって見えるのは気のせいか・・・ 鳥羽伏見は幕府軍の装備は別に薩長に劣っていない。
緒戦で不名誉な敗退を喫した歩兵隊もすぐに盛り返している。
結局慶喜以下の首脳が戦闘を放棄したのが原因だよ。付言すれば幕府軍は
近代化したといっても第二次長州征伐同様首脳の戦争への理解はお粗末としか言い様がない。
上級旗本だが素人の竹中が陸軍大将格な時点で幕府軍は根っこでは前近代的な
武士の軍隊を脱皮できなかった。 長州藩は橋会桑勢力主導による再征を予想したから、総力戦体制を推進した。
それは元治内戦で正義派が勝利する以前−攘夷戦争の時点から上層部に構想されていた。
たとえば周布政之助などは攘夷戦争で多少負けることは込みで、藩内の改革断行に対外危機を使おうと言う意図がハッキリある。
だから民衆への教化、さらに豪商・豪農層の自発的負担を引き出している。
幕府は政治的には賢明な判断を下したが、戦闘経験が本格的に生かされるのが鳥羽伏見の後になってしまう。
近代戦でも日清戦争なんて兵器の性能では清が上回っていたが、指揮系統や組織と言う点でまるでなってなくて、
ために戦争直前に駆け込みで艦を完成させた日本軍に惨敗を喫した戦争。そういう強みは、長州藩にはあるね。
攘夷戦争を経験した薩摩、長州は組織作りの目標が明確だった。 慶喜が強烈な意思を持ってすれば勝てた気がする
その後の大阪城から逃げる行動を見ると知能はあるんだけど命まではかけてないから
肝心なところでだめになる感じだな 慶喜の弱腰はやはり尊皇の水戸出身ということに尽きるな。
大獄で政治的に死亡した状態から復活できたのも朝廷あってだから
それと敵対すれば拠って立つ位置を失うから勝負を投げて徳川を存続させるのが
第一になったのだろう。 >>120
見識の高さから情勢を判断したんだろうね
でも英雄ではないわな 慶喜って個人的能力は高いけどいっさい他人に相談せずその場で勝手に決めてしまうから、
薩摩の警戒を買いやすいわりに、組織はあんまり回ってない人なんだな。 >>122
エリート的な生まれだから、そこら辺の裏の世界がイマイチ理解できなかったんじゃないの 幕府が負けたのは、幕府に愛想つかした薩摩が裏で長州に手を回したからに決まっておろう。
幕府の面子を守るために無理やり戦争を起こして敗北するんだから、慶喜の大誤算だよ。
この敗戦で倒幕への流れは一気に加速した。 結果論で言えば薩摩と長州を含めた雄藩共和政に徳川も参加するしか無かった? そうだな。そこが幕府と薩長の最後の妥協点だった感はある。
しかし、協調路線を探った列侯会議でも薩摩を排除するんだから、慶喜は自信過剰だったんだろ。
たどって考えると第一次長州征伐で西郷を参謀にし、結果的に長州家老の首を取ることで決着をつけたのに
再度長州問題をぶり返して、無意味に大軍を上洛させて威信を盛り返そうとした事に無理があった。
西南諸藩は大義のない戦争としてはじめから厭戦ムードが満喫していたし、
薩摩が出兵を拒否したことで佐賀や宇和島といった雄藩も足並みをそろえて拒否している。
出兵要請を有力諸藩に拒否されたことだけでも、幕府の威信が失墜したことを日本中に露呈させてしまった。 >>129
結局、東北戦争でも一番負担していたのは佐賀藩だし。
薩長だけでは軍事的にも纏められなかった。 >>129
第一次征討をまとめた尾張藩主は面目潰されて激怒しているしなあ。 >>130
佐賀は近代化が最も進んだ藩だったからな。
倒幕運動においては日和見だったが、戊辰戦争の活躍で明治政府における地位を築いた。
>>131
まあ、征長の総責任者が決定方針に激怒するのも、おかしな話だと思うがな。
トップが殿様のボンボンなので参謀が実質的な権限を持っているのだとしたら、
西郷を参謀に選んだことが幕府にとって致命的だったということかw 会津藩主がいたから負けた
かなり時代錯誤の殿様だったからな 時代錯誤の会津藩主は数さえ多ければ勝てると言う理論
だから戊辰戦争でも会津戦争でも数だけが多いだけで同じ過失を犯している
で、何から何まで全く反省の色がないのが時代錯誤の殿様 会津藩主は西郷頼母の忠言どおりにさっさと会津に帰り会津のために働くべきだったのに
増長して余計な火種ばかりをつくった
孝明天皇の威光をかさにやりたい放題をした
幕末で幕府が不利になる条件をほとんどこの会津藩主が作り出している
近代武器への無理解、長州藩への偏狭的な敵対心、諸藩主への横暴な態度などなど
身分制度への過度の固執、旧体制への偏狭な固執
だから、第二次長州征伐には数多くの藩が乗る気ではなく出兵拒否をした
更にこの戦争で幕府軍は薩摩に手の内を見抜かされた
鳥羽伏見の戦いでの惨敗もこの戦いと同様
数が多ければ勝てると言う安易な発想が元で敗北している
戊辰戦争でも会津戦争でも反省のない会津藩主はボロ負けを経験している
まず会津藩主には人を見る目がまるでなかった
しかし身分制度の弊害で藩の頂点に立ててしまったが故に周りの人々の忠言に耳を貸すということがなかった
その間違いに気がついたのは戊辰戦争後だから話にならない
会津戦争の采配を見てもわかる様に戦術と言うものがほとんどなかった >>132
戊辰戦争の戦功では薩長偏重で佐賀は干されているでしょ?
その後に土州なんかと組んで巻き返したけど。 >>132
尾張藩主には長州と戦わずに降伏・和睦をまとめたという功績があるのに
幕府側が尾張の和睦内容を一方的に破棄して再度攻め込み、
しかも次の責任者は紀州藩主となれば
先の尾張藩の功績は完全に丸潰れ。激怒も当然かと。 >>136
干されてたの?ま、巻き返せたならいんじゃね?w
大隈のように薩長が牛耳る藩閥の壁を乗り越えて総理大臣にまでなった人もいるし。
江藤だって最後は悲劇的だが、留守政府内で数々の実績を残している。
>>137
そういうことね。同意。 乗り越えたというより、同化することで出世したという感じか。 蛤御門の変で2000程の長州軍は2万の幕府連合軍相手に奮闘した
しかもあれは勝てないとわかって攻めた
幕府側は長州征伐の時は15万で攻め、鳥羽伏見の時は3倍の兵力の上、近代装備部隊だけで薩長軍上回ってたし
海軍力など圧倒的だったが、高杉さんに小船で夜襲食らいついで石炭舟に化けた船に砲撃され戦意喪失しちゃってるんだもん 鳥羽伏見の時は前装式ライフル銃で、最も優秀だったエンフィールド銃で薩長軍は武装して居ました。
伝習隊はシャスポー銃で武装して居ましたが、湿度の高い日本では、殆ど使えない銃でした。 中岡が書いてる。
天下は長州を強兵と云うが。風土人気を見れば、実に弱なり(土佐人から見てw)。
強兵と恐れるは食足リ、器械あり、隊長が優れているからしょ。
西郷の話として、会津を強と言う人居るけど、少しも恐ろしくない、謀主人物なき故也。
長州は実に恐る可し。謀主に豪物あり。故に事々非常に出ると。 高杉が倒れてから小倉口は小倉藩に翻弄されているしな >>1 あまりやる気のない昔風サムライ対藩の存亡をかけて必死の長州奇兵隊の戦争だったからだろう。 戦術指揮官の差が明暗を分けた。
井伊・榊原勢の戦いぶりも銃器の差もあるけど、それ以上に戦い方を失敗してるし。
幕府軍側でも戦術指揮官が洋式に慣れてる歩兵隊はそれなりに戦えてる。
まあ全く同じ構図で鳥羽・伏見でも幕府軍は惨敗したわけで・・・ 上級武士が指揮する保守的幕府側と世直し革命勢力の下級武士の差だろう。 だな。
薩長は主君が下級武士に権限を委任することで、縦横無尽の活躍ができた。
これも時代の流れという奴やな。 >>142
幕府陸軍の場合、小山から宇都宮城の戦い程度まではシャスポー銃を使っていたのではないでしょうか。
その後の今市の戦いで一気に火力を減じたように感じます。
その間の補給が会津藩からのものであり、会津藩が火器に劣っていたとされている点を考えると、
整備不良と交換部品・弾薬の欠乏でシャスポー銃は放棄されたのではないかと思います。 何で勝てなかったかと言われると、そもそも戦争する気がないのに、なぜか戦争になっちゃったので
長州の挙藩態勢も役には立ってるけど、それ以前に幕府の内部が早期停戦派と強硬派、現場と大坂に分かれてばらばらだもん
小倉口がその典型だけど、地元の小倉藩以外の応援部隊、熊本、久留米、千人隊、幕府艦隊がまったく抗戦意欲がない
小倉藩が何やってるんだと怒ると、熊本がますます機嫌を損ね、小笠原にもフォローができなくなる
そこに外国公使からも関門海峡での戦闘は自粛してくれと要請が入り、幕府艦隊は完全に引きこもりの傍観者に
せっつかれて熊本藩が前線に出た日だけは長州も苦戦したけど、熊本藩はその直後に引き上げちゃってほとんど役に立ってない >>135
完全なる勘違い。第2次の幕長戦争で最も寛大な条件を出したのは会津藩。
少なくとも江戸は藩主父子死罪を主張したのに会津が反対して減封に縮減された
慶喜もそこまで甘くない
会津がなぜ長州に対して寛大だったかと言えば
@西国諸藩の公論を熟知していたこと、Aさっさと片付けて国元に帰りたかったから 一言で言えば「世論」
長州藩が朝敵だとは名目だけで日本人の殆どは冤罪だと思ってた
だから京都でもテロリストのはずの長州びいきが多く、取り締まる警察であるところの会津が嫌われていた
これは会津視点の大河ドラマ八重の桜でも出てきた
当時日本では、長州はたとえ無謀でもイギリス他に対して攘夷を実行した男の中の男という高評価だった
世論を見誤り名ばかりの逆賊と言う理由で攻撃を加えようとしたのが愚かであった 幕軍とはいいつつ全諸藩が出兵してた訳でも無く周辺藩だけでしょ。
大阪の陣級に各藩から召集出来てれば勝てた。 そもそも長州一藩との戦争に諸藩の力をあてにしてるようじゃダメなんだけどな
足元を見られて出兵を渋られるのも無理はない 肝心の直参がソルジャー
でなく穀潰しに変わり果ててしまったから仕方無いw >>148
桂小五郎も高杉晋作も上士だっちゅーの! >>156
来島又兵衛も尼子経久の血を引く上士だしなあ 長州藩が勝ったのは簡単だ可能な限り孫子の兵法を体現しようとしたからだ
幕末の連中がやってたのはそれ
日露の時も可能な限りやったわけだ 会津藩の長沼流も、元は甲州流=武田信玄の兵法=孫子の兵法なんだがな 孫子曰わく、兵とは国の大事なり。
死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。
故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の状を索む。
一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。
道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危わざらしむるなり。
天とは、陰陽・寒暑・時制なり。地とは、遠近・険易・死生なり。将とは、智・信・仁・勇・厳なり。
法とは、曲制・官道・主用なり。
凡そ此の五者は、将は聞かざることなきも、これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。
故に、これを校ぶるにするに計を以てして、其の情を索む。
曰わく、主 孰れか賢なる、将 孰れか能なる、天地 孰れか得たる、法令 孰れか行なわる、兵衆 孰れか強き、士卒 孰れか練いたる、賞罰 孰れか明らかなると。
吾、これを以て勝負を知る。
将 吾が計を聴くときは、これを用うれば必ず勝つ、これを留めん。将 吾が計を聴かざるときは、これを用うれば、必ず敗る、これを去らん。
計、利として以て聴かるれば、乃ちこれが勢を為して、以て其の外を佐く。勢とは利に因りて権を制するなり。 機略家の高杉が得意だったのはこれだなw
兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、
遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し。
其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。 >159
武人だから知ってたろうけど
実践できるとは別だろ
実際当時の幕府とかできんかったわけで よくわからないんだけど
長州は関門海峡を通る船舶を砲撃したり攘夷を唯一実行したというだけで
京都で勝手に個人的に暴れてた浪人は長州と関係ないのに
なんで長州の仕業にされているのでしょうか? >>163
無関係じゃ無くて、仲の良い友達的関係だったはずだ。
それは真木和泉守らが唱えた、尊皇運動には藩の力を利用すべしという基本方針による。
尊攘浪士は、こうした意見から長州藩をアテにし、長州藩は彼らを支援することで世論を味方につけた。
ただ、浪士はあくまでも浪士で長州藩の家臣では無いから命令権が無い。必ず長州の言う通りに動いてはくれないということさ。 ありがとうございます。納得しました。
天皇(&攘夷派公家)が長州を完全にコントロールできていたわけではないように
長州も浪人をコントロールできていたわけではないということですね。
真木保臣を調べてみたところ、この人も久留米藩を脱藩した浪人ですね。
浪人が活動する拠り所だからそれらを浪人を引っ括めて「長州」という扱いをしているわけですな。 >>163
雄藩の方針として尊王攘夷に転換できたのは薩摩、長州、土佐ぐらい
他は藩を動かすの難しかった
水戸なんかは内部分裂で脱落したし、薩摩が有力だったが寺田屋事件で頓挫
土佐は途中で勤王派粛清、長州が一番有力だった >>152
>当時日本では、長州はたとえ無謀でもイギリス他に対して攘夷を実行した男の中の男という高評価だった
と言う評価が民衆などにある一方で、「軍船ではなく商船まで砲撃するとはわが国の名折れである」
と言う正反対の感想もかなり見られたのは事実。ちなみに長州の領民も幕命による攘夷だと信じていた様子をアーネスト・サトウが記している。 >>164
しかし結果的に真木に引きずられて藩兵が上洛して御所を包囲して恐喝する事態を、
少なくとも久坂は許してるよね。政治的に使えると思って。
言い方は悪いけどアルカイダをかくまったタリバーンを「テロとは無関係」とは言えないでしょ。
たとえ同時多発テロ計画をよく知らなかったとしても。ましてや長州の場合は京への藩兵の進発を黙認しちゃってるわけだから。 >>169
局地戦たって長州征伐と鳥羽伏見と圧倒的大軍で負けた
あれも会議で慶喜擁護派優位な中
少数で京に上るならよいってのを無視し大軍で上洛し負けたわけで 長州征伐の教訓を生かしてないんだから、鳥羽伏見でも負けるよね
まして相手は長州だけでなく薩摩(主力)と土佐もいるし
鳥羽伏見は徳川連合VS雄藩連合(事実上の)じゃん
兵制改革しきれていない徳川連合に勝ち目はないよ >>150
熊本藩に長州藩の相手をさせて小倉藩とか他の藩は全く支援しなかったから、
熊本藩が切れて帰ったんだよ。
単独で高杉の奇兵隊の相手させられていた熊本藩はそりゃ切れる。
>>167
当時の商船は日本の生糸とか低価格で買いあさって、国内のインフレを招き。
だが外国からの安い綿製品などを流入してきて既存の産業が壊滅しか買っていたので、
商船もとても恨まれていた。
打ち払った事でむしろ喜ばれる存在。
そして攘夷は幕府と朝廷の命令だろ。 攘夷は幕府と朝廷の命
国内の統一世論だったわけですよ
今やスパイ説ある坂本wも幕府は売国奴じゃきぃ洗濯しそうろうとか激怒してるわけですよ 1825年の異国船無二念打払令って1842年廃止されていますが
長州の5月10日の攘夷決行は以下の流れのようですね。
1863年3月29日(2月11日)
後見職一橋慶喜、朝廷に将軍滞京10日、帰府後20日以内の攘夷期限を約束
http://bakumatu.727.net/kyou/3/032963-joikigen.htm
将軍歸府後、二十日の御宥免を蒙り、相違無く拒絶致させ候段、御受申上候。滞京之儀は十日限り 朝廷より仰せ出さるべき御都合之事
1863年4月21日(3月4日)
将軍徳川家茂、入京
http://bakumatu.727.net/kyou/4/042163-shogunjoraku.htm
1863年6月6日(4月20日)攘夷期限5月10日
攘夷期限の事、来五月十日相違なく拒絶決定仕り候間、奏聞及び候、猶列藩へも布告致すべく候事
http://bakumatu.727.net/kyou/6/060663-joikigen.htm 幕軍は大軍だったけど現地の藩兵しか戦ってないから勝てなかったんだな。
特に小倉、浜田方面は。 >>172
小倉藩はそれまで寡兵で長州を一手に引き受けて戦ってたから、多少はね? >>172
熊本藩の場合は不参加はやばいから前線にいちおう兵を引っ張って来ましたと言うだけの状態だからね。
幕府艦隊や千人隊も再三の要請にもまったく動かないし、
疑心暗鬼に陥った小倉藩とトラブったら逆切れして撤退
第2次長州征討は幕軍ですら「戦争にならないで終わる」と思ってたので近隣の譜代家門以外は戦意はゼロに等しい
それとなんだって?インフレの原因になるから民間船を砲撃していいって??
どんだけ愛国無罪な発想してんだよ。それこそが民衆暴動を裏で煽った清の官憲の発想だわ。 >>178
そもそも熊本藩に長州藩の相手を押し付けて、熊本藩を助けないから熊本藩がやっとられんと言って帰ったわけ。
海わたってくる長州の船を沈めてくれと熊本藩が幕府に頼んでも、
船を失うのが怖いのか全く長州の船には近づかない、それどころか長州のしょぼい軍船に追いかけ回れる始末。
熊本だけ必死に戦わされるのに幕府はなにもしないから幕府は熊本藩に見放されたんだよ。
元々熊本藩に長州と戦う理由なんてないのにな。
そして愛国無罪とかじゃなくて、商船そのものが民衆から恨まれていたって話。
商船だから攻撃すべきじゃないなんて理論は基本的にありえん。
そもそも日本に来ているのは商船ばかりだろうが。
商船攻撃ダメとかいう奴なんてそれこそ異端のキチガイ。 幕府艦隊は動いている、大島方面から攻めようとした。
大村は大島方面は無理と捨てようとしたが、高杉が小船で夜襲しかけ退却。
その後小倉でも艦砲射撃で渡ろうとしたが、これも奇襲受け戦意失った。
熊本藩は強かった分けで、それまで奇襲と退却繰り返し大軍を切り崩そうとしてた高杉が、一挙に勝負決めようと攻めたが守り堅く損害受けた。
毎晩夜襲仕掛けると見せかけ、追い払った。 関門海峡の封鎖は外国の圧力でできなかったんじゃなかったっけ? パークスから関門海峡を渡って下関に攻め込むのは勘弁してくれと暗に要請があったね。
その前から、艦の損耗を恐れて戦意の乏しかった幕府艦隊はまったく出撃しなくなった。
芸州口では退却する長州藩兵に艦砲射撃を加えて脅かした幕府艦隊が、奇襲程度で戦意を喪失することなんてあり得ない。
芸州は外国公使から「どこが非戦闘地域なのか」などと言われなかったし、艦の損耗を恐れる必要もないから適当にぶっ放して長州藩を苦しめてる。
>>179
その前に熊本藩が持ち場を守ると称して動かなかったのが小倉藩の疑念を買ってるんだよ。
愛国無罪だよ。民間船砲撃は諸藩の有志からあるまじき振る舞いとか、諸外国の侮りを受けると強く非難する者が多かった。
実際に長州のこの砲撃事件が伝わると、対日強硬派の議員たちが日本に対しては軍事力行使のほかなしと言う風潮に流れて、
それまで好意的だった米国や英国のメディアも日本軽侮の論調に転じていった。
底辺の野次馬町人レベルは知らないけど、まともな教養のある人間からは支持されてない。 まあ長州はこういう愛国無罪の底辺層を動員しなきゃいけないから、
軍艦よりはむしろ商船を砲撃する必要性があったんだよな。
もともと攘夷戦争は攘夷が目的で始めたわけではなく、単に藩内総動員体制の確立のために始めたので。
しかも攘夷の矛先はこの後、国内、特にライバルの薩摩にも向けられている。
文久3年12月に薩摩藩御用の長崎丸を砲撃沈没させる事件を起こし、速攻土下座したものの、
翌月に再び薩摩藩御雇商船の加徳丸を襲撃すると言う重ね重ねの不祥事を引き起こしている。
さらに、引き渡すべき襲撃犯の上関義勇隊士が「薩摩は外国と貿易してるぜ」と大坂で捨て札残して切腹した事件で薩摩は完全に面目が潰れ、
同年の禁門の変では最終段階で長州入京に熊本・久留米・土佐などとともに強硬論を唱えて会津に同調している。
長州の「攘夷」の対象は外国どころか、国内の商船にも向けられたから、諸藩の有志の支持が得られるわけもなかった。 長崎丸事件の場合も、長州は外国船と間違ったと主張したが、これもあやしい。
かりに間違えたなら、翌月に再び同じ事件を、しかも同じ藩の船舶に対して引き起こす理由がない。
薩摩は灯篭をちゃんと並べて見間違えないようにしておいたじゃないかと抗議しており、
現場の暴走の疑いが強い。
これが文久4年の1月2日。薩摩はすぐ糾問使を発しようとしたが、参預会議で一橋慶喜が薩摩を宥めてこの時は収まった。
しかし2月8日の評議では幕使中根の殺害とともに長崎丸砲撃の一件を長州に尋問することが決定されている。
どこが「国内の支持を受けていた」じゃ。 幕府艦隊は芸州口でも艦砲射撃で活躍しているじゃん?
対抗手段のない長州軍は海岸に手を着けられなくなった。 当時尊王攘夷は普通。
新撰組なども清川の非常の士論で尊王攘夷目的で上洛した。
幕府側と深くなったんでそっち側になっただけ。
破約攘夷が目的だったのである。
長州も朝廷幕府の了解取り付け実行したが、途中で外交方針変わった為ああなった。
禁門前の平野の神武必勝論とか見ても清が敗れた原因知ってるわけで。 >>181
関門海峡封鎖したら北前船が全部止まる。できるわけがない。
また当時の下関は多くの大名の札差商人の蔵屋敷があるから、
戦火に巻き込むのは長州幕府ともにできない。だから長州は防衛戦ではなくて、
難しい渡航攻撃をした。馬関戦争でも連合軍は城下町には砲撃できなかった。
>芸州は外国公使から「どこが非戦闘地域なのか」などと言われなかったし、艦の損耗を恐れる必要もないから適当にぶっ放して長州藩を苦しめてる。
幕府が欧米の犬だったのは事実だが、それは違う。
ただたんに長州の艦隊が下関に渡航護衛で移っていたので広島方面には長州の海軍がいなかったので動けただけ。
とても悲しい事実がそこにはある。そして関門では長州のしょぼい軍船に追い回される程度しかない。
>その前に熊本藩が持ち場を守ると称して動かなかったのが小倉藩の疑念を買ってるんだよ。
熊本藩の持ち場には長州の軍勢が押し寄せて来ているのに、また押し寄せてきていない時も、
押し寄せる可能性があるのに持ち場開けるとかねーよw
そして長州の奇兵隊の相手を熊本だけに押し付けて引きこもっていた連中が熊本藩の批判をする資格などない。 >愛国無罪だよ。民間船砲撃は諸藩の有志からあるまじき振る舞いとか、諸外国の侮りを受けると強く非難する者が多かった。
そんな奴いねーよ。いてもそいつは貿易利権で肥え太っていた幕府の閣僚のみ。
もしくはなにも知らない馬鹿だけだ。
>対日強硬派の議員たちが日本に対しては軍事力行使のほかなしと言う風潮に流れて、
だからもともとそういう事を目的に打ち払っているんだが?
夷狄を打ち払えというのが当時の日本人の基本的な考え。
そして英米の論調なんて元から軽視だよ。
>底辺の野次馬町人レベルは知らないけど、まともな教養のある人間からは支持されてない。
なら当時は孝明天皇以下教養のある人間は日本にはいませんなw
残りは利権で反対している連中だけだから。
なんで当時開港に反対運動が起こったのかお前は全く理解していない。 言うまでもないことだが、外国船に砲撃して反撃されるのが怖いよー。
っていうチキン藩のは民間船だから反対していたわけじゃないからな。
その違いくらいはわかっているだろうなw
>>186
そゆこと。当時において攘夷は当たり前。
外国船打ち払えってのも国民の多くが望んでいたもの。
>>184
当時は冬で、天候は雨で、時間は夜だぞ。ほぼ真っ暗だ。
街灯すらない時代の曇天の夜。船籍の区別なんぞつくわけがないだろ。
長州はレーダーでも持っていたのかw ID:XYF9/vfr0の主張のほうが筋が通っている。
ID:YJ6ZEiOF0は脳内ソース多すぎ。 開国したから植民地免れたって云々ってすり替えと日本史観点からだけで
世界史だと開国してどこも植民地なってるわけで
元々攘夷論から発したのが封建制の国内不一致による攘夷失敗内政問題優先なっただけ ??>>116
江戸幕府末期が舞台の、時代劇の漫画である
「明楽と孫蔵ー烈風隊編」
「天狗党の乱」がモデルだと思うが、北関東の宿場街を占拠した
100人にも満たない、尊皇攘夷ゲリラと、
1000人近い江戸幕府討伐軍が戦う。
平和ボケしていて、
なおかつ、脳筋バカな江戸幕府軍の指揮官は、
敵の尊皇攘夷DQNゲリラに、煽りみたいな感じで、ちょいとライフルを適当に数発撃たれただけで、キレる。
尊皇攘夷ゲリラに占拠された、
宿場内にいる、江戸幕府側スパイから
「敵が、狭い場所に引きづりこんでの攻撃すると言う罠を仕込んでいる」
との情報があるにも関わらず、
頭に血が上って全軍攻撃を開始してしまう。
で、「突撃じゃあ、突撃じゃあ〜!」と命令を出し
突っ込んだ江戸幕府軍は、狭い路地に誘い込まれて、
狙撃や、大砲の水平撃ちや、
崖をよじ登っていた幕府軍の側面攻撃部隊は、よじ登ったところを、即席地雷の攻撃で見事に死体の山を築いて、敗走させられるw 会津兵が長州征伐へ出陣したら、その隙に薩摩兵が御所を占拠するよ
実際に薩摩兵が京都へ押し出してきたじゃん
岡山・広島などの各藩も停戦を求める意見書を幕府に出してたし、
打ちこわしが起きるし、明らかに世論は長州征伐中止を求めていた >>198
あれ読むと、長州がいかに腹を据えて対幕戦に臨んだかわかるよね
武器購入と洋式訓練の徹底で自主的に動ける兵を育成、
それと同時に諸隊の再編と指揮系統の中央への一元化
暴れ馬みたいな諸隊を相手によくやったと思う
高杉が勝手に行ったと伝説化されてる大島への軍艦派遣も、
実際には高杉も山口にいて、指示を受けて三田尻から出航してるし
諸隊の統御にあたっては、徹底した「正義は我にあり」戦略も
効果が高かったろう
自国の農民にも他藩にも京都の民衆にも長州の正当性を訴えかけ
開戦も相手が手を出すのを、幕府特使に再伏罪拒否りつつ待つ徹底ぶり
国内にはぶれが少なく指令の納得度が高くなり士気も上がり、
相手陣営には「え?マジで戦やるの?もう済んだことじゃね?
長州詫びたやん?幕府横暴じゃね?」感を蔓延させ士気を下げさせた >>198
そうした状況で第二奇兵隊事件、倉敷浅尾騒動が起きたから山口政庁はびびった。
「やっぱり長州藩は野心があんじゃね?」「藩内で分裂すんじゃね?」「相手にすんのよそうぜ」。危険は幕府と広島で交渉していた長州使節団からも「とにかく藩の暴発だけはやめて。ぜ〜んぶひっくり返しだから」と言ったんだが。
原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する。 >>200
「ぜっったいこっちから手ェ出すな」と厳命してたのに暴発した連中がいた件だろ?
ありゃとっつかまえてやらかしたことに応じて処罰して浅野側にも詫び入れて
筋通した決着着けただろ?
だいたいこっちの正当性を明確にするためにも先に手を出すなって
言ってるのに聞く耳持たない連中の暴挙を、
「藩庁の原理主義のせいだ」と言われてもなー 諸隊にすれば広島の団交中に小倉藩が下関が入れば苦戦を強いられらる。海軍は幕府優位。諸隊の幹部に不満があるのは当然。
かつて高杉が蜂起した際には小倉から数万の征長軍が下関に入ろうとして、西郷が止めに回った。当時の諸隊は長府の日和見派を含めても750以下。しかも補給はうけられず完全に孤立無援。
なぶり殺しになる危険があった。勿論、高杉は絶対に自信はあったが万一失敗してもいざとなれば仲間を見棄てて上海へ逃げる腹はあったはず。 わけがわからない
小倉口は暴発してないだろうがw
叩きたいだけなのが見え見え >>203
かつて高杉がと書いたが。つまり第一次長州征伐のタイミングで起きた元治の内乱の話だが。 いや、それが最初の1行に関係あるかよ、ってのも含めてなんだが >>194
実際の指揮官の田沼は諸藩に対し幕府の権威を嵩に威張り腐っているだけで
自分自身は絶対に陣頭に立たない有様で諸藩だけでなく幕府歩兵達からも評判が悪かった。 >>205
第二次長州征伐は長州側が小倉の田ノ浦なんかに上陸、そのまま南下したが。
これは逆に小倉側から長州が攻められる危険があった。指揮官が方針をしっかり打ち出さなかったのが失敗だったが。
長州側にすれば「第一次長州征伐でもしかしたら死にかけたんだから、今回はこっちから攻めなきゃ」というのが諸隊にあったのが普通だろう。 >>205
連投になるが。
ここで話になっているのは多分、何故に諸隊は第二奇兵隊事件に喝采を送ったかだと思っていたが。つまりオタクの言う聞く耳持たない連中が諸隊の隊士に多かった理由を話していると思っていた。つねに諸隊の幹部は隊士に引きずられている。
まあ、多かったと言えば、少なかったと言う人も出てくるだろう。俺は山県が藩庁に対して「轡を噛ませるのも結構だがやり過ぎだ」って発言しているのに注目して多かったとしている。
違うなら返事は要らないので。
オタクの考え方は知らんが、第一次長州側は長州側が袋のネズミ状態にあった。しかも長府の諸隊は萩政庁と反目していたから孤立無援。幹部が高杉の挙兵に反対したのは当然だった。高杉が暴発すれば小倉側から攻められる。萩からも攻められる。絶対絶命。
こうした死線をくぐった諸隊はやるなら先制攻撃と考えるのが普通ではないだろうか。 天狗党の大量処刑を耳にした長州藩では
降伏しても虐殺されるだけなのが分かり、
藩論が拮抗していた恭順論と抗戦論は一挙に徹底抗戦に傾いた >>209
武備恭順派の形成条件はそうですね。【広島の国泰寺で永井尚志が宍戸たまきへ天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい】と発言しているあたりは、世間が幕府のやり口をどう見ているかを端的に示しています。 ああ、>>208は>>200じゃないんだよな?
じぶんはそっちの
>原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する
に反応してたんだ
諸隊が攻撃したくてたまらなかったのも、
幹部連中が隊士を御しきれずにいたのも、そりゃそうだと思うよ
しかし、藩中枢だって何も主義主張を玩んでいたわけじゃない
それまでの経験から、自分たちより大きな力に勝つためには
世論を味方につけるのがどんなに重要かを痛いほど学んでいた
身内の士気を上げ、庶民を協力的にするのはもちろんだが
従軍命令が出ている各藩が幕府の方針に懐疑的になり
士気が下がる、あわよくば長州に心を寄せるようになる
それは戦争だけでなく、戦後の最重要の目的のひとつである
藩侯父子の、ひいては長州藩の名誉回復にもつながる
暴発した連中の行為は、幕府への攻撃ですらなく
幕長交渉の舞台であり長州に好意的・同情的な安芸を
怒らせるに決まっている行為
自分等のやってることわかってんのかよってレベル
そりゃそこをわからせることができなかったのが悪いと言われりゃ
それまでだがね >>211
>>200も>>208も同じです。
確かにまったく同意。ただ、諸隊隊士に分かろうとさせたかは見方が別れるかも知れない。諸隊は軍隊であり、同時に思想集団としての勉強をさせていた。
中身は分からないが、その場合はよりラジカルな方向付けがされると推察する。60年代の過激派のイメージから連想するのだが。
共産ゲリラの分派はより急進的に進むという方式が、この場合も当てはまるのではないだろうか。その意味で「(月性を生んだ)周防は(吉田松陰を生んだ)長門より恵まれていない。利用されただけ」という言葉が連想される。 >天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい
こんなこと言ったって信用できるわけないだろ。六角獄でも大量虐殺されてるし。
殺りたきゃかかって来い!って腹を決めて迎え撃つしかなかった。 >>212
まあ諸隊はもとはといえば、ばらばらに成立した義勇軍だからね
戦争に参加する独自の理屈がそれぞれあったわけで
幹部連中集めて勉強会したり林半七や槇村なんかが駆けずり回って説諭したりしても
「総論賛成各論反対」の域を出るのは難しかったのは想像つくね
軍規が身についてる「武士」じゃないんだから
実際品川ヤジあたりだって、薩長の話し合いに同席させられ
薩長連携の最前線に投げ込まれるまでは思いっ切り跳ね返ってたわけで
理屈を戦わせるよりも、木戸の「粛然夜の如し」みたいなフレーズの方が
伝わりやすかったかもしれん
逸る気持ちはわかるが抑えろよ、と
最終的には暴発兵への厳罰でわからせることになっちまったが >>214
開戦前夜の山口藩庁と諸隊の構図、意識の差とすれば正しいと思う。勿論、長州側が戦意が高く団結していた。ただ藩庁と諸隊の間にズレはあった。当たり前だが。
これは藩庁というより封建家臣団と民兵のズレであり、下のレイヤーに行けば教育体制の違いに入る。民兵の側でも豪農豪商層とそれ以外の階層にズレはある。
ただ、そうしたネジレのエネルギーを対幕府に振り替えた藩庁の巧みな操縦に対する評価は好みにより異なりそうだが。 ねじれのエネルギーってのがどういうもんかはよくわからんな…
身分によっても個人によっても諸隊参加の動機は違ったのは当然として
自分は政治的意義という観点から見てしまうから
藩庁は雑多な諸隊を戦えるようまとめあげるの苦労したろうな、という見方になってしまう
「対幕府に振り替えたたくみな操縦」っていうけど、
諸隊の目的だって本質的には身分制の破壊ってより世直し&対外対幕危機打開だろ?
まあ食いっぱぐれてたから参加したってのもいたろうし
身分について考える者が出るのも当然だし、実際取り立てやら名字許すとかあったけど
一方で戦いが終わったらもとの身分に戻してくれっていう維新団みたいのもいたしね
あと、再編を始めてからは諸隊を増やすことを禁じているので
使える者はだまくらかしても使え的なやりかたをしてるわけじゃないし
諸隊の多くは暴発するだけの理由を持ってたかもしれないし
実際暴発に喝采を送ったかもしれないが
最終的にはちゃんと自重してるのがほとんどなわけで
情の部分では哀れとはおもうが、正直いってこの件とか脱退騒動とか
「やっちまったな〜武力を持っちゃうって怖いな」としか思えない 同和の奴の研究でだが、第二次征長のときに海岸警備に駆り出された被差別部落部隊の隊員のうち、
オラも馬関での戦いに参加するだ!って言って馬関に馳せ付けた奴が処罰されたって話があったな
まあ色々と士気は高かったんだろう
その研究だと差別によって処罰がどうたら〜とお決まりの文句が続いてたが、いくら戦に参加したいからって
部隊から無断で離脱したら、そりゃ差別とか関係無く誰でも処罰されるわなw 朝廷は長州討伐の勅を出しておきながら
長防解兵の勅宣を出したのはなぜでしょうか? 頭の度量のちがいだなw
慶喜最後は、江戸に逃げる。
毛利の殿さん、開き直りお前らに任せた。
毛利の殿さんが気がコマければ、松陰一派は粛清されていたことは
確か!
度量の差だろうなwww そうせい候は松下村塾の過激派に逆らって居たら、
暗殺されたか、良くても座敷牢に入れられただろう。
高杉晋作は殿様を引っ担いで上海に亡命する予定でしたよ。 村塾生で藩侯ぬっ殺してどうにかなると思うほどアタマぶっ飛んでたのいるんか
君側の姦を討つ、ぐらいがせいぜいだろwある意味美化しすぎw
高杉のは個人的に藩侯ダイスキっつーのもあるが、これも一種の玉の取り合いっしょ 松下村塾の過激派って・・・
長州の過激派って報国隊とかだよ
村塾生は逆に大攘夷だから
開国の仕方を模索しながら
倒幕のエネルギーとしての藩内過激攘夷派の利用
長州藩としては桂になんとかしてもらうっていう考え
高杉なんてその報国隊から攘夷の裏切り者って
命を狙われてたじゃん、伊藤も井上も
井上は実際に斬られたけど
あと殿さま一番のお気に入りが高杉で
ある種意図的に牢屋に入れたりして
命を救ってる感すらある 長州のほうは先込め銃でも伏射使う訓練をしていたようだね 広島大学教授の論文によると
「総合的にみれば西洋式装備では、質量ともに征長軍のほうが長州軍を上回っていた。
このことは、長州軍は、優れた西洋式平気によって勝利したとする通説は正確ではなく、
むしろ散兵戦術など西洋式戦法に習熟し、それを充分につかいこなした点に勝因があったといえる」
そうだ
https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2009/seika/jsps-1/15401/17520433seika.pdf >>225
総論としてはそのとおりだけど論文中では芸州口のみの話だろw
芸州口は幕府歩兵隊も紀州藩兵も最高の戦力が投入されてるし。
最初の彦根、高田の大崩れを除けば幕府軍は善戦してる。
しかし相当前から言われ続けてることを論文にしても科研費が出ることのほうが驚き。 >>226
むしろ人数はおろか装備でも上回った幕府軍がそれ以下の長州軍に負けたのが問題だろう 芸州口の人数って、長州1.000×幕府軍60.000ぐらいだったっけ?
他も似たような戦力比率だったけど
大島口は四国勢が受け持つ事になってたけど、どこも兵を出さず結局松山藩と少しだけの幕府軍の与力
山陰は浜田藩ぐらい
小倉口も熊本とか最初は参戦したが、結局小倉藩ぐらいしか戦わなかった
芸州口に関してはほぼ参戦してたんじゃなかったかな?
それであれだけの兵力差で善戦と言われたら、どんだけ幕府軍弱いねん
戊辰戦争も含めて、ほとんどの戦が幕府軍の方が多いのに負けてばかり
源平から南北朝まで、東西が戦えば東が勝つ事多かったのに
なぜ幕末は東が極端に弱かったのか? >>228戦力温存の徳川戦法が仇になり本隊が弱体化したとか
何より、同じ幕府軍でも首脳部は一会桑と徳川宗家の寄り合い所帯で指揮系統が一本化されなかったとか 実際幕府軍は滅茶苦茶弱いんだよ。
その上基本的には戦う気がない。
紀州藩の一部と幕府歩兵隊が突出して装備訓練が優良だったけど
それ以外はまさにごく潰し。実際幕府軍は兵站で苦労してるからな。
諸藩兵もそれなりの装備は持ってたけど使い方を全く理解してなかった。
それが>>225の指摘してる西洋式戦法に習熟してないってこと。
幕府で士分の連中に洋式訓練させようとしたけど馬鹿にして真面目にやらない。
諸藩でも同様で射程が伸びる洋式銃や大砲は装備しても洋式運用は出来てない。 >>230
トップ2人が参戦したが、主力は不参加でなかったかな >>232
慶喜と容保は長州に行ったの? 戦中はずっと滞京してると思ってたわ >>233
黒谷本陣には公用人の手代木が全権を握って留守居役だった
元々征長総督は慶喜がなるはずだったから、実質的には慶喜と陸軍総裁の容保が全軍の指揮を取ってた >>234
第二次征長の時の陸軍総裁って容保だったかな?
実績、能力、人望ない容保が幕府全軍の指揮しても幕府軍は従うと思えんのだが。
禁門の時でも熱出して寝込んでたほどの臆病な容保がわざわざ長州に行くのかな? >>235
第一次征長の時も熱だして辞任しかけたくらいだから 本来は戦力外通告の筈なんだが、永年関係が悪化してきた幕府との関係改善の為のパフォーマンスに駆り出されたんでないかな
征長以外にも慶喜や容保は天狗党征伐にも駆り出されてたし >>235-236
佐幕で、幕府に従う純朴さがあり、藩士が精強で、国持大名クラスの藩と言えば、
会津・庄内・米沢ぐらいしかなかったということだろ。会津松平氏・酒井氏・
上杉氏から選ぶとなると、やはり御家門の会津藩だろうな >>237
そもそも一会桑は佐幕派ではなく水戸系攘夷派だぜ?
【容保は元南紀派だからいるのがおかしいんだが】
純朴って言うより
桜田門でパトロンの井伊直弼が死んだから一橋派に転向しただけだし >>238
オツムの中が混乱しているな
慶喜はもちろん一橋派の旗頭で井伊直弼に謹慎食らっているが
その後は将軍家後見役になっているんだから、
攘夷から佐幕に立場が変わっているんだよ 幕府軍側、各藩も一枚岩じゃないからね
当然各藩にも攘夷思考の人達もいて、それらは長州征討に消極的だし
あと、幕府と長州の揉め事に兵を出して
トバッチリを受けたくないって考えの人も多かった
それを統率するほどの統率力が幕府にはなかった >>239
そもそも幕府軍が挙兵上洛した際 一会桑とにらみ合いになってるし
慶喜に至っては幕府の如何なる要職にもついてないよ?
将軍後見職も辞任して 禁裏総督になったし >>235
第二次征長の時の陸軍総裁職(名称変更して軍事総裁職)は容保じゃない
当時の幕府は容保なんて信用してないから、幕府全軍の指揮なんてありえない >>241
>慶喜に至っては幕府の如何なる要職にもついてないよ?
将軍後見職は幕府の正式な役職だが、何を言っているのか?
>将軍後見職も辞任して 禁裏総督になったし
幕府との軋轢で後見職を辞任したと思っているらしいが
横浜鎖港を巡って薩摩の久光と対立して、賢侯会議の実態を解消するために
やったのであって、幕府は関係ない。幕府の島津嫌いは言うまでもない
かなり幕末史を曲解しているようだが、
「一会桑政権」という言葉にとらわれ過ぎじゃないか?
慶喜が江戸の老中会議から半ば独立していたのは事実だが
慶喜は幕府を支えるために奮闘していたのであって
江戸の老中も慶喜と対立するほどバカじゃない >>243
江戸の老中も慶喜と対立するほどバカじゃない
↑元冶二年(一八六五)2月 本庄阿部の2人の老中が京都の進駐と一会桑解体の為に武装上洛してる
こうなったのは、兵庫開港を巡って 孝明天皇と将軍家茂が対立したからだしな
まあ慶喜が必ずしも朝廷サイドではないのは開港不認可と条約勅許で2人の中を取り持ったのでそれは分かる
そもそも一会桑というより、会津が突如幕府に強行姿勢を取ったのは孝明天皇に取り入ってた容保の公用人 手代木直右衛門の差し金で その後幕府と緊張状態に陥るや 再び佐幕派に戻ってる 弾の飛距離が2倍も違うんだから幕府が負けて当然だろう それは決定的な差じゃない。
分隊で散って遮蔽物を利用して接近すりゃいい。
夜襲なら射程はさほど気にしなくていい。
やり様はあるんだけど、まともな訓練受けてない兵では無理ということ。 普通の部隊が散兵なんてやると逃げるばかりで使いものにならない
遠征で士気が上がらない状況ならなおさら >>228
長州領に一歩も踏み込めなかったが、広島までは陥落せずに持ちこたえた。
(石州口も小倉口も全軍崩壊していたしw)
これで善戦扱いされるのは確かにおかしいが、他の方面が酷すぎるからな。
>>247
兵士の錬度と士気が大事って事だな。
士気は郷土防衛戦争として国内の世論を統一し、家々に長州がいかに正義かとといたものを配布。
宣伝やプロパガンダを徹底してやった。
それによって逃げないで、訓練をする兵士を得た。
ここまでの事をやっていたのがかなりスゴイんだよな。 長州は戊辰戦争終了後、国の要請で浜田や小倉の占領地を放棄させられたが
これに伴いリストラを断行して諸隊(5000余人)がすべて廃止された
そのうち身分の高い(士卒)2000人は御親兵として再雇用されたが
義勇兵として活躍した農家の次男三男の多くは補償なしで雇い止めとなった
不満を持つ1200人が蜂起すると木戸孝允が自らやってきて長州正規兵800人で鎮圧している
いくら練度の高い兵たちでも補給がなく、優秀な指揮官も不在では弱兵になってしまう /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
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http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0 負け犬白虎隊w
勝手に負けたと思い込んでバカみたいに自決しまくった白虎隊w
まさに哀れな負け犬白虎隊w
長州奇兵隊の足元にも及ばないゴミクズ白虎隊w 長州征伐の長州より戊辰戦争の会津藩の方がよっぽど戦う条件は良かったんだがな
正直、会津は負けるのが難しい戦に負けちまったような 奇兵隊は干城隊率いる木戸孝允に処刑され庇った前原一誠や奥平謙輔は山縣有朋に追い出され下野
↓
前原一誠や奥平謙輔は干城隊とともに蜂起し、元奇兵隊の広島鎮台司令・三浦梧楼に鎮圧される
↓
三浦梧楼は開拓使官有物払下げ事件で抗議し議会開設と憲法制定を訴える建白書を出すと山縣有朋に左遷され
後に藩閥打倒の中心人物となる
藩閥に固執する木戸孝允や山縣有朋以外の長州人はわりとまとも 慶喜の側近なんか味方の佐幕派に暗殺されちまったのに長州は甘いな〜 前原みたいに藩内の不満や反乱分子を抑えられなかった無能を
もてはやすという風潮は笑える >>254
長州は強い信念と目的意識を持っていたからね
大した大義がない反乱分子などに負けるわけがない
既に腐りきって堕落していた幕府と大違いだよ あれ? 前原は脱隊騒動の時は、調子にのんじゃねーよ諸隊wてディスってたんじゃね? >>256同じ内ゲバでも長州の場合
所謂 正義派と俗論派双方に確固たる理由があったが
佐幕派の場合、目的も派閥もバラバラな幕吏がリストラされたくない〜が動機で 集合離散してただけだしな 幕府が勝てなかったのは
市民の士気が上がらないで
雇った奴等が逃げたり
江戸や大坂で打ち壊ししたからだよ。
庶民は長州に期待してたからね。
長州も洋式の軍隊化してたり
諸隊の士気も高かった。
長州の洋式軍隊+庶民の長州贔屓
これが勝った要因。 数では圧倒的に勝ってるんだから、銃弾を防ぐ事ができる盾で立ち向かえば
良かったんじゃないの?
機動隊の暴徒鎮圧みたいな感じで、盾の壁で押せ押せ状態w この時代の技術で銃弾防げるくらいの全身盾なんて持ち運べるわけないんだよなぁ >>260
そこまで命かけて戦う兵がいない。
いくら長州兵の士気が高くても夜戦になったら射程の有利はあまり意味がない。
幕府側についた諸藩が本気でやる気なら、銃兵以外は夜間斬り込みに使うとか
銃兵は種類別に統合運用してミニエー銃隊が弾幕張ってるうちにゲーベル銃、火縄銃隊が
回り込んで接近するとか。
やる気があるならやり様がある。 >>260
ミニエー弾に耐えうる盾は当時の日本には存在しない。
外国にすら当時はほとんど無いんじゃないか? >>264
何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、
偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く
打ち候様相考えられ「芸州口戦争記参考」
さすがに兵自体が精強でも装備の差は如何ともし難い 庶民の間では「長州良いとこ、一度はおいで。いずれ長州が江戸になる」と俗謡が流行っていた。 山口県側のソースなので露骨に贔屓されているがなかなか興味深い
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics02.html
西川吉輔の風説留内(滋賀大学経済学部附属史料館寄託、真崎文庫、資料提供山口県史編さん室)によると
農兵は八十人余敵方へ生捕れけるが、敵方にて是を改め、その方共には聊拘ることにあらす、助命し差返すところなりとて
酒食を与へ、一人毎に五百疋を恵み、早々この場を脱れ帰国し、如何様も潜伏して時節を待へしとて篤く是を諭し、
国境迄厳重ニ護送士をつけ送り帰さしむ、その処置厳整にして行届きたり、尤武備軍令等は勿論にて、容易に討入なとヽ云こと
努叶ふへからすと、脱走農兵の直話なりと云
防地(周防)ニ於て地雷火に陥けるか、実に恐るべき限り也、その黒烟の中ニ数百人の烟に咽ひ烈火に苦む声、恐ろし共憐れ
共諭(喩)るに物なく、その悲鳴の声今に耳の底に残りて恐ろしく思ひ出せり、実に身の毛もよだつ計なりと >>269
同じこと言ってた会津は天下取れなんだな…
つーか、藩主が守護職一旦は辞任してんのに引き続き黒谷本陣から奉行や見廻組や新撰組を差配してる公用方ご一同様 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり 第二次長州征討なんてやんなきゃよかっただけじゃん
そうすれば絶対に負けない >>264
彦根藩は6月14日の敗因について届書を出しているが
「幕府歩兵が新港を攻撃するはずだったのに現れなかった」
等と指摘しており共同作戦だったもよう(幕府艦隊も艦砲射撃で掩護する予定だったと思われる)
一方で6月14日の敗戦のすぐ後に大島駐屯軍の幹部が本営に召喚され、
その後で大島の幕府歩兵が艦隊で移動を開始しているので、
幕府歩兵は大島攻略後すぐに芸州方面に移動を開始し、彦根藩と共同作戦を取るはずだったのかも知れない。
また当日の戦闘は防衛する岩国勢も兵750、農兵1000などが動員されかなり激戦が予想されており、
実際に彦根兵の砲撃は長州側の予想を上回るものだったことが分かる。
遊撃隊はこの激戦の最中に側面に回り、高所から銃撃を加えるとともに、背後の村々を焼きたてたために彦根兵が崩れた
(この放火のため芸州藩領は延焼で甚大な被害が出ている)
主力が岩国勢だったからあまり注目されてないのかもしれないが、報告を見る限り長州側は相当な苦戦を予想していた。 >>270
それは維新史回廊だより第2号(平成18年)そのままだけど、
第3号にも小瀬川口の戦いの後半の続報があって芸州藩領の被害が書かれてるよ…。 >>275
彦根藩内で倒幕派が台頭するきっかけが長州征伐の惨敗って言われてるけど、詳細がよくわからんね 幕府軍は所詮、諸藩連合軍だからな。
ましてや、各藩にとって直接的な仇敵という訳でも無かった。
大阪の陣の時とは完全に時代が変わってしまったという事だ。
存亡の危機に立たされた死に物狂いの決死隊で、しかも近代洋式装備相手には
如何に兵数が多くても無理だわな。 会津・庄内は売国奴
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から
資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、
五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で
具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば
実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年
7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り
込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から
6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html この記事、隠したいらしく、アクセス数激減。メールでも口伝えでもいいから拡散を! 緊急!!
アメリカ大統領布告「国家準備月間」各自の責任で「未知の危機」に備えよ!食料、水など備蓄必要!!
https://twitter.com/56shig/status/779659898212671493
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、
(| |) マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、
いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、
再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、
マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。
彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。
彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。
マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。 命令は出すけど、やる気がある連中(慶喜・会津・孝明天皇)は安全地帯で引きこもり
実際に金出して戦う西南諸藩はそもそもやる気なし
こんなんでなぜ勝てると思ったのやら よく考えたら凄い戦いだよな。
山口県 対 日本(幕府)だよw
いくら諸藩のやる気がなかったと言っても、兵数は何倍もいて、3方向(大島は除く)から攻められている。
1つでも突破されたら負けてただろ。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
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BIZWW いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
K0V >>10
藩主が象徴みたいになってて形骸化してたからな、尾張徳川と本質的な状況は近いと思う。
幕末の西方の諸侯はカリスマが多かったのにここは異質 本日、日本史板、徳川家斉ゴッドファーザースレにて連日傍若無人に大暴れしてた会津系の徳川○広信者が殺害予告をして通報されまくり逮捕確定
どうして会津はこういう奴ばっかなんだ…?
http://itest.5ch.net...i/history/1500998436 ロシアのウクライナ侵略が
長州征伐みたいに成ったな。 中国では花咲爺のことを花神という。
ゼレンスキーは花神のしごとを背負った。 傭兵軍対国民軍(の前身)だからな
ナポレオンが国民軍を率いて傭兵軍を各個撃破してからは
国民軍>傭兵と決まっている 懲らしめる為に攻め込んで惨めな惨敗、
ロシアが正に徳川幕府の立ち位置だな。 長州征伐のときに会津藩や桑名藩はなにやってたんだ? >>297
遠いからな
一橋徳川家も会津藩も桑名藩も戦費負担するのが嫌だったので
中四国や九州の大名に丸投げした 芸州口の大野村の戦いで紀州新宮の殿様の水野忠幹が奮戦してるんだけど
自前でミニエー銃600 中隊2、3個とホウィッスル砲2門持って来たって出てるんだけど
コレは北畠道龍の法福寺隊の事なのか、それを含んでいるのかな?
とにかく水野隊は異質だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています