長州藩の城下町だった萩は明治維新後は悲惨な歴史を歩んでいる

長州閥官僚は明治政府内の主導権争いをしていく上で版籍奉還や地租改正や廃城令、藩資産数十万両を国に供出するなど
積極的に地元の萩を犠牲にして手柄をたてていった

かつての城下町であった萩は県庁所在地を仮政庁の山口へ移され上級士族の県役人はそちらに移住したが
戊辰戦争において大いに武功を立てていた長州軍は将校たる士族と下士官・兵卒の非士族階級の次男三男の混成軍であり
彼らは御親兵としての雇用を望んだが、長州藩は戊辰戦争で手に入れた占領地を版籍奉還で明治政府へ返還し藩歳入の減少を口実に
下士官・兵卒3000名を補償無く解雇した
この解雇の本当の狙いは木戸孝允・山縣有朋が推し進める国民皆兵の推進と、軍最高幹部前原一誠が反発し辞任するのを見越した謀略である
これにより萩は一時的に稼業を持たない失業者で溢れかえったが脱退騒動が鎮圧されると
萩を去り一部屯田兵として帰農し、一部は東京に職を求めて移住していった

廃藩置県では多くの藩の負債は政府が肩代わりして帳消しにしているが、
幕末の戦費債権や薩摩の有名な250年分割払いなどは廃藩置県のどさくさで踏み倒された御用商人は打撃を受けた
また、安くて良い輸入品が流通したことで長州の専売品であった紙と綿産業が大打撃を被り多くの商人が没落し
農家はハワイへ1万人以上移住を余儀なくされた
これらの複合要因で奇兵隊の支援をしていた白石正一郎や松岡洋右の実家など豪商が何件も破産している

中野梧一山口県令が行った士族授産は時代錯誤の「木綿」だったため全く軌道に乗らなかった
その後も国による積極的な士族授産は行われなかったが下野した前原一誠らにより夏みかんの栽培が試みられた
さらに秩禄処分で士族も失業すると前原らは萩の乱を起こし萩の城下町は炎上した
笠井順八が小野田セメントを興したのは萩の乱から5年後である

その後は萩復興のために官製事業が要望されたが政府は復興を黙殺し、
陰陽連絡路線の事業化の声も地元出身の鉄道庁長官井上勝は東北本線の事業化を優先し、中国地方の鉄道事業は民間に任せた
明治39年に長州人脈の強い山陽鉄道が国有化されても陰陽連絡路線は長州優遇の誹りを避けるために見送られ続け
萩で鉄道が開業したのは大正14年の美禰線である
この路線は奇しくも小野田セメントの石灰を運搬するために作られた貨物輸送色の強い路線である

その後も萩への鉄道事業化は進まなかったが、批判の起こらないバス路線の事業化は容易に通り
全国の大都市を差し置いて日本で2番目のバス路線という異例の速さで
昭和6年国鉄バス三山線が陰陽連絡路線の代替路線として運行を開始した
まともな旅客輸送である山陰本線が全線開業するのは昭和8年2月24日
この日は日本が国際連盟を脱退した日であり、明治2年の東京奠都からちょうど64年後であった