>>41
その大奥が、幕末には、実は政治的にパワーダウンしていたと言う説もある。

家茂は、薨去直前に田安亀之助への相続を口頭で述べていたし、大奥と紀州は、
それがダメなら紀州藩主の徳川茂承の徳川宗家相続と将軍任官で動いていた。

しかし、家茂人脈に属していた小栗ら親仏派幕権(近代化)派官僚らが、
従来は対立していた慶喜への支持に転向した事で慶喜の徳川宗家の相続が決定した。

将軍任官も数ヶ月の空位期間を置いたが、孝明天皇の強い要請で慶喜の将軍任官が決定している。

この様に大奥の意向とは異なり、慶喜による徳川宗家の相続と将軍任官が決定しており、
大奥の政治力は、幕末には、それ程ではなかった。むしろ近代化を志向する実務派の旗本
や御家人を主とする官僚化した徳川宗家直参家臣団の政治力の方が、大奥のそれを上回っていた。

この時期の幕府には、薩長の反抗はもちろん、外国による植民地化の脅威もあり、
速やかな幕府の近代化が求められていた。特に日本の政治体制の集権化と工業化
(武器の国産化)は、急務であり、小栗らは、慶喜が将軍任官直後から大奥の予算
を削り、慶応の改革を実行し製鉄所や造船所の建設、フランス軍制による幕府軍
の強化を実行している。

これらの政治状況から、平和な鎖国時代の大奥の政治力は、幕末期には失われていたと見なすべきである。