禁門の変(蛤御門の変)
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鷹司邸は戦闘中だからやむを得ないと思うが
戦闘後の民家への放火はなあ >>32
〜の乱や〜の変の〜に付くのは、大体年号(応仁の乱とか)か乱が起きた場所(島原の乱とか)だからなぁ
単に長州の乱っつったら、長州で何か起きたの?と思われる可能性のが高い
天狗党の乱はそのまんまで分かり易いけどね あ、ついでだが。
長州藩が最終的に幕府軍に負けてれば、禁門から征伐までの出来事を纏めて
長州の乱とか呼ばれてた可能性はあるんじゃないかな 長州軍のミニエー銃と言っても実態は、薩摩名義で購入したエンフィールド銃です。
逆に言わせて貰えば、エンフィールド銃で武装していない幕府軍が第二次長州征伐で、長州軍に勝てる筈が無いのです。 >>2,3
陰謀史観乙
藩の滅亡犠牲にしても国益第一に考え行動したのは長州様くらい
今日でも党利党略だの利権が第一でこれわ難しい 今週の大河はいよいよ蛤御門か。
会津は薩摩のおかげで命拾いしたな。
西郷はかなり計算高く出兵し、それが的中したと思う。 ドラマでは銃撃戦だった。もう少し白兵戦の描写が
有れば完璧だったな。 長州側の視点が全く描かれてなかったな
まあ、会津視点だからしょうがないのか 慶喜、新撰組、篤姫、八重の桜、白虎隊も定期的にやるし
佐幕派視点ばっかじゃね
龍馬伝ってどうだったんだっけ >>47
竜馬伝は何を描きたかったのか支離滅裂だなぁ
力入れてるとこは殆どイミフな創作だし、日本史の流れは完全無視だし、弥太郎照之は無意味に壮絶だし
ttp://livedoor.blogimg.jp/jin333/imgs/8/b/8b84de99.jpg?2b40f0ce
アレに比べたら今年の八重は十分見れるよ
綾瀬はるかはミスキャストだけど 司馬の小説の中で新政府軍の指揮を取る事になった大村益次郎が
「西郷率いる薩兵は私の想像を超えて、負けると計算してたものまで勝っていく」
みたいに語ってたけど、司馬の創作とも思えないもんな
ほんと大村の計算すら超えてそう 池田屋事件について質問。
脱藩中の吉田稔麿はともかく脱藩していない桂小五郎を新撰組が斬った場合問題になりますか?
朝敵になる禁門の変以前の長州藩士が京都に滞在するのは全く問題がないはずですし。 >>3
その民族の部分がちょっと違う。
現在の天皇家や長州は別として、日本民族のDNAと現在の朝鮮民族とは共通点が極めて少ないことは
最近のDNA研究の発達で明らかになっている。 >>3 高句麗語・百済語はツングース語系ではない。
日本語・新羅語とのチャンポンのような言語であってツングース語とは関係が薄い。
また日本語と朝鮮語も関係が薄い。高句麗系が日本へ入っていたらもっと朝鮮語と類似していたはずだが、帰化人は完全に日本語に飲み込まれている。
到底、支配階級などになっていないということだ。 >>52
クーデターを計画していた犯罪者なら、正規の長州藩士でも
当然ながら切られても文句言えない。むしろ藩の立場がヤバいから、
脱藩して浪士になる者が多かった。長州だけは藩自体が革命化していたから
桂も高杉も藩士のまま活動していたんだが。 8.18以後は藩邸の留守居役以外は入京禁止のはずだ。 >>56
吉田松陰は宮部鼎蔵らと東北旅行に行く約束したのに、通行手形が出なかったから
脱藩した、と言う子供じみた理由。高杉は藩と意見が違うと頻繁に脱藩していた。
共に「藩に迷惑掛けないように」という性質とは違う。
>>57
通るぐらいは問題ない。京は交通の要衝だから、通らない訳にもいかない 稔麿はその時脱藩してたっけ?
藩主の嘆願書を江戸に持っていく途中で京に滞在してたと思うけど
ところで、池田屋事件は色々本が出てるけど、禁門の変について
詳しく解説してる本は無いのかなぁ >>59
週間歴史ビジュアルとか
その時歴史が動いた、とかに蛤御門について書いた
回が有った様な気がする。 >>60
ありがとう。
そうやって個別に取り上げてるものを探せばいいのか >>52
素直にお縄になればかろうじて生きていたかもわからんが、とりあえず公務執行妨害の現行犯だから。 仲間が拘束されたのでどうするか話し合っているだけで殺されるw
意味わからん 話し合いの内容
新撰組の屯所を襲撃して
組員を皆殺しにして古高を奪還し、御所を襲撃して帝を長州に拉致して松平容保を血祭りに上げる事。
実現していたら大変だねw やたら現代の概念を持ち出して新撰組を警察とか言ってみる割に、拷問で引き出した自白の内容は信用するんだよね、新撰組オタは >>65
でっち上げどころか、なんか妄想入ってるよな
とにかく新撰組が拷問をかけて聞き出したらしいっていう
漠然としたものしかない
しかも新撰組は古高をなぜかすぐ殺してるし
長州側の史料には京都を火の海になんて計画は一切出てこない
とくに長州の面々は大量の手紙や日記を残してる筆まめさん達が多いのに
そんな大きな計画があったのなら触れないわけがない
禁門の変に関する裏事情やいきさつは
高杉なんかは獄中に入った時に残した日記に事細かく書いている 新撰組がいても何もできんがな。
あいつらは丸腰の相手に闇討ちで襲い掛かるか、集団で一人を取り囲む汚い戦法ばかり使ってきた。
武装した軍隊には通用しない。むしろ長州勢に取り囲まれて袋叩きにされるだけだぞ。 >具足十領・槍二十五筋 ・短筒三挺・矢五百本・弓十一張
たったこれだけの押収品で御所の警備を突破するとか無茶 長州は御所じゃなくて会津の本陣を攻撃すべきだった薩摩も一橋も会津と長州の私闘なら介入はしなかった
そして別動隊を御所に派遣して帝を長州に拉致すれば事は成功していただろう。 平家みたいな遷都を強行したら世間の反発あるから
中川宮 二条 近衛あたりを殺して終わりじゃね? 新撰組は幕府側では強い方だよ
ただ軍隊でないから100か200程度しか居ない
土方なんかは軍隊指揮官として有能で後に官軍悩ましたからね 幕軍は五万から七万いたと言うけど戦ったのは会津と薩摩が主で後は空気だよな 打倒徳川で動く長州
徳川擁護で動く会津
有利な側に付く薩摩
空気な様子見の諸藩
まんま幕末を象徴してるw維新で会津と長州の立場が逆転して薩摩の陣営が逆になっただけだからなw 迫力が有った戦いの描写
日テレ 奇兵隊
NHK 八重の桜
テレ東 竜馬がゆく 長州は首脳ら辺りの決定に間違いがあった。禁門の変は周布や久坂、真木らの無謀で
浅はかな考えで引き起こされた戦と言えよう。その点高杉は冷静だった。 周布は久坂や高杉をサポートするって役割をしてたけど
禁門の変では進発に反対して止めてたんだよけどね
ただ、どうにもならなかったね・・・
最後、高杉の牢屋に酔っぱらって喝を入れに乱入したり
責任を一手に感じて、悩んで自刃した 蛤御門の変を時代劇で描写する時は会津と長州が刀槍でチャンバラしてから薩摩が銃隊で会津を助太刀するという事が多かったが
大河は双方、銃撃戦だった
大河は割と史実重視だから実際もあんな物だったのか 驚くことに当時の日本人って、速く走れなかったらしいのだよね。
銃を持つ敵に向かって徒歩で斬り込むアホはいくら当時でもいないだろうから、
弾があるうちは必然的に銃撃戦になるであろう。
西南戦争では兵卒は徴兵された百姓が多かったが、薩軍が奇襲で陣所に斬り込んでくると、
走って逃げることもできずにバッサバッサと斬られたらしい。
陸軍首脳はそうした状況を見て、この後、西洋式の走行法を兵隊育成教育に取り入れたといわれる。 いまいち幕末の流れがよくわからないのですが
長州は使者を殺したこと以外は京都を追い出されるほど悪いことしてないのでは?
むしろ国のために動いている長州の足を引っ張る薩摩と会津こそ国賊かとおもう。
まず朝廷の圧力で幕府が攘夷決行の約束をして諸藩に命令。
攘夷決行の日に長州藩だけが外国に向かっていった。
んで海峡封鎖しようとしたが対岸の小倉藩が命令を無視して封鎖失敗。
長州藩が催促したものの小倉藩はサボタージュを続ける。
そこで長州藩が海峡を超えて対岸を占拠して海峡を封鎖した。
幕使・中根一之允が派遣されるが何者かに暗殺されるがその処分は放置される。
攘夷親征の詔が下って大和行幸が実行されそうになった時に中川宮と薩摩によって
急に攘夷派の公家が御所から追い出され、長州も門警備を解かれて京都を追放され、七卿は長州に落ち伸びていく。
長州は冤罪を訴えるために家老が京都に出向いてくる。
一橋慶喜が穏便に戦乱を回避しようとするが松平容保が強硬に決戦を主張し挑発。
長州側が会津を排除して直訴するために会津の守る蛤御門の突破を敢行。薩摩が加勢して長州兵壊滅。 禁門の変の前に古高俊太郎の自白があったとされる京都大火計画は拘束後4日後の書簡が初出
長州側の一次資料 木戸孝允文書 巻4・21宍戸九郎兵衛・北条瀬兵衛宛には
「それよりして長人五百人余浪花へのぼり、百人上伏四十人入京、応変洛中放火いたし、
一挙いたし候なぞとの虚説までもおこり、一入恐怖の勢にて」とある
一方、徳川幕府の自演放火が何度も見られる
明暦の大火は幕府の自演説が強いし、
禁門の変に乗じて無差別放火を行い京の大半を炎上させておきながら
三条大橋制札場に長州を糾弾する制札を掲げていた
ひょっとすると大坂夏の陣の開戦に至った板倉勝重報告にある
「豊臣方浪人による京放火」も疑わしいものだ 会津の銃はゲベールだったの?火縄?
八重の桜ではゲベールだったが、他の時代劇では火縄のことが多い気がする。
あと八重の桜では鉄砲隊が覚馬の号令で射撃してたけど、あの時の陣形と戦術は長沼流の正しい描写なの? ドラマでは鉄砲と槍しか出てこないけど、当時もまだ弓は使ってたのかな? >>85
してるよ
というか薩摩が会津と組んで政変起こしたのは直前の8月13日に大和行幸・攘夷親征の勅が発せられ、
実行に移される危険があったから
グズグズしてる時間なんてなかった。長州藩の友藩だった因州藩ですら滅茶苦茶な勅の濫発にたまりかねて
8月に参内を強行してるんだぞ
止めなくちゃいけないのはみんな分かってたんだよ
薩摩はこの時期薩英戦争で兵を上洛させられなかったから、急きょ会津藩と提携した
緊急事態だよ
でそもそもな、幕府が4月に出した攘夷の命令は「外夷の拒絶」と「攻撃された場合の防御」
つまり通商条約の停止に留まるものであって積極的な攻撃を容認する内容じゃないんだよ
小倉藩は幕府からの通達通りのことを言って長州藩の要請を断った
そしたら長州藩は勝手に諸隊を上陸させて小倉領の沿岸を占領し砲台を築く
とんでもない侵犯行為。さらに5月10日の民間船砲撃は長州の下関総奉行ですら躊躇したのに光明寺党が強行
何も知らずに停泊してた民間商船だからね。越前藩士などは国の恥とまで言ってめちゃくちゃ怒ってる
おまけに長州藩は米仏の軍艦が反撃に来ると攘夷指導者が京に逃げ出してるんだよ
ところが朝廷は長州藩の行為を賞揚し無差別攻撃を推奨する勅を出す
これじゃ幕府の通達を守った小倉藩のほうが処罰されてしまうし、もちろん幕府も長州に詰問使を送った
こんなもん放置するほうがどうかしてるよ >>90
付け加えたら長州にしたら外国に敗れるのは織り込み済み。 実際孝明様が声高に唱えた攘夷を実行したので、逆に声望が上がり この時点では朝廷も推奨する始末。
それに長州がこんだけ強行姿勢しても誰も止めなかったのは やはり幕府が結んだ数多の通商条約への不満や安政の大獄の記憶がまだ生々しかったんだろ。 >>90
>小倉領の沿岸を占領し
長州が利用したのは小倉藩の土地ではなく久留米藩の飛び地じゃなかった? >>95
うんにゃ、長州は一貫して小倉に借用を強要してる。
久留米藩の飛び地なら久留米が交渉相手になるでしょ。 >>91
長州は外国に敗れるのは織り込み済みじゃないよ。内陸で長期戦に持ち込んで勝つつもりだったんだから。
現実には外国艦隊襲来で物価が騰貴し三田尻あたりで打ちこわしが発生し藩体制の危機と認識されてあわてて講和
あと長州が5月に実行した外国船砲撃は無二念打払令への回帰だったわけだが、
攘夷を奉じた幕命は「外夷襲来の際の帰攘」というもので、無二念打払を意味しない
無二念打払を初めて正当化したのは無差別砲撃後に長州が朝廷を動かして出させた勅によるから、
孝明天皇の真意とは言えない(長州は5月に小倉藩に何度も詰問しているが、小倉藩は一貫して台命を挙げてあんたの解釈は違うと言って埒が明かなかった)
あと通商条約の時には堀田上洛以前の安政5年に有力藩に諮問が出され、
薩摩も含む諸侯も最終的に通商条約じたいは是認の方向に転じてる(反対したのは水戸・尾張程度)
その水戸藩ですら堀田上洛前に今となっては無駄な条約拒絶をするなと朝廷にアドバイスしてるから、
通商それ自体については誰も問題視してないよ。逆に朝廷が堀田上洛後も攘夷論にとらわれてるのを知った島津斉彬は心配してるし、
山内豊信は「書生論」と痛烈に批判してる。賢侯たちが問題としたのは手続論。
長州はこの攘夷実行の進展でまず越前・薩摩から見切られ、薩摩はそれまでの消極姿勢を7月上旬に転換させ、
越前加賀会津連合とともに在京兵力だけで長州の暴走を止める決意表明を行う
その後に京で周旋に当たった四藩も周旋にてこずり7月下旬には会津藩の引き入れに次第に傾き、
攘夷督促使の派遣で大混乱に陥った西日本諸藩からも次第に孤立し、
最終的に朝陽丸事件の発生で九州諸藩からも完全に見捨てられる。
818政変の発生は、ほぼ必然の流れ。 さらにそっから池田屋、禁門と続いて
よく長州が取り潰しにならなかったもんだ。
西郷がフォローしたとはいうが
家老3人の首で収まったのがよくわからん。
禁門の時に藩主親子の黒印状が見つかったとは
いうけどそれだけで責任者確定であったろうに。
征討というか世が世なら紙切れ一枚で
取り潰せたのが、そこまで幕府が実質弱まっていた
ということでいいのかな。 そうせいも朝敵になったのに藩主交代さえせず
藩主交代しろ!って声も無かったのかな?
関が原の輝元もそうだったが 戎狄を悪ませられ候御事は申すに及ばず、外夷に相交り候儀は、その宗家、先に厳禁の致しかたこれあり候ところ、
長崎表に役人をつかわしおき、国産絹糸、油等を交易仕り、年々些少の私利を得候穢心をもって、二港だけは残したき段、
しきりに懇訴仕り、叡慮を遵奉仕らず、祖先の掟を破壊仕り候こと、これその罪の一つなり。
当春、延議にて、肥後守の守護職しかるべからずとて、越前家へ仰せつけられ候については、殆んど進退差し迫り、
遷延罷りあり候うち、処処に謁を請い、またその職を得、窮困のあまり市井の無頼を致集して壬生に屯させ、
且つ家来に祿米を宛て行ない申さざるや、市井に横行し、僅かに過ちあれば、ただちにその家産を没収し、
あるいは夜陰辻切りして、持参の物を奪い取らさせ、洛中洛外を擾乱仕り候、それその罪の一つなり。
そのもっとも甚だしきにいたり候ては、去月五日の夜、にわかに兵勢を繰り出し、藩邸を取り囲み、かつ旅宿等に押し入り、
多人数を殺害し、縛収し、家にあるところの財、衣服等まで盗み取り、なおまた同月二十七日、何故とも知らず、
剣戟を相用い、にわかに参内し、乗輿を御玄関に平づけ、九闕をもって身囲いとなす手段、無法無礼にて、朝憲を憚らず、
幕法を守らざる次第、普天率土、驚愕、憤怒の至りに堪えず候。その悪虐、暴戻の形勢に相顕われ候大なるもの、
おおよそかくの如くに御座候えば、その小なるものに至りては筆紙に尽し難く、いわんやその心術、朝廷を軽視仕り候ことは、
藤原信頼、木曽義仲にも相越え候。
畢竟、彼ようの者、重き御役儀を冒し候ゆえ、攘夷の叡慮も、恤民の思し召しも貫徹仕らざるのみならず、
天下大乱の本、皇国必滅の秋に御座候。 謹んで按ずるに、陛下の攘夷の御志は弘化年来、終始画一の御事、今日といえども潜らせられ候御儀はあらせられずと存じ上げ奉り候ところ、
去秋以来御撓みあそばされ候よう相疑う儀これあり、民を恤(あわれ)むの儀は御天性にわたらせられ、猶更御深切にあらせられ、
裏々島々の小民まで艱苦を致さず、億兆安然として、その所をえざるものこれなきようとの御素志にあらせられ候えば、普天率土、誰か感戴し奉らざらん。
しかるに交易に害にて、僻土に至るまで一民も疾苦を免るる者これなく、殊に輦轂の下にては殺気悽惨、人心恟々、朝に夕を恤ずとも申すべく、
じつに恐れ入り候次第に御座候。
そのゆえんを相たずね候に、松平肥後守の所為に御座候。肥後守はその性剛服にて、庸劣、名文等を相弁えず、また家来共も奥州の荒僻の
寒土に候えば、ただその威を張り、城市を虐げることのみにして、天朝の貴きところ、叡慮のかくも有難くあらせられ候御事をも相弁じ申さず、
縉紳を欺き、義士を忌み、昔時の山法師の悪業よりも甚だしく、その罪を数え候に、十指を屈せずといえども、その大なるもののみあげ候わば、
去年八月、調練を叡覧あそばさるべく仰せ出だされ候節、調練には不用の野戦砲数挺を御花畑へ相運びおき、劫喝のために相備え、
同十八日未明に、御築地内をも憚らず連発仕り、禁闕へ押し入り候こと、これ大罪の一つなり。
関白鷹司公並びに三条殿以下、当時勅勘を蒙られ候御国事掛、寄人らの御方まで、いずれも国家の柱石にいらせられ、聖明を御輔佐
あらせられ候ところ、その大徳、高才、純忠、至誠を恐れ入り奉り候より、百万讒毀(ざんき)し、にわかに参朝を停め、ついに幽閉、
沈淪の御身となし奉り候、その罪の一つなり。 微臣ら主人、並びに三条殿以下、御寛宥仰せつけられ、攘夷の御国是すみやかに相立て候儀、天地鬼神に誓い、哀訴、嘆願申し出で訴ところ、
かつてもって御採用仰せ出でられず、これまた肥後守の所為をもって、すでに時日を経、ついに浮浪煽乱の像を誣讒(ふざん)し、干戈内乱の禍を顧みず、
列藩を欺き、廟議を促し奉り、あまつさえ、もったいなくも鳳輦を揺動し奉らんとまで姦謀を相巧み【注三】候段、もはや天下万民のために、そのままには
相置きがたく、陛下祖宗の御為に誅伐仕らず候わでは相叶わざる儀につき、肥後守儀、闕下に於て討伐相加え候間、すみやかに九闕を御追い払い、
洛外へ引退し候よう仰せつけられ、なお嚇然宸怒、天誅の勅諚をすみやかに仰せ出だし下され候よう願い奉り候。暫時、輦轂の下を騒擾仕り候儀も
これあるべく、深く恐れ入り奉り候えども、その段は止むをえざる義につき、御宥免仰せつけられ候よう願い奉り候。微臣ら恐懼に堪えず、屏居、懇祈、
誠祷の至り、万死、泣血して謹んで仕え奉り候。 長防浪士中 禁門の変 京都御所を血に染めて官軍を名乗るのか 久坂がすべて悪いになる「明治維新を全否定」の歴史本 会津地方で5万部の大ベストセラーに│NEWSポストセブン http://www.news-postseven.com/archives/20151117_364288.html よく佐幕派が口にする「長州は御所に発砲した」という非難
これは詭弁ではないだろうか?
古来より武装した奸臣から要人を救出する場合において
弓や銃の発砲を用いずに救出した事例は皆無に等しい
長州は「直訴」「救出」を名目としているためその行動には一貫している
むしろ天皇個人に弓を向けた明確な証拠がないまま
徳川に言われるまま朝敵指定した事実こそ
孝明天皇の無能、軽薄、優柔不断、無責任、無神経、卑劣、愚劣、冷血、
思慮不足、非人間性を証明することになる 禁闕の変のような内裏襲撃を目的としたというよりは
久留米水天宮の真木保臣による強訴に長州兵が付き合った 主観はどうあれ強訴が失敗に終わった時は武力による奸臣排除以外の道はないでしょ
遊撃隊の天龍寺布陣が決定的だった。久坂の情勢見通し甘かったんじゃないの。
一橋慶喜ですら6月27日の入京を受けての朝議で大軍で威嚇する態度を難じて退去が先決だと言ってるのだから。
この際に西郷吉之助も暴発の場合は追討に向かうと言ってる。態度を硬化させてるのだよ
>>109
6月29日に入京は決して相成らずの勅が出て兵を退くことが条件になってる
この勅は文久政変を肯定するなど孝明天皇の意思が強く現れてるのだから、
これを無視して包囲を続けてる時点でダメダメなのだよ。
薩摩藩もこの入京・朝議を経て中立姿勢を捨て国元に増派を願ってるし
7月になると積極的に追討を主張し始める 天皇の身柄を抑えることができれば法住寺合戦と同じ扱いに
天皇を確保できなければ乱扱いにされるだけ
御所や院御所の襲撃は源平合戦では当たり前だったんだけどな 幕府も京都方と江戸方で温度差があったからね
江戸方からみたら、京都で勝手な事をやってる慶喜と会津って思ってたらしいし
特に会津藩に対しては露骨に嫌がらせに近い態度を取ったり
嫉妬とかもあったかもしれないけど 虎次郎、久坂は優秀なのに、時代に泳がされ命を賭ける場面を間違えた
高杉は本当に凄い >>115
彼らの仲間としての試行錯誤が最終的に維新へつながった
とすれば、似ていないようでいて彼らは同じものなのだ 長州への追討令はなぜか決着がついた後に行われている
本来なら京都に押し寄せてきた時にすべきだったのではと思う
宮中内では三条らを追放して反長州一色だと思っていたが
戦闘を見届けてその後の立場を明示するあたりまだまだ日和見だね 久坂が大反対した「公武合体」って
今の視点で考えたら駄目なのは重々承知だが
ほんとクソ政策だよなぁ、絶対に阻止しないと駄目って思う気持ちもわかる
例えば安倍さんが皇室と親戚関係になって
政権基盤を強固にするって発想だからね 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組の官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化し使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄に落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全ては自分の出来心から起きた事で、何処に訴えて出ると言う訳にもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切った上で新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 維新の最大の功労者は坂本龍馬では無くて高杉晋作だよ。 手代木長官も高杉を暗殺しとけば、手っ取り早く逆大政奉還出来たのに… >>122
坂本弁護士が住んでいた団地の他の住人(7世帯)は、
全員事件の起こる半年前より後に越してきた人たちだった。
そのうち5世帯が創価会員。
神奈川県警は失踪事件当初、この住人達全員に行動確認をかけていた。
その矢先に突然県警本部長のレイプ疑惑やら
生活安全課幹部がノミ屋を張っていた疑惑が次々に出始めて、
行確をはずしたら、マスコミからの疑惑追及も止まった。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
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V3PPE 池田屋事件については、当時京都が政治の中心になっていて
佐幕派も尊攘派も相手派に対するプロパガンダを盛んにしてたから
拷問による自白があったという話をそのまま信用することはできないよ。
尊攘派による集会を一網打尽にされたという事実があるだけだ。 >>130
中川宮邸襲撃計画は事実だよ
拷問だというけど下獄した古高から村井政礼はじかに計画を聞いている
幕府側の要人も真相がはっきりするまで書簡に事件を載せていない
みんな取扱いに慎重 徳川は江戸初期にも豊臣方の浪人が京都で暴れてるってでっち上げた前科あるしなあ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています