>>264
彦根藩は6月14日の敗因について届書を出しているが
「幕府歩兵が新港を攻撃するはずだったのに現れなかった」
等と指摘しており共同作戦だったもよう(幕府艦隊も艦砲射撃で掩護する予定だったと思われる)

一方で6月14日の敗戦のすぐ後に大島駐屯軍の幹部が本営に召喚され、
その後で大島の幕府歩兵が艦隊で移動を開始しているので、
幕府歩兵は大島攻略後すぐに芸州方面に移動を開始し、彦根藩と共同作戦を取るはずだったのかも知れない。

また当日の戦闘は防衛する岩国勢も兵750、農兵1000などが動員されかなり激戦が予想されており、
実際に彦根兵の砲撃は長州側の予想を上回るものだったことが分かる。
遊撃隊はこの激戦の最中に側面に回り、高所から銃撃を加えるとともに、背後の村々を焼きたてたために彦根兵が崩れた
(この放火のため芸州藩領は延焼で甚大な被害が出ている)
主力が岩国勢だったからあまり注目されてないのかもしれないが、報告を見る限り長州側は相当な苦戦を予想していた。