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上海事変>>>>>満州事変
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0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2014/02/19(水) 22:35:04.56ID:lbuw24D60
中学、高校の教科書とかだと満州事変のついでだけど実際国際的には上海のほうが重要だよな
0033名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/12(木) 23:57:32.34ID:OLtbI3m/0
>>1
そうだよ。それが日教組の歴史改ざんなんだもん

上海クーデターと1927南京を公然と改ざんする歴史なんだもん
いきなり「張作霖爆殺」からはじまるようにミスリードされてるの
0034名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/13(金) 05:08:59.32ID:pegqJS3X0
いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』

U54
0035名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/29(土) 00:27:25.12ID:eZXy5RVX0
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J 秀才君いわく、「教養が邪魔をする。」
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0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/09/04(水) 13:59:27.20ID:zoMcmYfO0
アメリカ版満州事変、トンキン湾事件について。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/09/04(水) 14:14:53.62ID:zoMcmYfO0
アメリカが北ベトナムに先制攻撃をしたにも関わらず、先制攻撃をされたと主張。日本が中国に先制攻撃をしたにも関わらず先制攻撃をされたと主張した満州事変になぞらえられる。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/09/07(土) 22:50:12.12ID:5k+SBb5G0
>>26
満州事変と言えば、張作霖爆殺のことでしょう?
あれはソ連説が出てきた。爆発した火薬もロシア製
リットン調査団と言うか、イギリスは早いうちに突き止めてて、
「張作霖爆殺犯は日本」と断定してない、ワザと曖昧にしてる

河本大佐は殺害計画を立てて、実行したが未遂
本人は功名心から「自分がやった」と嘘の供述、
根拠は東京裁判、この時に河本大佐は生きてて中国内の刑務所に収監、
日本の悪事を語らすのが目的の、東京裁判で何故、
実行犯とされる河本大佐の出廷をさせなかったか、中国が拒んだか

当時はともかく、今なら分かるでしょう?
まあ、そういう事でしょうな。
日本が悪者でないとさぞかし困ったのだろう
ただでさえ、東京裁判で日本側における主張、
その正当性は朝鮮戦争で証明されてしまったし
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/09/07(土) 23:08:24.30ID:5k+SBb5G0
第二次上海事変

1937年8/09 大山中尉(と斎藤水兵)惨殺(30発撃たれ、国際法違反のダムダム弾も使用)
1937年8/09 虹橋飛行場の銃撃戦

上海市長や停戦協定共同委員会(六か国で形成)は
志那川に謝罪と停戦協定を守るように勧告→志那軍、無視


1937年8/12 志那軍3万人で疎開地を包囲(日本4000)
1937年8/13 志那軍、国際租界地の砲撃を開始
1937年8/14 志那軍、租界のパレスホテル、キャセイホテルに爆弾投下。民間人100人以上が死亡
1937年8/23 志那軍、再び爆撃、シンシアー、ウイン・オンデパートに直撃、200人以上の死者を出す
1937年8/30 志那軍、米国の大型定期船プレジデント・フーバーを爆撃

志那軍は上海中心地をワザと狙って爆撃、
多数の民間人を殺した(多かったのはフランス人)

ちなみにこの爆撃を全て、日本軍の仕業に宣伝してますw
でも、NYタイムズの上海特派員も負傷してます、
こりゃ捏造するの無理だな。教科書にのせたがらない理由も分かる
0040名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/09/12(日) 13:13:45.88ID:KfGTYAi30
東大中国思想文化学研究室の住人
@UTokyo_chutetsu
https://twitter.com/UTokyo_chutetsu/status/1427614016247984130
8月15日にNHKスペシャル「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/3PV78WLVQ2/)が放送されました。
非常に面白かったですね。

この番組の元になった研究が、鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略:1937-1941――「蒋介石日記」から見る
日中戦争の深層――』(東方書店、2016年)です。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0041名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/09/12(日) 13:14:07.33ID:KfGTYAi30
手足の吹き飛ばされた遺体、ぎこちない笑顔の日本兵と子どもたち…戦前の「検閲済」絵はがきにのぞく“大日本帝国”
『絵はがきの大日本帝国』 #2
https://bunshun.jp/articles/-/47508

盧溝橋事件から第二次上海事変へ

 1937(昭和12)年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍部隊が夜間演習中、突然、銃声が鳴り響いた。
点呼すると、一人の二等兵が見当たらない。日本軍部隊は中国軍(国民革命軍)の攻撃と断定して直ちに応戦した。

 その後、兵士は見つかった。一時は緊張が高まったが、小規模な衝突に終わり、7月11日に現地で停戦協定が成立する。
日中両政府は「不拡大」の方針を示し、事態は一旦収束に向かった。そんな期待は裏切られ、全面戦争に至る。ちなみに
日本軍は駐留を北京議定書(1901)に基づくと主張していた。

 蒋介石率いる中華民国国民政府はドイツと友好関係にあった。ドイツ人軍事顧問団を招き、最新の銃器や装甲車を買い
揃えていた。ドイツにとって中国は最大の武器輸出先であると同時に、装甲や徹甲弾に欠かせない希少金属タングステンの
重要な供給元だった。

 上海と長江流域にはドイツ人によって訓練された精鋭8万人を含む30万人の中国軍部隊が配置されていた。中国軍は
万全の態勢で日本の租界(上海)を包囲、8月13日に市街戦が始まった。北京を中心とする華北方面の北支戦線に続いて、
上海戦線の火蓋が切って落とされた。第二次上海事変の始まりだ。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/01/10(月) 23:11:08.51ID:GBz3Dxdf0
真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」
https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/01/the-pacific-war-yoko-kato_n_13349530.html
――満州事変の解決提案「リットン報告書」は、日本を追い込む内容だったのでしょうか。

まず、リットンに率いられた調査団は、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・イタリアといった5大国委員から構成されていたことが
大事です。すべて植民地を持った経験のある帝国でした。彼らは日中の全面衝突を回避し、東アジアの貿易が拡大し、自らの
国の権益も安全に保たれればよい...その線での解決案を目指したはずです。

報告書は「張学良政権への復帰は認められない」と書く一方で、「現在の満州国そのままの存在も認めない」と書き、一見すると
日本側に厳しいように見えます。しかし、将来この地域につくられるべき仕組みは「過激なる変更なくして現制度より進展」させうる
とも書いていた。つまり「満州国の制度からスムーズに移行しうる制度だよ」と。

さらに、日本にとって好条件もあった。具体的には「新政権を現地に作るための諮問委員会メンバーの過半数を日本側とし、また
外国人顧問のうち充分な割合を日本側が占めてよい」ともいうのです。

――満州国が日本の傀儡だと分かった上で、リットン報告書はかなり妥協していますね。

ただ、このあと日本は自らの首を締める愚を犯しました。1932年の1月、第一次上海事変が起こされます。満州事変から
国際社会の目をそらすためとして、上海共同租界内で日本人僧侶が中国人に襲撃されたといった事件を日本側が作為し、
これをきっかけに中国側との軍事衝突が起きます。

――中国との紛争を抱えている状態で、さらに日本は紛争を増やしたわけですよね。なぜそんなことを...。

満州事変に注がれている世界の目を逸らすためと言われていますが、この通説は余り説得的ではありません。

満州事変が起きた時、中国は、国際連盟規約第11条によって連盟に提訴しました。この11条での提訴の場合、紛争処理は
理事会が担当します。まさに、1931年12月に理事会が派遣を決定したリットン報告書のラインで処理される訳です。

しかし、この後に上海事変が起こされると、中国は日本を規約第15条で提訴し直します。これは、国交断絶に至る恐れのある
大きな紛争が起こった場合の規約です。11条と違って15条による提訴の場合、日本は最悪の場合、連盟の全加盟国から
敵国と名指しされ、経済制裁を下される可能性も覚悟しなければならない条項でした。

担当する部署も、理事会ではなく、総会となります。出先の陸軍などはこのような連盟規約の構造を充分に知っていたので
しょうか。そうは思えません。

理事会と異なり、総会には加盟国全てが含まれます。15条での提訴では、紛争の解決案を書くメンバーも、リットンらの
5大国委員ではなくなるわけです。上海事件後の日中紛争は、「19人委員会」が担当することになりました。ここには、
グァテマラやパナマといった国も含まれる。確かに、日本側が憤っていたように、日中間の歴史的経緯について知らないと
思われる中南米諸国なども関与することとなったのです。日本側は怒りますが、そもそも窮地に陥る根本的な要因を作った
のは日本側でした。

――結局、日中間の紛争に関与する国が多くなってしまった。

当時の連盟を支えていたのはイギリスでしたが、第一次世界大戦で敗北したドイツの復活を恐れるヨーロッパ諸国の安全保障上
の懸念は、イギリスの対日態度にも影響を与えました。当初は日本に宥和的な態度をとっていたイギリスも変化していったの
です。この「19人委員会」が書いた日中紛争解決案は、リットン報告書よりも日本に対して厳しい内容でした。

――日本側はどう対応したのでしょうか?

意外かも知れませんが、全権の松岡洋右は粘りに粘って交渉しました。ただ、主たる交渉の向かう先が本国の外務大臣、
内田康哉であったことは悲劇でした。イギリスの仲介や中国政府内の対日妥協派の態度に望みをかけていた内田外相は、
連盟の「19人委員会」がまとめた解決案に妥協すべきだとの、松岡全権のもっともな要請を拒絶し続けたのです。

33年1月、松岡は「物は八分目にてこらゆるがよし」とし、「脱退のやむなきにいたるがごときことは、遺憾ながらあえてこれを
とらず」と述べ、妥協を内田に薦めます。しかし、内田は、日本側が強硬に主張し続ければ、イギリスと中国は最後に日本に
屈服するとして、最後まで妥協を許しませんでした。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/01/10(月) 23:11:51.53ID:GBz3Dxdf0
開戦 太平洋戦争 〜日中米英 知られざる攻防〜(前編)
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/blog/bl/pneAjJR3gn/bp/pYp75d9Vq8/
これまで、日本とアメリカの関係を軸に検証されてきた「開戦に至る道程」に、新たな光が当たろうとしています。近年、蒋介石が残し
た膨大な日記や書簡などが相次いで公開されたことで、日本や中国で、多角的な分析が進みました。そして、太平洋戦争開戦に、
中国が決定的な役割を果たしていたことが明らかになったのです。

蒋介石の日記はアメリカのフーバー研究所で保管されています。しかし、そのごく一部がパンフレットに掲載されているだけで、
コピーや撮影は遺族の意向で許されておらず、その解読は進んできませんでした。

<上海事変 “国際化”という罠>

盧溝橋事件の1か月後。第二次上海事変が勃発します。これが、蒋介石が巧妙に準備した最初の戦いになりました。

張発奎(ちょう・はっけい)指揮官の証言「我々が上海事変(813事変)を起こしたのであり、その逆ではない。国際的な干渉を引き
起こすのが狙いだった」

欧米列強の領事館や外国人居住区が集まる国際都市だった上海。蒋介石は精鋭部隊をあらかじめ投入。トーチカと呼ばれる
防御陣地で日本軍を待ち構えていたのです。アメリカで上海事変の資料を発掘した北海道大学の岩谷將(いわたに・のぶ)教授。

「ここまで明確に、上海戦を中国側が準備をして始めたということは、これまでの回想などでも述べられてはいなかったので、
そういう意味では非常に新しい」
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/02/07(月) 02:47:53.33ID:cO+QNeRV0
陸軍の暴走を止められなかったので、満州事変、226事件、日中戦争が起きた。
その始まりは張作霖爆殺事件で陸軍の圧力に屈して軍法会議も開かず首謀者を処罰できなかったこと。
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