なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか3
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過去スレ
第二次長州征伐を語る
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1003537751/
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1302410387/
第二次長州征伐参加兵力:幕府軍
総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承
芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
(本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)
石州口(浜田藩、福山藩 約7千)
大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
(上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)
小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)
補足:
・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)
・旭日丸 (木造帆走船 500トン 幕府所有)
・翔鶴丸 (木造外輪汽船 350トン 幕府所有)
・八雲丸 (汽船 トン数不明 松江藩所有)
・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。
とりあえずこんなところでしょうか? 会津藩主は西郷頼母の忠言どおりにさっさと会津に帰り会津のために働くべきだったのに
増長して余計な火種ばかりをつくった
孝明天皇の威光をかさにやりたい放題をした
幕末で幕府が不利になる条件をほとんどこの会津藩主が作り出している
近代武器への無理解、長州藩への偏狭的な敵対心、諸藩主への横暴な態度などなど
身分制度への過度の固執、旧体制への偏狭な固執
だから、第二次長州征伐には数多くの藩が乗る気ではなく出兵拒否をした
更にこの戦争で幕府軍は薩摩に手の内を見抜かされた
鳥羽伏見の戦いでの惨敗もこの戦いと同様
数が多ければ勝てると言う安易な発想が元で敗北している
戊辰戦争でも会津戦争でも反省のない会津藩主はボロ負けを経験している
まず会津藩主には人を見る目がまるでなかった
しかし身分制度の弊害で藩の頂点に立ててしまったが故に周りの人々の忠言に耳を貸すということがなかった
その間違いに気がついたのは戊辰戦争後だから話にならない
会津戦争の采配を見てもわかる様に戦術と言うものがほとんどなかった >>132
戊辰戦争の戦功では薩長偏重で佐賀は干されているでしょ?
その後に土州なんかと組んで巻き返したけど。 >>132
尾張藩主には長州と戦わずに降伏・和睦をまとめたという功績があるのに
幕府側が尾張の和睦内容を一方的に破棄して再度攻め込み、
しかも次の責任者は紀州藩主となれば
先の尾張藩の功績は完全に丸潰れ。激怒も当然かと。 >>136
干されてたの?ま、巻き返せたならいんじゃね?w
大隈のように薩長が牛耳る藩閥の壁を乗り越えて総理大臣にまでなった人もいるし。
江藤だって最後は悲劇的だが、留守政府内で数々の実績を残している。
>>137
そういうことね。同意。 乗り越えたというより、同化することで出世したという感じか。 蛤御門の変で2000程の長州軍は2万の幕府連合軍相手に奮闘した
しかもあれは勝てないとわかって攻めた
幕府側は長州征伐の時は15万で攻め、鳥羽伏見の時は3倍の兵力の上、近代装備部隊だけで薩長軍上回ってたし
海軍力など圧倒的だったが、高杉さんに小船で夜襲食らいついで石炭舟に化けた船に砲撃され戦意喪失しちゃってるんだもん 鳥羽伏見の時は前装式ライフル銃で、最も優秀だったエンフィールド銃で薩長軍は武装して居ました。
伝習隊はシャスポー銃で武装して居ましたが、湿度の高い日本では、殆ど使えない銃でした。 中岡が書いてる。
天下は長州を強兵と云うが。風土人気を見れば、実に弱なり(土佐人から見てw)。
強兵と恐れるは食足リ、器械あり、隊長が優れているからしょ。
西郷の話として、会津を強と言う人居るけど、少しも恐ろしくない、謀主人物なき故也。
長州は実に恐る可し。謀主に豪物あり。故に事々非常に出ると。 高杉が倒れてから小倉口は小倉藩に翻弄されているしな >>1 あまりやる気のない昔風サムライ対藩の存亡をかけて必死の長州奇兵隊の戦争だったからだろう。 戦術指揮官の差が明暗を分けた。
井伊・榊原勢の戦いぶりも銃器の差もあるけど、それ以上に戦い方を失敗してるし。
幕府軍側でも戦術指揮官が洋式に慣れてる歩兵隊はそれなりに戦えてる。
まあ全く同じ構図で鳥羽・伏見でも幕府軍は惨敗したわけで・・・ 上級武士が指揮する保守的幕府側と世直し革命勢力の下級武士の差だろう。 だな。
薩長は主君が下級武士に権限を委任することで、縦横無尽の活躍ができた。
これも時代の流れという奴やな。 >>142
幕府陸軍の場合、小山から宇都宮城の戦い程度まではシャスポー銃を使っていたのではないでしょうか。
その後の今市の戦いで一気に火力を減じたように感じます。
その間の補給が会津藩からのものであり、会津藩が火器に劣っていたとされている点を考えると、
整備不良と交換部品・弾薬の欠乏でシャスポー銃は放棄されたのではないかと思います。 何で勝てなかったかと言われると、そもそも戦争する気がないのに、なぜか戦争になっちゃったので
長州の挙藩態勢も役には立ってるけど、それ以前に幕府の内部が早期停戦派と強硬派、現場と大坂に分かれてばらばらだもん
小倉口がその典型だけど、地元の小倉藩以外の応援部隊、熊本、久留米、千人隊、幕府艦隊がまったく抗戦意欲がない
小倉藩が何やってるんだと怒ると、熊本がますます機嫌を損ね、小笠原にもフォローができなくなる
そこに外国公使からも関門海峡での戦闘は自粛してくれと要請が入り、幕府艦隊は完全に引きこもりの傍観者に
せっつかれて熊本藩が前線に出た日だけは長州も苦戦したけど、熊本藩はその直後に引き上げちゃってほとんど役に立ってない >>135
完全なる勘違い。第2次の幕長戦争で最も寛大な条件を出したのは会津藩。
少なくとも江戸は藩主父子死罪を主張したのに会津が反対して減封に縮減された
慶喜もそこまで甘くない
会津がなぜ長州に対して寛大だったかと言えば
@西国諸藩の公論を熟知していたこと、Aさっさと片付けて国元に帰りたかったから 一言で言えば「世論」
長州藩が朝敵だとは名目だけで日本人の殆どは冤罪だと思ってた
だから京都でもテロリストのはずの長州びいきが多く、取り締まる警察であるところの会津が嫌われていた
これは会津視点の大河ドラマ八重の桜でも出てきた
当時日本では、長州はたとえ無謀でもイギリス他に対して攘夷を実行した男の中の男という高評価だった
世論を見誤り名ばかりの逆賊と言う理由で攻撃を加えようとしたのが愚かであった 幕軍とはいいつつ全諸藩が出兵してた訳でも無く周辺藩だけでしょ。
大阪の陣級に各藩から召集出来てれば勝てた。 そもそも長州一藩との戦争に諸藩の力をあてにしてるようじゃダメなんだけどな
足元を見られて出兵を渋られるのも無理はない 肝心の直参がソルジャー
でなく穀潰しに変わり果ててしまったから仕方無いw >>148
桂小五郎も高杉晋作も上士だっちゅーの! >>156
来島又兵衛も尼子経久の血を引く上士だしなあ 長州藩が勝ったのは簡単だ可能な限り孫子の兵法を体現しようとしたからだ
幕末の連中がやってたのはそれ
日露の時も可能な限りやったわけだ 会津藩の長沼流も、元は甲州流=武田信玄の兵法=孫子の兵法なんだがな 孫子曰わく、兵とは国の大事なり。
死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。
故にこれを経るに五事を以てし、これを校ぶるに計を以てして、其の状を索む。
一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。
道とは、民をして上と意を同うし、これと死すべくこれと生くべくして、危わざらしむるなり。
天とは、陰陽・寒暑・時制なり。地とは、遠近・険易・死生なり。将とは、智・信・仁・勇・厳なり。
法とは、曲制・官道・主用なり。
凡そ此の五者は、将は聞かざることなきも、これを知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。
故に、これを校ぶるにするに計を以てして、其の情を索む。
曰わく、主 孰れか賢なる、将 孰れか能なる、天地 孰れか得たる、法令 孰れか行なわる、兵衆 孰れか強き、士卒 孰れか練いたる、賞罰 孰れか明らかなると。
吾、これを以て勝負を知る。
将 吾が計を聴くときは、これを用うれば必ず勝つ、これを留めん。将 吾が計を聴かざるときは、これを用うれば、必ず敗る、これを去らん。
計、利として以て聴かるれば、乃ちこれが勢を為して、以て其の外を佐く。勢とは利に因りて権を制するなり。 機略家の高杉が得意だったのはこれだなw
兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、
遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し。
其の無備を攻め、その不意に出ず。此れ兵家の勝にして、先きには伝うべからざるなり。 >159
武人だから知ってたろうけど
実践できるとは別だろ
実際当時の幕府とかできんかったわけで よくわからないんだけど
長州は関門海峡を通る船舶を砲撃したり攘夷を唯一実行したというだけで
京都で勝手に個人的に暴れてた浪人は長州と関係ないのに
なんで長州の仕業にされているのでしょうか? >>163
無関係じゃ無くて、仲の良い友達的関係だったはずだ。
それは真木和泉守らが唱えた、尊皇運動には藩の力を利用すべしという基本方針による。
尊攘浪士は、こうした意見から長州藩をアテにし、長州藩は彼らを支援することで世論を味方につけた。
ただ、浪士はあくまでも浪士で長州藩の家臣では無いから命令権が無い。必ず長州の言う通りに動いてはくれないということさ。 ありがとうございます。納得しました。
天皇(&攘夷派公家)が長州を完全にコントロールできていたわけではないように
長州も浪人をコントロールできていたわけではないということですね。
真木保臣を調べてみたところ、この人も久留米藩を脱藩した浪人ですね。
浪人が活動する拠り所だからそれらを浪人を引っ括めて「長州」という扱いをしているわけですな。 >>163
雄藩の方針として尊王攘夷に転換できたのは薩摩、長州、土佐ぐらい
他は藩を動かすの難しかった
水戸なんかは内部分裂で脱落したし、薩摩が有力だったが寺田屋事件で頓挫
土佐は途中で勤王派粛清、長州が一番有力だった >>152
>当時日本では、長州はたとえ無謀でもイギリス他に対して攘夷を実行した男の中の男という高評価だった
と言う評価が民衆などにある一方で、「軍船ではなく商船まで砲撃するとはわが国の名折れである」
と言う正反対の感想もかなり見られたのは事実。ちなみに長州の領民も幕命による攘夷だと信じていた様子をアーネスト・サトウが記している。 >>164
しかし結果的に真木に引きずられて藩兵が上洛して御所を包囲して恐喝する事態を、
少なくとも久坂は許してるよね。政治的に使えると思って。
言い方は悪いけどアルカイダをかくまったタリバーンを「テロとは無関係」とは言えないでしょ。
たとえ同時多発テロ計画をよく知らなかったとしても。ましてや長州の場合は京への藩兵の進発を黙認しちゃってるわけだから。 >>169
局地戦たって長州征伐と鳥羽伏見と圧倒的大軍で負けた
あれも会議で慶喜擁護派優位な中
少数で京に上るならよいってのを無視し大軍で上洛し負けたわけで 長州征伐の教訓を生かしてないんだから、鳥羽伏見でも負けるよね
まして相手は長州だけでなく薩摩(主力)と土佐もいるし
鳥羽伏見は徳川連合VS雄藩連合(事実上の)じゃん
兵制改革しきれていない徳川連合に勝ち目はないよ >>150
熊本藩に長州藩の相手をさせて小倉藩とか他の藩は全く支援しなかったから、
熊本藩が切れて帰ったんだよ。
単独で高杉の奇兵隊の相手させられていた熊本藩はそりゃ切れる。
>>167
当時の商船は日本の生糸とか低価格で買いあさって、国内のインフレを招き。
だが外国からの安い綿製品などを流入してきて既存の産業が壊滅しか買っていたので、
商船もとても恨まれていた。
打ち払った事でむしろ喜ばれる存在。
そして攘夷は幕府と朝廷の命令だろ。 攘夷は幕府と朝廷の命
国内の統一世論だったわけですよ
今やスパイ説ある坂本wも幕府は売国奴じゃきぃ洗濯しそうろうとか激怒してるわけですよ 1825年の異国船無二念打払令って1842年廃止されていますが
長州の5月10日の攘夷決行は以下の流れのようですね。
1863年3月29日(2月11日)
後見職一橋慶喜、朝廷に将軍滞京10日、帰府後20日以内の攘夷期限を約束
http://bakumatu.727.net/kyou/3/032963-joikigen.htm
将軍歸府後、二十日の御宥免を蒙り、相違無く拒絶致させ候段、御受申上候。滞京之儀は十日限り 朝廷より仰せ出さるべき御都合之事
1863年4月21日(3月4日)
将軍徳川家茂、入京
http://bakumatu.727.net/kyou/4/042163-shogunjoraku.htm
1863年6月6日(4月20日)攘夷期限5月10日
攘夷期限の事、来五月十日相違なく拒絶決定仕り候間、奏聞及び候、猶列藩へも布告致すべく候事
http://bakumatu.727.net/kyou/6/060663-joikigen.htm 幕軍は大軍だったけど現地の藩兵しか戦ってないから勝てなかったんだな。
特に小倉、浜田方面は。 >>172
小倉藩はそれまで寡兵で長州を一手に引き受けて戦ってたから、多少はね? >>172
熊本藩の場合は不参加はやばいから前線にいちおう兵を引っ張って来ましたと言うだけの状態だからね。
幕府艦隊や千人隊も再三の要請にもまったく動かないし、
疑心暗鬼に陥った小倉藩とトラブったら逆切れして撤退
第2次長州征討は幕軍ですら「戦争にならないで終わる」と思ってたので近隣の譜代家門以外は戦意はゼロに等しい
それとなんだって?インフレの原因になるから民間船を砲撃していいって??
どんだけ愛国無罪な発想してんだよ。それこそが民衆暴動を裏で煽った清の官憲の発想だわ。 >>178
そもそも熊本藩に長州藩の相手を押し付けて、熊本藩を助けないから熊本藩がやっとられんと言って帰ったわけ。
海わたってくる長州の船を沈めてくれと熊本藩が幕府に頼んでも、
船を失うのが怖いのか全く長州の船には近づかない、それどころか長州のしょぼい軍船に追いかけ回れる始末。
熊本だけ必死に戦わされるのに幕府はなにもしないから幕府は熊本藩に見放されたんだよ。
元々熊本藩に長州と戦う理由なんてないのにな。
そして愛国無罪とかじゃなくて、商船そのものが民衆から恨まれていたって話。
商船だから攻撃すべきじゃないなんて理論は基本的にありえん。
そもそも日本に来ているのは商船ばかりだろうが。
商船攻撃ダメとかいう奴なんてそれこそ異端のキチガイ。 幕府艦隊は動いている、大島方面から攻めようとした。
大村は大島方面は無理と捨てようとしたが、高杉が小船で夜襲しかけ退却。
その後小倉でも艦砲射撃で渡ろうとしたが、これも奇襲受け戦意失った。
熊本藩は強かった分けで、それまで奇襲と退却繰り返し大軍を切り崩そうとしてた高杉が、一挙に勝負決めようと攻めたが守り堅く損害受けた。
毎晩夜襲仕掛けると見せかけ、追い払った。 関門海峡の封鎖は外国の圧力でできなかったんじゃなかったっけ? パークスから関門海峡を渡って下関に攻め込むのは勘弁してくれと暗に要請があったね。
その前から、艦の損耗を恐れて戦意の乏しかった幕府艦隊はまったく出撃しなくなった。
芸州口では退却する長州藩兵に艦砲射撃を加えて脅かした幕府艦隊が、奇襲程度で戦意を喪失することなんてあり得ない。
芸州は外国公使から「どこが非戦闘地域なのか」などと言われなかったし、艦の損耗を恐れる必要もないから適当にぶっ放して長州藩を苦しめてる。
>>179
その前に熊本藩が持ち場を守ると称して動かなかったのが小倉藩の疑念を買ってるんだよ。
愛国無罪だよ。民間船砲撃は諸藩の有志からあるまじき振る舞いとか、諸外国の侮りを受けると強く非難する者が多かった。
実際に長州のこの砲撃事件が伝わると、対日強硬派の議員たちが日本に対しては軍事力行使のほかなしと言う風潮に流れて、
それまで好意的だった米国や英国のメディアも日本軽侮の論調に転じていった。
底辺の野次馬町人レベルは知らないけど、まともな教養のある人間からは支持されてない。 まあ長州はこういう愛国無罪の底辺層を動員しなきゃいけないから、
軍艦よりはむしろ商船を砲撃する必要性があったんだよな。
もともと攘夷戦争は攘夷が目的で始めたわけではなく、単に藩内総動員体制の確立のために始めたので。
しかも攘夷の矛先はこの後、国内、特にライバルの薩摩にも向けられている。
文久3年12月に薩摩藩御用の長崎丸を砲撃沈没させる事件を起こし、速攻土下座したものの、
翌月に再び薩摩藩御雇商船の加徳丸を襲撃すると言う重ね重ねの不祥事を引き起こしている。
さらに、引き渡すべき襲撃犯の上関義勇隊士が「薩摩は外国と貿易してるぜ」と大坂で捨て札残して切腹した事件で薩摩は完全に面目が潰れ、
同年の禁門の変では最終段階で長州入京に熊本・久留米・土佐などとともに強硬論を唱えて会津に同調している。
長州の「攘夷」の対象は外国どころか、国内の商船にも向けられたから、諸藩の有志の支持が得られるわけもなかった。 長崎丸事件の場合も、長州は外国船と間違ったと主張したが、これもあやしい。
かりに間違えたなら、翌月に再び同じ事件を、しかも同じ藩の船舶に対して引き起こす理由がない。
薩摩は灯篭をちゃんと並べて見間違えないようにしておいたじゃないかと抗議しており、
現場の暴走の疑いが強い。
これが文久4年の1月2日。薩摩はすぐ糾問使を発しようとしたが、参預会議で一橋慶喜が薩摩を宥めてこの時は収まった。
しかし2月8日の評議では幕使中根の殺害とともに長崎丸砲撃の一件を長州に尋問することが決定されている。
どこが「国内の支持を受けていた」じゃ。 幕府艦隊は芸州口でも艦砲射撃で活躍しているじゃん?
対抗手段のない長州軍は海岸に手を着けられなくなった。 当時尊王攘夷は普通。
新撰組なども清川の非常の士論で尊王攘夷目的で上洛した。
幕府側と深くなったんでそっち側になっただけ。
破約攘夷が目的だったのである。
長州も朝廷幕府の了解取り付け実行したが、途中で外交方針変わった為ああなった。
禁門前の平野の神武必勝論とか見ても清が敗れた原因知ってるわけで。 >>181
関門海峡封鎖したら北前船が全部止まる。できるわけがない。
また当時の下関は多くの大名の札差商人の蔵屋敷があるから、
戦火に巻き込むのは長州幕府ともにできない。だから長州は防衛戦ではなくて、
難しい渡航攻撃をした。馬関戦争でも連合軍は城下町には砲撃できなかった。
>芸州は外国公使から「どこが非戦闘地域なのか」などと言われなかったし、艦の損耗を恐れる必要もないから適当にぶっ放して長州藩を苦しめてる。
幕府が欧米の犬だったのは事実だが、それは違う。
ただたんに長州の艦隊が下関に渡航護衛で移っていたので広島方面には長州の海軍がいなかったので動けただけ。
とても悲しい事実がそこにはある。そして関門では長州のしょぼい軍船に追い回される程度しかない。
>その前に熊本藩が持ち場を守ると称して動かなかったのが小倉藩の疑念を買ってるんだよ。
熊本藩の持ち場には長州の軍勢が押し寄せて来ているのに、また押し寄せてきていない時も、
押し寄せる可能性があるのに持ち場開けるとかねーよw
そして長州の奇兵隊の相手を熊本だけに押し付けて引きこもっていた連中が熊本藩の批判をする資格などない。 >愛国無罪だよ。民間船砲撃は諸藩の有志からあるまじき振る舞いとか、諸外国の侮りを受けると強く非難する者が多かった。
そんな奴いねーよ。いてもそいつは貿易利権で肥え太っていた幕府の閣僚のみ。
もしくはなにも知らない馬鹿だけだ。
>対日強硬派の議員たちが日本に対しては軍事力行使のほかなしと言う風潮に流れて、
だからもともとそういう事を目的に打ち払っているんだが?
夷狄を打ち払えというのが当時の日本人の基本的な考え。
そして英米の論調なんて元から軽視だよ。
>底辺の野次馬町人レベルは知らないけど、まともな教養のある人間からは支持されてない。
なら当時は孝明天皇以下教養のある人間は日本にはいませんなw
残りは利権で反対している連中だけだから。
なんで当時開港に反対運動が起こったのかお前は全く理解していない。 言うまでもないことだが、外国船に砲撃して反撃されるのが怖いよー。
っていうチキン藩のは民間船だから反対していたわけじゃないからな。
その違いくらいはわかっているだろうなw
>>186
そゆこと。当時において攘夷は当たり前。
外国船打ち払えってのも国民の多くが望んでいたもの。
>>184
当時は冬で、天候は雨で、時間は夜だぞ。ほぼ真っ暗だ。
街灯すらない時代の曇天の夜。船籍の区別なんぞつくわけがないだろ。
長州はレーダーでも持っていたのかw ID:XYF9/vfr0の主張のほうが筋が通っている。
ID:YJ6ZEiOF0は脳内ソース多すぎ。 開国したから植民地免れたって云々ってすり替えと日本史観点からだけで
世界史だと開国してどこも植民地なってるわけで
元々攘夷論から発したのが封建制の国内不一致による攘夷失敗内政問題優先なっただけ ??>>116
江戸幕府末期が舞台の、時代劇の漫画である
「明楽と孫蔵ー烈風隊編」
「天狗党の乱」がモデルだと思うが、北関東の宿場街を占拠した
100人にも満たない、尊皇攘夷ゲリラと、
1000人近い江戸幕府討伐軍が戦う。
平和ボケしていて、
なおかつ、脳筋バカな江戸幕府軍の指揮官は、
敵の尊皇攘夷DQNゲリラに、煽りみたいな感じで、ちょいとライフルを適当に数発撃たれただけで、キレる。
尊皇攘夷ゲリラに占拠された、
宿場内にいる、江戸幕府側スパイから
「敵が、狭い場所に引きづりこんでの攻撃すると言う罠を仕込んでいる」
との情報があるにも関わらず、
頭に血が上って全軍攻撃を開始してしまう。
で、「突撃じゃあ、突撃じゃあ〜!」と命令を出し
突っ込んだ江戸幕府軍は、狭い路地に誘い込まれて、
狙撃や、大砲の水平撃ちや、
崖をよじ登っていた幕府軍の側面攻撃部隊は、よじ登ったところを、即席地雷の攻撃で見事に死体の山を築いて、敗走させられるw 会津兵が長州征伐へ出陣したら、その隙に薩摩兵が御所を占拠するよ
実際に薩摩兵が京都へ押し出してきたじゃん
岡山・広島などの各藩も停戦を求める意見書を幕府に出してたし、
打ちこわしが起きるし、明らかに世論は長州征伐中止を求めていた >>198
あれ読むと、長州がいかに腹を据えて対幕戦に臨んだかわかるよね
武器購入と洋式訓練の徹底で自主的に動ける兵を育成、
それと同時に諸隊の再編と指揮系統の中央への一元化
暴れ馬みたいな諸隊を相手によくやったと思う
高杉が勝手に行ったと伝説化されてる大島への軍艦派遣も、
実際には高杉も山口にいて、指示を受けて三田尻から出航してるし
諸隊の統御にあたっては、徹底した「正義は我にあり」戦略も
効果が高かったろう
自国の農民にも他藩にも京都の民衆にも長州の正当性を訴えかけ
開戦も相手が手を出すのを、幕府特使に再伏罪拒否りつつ待つ徹底ぶり
国内にはぶれが少なく指令の納得度が高くなり士気も上がり、
相手陣営には「え?マジで戦やるの?もう済んだことじゃね?
長州詫びたやん?幕府横暴じゃね?」感を蔓延させ士気を下げさせた >>198
そうした状況で第二奇兵隊事件、倉敷浅尾騒動が起きたから山口政庁はびびった。
「やっぱり長州藩は野心があんじゃね?」「藩内で分裂すんじゃね?」「相手にすんのよそうぜ」。危険は幕府と広島で交渉していた長州使節団からも「とにかく藩の暴発だけはやめて。ぜ〜んぶひっくり返しだから」と言ったんだが。
原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する。 >>200
「ぜっったいこっちから手ェ出すな」と厳命してたのに暴発した連中がいた件だろ?
ありゃとっつかまえてやらかしたことに応じて処罰して浅野側にも詫び入れて
筋通した決着着けただろ?
だいたいこっちの正当性を明確にするためにも先に手を出すなって
言ってるのに聞く耳持たない連中の暴挙を、
「藩庁の原理主義のせいだ」と言われてもなー 諸隊にすれば広島の団交中に小倉藩が下関が入れば苦戦を強いられらる。海軍は幕府優位。諸隊の幹部に不満があるのは当然。
かつて高杉が蜂起した際には小倉から数万の征長軍が下関に入ろうとして、西郷が止めに回った。当時の諸隊は長府の日和見派を含めても750以下。しかも補給はうけられず完全に孤立無援。
なぶり殺しになる危険があった。勿論、高杉は絶対に自信はあったが万一失敗してもいざとなれば仲間を見棄てて上海へ逃げる腹はあったはず。 わけがわからない
小倉口は暴発してないだろうがw
叩きたいだけなのが見え見え >>203
かつて高杉がと書いたが。つまり第一次長州征伐のタイミングで起きた元治の内乱の話だが。 いや、それが最初の1行に関係あるかよ、ってのも含めてなんだが >>194
実際の指揮官の田沼は諸藩に対し幕府の権威を嵩に威張り腐っているだけで
自分自身は絶対に陣頭に立たない有様で諸藩だけでなく幕府歩兵達からも評判が悪かった。 >>205
第二次長州征伐は長州側が小倉の田ノ浦なんかに上陸、そのまま南下したが。
これは逆に小倉側から長州が攻められる危険があった。指揮官が方針をしっかり打ち出さなかったのが失敗だったが。
長州側にすれば「第一次長州征伐でもしかしたら死にかけたんだから、今回はこっちから攻めなきゃ」というのが諸隊にあったのが普通だろう。 >>205
連投になるが。
ここで話になっているのは多分、何故に諸隊は第二奇兵隊事件に喝采を送ったかだと思っていたが。つまりオタクの言う聞く耳持たない連中が諸隊の隊士に多かった理由を話していると思っていた。つねに諸隊の幹部は隊士に引きずられている。
まあ、多かったと言えば、少なかったと言う人も出てくるだろう。俺は山県が藩庁に対して「轡を噛ませるのも結構だがやり過ぎだ」って発言しているのに注目して多かったとしている。
違うなら返事は要らないので。
オタクの考え方は知らんが、第一次長州側は長州側が袋のネズミ状態にあった。しかも長府の諸隊は萩政庁と反目していたから孤立無援。幹部が高杉の挙兵に反対したのは当然だった。高杉が暴発すれば小倉側から攻められる。萩からも攻められる。絶対絶命。
こうした死線をくぐった諸隊はやるなら先制攻撃と考えるのが普通ではないだろうか。 天狗党の大量処刑を耳にした長州藩では
降伏しても虐殺されるだけなのが分かり、
藩論が拮抗していた恭順論と抗戦論は一挙に徹底抗戦に傾いた >>209
武備恭順派の形成条件はそうですね。【広島の国泰寺で永井尚志が宍戸たまきへ天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい】と発言しているあたりは、世間が幕府のやり口をどう見ているかを端的に示しています。 ああ、>>208は>>200じゃないんだよな?
じぶんはそっちの
>原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する
に反応してたんだ
諸隊が攻撃したくてたまらなかったのも、
幹部連中が隊士を御しきれずにいたのも、そりゃそうだと思うよ
しかし、藩中枢だって何も主義主張を玩んでいたわけじゃない
それまでの経験から、自分たちより大きな力に勝つためには
世論を味方につけるのがどんなに重要かを痛いほど学んでいた
身内の士気を上げ、庶民を協力的にするのはもちろんだが
従軍命令が出ている各藩が幕府の方針に懐疑的になり
士気が下がる、あわよくば長州に心を寄せるようになる
それは戦争だけでなく、戦後の最重要の目的のひとつである
藩侯父子の、ひいては長州藩の名誉回復にもつながる
暴発した連中の行為は、幕府への攻撃ですらなく
幕長交渉の舞台であり長州に好意的・同情的な安芸を
怒らせるに決まっている行為
自分等のやってることわかってんのかよってレベル
そりゃそこをわからせることができなかったのが悪いと言われりゃ
それまでだがね >>211
>>200も>>208も同じです。
確かにまったく同意。ただ、諸隊隊士に分かろうとさせたかは見方が別れるかも知れない。諸隊は軍隊であり、同時に思想集団としての勉強をさせていた。
中身は分からないが、その場合はよりラジカルな方向付けがされると推察する。60年代の過激派のイメージから連想するのだが。
共産ゲリラの分派はより急進的に進むという方式が、この場合も当てはまるのではないだろうか。その意味で「(月性を生んだ)周防は(吉田松陰を生んだ)長門より恵まれていない。利用されただけ」という言葉が連想される。 >天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい
こんなこと言ったって信用できるわけないだろ。六角獄でも大量虐殺されてるし。
殺りたきゃかかって来い!って腹を決めて迎え撃つしかなかった。 >>212
まあ諸隊はもとはといえば、ばらばらに成立した義勇軍だからね
戦争に参加する独自の理屈がそれぞれあったわけで
幹部連中集めて勉強会したり林半七や槇村なんかが駆けずり回って説諭したりしても
「総論賛成各論反対」の域を出るのは難しかったのは想像つくね
軍規が身についてる「武士」じゃないんだから
実際品川ヤジあたりだって、薩長の話し合いに同席させられ
薩長連携の最前線に投げ込まれるまでは思いっ切り跳ね返ってたわけで
理屈を戦わせるよりも、木戸の「粛然夜の如し」みたいなフレーズの方が
伝わりやすかったかもしれん
逸る気持ちはわかるが抑えろよ、と
最終的には暴発兵への厳罰でわからせることになっちまったが >>214
開戦前夜の山口藩庁と諸隊の構図、意識の差とすれば正しいと思う。勿論、長州側が戦意が高く団結していた。ただ藩庁と諸隊の間にズレはあった。当たり前だが。
これは藩庁というより封建家臣団と民兵のズレであり、下のレイヤーに行けば教育体制の違いに入る。民兵の側でも豪農豪商層とそれ以外の階層にズレはある。
ただ、そうしたネジレのエネルギーを対幕府に振り替えた藩庁の巧みな操縦に対する評価は好みにより異なりそうだが。 ねじれのエネルギーってのがどういうもんかはよくわからんな…
身分によっても個人によっても諸隊参加の動機は違ったのは当然として
自分は政治的意義という観点から見てしまうから
藩庁は雑多な諸隊を戦えるようまとめあげるの苦労したろうな、という見方になってしまう
「対幕府に振り替えたたくみな操縦」っていうけど、
諸隊の目的だって本質的には身分制の破壊ってより世直し&対外対幕危機打開だろ?
まあ食いっぱぐれてたから参加したってのもいたろうし
身分について考える者が出るのも当然だし、実際取り立てやら名字許すとかあったけど
一方で戦いが終わったらもとの身分に戻してくれっていう維新団みたいのもいたしね
あと、再編を始めてからは諸隊を増やすことを禁じているので
使える者はだまくらかしても使え的なやりかたをしてるわけじゃないし
諸隊の多くは暴発するだけの理由を持ってたかもしれないし
実際暴発に喝采を送ったかもしれないが
最終的にはちゃんと自重してるのがほとんどなわけで
情の部分では哀れとはおもうが、正直いってこの件とか脱退騒動とか
「やっちまったな〜武力を持っちゃうって怖いな」としか思えない 同和の奴の研究でだが、第二次征長のときに海岸警備に駆り出された被差別部落部隊の隊員のうち、
オラも馬関での戦いに参加するだ!って言って馬関に馳せ付けた奴が処罰されたって話があったな
まあ色々と士気は高かったんだろう
その研究だと差別によって処罰がどうたら〜とお決まりの文句が続いてたが、いくら戦に参加したいからって
部隊から無断で離脱したら、そりゃ差別とか関係無く誰でも処罰されるわなw 朝廷は長州討伐の勅を出しておきながら
長防解兵の勅宣を出したのはなぜでしょうか? 頭の度量のちがいだなw
慶喜最後は、江戸に逃げる。
毛利の殿さん、開き直りお前らに任せた。
毛利の殿さんが気がコマければ、松陰一派は粛清されていたことは
確か!
度量の差だろうなwww そうせい候は松下村塾の過激派に逆らって居たら、
暗殺されたか、良くても座敷牢に入れられただろう。
高杉晋作は殿様を引っ担いで上海に亡命する予定でしたよ。 村塾生で藩侯ぬっ殺してどうにかなると思うほどアタマぶっ飛んでたのいるんか
君側の姦を討つ、ぐらいがせいぜいだろwある意味美化しすぎw
高杉のは個人的に藩侯ダイスキっつーのもあるが、これも一種の玉の取り合いっしょ 松下村塾の過激派って・・・
長州の過激派って報国隊とかだよ
村塾生は逆に大攘夷だから
開国の仕方を模索しながら
倒幕のエネルギーとしての藩内過激攘夷派の利用
長州藩としては桂になんとかしてもらうっていう考え
高杉なんてその報国隊から攘夷の裏切り者って
命を狙われてたじゃん、伊藤も井上も
井上は実際に斬られたけど
あと殿さま一番のお気に入りが高杉で
ある種意図的に牢屋に入れたりして
命を救ってる感すらある 長州のほうは先込め銃でも伏射使う訓練をしていたようだね 広島大学教授の論文によると
「総合的にみれば西洋式装備では、質量ともに征長軍のほうが長州軍を上回っていた。
このことは、長州軍は、優れた西洋式平気によって勝利したとする通説は正確ではなく、
むしろ散兵戦術など西洋式戦法に習熟し、それを充分につかいこなした点に勝因があったといえる」
そうだ
https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2009/seika/jsps-1/15401/17520433seika.pdf >>225
総論としてはそのとおりだけど論文中では芸州口のみの話だろw
芸州口は幕府歩兵隊も紀州藩兵も最高の戦力が投入されてるし。
最初の彦根、高田の大崩れを除けば幕府軍は善戦してる。
しかし相当前から言われ続けてることを論文にしても科研費が出ることのほうが驚き。 >>226
むしろ人数はおろか装備でも上回った幕府軍がそれ以下の長州軍に負けたのが問題だろう 芸州口の人数って、長州1.000×幕府軍60.000ぐらいだったっけ?
他も似たような戦力比率だったけど
大島口は四国勢が受け持つ事になってたけど、どこも兵を出さず結局松山藩と少しだけの幕府軍の与力
山陰は浜田藩ぐらい
小倉口も熊本とか最初は参戦したが、結局小倉藩ぐらいしか戦わなかった
芸州口に関してはほぼ参戦してたんじゃなかったかな?
それであれだけの兵力差で善戦と言われたら、どんだけ幕府軍弱いねん
戊辰戦争も含めて、ほとんどの戦が幕府軍の方が多いのに負けてばかり
源平から南北朝まで、東西が戦えば東が勝つ事多かったのに
なぜ幕末は東が極端に弱かったのか? >>228戦力温存の徳川戦法が仇になり本隊が弱体化したとか
何より、同じ幕府軍でも首脳部は一会桑と徳川宗家の寄り合い所帯で指揮系統が一本化されなかったとか 実際幕府軍は滅茶苦茶弱いんだよ。
その上基本的には戦う気がない。
紀州藩の一部と幕府歩兵隊が突出して装備訓練が優良だったけど
それ以外はまさにごく潰し。実際幕府軍は兵站で苦労してるからな。
諸藩兵もそれなりの装備は持ってたけど使い方を全く理解してなかった。
それが>>225の指摘してる西洋式戦法に習熟してないってこと。
幕府で士分の連中に洋式訓練させようとしたけど馬鹿にして真面目にやらない。
諸藩でも同様で射程が伸びる洋式銃や大砲は装備しても洋式運用は出来てない。 >>230
トップ2人が参戦したが、主力は不参加でなかったかな >>232
慶喜と容保は長州に行ったの? 戦中はずっと滞京してると思ってたわ >>233
黒谷本陣には公用人の手代木が全権を握って留守居役だった
元々征長総督は慶喜がなるはずだったから、実質的には慶喜と陸軍総裁の容保が全軍の指揮を取ってた >>234
第二次征長の時の陸軍総裁って容保だったかな?
実績、能力、人望ない容保が幕府全軍の指揮しても幕府軍は従うと思えんのだが。
禁門の時でも熱出して寝込んでたほどの臆病な容保がわざわざ長州に行くのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています