真珠湾攻撃は多くの誤解を招いているがその事実を記す。

8月22日に陸軍参謀本部作戦当局にハワイ作戦の計画が海軍側から伝えられてから
同作戦は南方作戦の一環として陸海軍作戦当局間相互交流の上で研究立案の上、10月末までに完成した。
東条内閣の組閣後、白紙還元の御諚で9月の国策を再検討し10月23日から10月末まで
前後8回の連絡会議を開いて再検討が続けられたが 結局、国策を変える結論は得られず、
11月2日午前2時に対米英戦決意を定め、交渉不成立の場合に武力発動を12月初頭とした。
11月2日午後5時、東条首相はこの旨を天皇に参謀総長と軍令部総長と共に上奏した。
11月3日 参謀総長と軍令部総長はハワイ作戦を含む対米英戦の作戦内容を上奏した。
11月5日の御前会議でこの国策が正式決定(御裁可)された。
御裁可の後には統帥部から陸海軍大臣に作戦計画について
通報が行われる決まりになっているのである。
これは東条首相自身が宣誓供述書で述べていることである。
陸軍大臣兼務の東条首相も当然、通報を受けたのは間違いない。
しかし、東条首相は作戦策定には関与しておらず、また統帥に政府は関与せずの制度
になっていたので責任を問うことはできない。
東京裁判のキーナンの尋問を持ち出す者がいる。
しかし、ここで東条首相は真珠湾攻撃を認知した日を
これほど不明瞭に、しかも日時の明確な証言は行ってはいない理由は何か?
知った日を忘れたなどということは有り得ないのである。
この理由は、
・供述書において、対米戦が決意され戦争準備に入ったのは12月1日の御前会議以降としている。
実際には11月5日御前会議からである。
・キーナン尋問において、天皇が11月5日御前会議の頃に、既にハワイ作戦を知り、
この御前会議における決議を裁可している事実は取り上げられていない。
したがって、東条首相が事実をそのまま証言したならば
・供述書と矛盾し11月5日御前会議の天皇関与が追求される。
・天皇の戦争責任が追求される。
からである。
結局、東条首相は天皇陛下が法廷において追求されることを
防いだのである。東条首相は証言で偽証はせずに天皇をかばったと言える。
非道な東京裁判で本当によく頑張ったものである。

ハワイ作戦詳細は遅くとも11月3日に陸軍参謀総長が自身の目と耳で
認識していたのである。
それは11月3日の海軍軍令部総長とともに天皇の前で
作戦計画を上奏したときである。
軍令部総長は12月8日という日時を含むハワイ作戦の詳細を
読み上げている。
ハワイ作戦は誰が何といおうがこの時に陸軍中央の最高責任者に
伝わっている。
もし、東条首相が知らなかったなどが事実であるのなら、
それは陸軍側の問題である。
巷間言われるような連合艦隊が独断で計画実行したなどというのは
全くの事実無根の話しである。
御裁可の後に
統帥部から陸海軍大臣に作戦計画が通報されることになっているのだ。
したがって、参謀総長から当然通報は行われていなければならないのである。
何と言おうが、11月5日以降はもう陸軍側の問題なのだ。
「御裁可の後に 統帥部から陸海軍大臣に作戦計画が通報されることになっている」
これは東条首相自身が宣誓供述書で明確に述べていることなのだ。
「東条英機宣誓供述書」を捏造やデタラメとする意見がある。
しかし、これは東京裁判に使用された資料である。
東条首相の裁判は1947年12月26日にはじまり弁護人の冒頭陳述の後、
この「東条英機宣誓供述書」が3日間に渡って朗読された。
したがって、デタラメや捏造ではない。
国立国会図書館に出版第1刷の原本が保管されている。
それはweb上で誰でも自由に見ることができる。