なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか3
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過去スレ
第二次長州征伐を語る
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1003537751/
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1302410387/
第二次長州征伐参加兵力:幕府軍
総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承
芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
(本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)
石州口(浜田藩、福山藩 約7千)
大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
(上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)
小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)
補足:
・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)
・旭日丸 (木造帆走船 500トン 幕府所有)
・翔鶴丸 (木造外輪汽船 350トン 幕府所有)
・八雲丸 (汽船 トン数不明 松江藩所有)
・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。
とりあえずこんなところでしょうか? 関が原の戦い 味方の内通によりあり得ない負け
馬関攘夷決行 勝ち
馬関攘夷戦争 長州藩は引き分け・江戸幕府の不戦敗
禁門の変 先遣隊だけ負け
小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち
鳥羽伏見の戦い 勝ち
中越戦争 勝ち
会津戦争 勝ち
箱館戦争 勝ち
日清戦争 勝ち
日露戦争 勝ち
長州軍、薩長同盟締結から薩長政府まで(1866年から山縣有朋の死の1922年まで)
負け知らず、全戦全勝のまま歴史から消える。薩摩軍も西南戦争を除いて全く同様。 大村益次郎が購入した銃器の価格
銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両
長ミニエー 160 3,360 21 13.125
短ミニエー 60 1,440 24 15.000
ミニエー弾 50発
カラベイン 49 2,450 50 31.250
大型拳銃 33 20.625
小型拳銃 25 15.625 おもしろい議題だが、この方面の研究は意外と進んでいない。
小説だけの世界やね 山口の郷土史家や出身者だとどうしても長州側の史料が多くなるし、
それ以外のからの研究者だとボロ負けの戦いを研究しても楽しくないし、
そもそもそこまで敗戦の記録が残ってなかったりするからな。
そして未だに明治維新を民衆による革命史観とか、軍国主義と天皇制イデオロギーに移った原因
とみる連中などがいて面倒くさい。
庶民混合の従来の構造を破壊する偉業とかいう左翼と、
いや長州藩も小規模とはいえば占領地の石見の一揆を鎮圧した民衆の敵だとかいう左翼。
こういうゴミどもが消えないと歴史研究は進まない。
三宅紹宣とかも酷かったなあ。田中彰もたいがいだが。
前スレの幕府マンセー厨ほどじゃないがなw 荒井郁之助みたいなのがもっと早く幕臣になっていたらのう 俺もこの話ずっと気になってたんだ。
第一次のときは諸藩も幕府側についたのに、
第二次はやる気の無い藩が多かったよね。
ほとんどの藩が第一次の処分で終わったと思ってたんじゃないか
一度目は御所に攻め入った責任を問うという大義名分があるが、
二度目はただ単に出頭命令に従わないという幕府と長州の間だけの問題
他藩にとっちゃ関わりたくないわな 戊辰戦争に関する歴史書はクソほど出てるのに
本当に長州征伐に関する本は皆無だよな。 長州の内部から見てみたら
とにかく気の毒なのが、何見ても
トップのそうせい候が褒められた事がない悲しさ
毛利敬親もほとんど語られる事がないから
よくわからん 論文なんかだと、まぁ名君って評価はないにしろ、天保の改革の保護とかそれなりに評価してるのを見かけたり、
臣下からそれなりに慕われてたり、チラリと光る逸話も皆無ではないが、まぁ全体的に印象薄いよね。
維新後すぐに隠居するし、久光公みたいな灰汁もないし。
愚昧な事績も無ければ、周りを引っ張って何かしたって事績もないから、
要するにキャラ付けが非常に弱い。 石州口は国境の津和野藩の日和見に加え、浜田藩、紀伊藩軍の装備が旧式で
長州軍に一方的に撃たれまくった、ということでまぁ負けるわな、と思う
だが、芸州口の敗戦に関しては幕府側に言い訳は通じないな
数で勝ってたうえ、彦根藩敗北以降は近代化装備の幕府歩兵隊、紀伊藩近代化部隊が前面に
出て戦ってたのに、それでも押されまくり
こりゃもう幕府側に本気で長州を潰す気がなかったのだとしか思えない
広島藩が長州寄り中立で長州と交渉させて時間稼ぎしてたのもあるけど 幕府歩兵隊と紀州軍は、一進一退のいい攻防をしてると思うぞ。
数で勝ってるのにそれでいいのかという疑問は残るが。 肥後藩がそのまま幕府側で戦ってたら、
歴史も変わったかもと思う。 まあ肥後藩も実学党と国権党に分裂して、結局は新風連の乱となるわけだが。
新政府にいいように使われただけだったなw
元田永孚みたいな中々、骨のある奴が居る。 >>13
紀州藩6000VS長州藩1000。
位の差があったな。まあさらに紀州藩だけじゃないし。
長州はいくつもある街道を分散して防衛していたから、
200人VS6000くらいじゃなかったかなと。
長州藩がかなり苦戦したというのも分かる。 大村益次郎は新式銃に対応した軍組織を整えたのは偉いけどそれだけだろ
幕末で一番凄いのは西郷だなやっぱ。江戸で騒乱引き起こして薩長に不利な情勢を一気にひっくり返して戊辰戦争に持ち込んだ政略は凄い
さらに江戸の騒乱の時に江戸の警備担当者で結果的に責任取らされるハメになった庄内藩の連中に対して寛大な処置を施したのも懐が広くて立派だ
伊藤みたいな小心者だったら自分が死ぬまで虐め抜いてただろうな。暗殺されてザマァだわ NHKの番組で前にやってたけど
西郷と大村の組み合わせは
幕末の中でも、最強の組み合わせの1つだと
超体育会系の西郷的人間が
超理系の大村的人間を抱擁し、能力を発揮させ
軍(組織)を動かして行くっていう
今の組織にも通じると思った
大村的人間は人を扱う事ができない
また、扱うのも難しい
ただ、新しいイノベーションには必要な人物
>>21
その組み合わせをちょっと小さくしたのが大山(西郷従弟)と児玉(大村の孫弟子)かね
こっちは海江田みたいなのがいなくて良かったな >>18
寛大な処置に感謝するのは、おかしい。
御用盗は許せない(怒) >>14 15 16
肥後と幕府歩兵隊・紀州の洋式部隊を、ひとまとめにするのはどうですか?
肥後の議倒れというのも、ありますから意見を統一するのは大変でしたでしょう。 >>23
『大西郷全集』という史料を読めばわかることだが、西郷は薩邸浪士に「戦争にはならないから静かにしていろ。暴れるな」と命じているぞ。
むしろ関東尊攘派の相楽総三らの西郷の命令を無視しての暴走でしょw。 >>26
本当。
まぁ、正確には薩摩藩邸留守居役の吉井が、江戸薩摩藩邸伊牟田昇平と益滿休之助宛の書簡で命令を発している。
西クが吉井にそう命じただろうことは、『大西郷全集』に収録されている西クが国許へ宛てた書簡で、
江戸薩邸焼き討ち事件の第一報報告で、「鎮静にしているよう命じたはずだが、何が起こったのかわからない」と連呼し、
西ク自身が混乱しまくって慌てた様子が読み取れる。
この事は、『近世日本国民史』でも書かれていることだぞ。 ついでにいえば、同書簡で西クは、「徳川に先手を打たれた!くやしいぃぃっ!」
とかなんとか書いて、やったら悔しがっていますな。
きっと討幕戦を自分達から奇襲的にやろうと思っていたのに、先に江戸の薩摩藩邸を奇襲的に潰されてしまったと思ったのだろう。
西クが悔しがる姿は珍しいので必見ですよ。
アメリカは南北戦争でライフルで戦列歩兵やったおかげで
大損害出していたけど、長州や幕府が輸入した教本はライフルに
対応できていたの? >>29
長州には蘭学者の大村益次郎がいて、教本を翻訳配布した。
幕府にはフランスから来た教官がいて、実際に手取り足取り伝授した。 西郷も討幕をしない限り、重要なポストは得られない
そうした下級武士の欲望がご一新なんだよ
農地改革が行われるまでの農村の体制などを見てもそれがわかる
坂本龍馬モ武器商人ダッタシネ! >>31
西クも桂も重要ポスト狙ってねぇよw。そもそも彼らは漠然と大名議会制ぐらいしか考えてない。
大名議会制だから、西クは島津の殿様を桂は長州の殿様を介在して政府に参加する。
彼らに直接重要ポスト狙ったらと入れ智恵したのが龍馬でしょ。
わざわざ閣僚名簿まで作ってきてさ。 だったらなんで重要なポストに一時的とはいえありつけたのか
幕府温存のままじゃ雄藩の下級武士のままで終えるのはみえてたわけ!
討幕すりゃその手柄で良い地位をゲッツ!
んで結局討幕へと進んだのがご一新 どうも諸侯会議だけじゃ話が進みそうにないと見えてきた賢侯会議、だろw
最初は一番上の議定は公家と諸侯で、藩士は参与どまりだった。
御前会議にさえ出席することができなかった。
岩倉もなんとか公家で使える奴を発掘しようとしたけれど、
結局どうにもならず、下で実際に奔走してた徴士らがやるしかなかった。
形式的な儀式だろw名簿とかこしらえているけどねw
天皇すらお飾りなんだぜw歴史上お飾りの名目上の
人間なんて何人いたと思ってるんだよ。坂本龍馬は武器商人。 大名制会議は、まだ地方分権状態だったので
一時的に大名をなだめる制度に過ぎなかった
あれで、西郷らに野心がなかったと
裏付けにしているのか >>29
日本は平原が少ないので大軍が展開できるところが少ない。
戦列歩兵がとても難しい。
そしてそういうのは長州のスナイパー軍団からしたら的なんだよな。
4000人くらいだが、それだけの数が分かれて、尚且つ組織的に行動して、
みなが自律的に活動できる軍って実は驚異なんだよな。
そんな事を幕府軍がやったら、その場で脱走兵が出てくるだろう。 >>37
伏兵で銃撃、撤退してるところを銃撃しながら白兵戦 >>36
西郷はすぐに国に帰って藩政みてる
木戸は体調が悪くて辞めさせて辞めさせて辞めさせてでなけりゃ休ませてといってる
だいたい、最初のうちは諸侯がちゃんと政治参加してるぞ 形式だけじゃない
それでうまくまわらなかったってだけだろうが 史料嫁
そもそも野心だけで政権とって何とかなる時代状況じゃねえよ 視点が古臭いんだよ 大村益次郎ってなんであの時点で
西郷が暴発する可能性を読み取ってたんだろ
司馬の創作?
>>39
天皇と同じ、お飾りメンバーだよ。すでに実権は軍を握ってた薩長などを中心とする
人間の手に遭った。 >>41
違うよ。お飾りメンバーじゃないよw。史料読んでね。
春嶽なんてバリバリで働いてるじゃん。 ほかにもけっこう働いてる諸侯いるよな。
史料をちゃんと読めば、お飾りだったのとがんばってたのの区別はちゃんとつくw
最初からお飾りだったのは皇族ぐらいじゃね? あれは権威付けだから。
残念ながら、諸侯では徳川以外は一般への権威付けにはならんのよ。お飾りの意味なし。 諸侯でもほんの一握りが携われただけで、全く名前が挙がってなかった
薩長メンバーがかじ取りしていくけどなw重要なポストは いきなり下級武士の名前がずらずら載ってたら体裁悪いだろw
春獄のどこが重要なポストで薩長メンバーの様に中核を担い仕切ってたっていうんだw こういう馬鹿と話すの疲れるなあ…
じゃあ、幕政時代に、トップが実際の政務をやってた藩がどのくらいあるのよ?
もともと、有名な殿様には有能なブレーンと実務部隊がいるのよ。中級下級武士のね。
全国的な政治への移行にあたり、地方分権的な発想を排除していくためにも
そういうやり方じゃ立ち行かなくなって実力主義での登用。ブレーンや実務部隊が表に立つことに。
ただでさえ中央政府は新しいことやるには人材不足だったからな。幕臣だって登用。
下級武士がいきなり権力に目覚めてうんたらっていうのは
そう主張したいがために、表層を取り上げてぎゃいぎゃいいってるだけだろうが。
維新直後は、長州の木戸あたりはそうでもなさそうだが、
薩摩や土佐は諸侯会議=上院・一般士族その他=下院って発想だよね
ああ、木戸も立憲のこととからんで上院のための華族創設を構想したんだっけ
殿様たちをがんがん海外留学に送り込んでんのもその教育のためか 結局群を抑えているものが実権を握るようになっているんだよ
武士が力を伸ばしたのも結局軍事力を持ったの一言に尽きる
維新当時、軍事力を支配していたのが西郷などの下級武士
>>47
結局人脈がモノを言うのよ。春獄だって中核にはいなかったからね。
新政権の中心には薩長下級武士が牛耳ってたのは事実
幕府のまま存続されては、一生うだつの上がらない、結局家柄で
今後どうなるかわからん、だから倒幕に突き進んだだけ
坂本などは商人なんでね、新政権のほうが商売をやりやすいと踏んでたんだろうね
紀州藩ともいざこざ起こすわ本当に金に汚いなぁと思うね 平氏も結局軍事力で武士でありながら太政大臣まで上り詰めたようなもん
清盛の白川落胤は後付とみている
清盛の父が朝廷と深いつながりを持ち経済的な力もあるだろうが
決め手は軍事力だろう
軍事力を抑えているものが実権を握るようになってるんだよ 断片的に一方的に維新の人物は清廉潔白だったととらえるのもどうかと思うぞ
坂本は商人だし、実際下級武士が牛耳ってたし
俺様の様な見方もまた重要なわけなのよ 病死でなく家茂が長州に暗殺されたとしても、撤退したかな 小笠原が撤退を決めたのは家茂没の報告より前だったらしいから、
家茂が暗殺されても、もしくは死んでなくても小倉口は撤退してたのだろう 小笠原が上坂したのは、熊本藩引き揚げという事態にまで発展してどうにもならないから報告に行ったのだろ
別に撤退を決めたわけじゃない
>>13
幕府歩兵隊は2年前まで天狗党に負けてたレベルだよ。歴戦の諸隊を相手に飛躍的に進歩した
素直に褒めてやれよ 軍事力が決め手というより、薩長盟約にある通り、
瞬殺されなければあとは何とでも落としどころはあるという性格の戦争だな。
民主党の不信任決議みたいなもんだ。財政、経済要因のほうがはるかに大きい。 >>40
西郷と特定したわけではないだろ。ただし薩摩、土佐を警戒するのは当然
それだけ薩摩の軍事力はずば抜けている。その軍事力を掌握し得るのが西郷以下
警戒するのは国民皆兵制論者としては至極当然だろう >>7
>俺もこの話ずっと気になってたんだ。
>第一次のときは諸藩も幕府側についたのに、
>第二次はやる気の無い藩が多かったよね。
昔に観たNHK「さかのぼり日本史」では
さっき懲らしめたのに、なんで幕府はまた攻めるのだ?
・・・と諸藩のひんしゅくで足並みが揃わない
幕府の権威再興とばかりに意地になって攻める分だけ
長州側も意地になって抵抗
というのが理由と聞いた 番組を見たオレ的解釈では、
やらなくてもいい戦争で負けてしまい
むしろ融和的な国内統合の機会を逸した
と、聞こえた 1回目は禁門の変で朝敵になったという大義名分があったけど
2回目は度重なる財政負担が嫌悪されたのと大義名分が弱かった。 >>62
勝は敗戦処理させられるまでは長州征伐からは外されてたろ
ただ、勝が幕府海軍を指揮してしまったらもっと醜態を晒していたかもしれん 成功していたら慶応の改革はどうなっていたでしょうか? 成功するとしたら慶喜陣頭指揮、会津藩兵投入だろうけど戦争に突入した時点で失敗なのね。
関門海峡が人質になってるんだから
それと外国公使が関門海峡の戦闘を認めること
(現実には100%あり得ない。現に戦闘の最中に小笠原長行がパークスから抗議を受け、
幕府海軍の行動は停滞している。それでなくとも幕府海軍は艦の損傷を極度に嫌がってたけど)
慶喜が直率の兵を率いて前線に出て見張ってないと、諸藩どころか幕府軍ですら嫌がってそもそも戦闘にならない。 パークスが干渉してきても、打ちのめせ(怒)。
慶喜直卒はまだしも、会津は囮になればまだしも、役立たず >>68
木戸も、例の連合艦隊に降伏した時の条件の砲台撤去の緩和をパークスに打診して断られてるよw 高杉が倒れてから小倉口の長州藩兵は精彩を欠いていますので
あと少しはやく高杉が倒れていれば小倉口から上陸して普通に勝てたと思います 小倉口が敗れたのは軍事的要因とか高杉の先見の明と言うより、
単に幕臣(千人隊)、久留米、熊本、小倉が互いにまったく協力しようとせず、
小倉が長州の方面軍との前線で孤軍になってしまっていたのが1つ
制海権を取るべき幕府海軍も出動を露骨に嫌がってたのが1つ
そして第1次攻撃の後のパークスの海峡での戦闘中止の申し入れと小笠原の応諾が1つ
さらに関門海峡で戦闘が長期化した場合の京阪の幕軍の大軍の補給と、一般物価に与える影響が1つ
だから、まあ長州に高杉がいようがいまいがなかなか攻め込むのは難しかっただろう
やはりカギを握るのは慶喜出馬だね。慶喜が禁門の政変なみに断固として督戦していれば1個くらい口が押されて、
それをきっかけに講和して体面を保てるだろう、なんて思ってたのが間違いの元だった。 彦根と高田があまりにもあっさり負けたからだろ
圧勝とわかりきってたから第1次も第2次も諸藩が集まったわけだし
長州の軍事力=蛤御門と誰もが思ってたわけだ
話が違うってことで、戦意もなくなるわな
なぜ勝てなかったか?
長州が予想に反して強かったからだよ もじどおり、各参加藩が個別に撃破されたってとこでしょうね。 長州のミニエー銃と言っても、
実態はエンフィールド銃でしょう。
エンフィールド銃を標準装備した軍隊でなければ、
長州には勝てませんよ。
戊辰戦争の時に伝習隊はシャスポー銃を装備していたので、
弱かったのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83 >>76
そうですね。
慶喜が出陣しても手遅れでしたね。
せめて幕府歩兵隊、小倉、肥後が共同作戦を、とっていたら。
榎本がいたら艦隊射撃で多少なりとも、援護が出来たでしょう。
パークスが何か言ってくれば、内政干渉するなといえばよかった。 >>75
幕軍が三八式歩兵銃と九五式野砲を装備していれば勝っている。 まあ、数じゃなく質と士気の問題だろ
野砲までの装備は要らないが
一木支隊をガダルカナルに上陸させずに
山陰道に派遣しておけば楽勝だろ 下関戦争、蛤御門、高杉内紛って
長州は戦争慣れしてたのもある
それらの経過と結果を見つつ
大村がいろいろ補充、補正、軍制改革をした
少し過小評価しすぎたんだと思う 直弼が存命なら、どうなってたか分からないな
幕府の権威が失墜してる事が何よりの敗因だろう >>83
討たれていなければ、どうなったでしょうか。
井伊直弼が生きていれば、慶喜の将軍就任はあり得ないから
少なくとも史実は大きく変わっていただろう。
先ず大政奉還もないだろうし、恭順もないだろうな。
それ以前に、長州征伐に至る経緯も別物になっているだろう。
幕府の支配が続くか徳川が滅びるか、もっとメリハリの効いた歴史になっていたのでは無かろうか。 10万対2万五千
慶喜にやる気あれば長州は敗戦必至
第2次長州征伐は武器云々なんて問題ではありません >>85
井伊直弼が水戸浪士を撃退したら、長州征伐ならぬ水戸征伐がおこなわれ慶喜に先陣を、命令するでしょうな。
>>86
慶喜が指揮をとるなら、徳川茂承と交代ですね。 >>85
メリハリがある歴史になっていたでしょう。
そもそも幕府に統率力・士気あったら外圧に屈しないし
諸藩が付入る隙もないわけで長とも戦争にもならない 井伊直弼がいたとしても
陣頭の彦根藩が潰されて面目を失うと統制が乱れると思われ 良スレ発見
我が家の言い伝えによると四境の役の大島口の時に鉄然に賛同しスポンサーとなった数人の内の1人がご先祖様らしい
家系図見ると幕末前後に没者が居ないことから政府軍による制圧後に打ち首にはなってない
西郷は江戸に突出して行き詰った
それを打開し戊辰戦争を勝利に導いたのが大村
大村がいかに維新に決定的役割を果たしたかは靖国神社に銅像が建っていることでわかる 阿部正方が奥出雲で毒を盛られ出陣できず、大村益次郎にやられたから 薩摩の動きがよくわからん
薩摩は長州征伐の時になにをやっていたのか? 1.少し前に秘密裏に薩長同盟締結(秘密同盟であり幕府側はこの事実を少し後まで把握せず)
(これは後に小説家が夢想した対等の同盟ではなく、
・長州への武器供給の代わりに米を薩摩が受け取る
・長州の戦争に薩摩は関係しない
・長州の求めている朝敵認定解除に、薩摩は全力で取り組む
この程度のことしか決っていない。
要するに薩摩は長州を幕府疲弊のための鉄砲玉として利用し、長州が生き残るか否かは長州次第と突き放した格好)
2.尾張藩と協調し反出兵論を展開
(長州との問題は第一次長州出兵時に完全に解決しており、
これを蒸し返すのは総大将の尾張徳川慶勝及び停戦をまとめた総参謀西郷隆盛への侮辱である、とのこと)
3.反出兵論に従い割り振られていた西洋船を用いた萩上陸作戦を断り、出兵に参加せず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています