なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか3
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
過去スレ
第二次長州征伐を語る
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1003537751/
なぜ第2次長州征伐で幕府軍は勝てなかったのか2
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history2/1302410387/
第二次長州征伐参加兵力:幕府軍
総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承
芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
(本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)
石州口(浜田藩、福山藩 約7千)
大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
(上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)
小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)
補足:
・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)
・旭日丸 (木造帆走船 500トン 幕府所有)
・翔鶴丸 (木造外輪汽船 350トン 幕府所有)
・八雲丸 (汽船 トン数不明 松江藩所有)
・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。
とりあえずこんなところでしょうか? 当時尊王攘夷は普通。
新撰組なども清川の非常の士論で尊王攘夷目的で上洛した。
幕府側と深くなったんでそっち側になっただけ。
破約攘夷が目的だったのである。
長州も朝廷幕府の了解取り付け実行したが、途中で外交方針変わった為ああなった。
禁門前の平野の神武必勝論とか見ても清が敗れた原因知ってるわけで。 >>181
関門海峡封鎖したら北前船が全部止まる。できるわけがない。
また当時の下関は多くの大名の札差商人の蔵屋敷があるから、
戦火に巻き込むのは長州幕府ともにできない。だから長州は防衛戦ではなくて、
難しい渡航攻撃をした。馬関戦争でも連合軍は城下町には砲撃できなかった。
>芸州は外国公使から「どこが非戦闘地域なのか」などと言われなかったし、艦の損耗を恐れる必要もないから適当にぶっ放して長州藩を苦しめてる。
幕府が欧米の犬だったのは事実だが、それは違う。
ただたんに長州の艦隊が下関に渡航護衛で移っていたので広島方面には長州の海軍がいなかったので動けただけ。
とても悲しい事実がそこにはある。そして関門では長州のしょぼい軍船に追い回される程度しかない。
>その前に熊本藩が持ち場を守ると称して動かなかったのが小倉藩の疑念を買ってるんだよ。
熊本藩の持ち場には長州の軍勢が押し寄せて来ているのに、また押し寄せてきていない時も、
押し寄せる可能性があるのに持ち場開けるとかねーよw
そして長州の奇兵隊の相手を熊本だけに押し付けて引きこもっていた連中が熊本藩の批判をする資格などない。 >愛国無罪だよ。民間船砲撃は諸藩の有志からあるまじき振る舞いとか、諸外国の侮りを受けると強く非難する者が多かった。
そんな奴いねーよ。いてもそいつは貿易利権で肥え太っていた幕府の閣僚のみ。
もしくはなにも知らない馬鹿だけだ。
>対日強硬派の議員たちが日本に対しては軍事力行使のほかなしと言う風潮に流れて、
だからもともとそういう事を目的に打ち払っているんだが?
夷狄を打ち払えというのが当時の日本人の基本的な考え。
そして英米の論調なんて元から軽視だよ。
>底辺の野次馬町人レベルは知らないけど、まともな教養のある人間からは支持されてない。
なら当時は孝明天皇以下教養のある人間は日本にはいませんなw
残りは利権で反対している連中だけだから。
なんで当時開港に反対運動が起こったのかお前は全く理解していない。 言うまでもないことだが、外国船に砲撃して反撃されるのが怖いよー。
っていうチキン藩のは民間船だから反対していたわけじゃないからな。
その違いくらいはわかっているだろうなw
>>186
そゆこと。当時において攘夷は当たり前。
外国船打ち払えってのも国民の多くが望んでいたもの。
>>184
当時は冬で、天候は雨で、時間は夜だぞ。ほぼ真っ暗だ。
街灯すらない時代の曇天の夜。船籍の区別なんぞつくわけがないだろ。
長州はレーダーでも持っていたのかw ID:XYF9/vfr0の主張のほうが筋が通っている。
ID:YJ6ZEiOF0は脳内ソース多すぎ。 開国したから植民地免れたって云々ってすり替えと日本史観点からだけで
世界史だと開国してどこも植民地なってるわけで
元々攘夷論から発したのが封建制の国内不一致による攘夷失敗内政問題優先なっただけ ??>>116
江戸幕府末期が舞台の、時代劇の漫画である
「明楽と孫蔵ー烈風隊編」
「天狗党の乱」がモデルだと思うが、北関東の宿場街を占拠した
100人にも満たない、尊皇攘夷ゲリラと、
1000人近い江戸幕府討伐軍が戦う。
平和ボケしていて、
なおかつ、脳筋バカな江戸幕府軍の指揮官は、
敵の尊皇攘夷DQNゲリラに、煽りみたいな感じで、ちょいとライフルを適当に数発撃たれただけで、キレる。
尊皇攘夷ゲリラに占拠された、
宿場内にいる、江戸幕府側スパイから
「敵が、狭い場所に引きづりこんでの攻撃すると言う罠を仕込んでいる」
との情報があるにも関わらず、
頭に血が上って全軍攻撃を開始してしまう。
で、「突撃じゃあ、突撃じゃあ〜!」と命令を出し
突っ込んだ江戸幕府軍は、狭い路地に誘い込まれて、
狙撃や、大砲の水平撃ちや、
崖をよじ登っていた幕府軍の側面攻撃部隊は、よじ登ったところを、即席地雷の攻撃で見事に死体の山を築いて、敗走させられるw 会津兵が長州征伐へ出陣したら、その隙に薩摩兵が御所を占拠するよ
実際に薩摩兵が京都へ押し出してきたじゃん
岡山・広島などの各藩も停戦を求める意見書を幕府に出してたし、
打ちこわしが起きるし、明らかに世論は長州征伐中止を求めていた >>198
あれ読むと、長州がいかに腹を据えて対幕戦に臨んだかわかるよね
武器購入と洋式訓練の徹底で自主的に動ける兵を育成、
それと同時に諸隊の再編と指揮系統の中央への一元化
暴れ馬みたいな諸隊を相手によくやったと思う
高杉が勝手に行ったと伝説化されてる大島への軍艦派遣も、
実際には高杉も山口にいて、指示を受けて三田尻から出航してるし
諸隊の統御にあたっては、徹底した「正義は我にあり」戦略も
効果が高かったろう
自国の農民にも他藩にも京都の民衆にも長州の正当性を訴えかけ
開戦も相手が手を出すのを、幕府特使に再伏罪拒否りつつ待つ徹底ぶり
国内にはぶれが少なく指令の納得度が高くなり士気も上がり、
相手陣営には「え?マジで戦やるの?もう済んだことじゃね?
長州詫びたやん?幕府横暴じゃね?」感を蔓延させ士気を下げさせた >>198
そうした状況で第二奇兵隊事件、倉敷浅尾騒動が起きたから山口政庁はびびった。
「やっぱり長州藩は野心があんじゃね?」「藩内で分裂すんじゃね?」「相手にすんのよそうぜ」。危険は幕府と広島で交渉していた長州使節団からも「とにかく藩の暴発だけはやめて。ぜ〜んぶひっくり返しだから」と言ったんだが。
原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する。 >>200
「ぜっったいこっちから手ェ出すな」と厳命してたのに暴発した連中がいた件だろ?
ありゃとっつかまえてやらかしたことに応じて処罰して浅野側にも詫び入れて
筋通した決着着けただろ?
だいたいこっちの正当性を明確にするためにも先に手を出すなって
言ってるのに聞く耳持たない連中の暴挙を、
「藩庁の原理主義のせいだ」と言われてもなー 諸隊にすれば広島の団交中に小倉藩が下関が入れば苦戦を強いられらる。海軍は幕府優位。諸隊の幹部に不満があるのは当然。
かつて高杉が蜂起した際には小倉から数万の征長軍が下関に入ろうとして、西郷が止めに回った。当時の諸隊は長府の日和見派を含めても750以下。しかも補給はうけられず完全に孤立無援。
なぶり殺しになる危険があった。勿論、高杉は絶対に自信はあったが万一失敗してもいざとなれば仲間を見棄てて上海へ逃げる腹はあったはず。 わけがわからない
小倉口は暴発してないだろうがw
叩きたいだけなのが見え見え >>203
かつて高杉がと書いたが。つまり第一次長州征伐のタイミングで起きた元治の内乱の話だが。 いや、それが最初の1行に関係あるかよ、ってのも含めてなんだが >>194
実際の指揮官の田沼は諸藩に対し幕府の権威を嵩に威張り腐っているだけで
自分自身は絶対に陣頭に立たない有様で諸藩だけでなく幕府歩兵達からも評判が悪かった。 >>205
第二次長州征伐は長州側が小倉の田ノ浦なんかに上陸、そのまま南下したが。
これは逆に小倉側から長州が攻められる危険があった。指揮官が方針をしっかり打ち出さなかったのが失敗だったが。
長州側にすれば「第一次長州征伐でもしかしたら死にかけたんだから、今回はこっちから攻めなきゃ」というのが諸隊にあったのが普通だろう。 >>205
連投になるが。
ここで話になっているのは多分、何故に諸隊は第二奇兵隊事件に喝采を送ったかだと思っていたが。つまりオタクの言う聞く耳持たない連中が諸隊の隊士に多かった理由を話していると思っていた。つねに諸隊の幹部は隊士に引きずられている。
まあ、多かったと言えば、少なかったと言う人も出てくるだろう。俺は山県が藩庁に対して「轡を噛ませるのも結構だがやり過ぎだ」って発言しているのに注目して多かったとしている。
違うなら返事は要らないので。
オタクの考え方は知らんが、第一次長州側は長州側が袋のネズミ状態にあった。しかも長府の諸隊は萩政庁と反目していたから孤立無援。幹部が高杉の挙兵に反対したのは当然だった。高杉が暴発すれば小倉側から攻められる。萩からも攻められる。絶対絶命。
こうした死線をくぐった諸隊はやるなら先制攻撃と考えるのが普通ではないだろうか。 天狗党の大量処刑を耳にした長州藩では
降伏しても虐殺されるだけなのが分かり、
藩論が拮抗していた恭順論と抗戦論は一挙に徹底抗戦に傾いた >>209
武備恭順派の形成条件はそうですね。【広島の国泰寺で永井尚志が宍戸たまきへ天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい】と発言しているあたりは、世間が幕府のやり口をどう見ているかを端的に示しています。 ああ、>>208は>>200じゃないんだよな?
じぶんはそっちの
>原理主義を火遊びに使うから、過激派が暴発する
に反応してたんだ
諸隊が攻撃したくてたまらなかったのも、
幹部連中が隊士を御しきれずにいたのも、そりゃそうだと思うよ
しかし、藩中枢だって何も主義主張を玩んでいたわけじゃない
それまでの経験から、自分たちより大きな力に勝つためには
世論を味方につけるのがどんなに重要かを痛いほど学んでいた
身内の士気を上げ、庶民を協力的にするのはもちろんだが
従軍命令が出ている各藩が幕府の方針に懐疑的になり
士気が下がる、あわよくば長州に心を寄せるようになる
それは戦争だけでなく、戦後の最重要の目的のひとつである
藩侯父子の、ひいては長州藩の名誉回復にもつながる
暴発した連中の行為は、幕府への攻撃ですらなく
幕長交渉の舞台であり長州に好意的・同情的な安芸を
怒らせるに決まっている行為
自分等のやってることわかってんのかよってレベル
そりゃそこをわからせることができなかったのが悪いと言われりゃ
それまでだがね >>211
>>200も>>208も同じです。
確かにまったく同意。ただ、諸隊隊士に分かろうとさせたかは見方が別れるかも知れない。諸隊は軍隊であり、同時に思想集団としての勉強をさせていた。
中身は分からないが、その場合はよりラジカルな方向付けがされると推察する。60年代の過激派のイメージから連想するのだが。
共産ゲリラの分派はより急進的に進むという方式が、この場合も当てはまるのではないだろうか。その意味で「(月性を生んだ)周防は(吉田松陰を生んだ)長門より恵まれていない。利用されただけ」という言葉が連想される。 >天狗党みたいに降伏させて騙し討ちみたいにはしないから安心して欲しい
こんなこと言ったって信用できるわけないだろ。六角獄でも大量虐殺されてるし。
殺りたきゃかかって来い!って腹を決めて迎え撃つしかなかった。 >>212
まあ諸隊はもとはといえば、ばらばらに成立した義勇軍だからね
戦争に参加する独自の理屈がそれぞれあったわけで
幹部連中集めて勉強会したり林半七や槇村なんかが駆けずり回って説諭したりしても
「総論賛成各論反対」の域を出るのは難しかったのは想像つくね
軍規が身についてる「武士」じゃないんだから
実際品川ヤジあたりだって、薩長の話し合いに同席させられ
薩長連携の最前線に投げ込まれるまでは思いっ切り跳ね返ってたわけで
理屈を戦わせるよりも、木戸の「粛然夜の如し」みたいなフレーズの方が
伝わりやすかったかもしれん
逸る気持ちはわかるが抑えろよ、と
最終的には暴発兵への厳罰でわからせることになっちまったが >>214
開戦前夜の山口藩庁と諸隊の構図、意識の差とすれば正しいと思う。勿論、長州側が戦意が高く団結していた。ただ藩庁と諸隊の間にズレはあった。当たり前だが。
これは藩庁というより封建家臣団と民兵のズレであり、下のレイヤーに行けば教育体制の違いに入る。民兵の側でも豪農豪商層とそれ以外の階層にズレはある。
ただ、そうしたネジレのエネルギーを対幕府に振り替えた藩庁の巧みな操縦に対する評価は好みにより異なりそうだが。 ねじれのエネルギーってのがどういうもんかはよくわからんな…
身分によっても個人によっても諸隊参加の動機は違ったのは当然として
自分は政治的意義という観点から見てしまうから
藩庁は雑多な諸隊を戦えるようまとめあげるの苦労したろうな、という見方になってしまう
「対幕府に振り替えたたくみな操縦」っていうけど、
諸隊の目的だって本質的には身分制の破壊ってより世直し&対外対幕危機打開だろ?
まあ食いっぱぐれてたから参加したってのもいたろうし
身分について考える者が出るのも当然だし、実際取り立てやら名字許すとかあったけど
一方で戦いが終わったらもとの身分に戻してくれっていう維新団みたいのもいたしね
あと、再編を始めてからは諸隊を増やすことを禁じているので
使える者はだまくらかしても使え的なやりかたをしてるわけじゃないし
諸隊の多くは暴発するだけの理由を持ってたかもしれないし
実際暴発に喝采を送ったかもしれないが
最終的にはちゃんと自重してるのがほとんどなわけで
情の部分では哀れとはおもうが、正直いってこの件とか脱退騒動とか
「やっちまったな〜武力を持っちゃうって怖いな」としか思えない 同和の奴の研究でだが、第二次征長のときに海岸警備に駆り出された被差別部落部隊の隊員のうち、
オラも馬関での戦いに参加するだ!って言って馬関に馳せ付けた奴が処罰されたって話があったな
まあ色々と士気は高かったんだろう
その研究だと差別によって処罰がどうたら〜とお決まりの文句が続いてたが、いくら戦に参加したいからって
部隊から無断で離脱したら、そりゃ差別とか関係無く誰でも処罰されるわなw 朝廷は長州討伐の勅を出しておきながら
長防解兵の勅宣を出したのはなぜでしょうか? 頭の度量のちがいだなw
慶喜最後は、江戸に逃げる。
毛利の殿さん、開き直りお前らに任せた。
毛利の殿さんが気がコマければ、松陰一派は粛清されていたことは
確か!
度量の差だろうなwww そうせい候は松下村塾の過激派に逆らって居たら、
暗殺されたか、良くても座敷牢に入れられただろう。
高杉晋作は殿様を引っ担いで上海に亡命する予定でしたよ。 村塾生で藩侯ぬっ殺してどうにかなると思うほどアタマぶっ飛んでたのいるんか
君側の姦を討つ、ぐらいがせいぜいだろwある意味美化しすぎw
高杉のは個人的に藩侯ダイスキっつーのもあるが、これも一種の玉の取り合いっしょ 松下村塾の過激派って・・・
長州の過激派って報国隊とかだよ
村塾生は逆に大攘夷だから
開国の仕方を模索しながら
倒幕のエネルギーとしての藩内過激攘夷派の利用
長州藩としては桂になんとかしてもらうっていう考え
高杉なんてその報国隊から攘夷の裏切り者って
命を狙われてたじゃん、伊藤も井上も
井上は実際に斬られたけど
あと殿さま一番のお気に入りが高杉で
ある種意図的に牢屋に入れたりして
命を救ってる感すらある 長州のほうは先込め銃でも伏射使う訓練をしていたようだね 広島大学教授の論文によると
「総合的にみれば西洋式装備では、質量ともに征長軍のほうが長州軍を上回っていた。
このことは、長州軍は、優れた西洋式平気によって勝利したとする通説は正確ではなく、
むしろ散兵戦術など西洋式戦法に習熟し、それを充分につかいこなした点に勝因があったといえる」
そうだ
https://kaken.nii.ac.jp/pdf/2009/seika/jsps-1/15401/17520433seika.pdf >>225
総論としてはそのとおりだけど論文中では芸州口のみの話だろw
芸州口は幕府歩兵隊も紀州藩兵も最高の戦力が投入されてるし。
最初の彦根、高田の大崩れを除けば幕府軍は善戦してる。
しかし相当前から言われ続けてることを論文にしても科研費が出ることのほうが驚き。 >>226
むしろ人数はおろか装備でも上回った幕府軍がそれ以下の長州軍に負けたのが問題だろう 芸州口の人数って、長州1.000×幕府軍60.000ぐらいだったっけ?
他も似たような戦力比率だったけど
大島口は四国勢が受け持つ事になってたけど、どこも兵を出さず結局松山藩と少しだけの幕府軍の与力
山陰は浜田藩ぐらい
小倉口も熊本とか最初は参戦したが、結局小倉藩ぐらいしか戦わなかった
芸州口に関してはほぼ参戦してたんじゃなかったかな?
それであれだけの兵力差で善戦と言われたら、どんだけ幕府軍弱いねん
戊辰戦争も含めて、ほとんどの戦が幕府軍の方が多いのに負けてばかり
源平から南北朝まで、東西が戦えば東が勝つ事多かったのに
なぜ幕末は東が極端に弱かったのか? >>228戦力温存の徳川戦法が仇になり本隊が弱体化したとか
何より、同じ幕府軍でも首脳部は一会桑と徳川宗家の寄り合い所帯で指揮系統が一本化されなかったとか 実際幕府軍は滅茶苦茶弱いんだよ。
その上基本的には戦う気がない。
紀州藩の一部と幕府歩兵隊が突出して装備訓練が優良だったけど
それ以外はまさにごく潰し。実際幕府軍は兵站で苦労してるからな。
諸藩兵もそれなりの装備は持ってたけど使い方を全く理解してなかった。
それが>>225の指摘してる西洋式戦法に習熟してないってこと。
幕府で士分の連中に洋式訓練させようとしたけど馬鹿にして真面目にやらない。
諸藩でも同様で射程が伸びる洋式銃や大砲は装備しても洋式運用は出来てない。 >>230
トップ2人が参戦したが、主力は不参加でなかったかな >>232
慶喜と容保は長州に行ったの? 戦中はずっと滞京してると思ってたわ >>233
黒谷本陣には公用人の手代木が全権を握って留守居役だった
元々征長総督は慶喜がなるはずだったから、実質的には慶喜と陸軍総裁の容保が全軍の指揮を取ってた >>234
第二次征長の時の陸軍総裁って容保だったかな?
実績、能力、人望ない容保が幕府全軍の指揮しても幕府軍は従うと思えんのだが。
禁門の時でも熱出して寝込んでたほどの臆病な容保がわざわざ長州に行くのかな? >>235
第一次征長の時も熱だして辞任しかけたくらいだから 本来は戦力外通告の筈なんだが、永年関係が悪化してきた幕府との関係改善の為のパフォーマンスに駆り出されたんでないかな
征長以外にも慶喜や容保は天狗党征伐にも駆り出されてたし >>235-236
佐幕で、幕府に従う純朴さがあり、藩士が精強で、国持大名クラスの藩と言えば、
会津・庄内・米沢ぐらいしかなかったということだろ。会津松平氏・酒井氏・
上杉氏から選ぶとなると、やはり御家門の会津藩だろうな >>237
そもそも一会桑は佐幕派ではなく水戸系攘夷派だぜ?
【容保は元南紀派だからいるのがおかしいんだが】
純朴って言うより
桜田門でパトロンの井伊直弼が死んだから一橋派に転向しただけだし >>238
オツムの中が混乱しているな
慶喜はもちろん一橋派の旗頭で井伊直弼に謹慎食らっているが
その後は将軍家後見役になっているんだから、
攘夷から佐幕に立場が変わっているんだよ 幕府軍側、各藩も一枚岩じゃないからね
当然各藩にも攘夷思考の人達もいて、それらは長州征討に消極的だし
あと、幕府と長州の揉め事に兵を出して
トバッチリを受けたくないって考えの人も多かった
それを統率するほどの統率力が幕府にはなかった >>239
そもそも幕府軍が挙兵上洛した際 一会桑とにらみ合いになってるし
慶喜に至っては幕府の如何なる要職にもついてないよ?
将軍後見職も辞任して 禁裏総督になったし >>235
第二次征長の時の陸軍総裁職(名称変更して軍事総裁職)は容保じゃない
当時の幕府は容保なんて信用してないから、幕府全軍の指揮なんてありえない >>241
>慶喜に至っては幕府の如何なる要職にもついてないよ?
将軍後見職は幕府の正式な役職だが、何を言っているのか?
>将軍後見職も辞任して 禁裏総督になったし
幕府との軋轢で後見職を辞任したと思っているらしいが
横浜鎖港を巡って薩摩の久光と対立して、賢侯会議の実態を解消するために
やったのであって、幕府は関係ない。幕府の島津嫌いは言うまでもない
かなり幕末史を曲解しているようだが、
「一会桑政権」という言葉にとらわれ過ぎじゃないか?
慶喜が江戸の老中会議から半ば独立していたのは事実だが
慶喜は幕府を支えるために奮闘していたのであって
江戸の老中も慶喜と対立するほどバカじゃない >>243
江戸の老中も慶喜と対立するほどバカじゃない
↑元冶二年(一八六五)2月 本庄阿部の2人の老中が京都の進駐と一会桑解体の為に武装上洛してる
こうなったのは、兵庫開港を巡って 孝明天皇と将軍家茂が対立したからだしな
まあ慶喜が必ずしも朝廷サイドではないのは開港不認可と条約勅許で2人の中を取り持ったのでそれは分かる
そもそも一会桑というより、会津が突如幕府に強行姿勢を取ったのは孝明天皇に取り入ってた容保の公用人 手代木直右衛門の差し金で その後幕府と緊張状態に陥るや 再び佐幕派に戻ってる 弾の飛距離が2倍も違うんだから幕府が負けて当然だろう それは決定的な差じゃない。
分隊で散って遮蔽物を利用して接近すりゃいい。
夜襲なら射程はさほど気にしなくていい。
やり様はあるんだけど、まともな訓練受けてない兵では無理ということ。 普通の部隊が散兵なんてやると逃げるばかりで使いものにならない
遠征で士気が上がらない状況ならなおさら >>228
長州領に一歩も踏み込めなかったが、広島までは陥落せずに持ちこたえた。
(石州口も小倉口も全軍崩壊していたしw)
これで善戦扱いされるのは確かにおかしいが、他の方面が酷すぎるからな。
>>247
兵士の錬度と士気が大事って事だな。
士気は郷土防衛戦争として国内の世論を統一し、家々に長州がいかに正義かとといたものを配布。
宣伝やプロパガンダを徹底してやった。
それによって逃げないで、訓練をする兵士を得た。
ここまでの事をやっていたのがかなりスゴイんだよな。 長州は戊辰戦争終了後、国の要請で浜田や小倉の占領地を放棄させられたが
これに伴いリストラを断行して諸隊(5000余人)がすべて廃止された
そのうち身分の高い(士卒)2000人は御親兵として再雇用されたが
義勇兵として活躍した農家の次男三男の多くは補償なしで雇い止めとなった
不満を持つ1200人が蜂起すると木戸孝允が自らやってきて長州正規兵800人で鎮圧している
いくら練度の高い兵たちでも補給がなく、優秀な指揮官も不在では弱兵になってしまう /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ
/:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::://ヽ:::::::::::::::|
l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::// ヽ::::::::::::::l
l:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/:::「'ヽ:::::::::::// ヽ:::::::::::|
|::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ノl:::ノ l:::::::/ ヽ::::::::|
ノ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ゙゙ ノ:::/ ,,;;;;;;,, ,,,,ヽ:::::l
):::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ ノ/ ,'''i: ('''__):::l
)::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ <●> ン:..<●>ヾ
1:::::::::::::::::::::::「 `┤l:::::::::::::::::l  ̄ , ヽ ̄ l
`l:::::::::::::::::::::ヽ :l li:::::::::::::/ ヽ /´ `l | ハァ・・・・ ハァ・・・・ ハァ・・・・ ハァ・・・・
ヽ::::::::::::::::::::::\_」 lヽ::::/ .l !:-●,__ ノ /
ノ:::::::::::::::::::::::::::ノ | l `゙゙ i ,,;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;, /ヽ ハァ・・・・ハァ・・・・ハァ・・・・ハァ・・・・
,/ ヽ::::::::::::::::::::::( l l::::::::.. /.:''/´ ̄_ソ / `ヽ
ヽ:::::::::::::::ヽ | l:::::::::::... /::// ̄ ̄_ソ / \
ヽ:::::::\| l::::::::::::::::... / :::.ゝ` ̄ ̄/ / ヽ
ヽ:::l l:::::::::::::::::::..  ̄ ̄;;'' / ヽ
l l;;;;;;:::::::::::::::.....;;;;............;;;;;;''ノ l
l l '''''''''''''''''''''''''''''''''''''' ̄l | |
http://www.youtube.com/watch?v=z2qK2lhk9O0 負け犬白虎隊w
勝手に負けたと思い込んでバカみたいに自決しまくった白虎隊w
まさに哀れな負け犬白虎隊w
長州奇兵隊の足元にも及ばないゴミクズ白虎隊w 長州征伐の長州より戊辰戦争の会津藩の方がよっぽど戦う条件は良かったんだがな
正直、会津は負けるのが難しい戦に負けちまったような 奇兵隊は干城隊率いる木戸孝允に処刑され庇った前原一誠や奥平謙輔は山縣有朋に追い出され下野
↓
前原一誠や奥平謙輔は干城隊とともに蜂起し、元奇兵隊の広島鎮台司令・三浦梧楼に鎮圧される
↓
三浦梧楼は開拓使官有物払下げ事件で抗議し議会開設と憲法制定を訴える建白書を出すと山縣有朋に左遷され
後に藩閥打倒の中心人物となる
藩閥に固執する木戸孝允や山縣有朋以外の長州人はわりとまとも 慶喜の側近なんか味方の佐幕派に暗殺されちまったのに長州は甘いな〜 前原みたいに藩内の不満や反乱分子を抑えられなかった無能を
もてはやすという風潮は笑える >>254
長州は強い信念と目的意識を持っていたからね
大した大義がない反乱分子などに負けるわけがない
既に腐りきって堕落していた幕府と大違いだよ あれ? 前原は脱隊騒動の時は、調子にのんじゃねーよ諸隊wてディスってたんじゃね? >>256同じ内ゲバでも長州の場合
所謂 正義派と俗論派双方に確固たる理由があったが
佐幕派の場合、目的も派閥もバラバラな幕吏がリストラされたくない〜が動機で 集合離散してただけだしな 幕府が勝てなかったのは
市民の士気が上がらないで
雇った奴等が逃げたり
江戸や大坂で打ち壊ししたからだよ。
庶民は長州に期待してたからね。
長州も洋式の軍隊化してたり
諸隊の士気も高かった。
長州の洋式軍隊+庶民の長州贔屓
これが勝った要因。 数では圧倒的に勝ってるんだから、銃弾を防ぐ事ができる盾で立ち向かえば
良かったんじゃないの?
機動隊の暴徒鎮圧みたいな感じで、盾の壁で押せ押せ状態w この時代の技術で銃弾防げるくらいの全身盾なんて持ち運べるわけないんだよなぁ >>260
そこまで命かけて戦う兵がいない。
いくら長州兵の士気が高くても夜戦になったら射程の有利はあまり意味がない。
幕府側についた諸藩が本気でやる気なら、銃兵以外は夜間斬り込みに使うとか
銃兵は種類別に統合運用してミニエー銃隊が弾幕張ってるうちにゲーベル銃、火縄銃隊が
回り込んで接近するとか。
やる気があるならやり様がある。 >>260
ミニエー弾に耐えうる盾は当時の日本には存在しない。
外国にすら当時はほとんど無いんじゃないか? >>264
何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、
偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く
打ち候様相考えられ「芸州口戦争記参考」
さすがに兵自体が精強でも装備の差は如何ともし難い 庶民の間では「長州良いとこ、一度はおいで。いずれ長州が江戸になる」と俗謡が流行っていた。 山口県側のソースなので露骨に贔屓されているがなかなか興味深い
http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics02.html
西川吉輔の風説留内(滋賀大学経済学部附属史料館寄託、真崎文庫、資料提供山口県史編さん室)によると
農兵は八十人余敵方へ生捕れけるが、敵方にて是を改め、その方共には聊拘ることにあらす、助命し差返すところなりとて
酒食を与へ、一人毎に五百疋を恵み、早々この場を脱れ帰国し、如何様も潜伏して時節を待へしとて篤く是を諭し、
国境迄厳重ニ護送士をつけ送り帰さしむ、その処置厳整にして行届きたり、尤武備軍令等は勿論にて、容易に討入なとヽ云こと
努叶ふへからすと、脱走農兵の直話なりと云
防地(周防)ニ於て地雷火に陥けるか、実に恐るべき限り也、その黒烟の中ニ数百人の烟に咽ひ烈火に苦む声、恐ろし共憐れ
共諭(喩)るに物なく、その悲鳴の声今に耳の底に残りて恐ろしく思ひ出せり、実に身の毛もよだつ計なりと >>269
同じこと言ってた会津は天下取れなんだな…
つーか、藩主が守護職一旦は辞任してんのに引き続き黒谷本陣から奉行や見廻組や新撰組を差配してる公用方ご一同様 最近の日本史近代史板は会津・南京・慰安婦ばかり
もううんざり 第二次長州征討なんてやんなきゃよかっただけじゃん
そうすれば絶対に負けない >>264
彦根藩は6月14日の敗因について届書を出しているが
「幕府歩兵が新港を攻撃するはずだったのに現れなかった」
等と指摘しており共同作戦だったもよう(幕府艦隊も艦砲射撃で掩護する予定だったと思われる)
一方で6月14日の敗戦のすぐ後に大島駐屯軍の幹部が本営に召喚され、
その後で大島の幕府歩兵が艦隊で移動を開始しているので、
幕府歩兵は大島攻略後すぐに芸州方面に移動を開始し、彦根藩と共同作戦を取るはずだったのかも知れない。
また当日の戦闘は防衛する岩国勢も兵750、農兵1000などが動員されかなり激戦が予想されており、
実際に彦根兵の砲撃は長州側の予想を上回るものだったことが分かる。
遊撃隊はこの激戦の最中に側面に回り、高所から銃撃を加えるとともに、背後の村々を焼きたてたために彦根兵が崩れた
(この放火のため芸州藩領は延焼で甚大な被害が出ている)
主力が岩国勢だったからあまり注目されてないのかもしれないが、報告を見る限り長州側は相当な苦戦を予想していた。 >>270
それは維新史回廊だより第2号(平成18年)そのままだけど、
第3号にも小瀬川口の戦いの後半の続報があって芸州藩領の被害が書かれてるよ…。 >>275
彦根藩内で倒幕派が台頭するきっかけが長州征伐の惨敗って言われてるけど、詳細がよくわからんね 幕府軍は所詮、諸藩連合軍だからな。
ましてや、各藩にとって直接的な仇敵という訳でも無かった。
大阪の陣の時とは完全に時代が変わってしまったという事だ。
存亡の危機に立たされた死に物狂いの決死隊で、しかも近代洋式装備相手には
如何に兵数が多くても無理だわな。 会津・庄内は売国奴
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg
戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から
資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、
五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で
具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば
実現していた可能性がある」とみる。
これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年
7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。
その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。
今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り
込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。
とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から
6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。
それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。
幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。
当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)
09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html この記事、隠したいらしく、アクセス数激減。メールでも口伝えでもいいから拡散を! 緊急!!
アメリカ大統領布告「国家準備月間」各自の責任で「未知の危機」に備えよ!食料、水など備蓄必要!!
https://twitter.com/56shig/status/779659898212671493
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、
(| |) マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、
いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、
再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、
マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。
彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。
彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。
マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。 命令は出すけど、やる気がある連中(慶喜・会津・孝明天皇)は安全地帯で引きこもり
実際に金出して戦う西南諸藩はそもそもやる気なし
こんなんでなぜ勝てると思ったのやら よく考えたら凄い戦いだよな。
山口県 対 日本(幕府)だよw
いくら諸藩のやる気がなかったと言っても、兵数は何倍もいて、3方向(大島は除く)から攻められている。
1つでも突破されたら負けてただろ。 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
BIZWW ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています