★★★インパール作戦は、史上最良の作戦2
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
インパール作戦は牟田口中将が 皆の反対を押し切って
強引に強行した 補給を無視した無謀な作戦で
勝機も意義も全く無い作戦だったと言われてきた。
しかしこれらの話しはその全てが、利権と政治的意図を持つ
商売作家(例:半藤一利 他)らによる
悪意と捏造と曲解による大嘘ばかり。
これらは東京裁判史観と陸軍悪玉論を定着させ宣伝したいと考える
戦後の権力者に迎合した政治的な勢力によるプロパガンダといってよい。
バカ作家、エセ保守評論家らがいい加減に流布してきた
デタラメの昭和の近代史と戦史は、
全てを再検証し直す必要がある。
日本を大敗させた戦犯は、
ハワイをテロ攻撃しアメリカを本気で参戦させた
愚将・山本五十六である。 辻、服部等は敵を知らず己も知らずだった
米英軍を中国軍以下の弱兵と侮り、同盟国のドイツを過大評価
自国海軍のこともまるで理解していなかった
本大戦における陸軍の構想は、南方資源地帯を押さえ長期持久体制を図りその間にドイツが英本土上陸を行い英国を屈服させる これにより米国は継戦の意義を失い講和に至る、というものだった
まず第一条件のドイツがあてはずれ、次に第二条件の長期持久はそれ以上にあてはずれ 日本海軍にシーレーン防衛の能力など全くなかった 日露戦争から何等変わらない艦隊決戦一本槍 戦艦戦隊が機動部隊に変わっただけで、相も変わらぬ短期決戦脳 海軍には総力戦という概念などまるでなかった 陸軍は戦争を通じて勘違いしており海軍と陸軍は全く統率取れず、国家戦略は陸軍の方針なのに海軍は好き勝手戦争していた
陸軍も酷いし海軍も酷い 政府と宮中は無力 戦争などできる国家ではなかった 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 天の時 地の利 人の和という これを一つとして満たさないという恐るべき作戦である
1944年春という時期を2年失した時
兵要地誌を無視した未踏のジャングルという地
師団と軍司令部 軍司令部と方面軍司令部の意思疎通のなさという和のかけらもない体制
発動前に作戦の失敗は自明であった 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 日本は神国で神風が吹くことに頼った
牟田口は猛省すべきである 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 ↑これはただのコピペアラシ
コピペアラシ行為は論理より精神論の牟田口的だ 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 >無能な働き者ってやつか
牟田口が働かなければ6万人も死傷者餓死者をださなかっただろう 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 >牟田口が働かなければ6万人も死傷者餓死者をださなかっただろう
牟田口の罪は作戦にあるのではない
作戦が失敗した後に撤退命令を出さなかったことに罪があるのだ 佐藤が敵前逃亡して作戦が瓦解しただけ
牟田口司令官にはなんの責任もない 部下の管理も統率もできなくても上司に責任はない
牟田口に責任がないなら、ミッドウェーの敗戦に山本五十六の責任はなく、サイパンの敗戦に東條の責任はなく、フィリピンの惨敗に寺内寿一の責任はない
清々しいほどのブラック体質 それが我らが皇軍 牟田口は皇軍を代表しない
皇軍は牟田口を罷免している 上司の責任をコン詰めると、天ちゃんの責任に帰すだけ 終戦直後天皇はマッカーサーに会い全責任は自分にあるので自分の身をゆだねるといい国民に食料を与えてくれることを懇願した。
マッカーサーは真の紳士に会ったと述懐している
牟田口は6万人を死傷餓死させ、自決するするといい部下から早くしろといわれ、戦後インパールの生き残りや遺族たちから非難され天寿を全うした
やるせない思いでいっぱいだ 6万人死んだ直接の原因は佐藤だが、
上司が責任を追うべきなら天ころが責任を取るべき
牟田口司令官に何ら瑕疵はない 作戦が失敗したことを悟ったのちも撤退命令を出さなかったのは何故だ?
補給がなく撤退命令が出なければ将兵はどうなるか、知ったこっちゃないのか? そりゃ、目の前の敵を倒せば食料を鹵獲できるのに
勝手に敵前逃亡するなんて思わんわなw 近代的な軍隊で敵前逃亡した将官って佐藤しか知らんのだが
他に誰かおるか? 無謀な作戦を強いるから優秀なほど部下が反抗するんだよ
ふざけんなというわけだ
ま、これは見解の相違もあるだろう
敗戦を悟っても撤退命令を出し渋ったのは何故だ?
補給なしで部隊を放置したら将兵はどうなると思う? そもそも敵前逃亡するくらいなら、最初から辞表だしとけ。
佐藤ではなく、宮崎が師団長だったら、英軍を撃破して、飯にありつけたのに。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 >そもそも敵前逃亡するくらいなら、最初から辞表だしとけ。
佐藤幸徳第31師団長は食料弾薬など補給がない状態で消耗を避けることを優先し決断した
牟田口は後で何とかなるとの考えだ
ここの二人については意見の相違があるだろう
問題は、6月5日には牟田口は作戦失敗を認識していたのだが報告せず、7月12日まで撤退命令が出されなかったことである
牟田口はインパールの将兵を見殺しにしたように見える
そもそも牟田口には将兵の命に対する尊厳がない。佐藤師団長とは逆だ 佐藤の敵前逃亡によって食事を得られず、
多くの将兵が死んだんだがw 佐藤師団長が牟田口の命令を無視したのは補給の約束が全く守られないからですね
補給なしで突撃突撃という牟田口に「師団を徒死させるつもりか」と憤っていた
佐藤師団長は部下を徒死から守り、牟田口は6万の将兵を徒死させたということです 宮崎が師団長なら敵を撃破して飯にありつけたわけ。
佐藤が敵前逃亡した結果、屍累々になった 敵を撃破できなければ味方が屍累々だな
そういうのを無謀な作戦という 宮崎が師団長なら敵を撃破して飯にありつけたわけ。
佐藤が敵前逃亡した結果、屍累々になった 自ら補給せずに、敵の食料を奪うなどというのは妄想であって作戦ではない 補給も送れないし増援もない
ひたすら戦闘序列の全軍が突っ込んでいくだけ 戦機に応じて増援すべき予備兵力もない 欧州戦線では予備兵力こそが戦機を決していたが、ムッチー作戦は、全軍が死兵と化して突っ込むという古代中国的な前近代的な作戦 ジンギスカン作戦とはよく言ったものである 古代から鹵獲して進軍するなんてザラにあるのに、
この佐藤の子孫は無知すぎるw 牟田口は古代の戦法が通用すると思ってたのか?
だから、噛みつき戦法を言ったのか
┐(´Д` )┌ ダメダコリャ 百歩譲って食料は鹵獲したとして弾薬はどーすんだって話だ
英軍のエンフィールド銃と三八式歩兵銃の銃弾に互換性などない
機関銃も山砲も戦車砲も規格が全く違う
銃を鹵獲したとして自軍の歩兵銃は廃棄してエンフィールドに切り替えるなんてできるわけもない
漫画の設定でももう少し考える その食うものがないからインパール作戦は失敗したんだよ
食料を鹵獲できなかったから負けたわけではない
これが分らんか? 8月の日本で上下完全装備に30kgの装備背負って1日25km 20日間で東京から大阪中山道ルートで歩く 食事は1日オニギリ3個 ムタグチスキーはこれをやってからものを言え
当時の兵の労苦の1/10くらいは体験できる 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 コピペ荒らしにいってもしょうがないけど
コヒマの戦いで宮ア率いる部隊は死屍累々で
防衛に徹した佐藤はそこまで被害を出してない。
なぜなら宮アはこの後退却戦闘の名手とうたわれる行動をしたが
コヒマに於いては無能陸軍将校にいくらでもいる
現場を知らない”突撃バカ”でしかなかったから。
むしろ手元の兵力を全てすりつぶして反省し、
佐藤から兵力を融通してもらってからが退却戦闘の名将宮アとなる。
そしていうまでもなく退却戦闘で
敵を撃破して飯にありつくことなんかできない。 インパール戦の将兵たちは補給のない攻撃命令に戦った。
草、虫など食べられるものは何でも食べた。多くの将兵たちは衰弱し病死し餓死していった。
仲間が死ぬと葉っぱをかけて弔うのだが、そうする方も衰弱し数十センチの溝が跨げなくなっているのだ
補給がなく衰弱していく将兵のことは、フィリピン戦だが「私の中の日本軍」(山本七平著)に詳細に描かれている。
思い出すだけで涙が出、やるせない思いでいっぱいになる。彼らの無念は我々が思うことで供養になるはずだ。 佐藤幸徳第31師団長が命令無視をしなければ、佐藤師団長配下の1万数千人も徒死しただけだ
インパール作戦の全責任は牟田口廉也司令官にある >>895
退却戦なんてのは士官学校でも陸大でも教えない
日本に限らずどこの軍隊でも同じだろう
攻撃、あるいは防衛戦の名将は多々いるが退却戦の名将は少ない
退却に継ぐ退却の実戦経験によって退却戦の名手が産まれる、凄まじい兵の犠牲の果てに 独断撤退を決めた第31佐藤師団長は6月1日まで作戦通りコヒマを占領していた
インパールは第33師団柳田師団長が攻略する計画だったができなかったのだ
牟田口は怒り狂って5月に柳田師団長を更迭し、6月に山内第15師団長も更迭したがが後任もできない
インパール戦の失敗を佐藤師団長に押し付けるのは誤りである 4月5日に第31佐藤師団宮崎支隊が作戦通りコヒマを占領した
4月10日頃第33師団がインパール攻略に加わったが、5月中までに攻略できなかった
5月中にはイギリスが優勢になっている
5月15日第33師団長柳田の更迭
・この時点でインパール作戦は失敗している
●6月1日第31佐藤師団コヒマ独断撤退
敵前逃亡ではないことがわかるだろう 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 5月15日第33師団長柳田の更迭(インパール作戦失敗)
7月3日午前2時半インパール作戦中止命令が到達
牟田口は作戦失敗を覚ってから一月半作戦中止命令を出さなかった
ろくな補給のない将兵は傷病餓死したのだ
牟田口は将兵を駒としか考えていない愚将である 佐藤が敵前逃亡した結果。
コヒマでも読んで知識つけろks
妄想ではなく根拠のある発言をしろ 気狂いに論理的思考とかエビデンスを求めるのは八百屋で魚を求めるようなものである
そんなものがないから気狂いなのである 牟田口の3週間でインパールを攻略し食料は鹵獲するので補給を重視しなくていい、という計画は失敗している
反論があれば述べてみな↓
インパール作戦は、第31師団がコヒマを占領し敵の補給を断ち、第15師団と第33師団がインパールを3週間以内に占領するというものだ。
4月5日 第31佐藤師団宮崎支隊が作戦通りコヒマ占領
4月7日 第15師団インパールの北15キロまで進撃
4月10日頃 第33師団がインパール攻略に加わる
5月15日 未だにインパール攻略できず第33師団長柳田更迭
この時点で「3週間以内に占領」という目標をはるかに超え、作戦失敗は明らか
●6月1日第31佐藤師団コヒマ独断撤退
6月23日第15師団長山内に更迭
7月3日午前2時半インパール作戦中止命令が到達 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 反論がないようなので却下だ↓
>佐藤が敵前逃亡した結果。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 乃木希典は軍服の聖者と言われたが司馬による名誉毀損によってボロカス言われた。
牟田口司令官も全く同じ。 史実を学ばず口先だけで批評するマヌケが多いのである。 乃木将軍は自刃しすべての責任を取った
牟田口の責任の取り方は何だ?
>司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行させたのだった。このことはあまり知られていない。
あの6万人白骨街道が確信犯だと?
いずれにしろ、牟田口は万死に値する 牟田口司令官の作戦は完璧だったのに
敵前逃亡して6万人殺した佐藤はどう責任とったんだ? 佐藤師団長は、作戦が失敗したにも関わらす作戦中止命令が出せない牟田口を見切って、5,500人もの将兵と共に生還した
生還者は四国出身者が多く佐藤に感謝する元兵士らの戦友会によって、香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立された。
佐藤師団長は5,500人の将兵を生かし、牟田口は60,000人の将兵を徒死させた。
佐藤師団長「これ以上、可愛い部下を殺したくない」
牟田口 (食料武器弾薬がなくても)「口で噛みついて行け」 当時の軍部エリートはなぜか精神論にハマっていたからね 自軍は敵前逃亡で生き残れても、周りの師団はそうはいかん
阿呆の佐藤でもそれくらいは理解できたろうに、あの有様
宮崎が師団長だったらと悔やまれるのが、インパール作戦 師団長は親補職だから、つまるところ天ころが悪いとなる。 補給が難しい作戦なのでインパール攻略まで3週間以内と定めていた
ところがコヒマ占領から6週間たっても攻略できない
作戦失敗は明らかだ
佐藤師団長のコヒマ撤退は9週目だ
ここで作戦中止していれば生還者は佐藤師団ぐらいいただろう
将兵を6万人も徒死させたのは牟田口なんだよ コヒマ占領後、ディマプールに進軍しなかったからだ。
阿呆は無茶苦茶な作戦と思っても、英軍は急に3個師団も山を超えて殴り込んでくるなんて
全く想像せず、奇襲は完全にあたってた。
英軍側の本である、コヒマも読んだことない能無しだから、マヌケな指摘ばかりする ディマプル進軍はインパール作戦にない
牟田口が勝手に命令し河辺司令から命令撤回された
牟田口は越権命令ばかりしている
第31佐藤師団がディマプルに進軍すれば攻略できただろうが、コヒマとディマプル2か所の維持は第31師団には無理だっただろう
コヒマが奪還されればインパール作戦が頓挫してしまうのでね 事実として、英軍の参謀が、佐藤がディマプールを攻撃すれば
とても厳しかったと述べている。
宮崎が師団長なら、この好機見逃さなかっただろうな。 インパール作戦計画は、コヒマを占領し敵の補給路を断ちインパールを攻略するというものだ
ディマプルはこの作戦に関係がない
イギリス軍は日本の計画を知らないからディマプルも占領されるのではないかと恐れたのだろう
日本軍は深追いをして肝心のコヒマを奪還されたら元も子もないと判断し、河辺司令が牟田口の勝手なディマプル進出命令を撤回したのだ
真珠湾攻撃でも真珠湾にもう少し留まっていれば、外洋にいた空母エンタープライズなども破壊しアメリカ太平洋艦隊を壊滅できたかもしれないが、南雲忠一中将は深追いをせずに切り上げた
ハワイに留まることは計画にないし、東南アジアの占領維持が日本にとって大事だからだ 司令と司令官の違いすら分からん軍事オンチだから
まぬけな事ばかり書いてやがるw 牟田口は戦後も自分をほめた敵将の文章を見せて回っていたらしい。
恥知らずにも程がある。
敗れた相手に対しても敬意を払うコメントをするのが英国ジェントルマンで、単なる社交辞令に過ぎない。
一人だけ生き残っただけでも許されないのに、自己弁護宣伝するとは日本人の中で史上最低。
戦争犯罪は家族にまで罪はないが、牟田口の家族だけはこいつの行為を許したことで罪を負うべき。
子々孫々にいたるまで呪われてしかるべき。牟田口の墓はあるらしいので、皆で小便をかけに行こう。 牟田口は6万将兵の白骨街道の責任を取っていないので
我々が牟田口を糾弾し、二人目の牟田口を出さないようにしなければならない
責任は牟田口廉也にあるので、他の人は関係ない で、敵前逃亡して6万人殺した佐藤は
戦後切腹でもしたの? 計画:3週間以内にインパールを攻略する
・6週目 攻略できない ←作戦失敗は明らか
・9週目 佐藤師団コヒマ退却 ←作戦中止命令を出せない牟田口を見限った
・13週目 作戦中止命令が到達 ←6万人の白骨街道となる
どこが佐藤師団の敵前逃亡なのかね? 敵前逃亡の意味すらわからぬアホw
撤退は上官の許可が必須だろ。 計画:3週間以内にインパールを攻略する
・6週目 攻略できない ←作戦失敗は明らか
・9週目 佐藤師団コヒマ退却 ←作戦中止命令を出せない牟田口を見限った
・13週目 作戦中止命令が到達 ←6万人の白骨街道となる
敵前逃亡ではないことはいいですね
佐藤師団長の独断撤退については、軍法会議にて全てを明らかにする覚悟だ
それほど牟田口は信頼されていなかったということだ
軍法会議では、牟田口が作戦中止命令を出し渋ったことが裁かれるだろう
ディマプルへの独断命令もだ 敵前逃亡の意味すらわからぬアホw
撤退は上官の許可が必須だろ。 反論できなくなるとコピペかい ┐(´Д` )┌
軍法会議は開かれなかった
佐藤師団長も牟田口も更迭だ
両成敗という人事だな 司令と司令官の違いを知らず
敵前逃亡と撤退の違いもわからない
DQNやんけw おやおや、今度は人格攻撃ですか 牟田口っぽい プッ
どこの組織でも上司の命令は従わなければならない
無能な上司の場合どうするか
上司より上級者に訴えるしかない
佐藤師団長は軍法会議で訴えようとしたわけだ
軍法会議は開くべきだったな
牟田口の罪はたくさんある↓
・補給の約束を守らない
・ディマプルへの独断侵攻命令をだした
・作戦中止命令を出し渋った ←万死に値する だから、言い散らかすんじゃなくて説明してみな
それを説明できなければ理解していないということだ
佐藤師団長は5,500人の将兵を生かし、佐藤を悼む碑が建立された
牟田口は60,000人の将兵を白骨街道にし、今日の今も糾弾されている
牟田口を支持する人がいる限り糾弾は続くだろう だから、なぜそう思うのだね
無能な上司の「噛みついていけ」などという無謀な命令なら、上級者に訴えるしかないだろう うぬの国語力では敵前逃亡と撤退の差を理解できていないから
例えばフィリピンでマッカーサーは逃げたが、
上官からの命令だったので敵前逃亡とは言わない マッカーサーの逃亡は大統領からの命令だったという話ですね
そんなことなら、牟田口は再三に渡って佐藤師団長の撤退を追認する命令を送ってますよ 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 で、佐藤師団長は敵前逃亡ではないというのは理解したな
6万将兵の白骨街道の全責任は牟田口にあるということだ >上官からの命令だったので敵前逃亡とは言わない
上官の牟田口は佐藤師団長に撤退追認命令を出したから、「敵前逃亡とは言わない」だろ
自分で言ったことを忘れるな で、反論はないようですね↓
6万将兵の白骨街道の全責任は牟田口にある 牟田口司令官の命令より先に佐藤は逃亡を開始した
そういうことだ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。