【戦前】 旧制の学制について2 【教育】
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尾崎放哉の生き方学ぶ 香川・土庄で講演会、70人聞き入る
http://www.sankei.com/region/news/170124/rgn1701240031-n1.html
放哉の中学時代は、机を並べて学ぶ士族と平民の数が半々から平民の方が多くなる分岐の時期だった。
下級武士出身の放哉は多様な価値観を共有し、一高から東京帝大へ進み学ぶなか、
家柄で将来が決まっていた時代から進路を自分で決める“第二世代の明治期”に青年期を過ごし、生き方を模索した。 広島文理科大学入学者の学歴 (出典:『広島大学二十五年史 包括校史』)
|高等師範学校|高等学校|女子高等|臨時教員|私立大学|中等学校|
年 度 |. 卒業者および .| |師範学校|. 養成所 .|専門学校| 教員 | 合 計
| 3学年修了者.|. 卒業者 .|. 卒業者 .|. 卒業者 .|. 卒業者 .|有資格者|
――――┼――――――┼――――┼――――┼――――┼――――┼――――┼――――
昭和04年| 89 | 6 | 0 | 7 | 2 | 11 | 115
昭和05年| 51 | 11 | 2 | 16 | 5 | 2 | 87
昭和06年| 32 | 11 | 2 | 23 | 7 | 6 | 81
昭和07年| 52 | 15 | 0 | 13 | 8 | 14 | 102
昭和08年| 57 | 9 | 4 | 24 | 5 | 4 | 103
昭和09年| 67 | 7 | 0 | 24 | 6 | 6 | 110
昭和10年| 64 | 9 | 2 | 23 | 11 | 8 | 117
昭和11年| 69 | 11 | 2 | 23 | 11 | 15 | 131
※高等師範学校第3学年修了者に受験資格が与えられたのは昭和7年度から。
合格者の7〜8割は高等師範学校と臨時教員養成所出身者だった。 秦 郁彦 『旧制高校物語』
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166603558
統計数字で眺めると、帝大の収容定員は高校のそれを3〜4割上まわる比率で推移してきたが、
大正末期には1割前後上まわるあたりまで下ってしまう。問題は全体の収容力にとどまらない。
特定大学の人気学部(科)への志望が集中する場合には入試でふるい落すしかない。
この頃から東京帝大の法学部や医学部は2倍前後の競争率を示す。京都帝大の法学部は
入試をやったりやらなかったりだったが、後発の帝大のなかには2次、3次募集で集めても
定員に満たない例も決して珍しくなかった。
そこで新設や定員割れで不人気の帝大や学部は、傍系の高等専門学校卒業生や
検定合格者などを受け入れるようになる。逆に専門分野にこだわる高校卒業生は
帝大をあきらめ単科大学(岡山医大、東京工大、神戸商大など)へ流れる者も出てきた。
帝国大学入学者の旧制高校卒業者率(昭和15年)
┌───┬───┐
│東 京│ 96.0%│
│京 都│ 91.6%│
│東 北│ 79.0%│
│九 州│ 57.2%│
│北海道│ . 4.4%│
│大 阪│ 75.2%│
│名古屋│ 80.6%│
└───┴───┘
出所:竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』
(注)北海道帝大は原則として予科からの進学者だけであるが、
理学部は高等学校高等科や高専からの進学を認めていた >>245-247
他人の書き込みを泥棒コピペして楽しい? このスレ的には、天野郁夫氏の三部作は必携だろう。
中公新書
●大学の誕生(上)帝国大学の時代
2009/5/25 384ページ 本体940円(税別)
●大学の誕生(下)
大学への挑戦
2009/6/25 424ページ 本体980円(税別)
中公叢書
●高等教育の時代 上
戦間期日本の大学
2013/3/25 418ページ 本体2800円(税別)
●高等教育の時代 下
大衆化大学の原像
2013/3/25 436ページ 本体2800円(税別)
名古屋大学出版会
●新制大学の誕生 【上巻】
大衆高等教育への道
2016/7/30 372ページ 本体3600円(税別)
●新制大学の誕生 【下巻】
大衆高等教育への道
2016/7/30 416ページ 本体3600円(税別) 欠点なんてどの本にもあるし、これだけ読んどきゃいいなんて決定版はない。
致命的な誤りを多数含むのでない限り、欠点ともども飲み込んでいくしか無い 『「働く青年」と教養の戦後史』という本を読んでいるが
人生雑誌という教養をわかりやすく説いた雑誌が戦後急増した
新制中学卒労働者の知的水準の底上げに寄与したらしいけど
戦前はどうだったのかな。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 文
|北海道大|東北大学|東京大学|名古屋大|京都大学|大阪大学|九州大学|一橋大学|
|文学部 |文学部 |文学部 |文学部 |文学部 |文学部 |文学部 | |
|法学部 |法学部 |法学部 |法学部 |法学部 |法学部 |法学部 |法学部 |
|経済学部|経済学部|経済学部|経済学部|経済学部|経済学部|経済学部|経済学部|
|教育学部|教育学部|教育学部|教育学部|教育学部| |教育学部| |
| | |教養学部| | | | | |
| | | | |総合人間| | | |
| | | | | |人間科学| | |
| | | | | |外国語学| | |
| | | | | | | |社会学部|
| | | | | | | |商学部 |
理
|北海道大|東北大学|東京大学|名古屋大|京都大学|大阪大学|九州大学|東京工業|
|理学部 |理学部 |理学部 |理学部 |理学部 |理学部 |理学部 |理学部 |
|医学部 |医学部 |医学部 |医学部 |医学部 |医学部 |医学部 | |
|工学部 |工学部 |工学部 |工学部 |工学部 |工学部 |工学部 |工学部 |
|農学部 |農学部 |農学部 |農学部 |農学部 | |農学部 | |
|薬学部 |薬学部 |薬学部 | |薬学部 |薬学部 |薬学部 | |
|歯学部 |歯学部 | | | |歯学部 |歯学部 | |
|獣医学部| | | | | | | |
|水産学部| | | | | | | |
| | | |情報文化| | | | |
| | | | | |基礎工学| | |
| | | | | | |芸術工学| |
| | | | | | | |生命理工| 公立の新制高校は希望者全入すなわち尋常小学校に対する高等小学校のような位置づけにならなかったのが不思議だ。
いわゆる高校3原則ではそうするつもりだったようだが新制高校は旧制中学や高等女学校を
受け継いでいたからエリート主義が色濃く残っていたのだろうな。 そもそも高等小学校に相当するのが
新制中学ということちゃうんかいな。 >>256
古い県立高校卒業だけどお年寄りの先生に聴いたとこでは新制になったとき
模範は旧制中学ではなく旧制高校を目指したとのことだった
旧制中学4修の場合、新制高校3年生が旧制高校2年生にあたるので
ほぼ同年代だ
白線や応援団の高下駄の文化は旧制高校を真似した戦後のものだ
GHQの改革を真に受けて実施した広島県や京都府では私立高校の天下になり
貧乏人の子供は頭が良くてもチャンスがなくなってしまった >>259
旧帝大は学部の募集をやめて大学院大学になると実質旧制に戻ると思う
中等教育は公立中高一貫校が増えてきて旧制にもどりつつある >>260
工業高等専門学校も旧制工業専門学校のカリキュラムを模倣しているのでは >>261
そうだけど、旧制工業専門学校出身のお爺ちゃんたちは新制の高専と同格に
されるのを嫌っていて「新制大学と同格です」と強調していました。
ほとんどしんでしまいましたけど。 >>262
旧制官立工専(高工)の大部分が国立大に移管されただろ
私立明専は国立九工大になったが いくつかの旧制専門学校が学制改革の際に4年制大学にならず、設備の関係で短期大学になったのは痛かったな。突貫工事で設備を整えて最初から4年制にしておけば、「歴史の古い大学だ」と評価されたのに。
鹿児島国際大学、熊本学園大学がいい例。知名度が低い別府大学が最初から4年制だったのに。 >>264
熊本商大は戦中にできた語学学校なので実は高商系ではない
社会科学系学部を新設するので時間を要したのだろう
また前述の通り旧制熊本(東洋)語学専門学校じたい歴史が浅い
鹿児島国際大は上手くやりくりすれば松山大のようになれたかもしれない
ただ松山大の発展は愛媛大の補完的(立地含め)立ち位置を確立出来たことが非常に大きい
八幡大のように短大を経ずに昇格しても歴史と伝統を活かしきれなかった大学もある
北九大は外語が看板であり旧小倉市立、八幡大はその名の通り旧八幡市にあったので
北九大に足りない法(経済)を補完できなかったんだろう >>265
八幡大学もそのままの名称でよかったのに九州国際大学なんて名前にして。
確かに鹿児島国際大学はチャンスもありましたな。
あと、戦時中に設立されれば十分「歴史のある学校」と思えるけど。
それから、九州には私立の旧制専門学校がかなり設立されてますね。前述の鹿児島、熊本、八幡、長崎、久留米。これより大きい町である名古屋は名城、同朋しかないのと比べたらかなり多いです。なぜでしょう 戦後になっても父親の世代は長崎大学経済学部のことを「けいせん」
九州工業大学のことを「めいせん」といっていました。 >>266
団塊Jr.にとって寂れた地名の八幡という名前はダサかったんだろうね
一応西南も戦時は経専だし福大は九州(福岡)経専と福岡外専
西南女学院専門学校(終戦後)もあった
西南と西南女学院は別法人なので南山と違い西南女は西南の附属校ではない
福岡で残念だったのは私立(のち県立)九州医学歯学専門学校が
B級判定で医科廃止となり県立九州歯科大になったこと
仮に北九大の母体が明専と小倉市立小倉外事、県立医学歯学専門だったら
九工大は熊大工相当なので都立大や大阪府立、市立大に及ばすとも
熊大以上広大未満くらいになっていたかもしれない
もっとも新制学制発足時に官立県立市立が合併できたのか怪しいけども
愛知の私立だと南山が終戦後に旧制外語専門だね
>>267
明専を創設した安川は高工だけではない綜合大学を見据えていた(故に校名に工を入れなかった)
なので他が高工から工業専門学校と衣替えする以前から明治専門学校だったが
S19に官立明治工業専門学校になり官立移管
明治農業専門学校は明大農学部で明専と関係はない
人と書き込みが分散するので学歴板の旧制スレに集約した方がいいかもしれないね >>259
AIによって労働の多くが自動化されると教育制度も変わらざるをえなくなるだろうね。 >>268
向こうは荒らしがいるからここは残しておこう。 >>253
そういえば、「若い根っこの会」ってあまり聞かなくなったね
中卒のブルーカラー層が減っているからか || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| 【東洋大学工作員・こりんたいずは大嘘つき】
||
|| ×「(東洋大学は)1920年(大正9年)に既に認可できる要件は整っていた」
|| https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
||
|| ○「人員、施設、財政などの条件を整えるのに長い年月がかかりました」
|| http://www.toyo.ac.jp/site/about/act.html
||
|| こりんたいずは出典なしでWikiを改竄する . Λ_Λ
|| 卑劣な工作員です。気をつけましょう。 \ (゚ー゚*) いいですね。
|| ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ . 〜(___ノ 〜(___ノ 哲学館事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>申請をしたにもかかわらず他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、
>早稲田大学、國學院大學などは1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が
>尾を引いたからではないかと当時の新聞は論説を書いている。
――朝日にはそんな論説記事はない。
早慶 両大学認可
6日文部省告示を以て財団法人慶応義塾に於て大学令に依り慶応義塾大学を設立する件、
同早稲田大学に於て大学令に依り早稲田大学を設立する件いづれも認可せし旨公示せり
(『東京朝日新聞』大正9年2月7日付)
六大学昇格決定 昨日の臨教委員会
臨時教育委員会は1日午後1時半より永田町文相官邸に於て開会
一木副会長以下山川、木場、澤柳、初野、平沼、関、金杉、鎌田、岡野、江木、三土各委員出席
文部省より中橋文相、南次官、松浦専門学務局長列席
前回に引続き左記六私立大学認可の件に付議論続出したるも
新大学令により認可することに決定 5時散会
明治、日本、中央、法政、國學院、同志社
(『東京朝日新聞』大正9年4月2日付) >当時の新聞は論説を書いている。
――そんな論説記事はない。
同志社の新組織 総長は海老名氏帰朝後決定
同志社にては24日午前10時より理事会を開き、海老名弾正氏を総長に推薦するの件および
大学組織の問題に就き協議せると。総長問題は目下帰朝の途にある海老名氏帰朝の時まで
保留する事となり、また大学組織問題は法文両学部および大学予科を設け、予科は大正9年4月開設、
両学部は同12年4月より開く事に決し、近く文部大臣に申請する事となれり。(京都電話)
(『東京朝日新聞』大正8年9月25日付)
駆着けた田尻学長が昇格請合で落着 専修大学遅走せの運動
学生は更めて三項の希望を提出して実行を迫る
全国各公私大学、専門学校の昇格運動は流行物になつて神田今川小路の専修大学でも
3日夜校友約300名、夫に同校学生全部参加して昇格問題を協議し議論紛々容易に帰結を見ず、
桜井学監、法博河津暹氏等交々立つて慰撫的演説を試みたが其要領は同大学は既に土地買収を
終り工事を急いで居るので、来学年度は附属中学も新設すべく遠からず実施されると言ふのであつた。
之に対しそれならば明確に其時期を示せと昂奮し「我等が在学中には実施不可能ならば潔く退いて
慶早に走る」と慷慨悲憤の態であつた所へ急を聞いて駆け着けた学長田尻子爵あたふたと壇に立ち
「我校は大正4年度既に昇格の腹案成り、新大学令発布と共に実施の筈であつたが各種の事情で
発表の時機に至らなかつたのを遺憾とする、然し本校は決して明治や中央などより遅れるが如き事はない」
と説き、一先静穏に帰したが、4日在学生側から留学生派遣、専任教授は可及的卒業生を以てする事、
人材登用、校勢発展を計る事などの希望条項を提出して学校に迫り、目下校友今村力三郎、
相馬学監などが両者間の斡旋に勉めて居る。
(『東京朝日新聞』大正8年12月5日付) >当時の新聞は論説を書いている。
――そんな論説記事はない。
富豪の寄附で昇格の國學院大學 近く文部省に手続 追て市外へ移転計画
新大学令の制定さるゝと共に早稲田慶應両私立大学では直に基金を募集して該制度に則る事となり、
いよいよ来たる4月から新学期を開始する運びになつたが、國學院大學でも当時よりその希望あり
関係諸方面に向かつて基金を勧説中の処、三井岩崎の各5万円を始め早川千吉郎氏が3万円、
久原房之助氏が1万円、其他学校出身者より10余万円寄附金あり、殆ど所定の金額に到達したので、
近く文部省に対し其手続をするさうであるが、之れと同時に校舎を市外に移す計画があるといふ。
(『東京朝日新聞』大正9年3月2日付)
内容一新の中央大学 岡松博士等15名専任教授 近く認可
私立大学の新大学令に準拠して認可された早慶両大学以外の各私立大学も目下其の昇格設備に
対して画策準備して居るが、彼の古き歴史を有せる元東京法学院、現時の中央大学も此の際
校友花井卓蔵博士、飯田延太郎、若尾彰八、横田千之助、三宅碩夫、指田義雄氏等が
理事者らと共に専ら斡旋尽力して昇格認可の申請中であつたが、5日文部省から松浦専門学務局長が
同校内に出張実地を調査したが、近く教育委員会に附することゝなつたが、昇格認可疑ひなしといはれる。
学校資金も三宅碩夫氏始め多額の寄附金あり、予定額に達すべく又専任教授としては岡松参太郎博士、
桑田熊蔵博士等15名科を分ちて法科、経済科、商科とし、予科教室は三宅氏の寄附金から
目下新築中で、軈て図書館の建築に着手する筈となって居る。
(『東京朝日新聞』大正9年3月7日付) >当時の新聞は論説を書いている。
――そんな論説記事はない。
法大昇格計画
法政大学においては予て来年4月より新大学令に準拠して大学を組織するの内議ありしが、
今回いよいよ議熟し、11日午前同校側より人を文部省に派して設備等に関し当局の意向を
質す所ありたり。同校は今回法学部と経済学部の2学部を設け供託金60万円を提出するの
準備既に成りしが、教員は現在60名を有する内専任教授20名あり。この点は尚多少増員の
必要あるべく、何れ新大学令に準拠して設備をなしたる上、本月下旬か来月上旬には
大学昇格の申請をなす筈なりと。
(『東京朝日新聞』大正8年9月12日付)
明大昇格協議 法商2学部設置
明治大学においては予て屡幹部の会合を催し大学昇格につき評議する所ありしが、
大体其方針決定せしを以て12日午後5時より同校において理事会議を開き、新大学令によりて
設備を完成すべく評議せる上、今月下旬頃大学昇格の申請を為す筈なり。
同大学は今回60万円の供託金を提供して法学部と商学部の2学部を設置し、
法学部を分ちて法律学科と政治学科の2科となし、別に現今修業年限2箇年の大学予科を
新高等学校令に依りて3箇年となし、其を第一部法学科、第二部商学科の2科に分てり。
尚従来卒業生に対して学術の薀奥を究めしむるが為に修業年限1年乃至6年の高等研究科
ありしを今回大学院となし、修業年限を2年以上となせり。大学院は法学部研究科と
商学部研究科の2科ありて各教授指導の任に当るべく、尚目下同校教授は約100名あれども
専任教授は14、5名なるを以ていよいよ大学昇格を実行する場合には専任教授を40名位となし、
尚不足の分は6箇年内に漸次補充する計画なりと云ふ。
(『東京朝日新聞』大正8年9月13日付) >>76>>80
戦前の帝大入試科目
法学部、経済学部 外国語のみ
文学部 外国語二、国語、漢文
理系学部 外国語二、数学、物理学、化学
(伊藤隆、百瀬孝「事典昭和戦前期の日本」p394)
定員に満たない時は入試がなかった
太宰が勉強せずに文学部仏文科に入ったというのは本当だけど
そのことを知ってたかどうか
そんなに知られてなかったかも知れない
朝永振一郎博士が、京大理学部なら入試なしに入れるだろうと
思って進学したので、知ってる人は知ってるかも
(定員を超えたので入試があった) まあ、とは言っても、
その旧制高校に入るのがなかなか難関ではあったので、
今の東大京大に比べれば易しいかも知れんが、
現代の難関国公立くらいの難易度はあったと思う。
学習院高等科はまあ、華族特権という奴やね。
皇族は軍人になるので、事実上華族限定と言っていいかな。 そうか、旧制高校じゃない人でも大学予科って進路があったんですね。 >>192-193
逓信官吏は大卒、高等文官試験合格者が基本かも
社会党党首の田邊誠氏(1922-2015)は
旧制前橋中学→逓信官吏練習所→前橋郵便局→応召→前橋郵便局→組合専従員→政治家へ
という経歴です 大学予科って言っても、
北海道帝国大学予科と龍谷大学予科では全然意味合いが変わってくるからなあ。 >>277
どちらかというと、今の大学院入試に近いね
>>279
予科だけでなく、高専、高師からもとっていた 特に東北帝大 高専っていうと、今の5年制の一条校みたいな。旧制度の学制下でも、専門学校や高等実業学校のことを高専って言ってたの? >>283
大正13年生まれの父親は「こうせん」と行っていた
工専という字だっかもしれないけど
工専 高商 経専 医専 高師 をまとめて言う言い方があったかはわからない 専門学校専門部や予科の柔道は高専柔道と呼ばれていたから
当時から一括りに高専だったんだろう
しかし高等師範が含まれるかどうか分からない 高専野球もあったが、結局は高校野球と専門学校野球に分裂した。
全国高等専門学校野球大会が昭和10年、高校と専門学校の両大会に分かれた背景には、
主催者の四帝大連盟の中で東大と京大の確執、さらには一高と三高の対立があった。
同大会は大正13年、京大の提唱で始まったが、創設当初から東大と京大が主導権を争い、
会場も東京と京都で1年交代の持ち回りとなっていた。しかし昭和3年になって京大が
大阪朝日の後援に加え、阪神電鉄の援助も受けることにしたため、会場は甲子園球場に定まった。
昭和5年になると、入場料を取って私鉄会社の援助を受けることに対して批判が起き、
一高が独特の高校野球精神の立場から“高専分離”を提案。専門学校勢の台頭が背景にあったが、
三高は「分離はレベル低下となる」と反論したため、結局、改革は行われなかった。
昭和7年、野球統制令が出されたことをきっかけに、改革論議が東大と京大の間で再燃。
東大の主張を容れる形で同9年は大会を2部制とした。しかし中途半端な改革だったため
再び論議を呼び、同10年春、連盟はついに解散した。
一高はこの機に乗じ、全国の高校を1ヶ所に集めて大会を開くことを提案、これが各校の賛同を呼び、
三高もやむなく従い、全国高等学校野球大会がスタートした。会場はやはり東京と京都の持ち回りだった。
同大会は3年間の戦時中断をはさんで昭和23年まで行われた。 >>286
寝技主体の高専柔道の精神はいま七帝戦に引き継がれているそうです 下級生は上級生にちんぽ見せながら踊らなければならない。 M検は新制になっても続いていたんだろ?
1970-80年代まで行われていたのかな、特に医学部
受験でおちんちんの皮を剥かれお尻の穴を調べられた人はまだ沢山存命しているはず
今の防大受験でもそこまでしていないはず 今それやってるのって、
もはや拘置所や刑務所だけかねえ。 北陸に旧制私立専門学校がないのはなぜかな。官尊民卑の風潮があるのは事実だが。金沢から一番近い京都にしても夜行列車で行く時代だよ。 >>292
萩から津軽までの日本海側に私立専門学校はいくつあるの? >>284
実際やってる仕事の内容からいったら、学識は高専で十分で
後は現場で覚える知識の方が大事って職業が大半なんだよなあ
町医者なら医専で十分っていう池田信夫の意見には賛成だなあ
やる仕事に対して教育にカネと時間かけ過ぎなのよ >>294
戦後だが子供の頃は満州免許とか朝鮮免許とか田舎の開業医の先生は怪しかったが
そでも大きな事故もなく村人に慕われていた。 >>294
ところが現在の日本の大学と高等専門学校の数の比は。 何でもかんでも6年制にしようとしているね
次は教育学部だっけ? 旧制だと私立高校にコネでねじ込めば実質無試験で帝大行けたってことでおk? 7年制尋常科(旧制中学)は府立一中よりも難しいから受験しないとダメ
学習院初等科(旧制小学校)にコネで入れるレベルは
華族かそれに準ずる(三島由紀夫の祖父くらい)位階勲等が必要
それでも平民の三島家は紹介者に頼み保証人になって貰わないと学習院へ入学できなかった
成城小学校は知らん
あまりにも低脳だったら高校の時に放校させられるだろう
しかし成城小学校から東大総長になった人もいる 甲南あたりもコネが利きそうな気がするなあ。
あくまでも心証だけど。 7年制尋常科って今の難関高校と比べてどうだったのかな
灘や開成レベル?府立一中より難しいってことは日比谷より難しいんだろうけど 以下Wikipediaより
府立高尋常科出身の独文学者山下肇によると、
昭和7年ごろの東京では、最も優秀な受験生が府立高等学校と
東京高等学校と武蔵高等学校の各尋常科か東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学し、
それらに落ちた者の上位層が府立一中や四中や東京高等師範学校附属中学校に入学、
その次の中位層が各府立中学校(九中まで)に入学、
そして一中や四中に落ちた者が麻布や開成に入学、
慶應普通部や早稲田中は三流四流の扱いだった、という
(『ふたりの昭和史』p.184-185)。
府立高、東京高、武蔵は旧制7年制高校で今でいう灘筑駒のような一貫校
7年制は中学四修で高校入学相当と1年早く大学受験出来る
東京女高師附はお茶の水附属中学、東京高師附は筑附で
教駒(筑駒)は戦後の新制中高一貫なので存在しない >>300
旧制甲南は小学校がないので受験しないといけない >>302
ハリーポッターの学校を見ると学齢13年生まであり、教師のことを
プロフェッサーと呼んでいる。 これは灘筑駒のような中高一貫校ではなく
旧制7年生高等学校なんだね イートンなどのパブリックスクールも13年生まで
いて教養課程は済ませてしまう。旧制の学制を見たかったら英国に行くと良い。 尋常科受験=今の高校受験だからそれさえ突破すりゃ帝大までエスカレーターなんだよな
安倍ちゃんも旧制なら帝大には入れたのかもね
成蹊は小学校からだし >>303
その受験をコネで下駄履かせるということじゃないの。 >>306
落ちこぼれたら落第のあとは放校だろ?
底辺の旧制私立高校がどこか知らんけど甲南は出自がしっかりしている そういうのは戦前から慶應幼稚舎へいくか華族は学習院へいく
昔はコネも実力のうちだし慶應は受け入れていたと思うよ
7年制高校は旧帝へ進学するのが目的だから裏口入学しても
結局本人の為にならない >>308
入っちゃえばこっちのもんじゃね?
つか文科だったら語学さえ出来ればどうにかなる気もするけどな
受験資格も文学部志望なら大抵無試験だし >>307
高校を放校になったてのはあんま無くない?
1留はセーフみたいだし
むしろ帝大進学後に中退ってパターンが多い気がするわ
特に学習院からエスカレーターで進学して中退ってのは結構見る
志賀直哉とか >>310
あなたのレスは思い込みばかりですな
>>310
>高校を放校になったてのはあんま無くない?
ソースをお願いします
思想信条で放校になったのは記録に残るし
志賀直哉は成功者だから来歴に残る
落ちこぼれの末路なんざ大成しないのだから記録に残らないのかもしれないが
入学者と卒業者の差くらい本買って読めば書いてあるんじゃない?
因みに昭和初期の東北のある中学は約10%が落第をし20%超が半端退学をしてる
7年制高校尋常科のデータは見当たらないが結構な割合で放校になっていると推測される >>311
いやあんたも旧制中学のデータに基づく思い込みじゃん
7年制高校のデータが見当たらないんならお互い根拠は示せないんじゃないすか? >>312
しかしあなたは何一つ提示できていない
秦郁彦 高校物語
旧制武蔵高校は、山本良吉教頭(当初)の主導のもと、
英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で
純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、
ガリ勉を推奨した。それゆえ 東京帝国大学合格者数では及ばないまでも
進学率で旧制第一高校、旧制東京高校等と首位の座を争ったこともあった。
しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育に嫌気の差した生徒の退学が相次ぎ、
当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった >>313
勉強になります
しかし2留による放校(強制)と武蔵の学風に対する自主退学(任意)って違うような気が...p >>315
嫌気が差したってことは自主退学じゃないの? >>315
まぁ武蔵はスパルタで進級も厳しかったてのはあるかもしれない
ただこの成蹊高の例は?
遊び呆けてても卒業できてるようだが...
高校によってまちまちってこと?
>小生は東京帝国大学の化学科を希望したのですが,中,高と遊び呆けていた
(※成蹊高校は、三菱財閥の幹部の子弟の教育を目的に岩崎家が創立した私立の中高一貫高のため、競争率の激しい旧制高校受験が免除されていた)つけが回って成績が届かず,東京工業大学に回されました。
(向山光昭東大名誉教授「化学よもやま話」より;同氏は私立成蹊高校出身) 旧制高校を出て帝大に入れなかったのかw
まあ、東京を離れたくなかっただけで、場所と学科さえ選ばんかったらどこかには入れたんだろうけど。 >>303
Wikipediaがソースなので断定は避けるけど、甲南も小学校があったみたいよ。
甲南高校尋常科への進学も無試験だったみたい。
しかも、少数精鋭制と経営難が祟って授業料が高く、親の世帯収入が全高校でトップだったとか。
ますます、金さえ積めばなんとかなりそうな感じがしますな。 >>319
旧制だったら安倍ちゃんも東大に入れたかもしれないということか
家柄が良くて金があっても頭が悪いと東大には入れない新制もそう悪くない 学習院も甲南もそもそも定員が少ないし、
東大といっても人気の学科は選抜があるから、
当時はさほど問題にならなかったんだろうけど、
仮に旧制のまま制度が変わらなくても、
大学の大衆化が進む内に、必ずどこかで問題になってたと思う。 本屋で吉野 源三郎の君たちはどう生きるかが山積みにされていた
なんと漫画化されていたのだ! 戦前へのノスタルジーがあるんだろうか
最後に読んだのはリアル中学生のころだ
昭和10年代でもかなりリベラルな雰囲気が残っていることが驚きだったが 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
7F8KG 哲学館事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>この後、哲学館は東洋大学となり、1928年(昭和3年)に大学令
>(1919年(大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず
>他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは
>1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと
>当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に
>既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという
>内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。
君さあ…何でこんな嘘を書いたの?
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‖ ヽ::::::::::::::::/ソ ∧_∧
‖ __ イ二二二ニト、_ <丶`Д´>
|| / /ヽ >、/⌒ヽ ←東洋工作員
|| ./ ! / ハ、 ッ'-‐y' / i
||_ / | 〈_ ハ  ̄ ̄`⌒ー'  ̄ ̄ ̄ ̄/
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ヽ/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ Y ヽ__ノ /
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| | | 福知山は国鉄の機関区があるから工業専門学校から工学部に昇格させても良かったような気がする。その後、経済学部や経営学部を設けて総合大学になる方法もあったかもしれない スレ違いかもしれませんが
昭和10年代の国立の大学教授の
定年って、60才ですよね。
その後は大学に残ることができたんですか?
できたとしたら肩書きはなんですか? 昭和10年頃、
旧制高等学校の受験日って何月頃でしたか?
また、旧制高等学校に入学した人の日常が
よくわかる本などを
教えていただけませんか
知りたいのはできれば
第三高等学校のことです >>327
仮に残ることが出来そうなのは総長(学長)、病院長など組織のトップ
その場合教授のままだと思う
で定年などで退職する時に名誉教授が授与される
テレビに出るかなり年寄りの学者は名誉教授の場合が多い
退職した後も特に私立は特任教授など大学が定めた肩書きで残る場合がありそう
私の伯父は学部長時代、総長選挙に負けて肩身が狭くなりつつも定年退職
定年前から植民地的な国公立大学の学長にと請われていたので移った
国公立大学なのに伯父は70歳くらいまで学長をしていたので
その大学の学長は定年制ではなく任期制だったのだろう
伯父は二つの大学から名誉教授を授与されている
自伝によると学生から総長まで一生一大学を目指していたが夢破れた的なことが書いてある >>329
天野郁夫、秦郁彦や竹内洋などの本は読んだ?
秦郁彦『旧制高校物語』(文春新書)
入試日は全国上級学校大観に載っているかもしれない
>>331
申し訳ない
戦前の教授の話だったんだね
昭和10年前後生まれの人の話と勘違いしてしまった
戦前なら官立や帝大と頭の中に刷り込まれていたよ 教員志望者はほぼ全員高師から文理科大学に進学したの?
あと戦前の立正大や高野山大の評価はどのくらい? http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm
昭和19年の図を参照してくれ
普通は高師出たら先生になるだろう
東京高師出て東京文理科大進学てルートは
大学専門部から学部に移るようなものじゃない?
師範学校卒で高等教育者になりたい者が文理大受験
高師からも多少は文理大に進んだみたいなこと書いてあるね
文理大開学後も高師附属小学校みたいだから文理大と高師は並立していた
私大高等師範部の他大戦末期金沢、岡崎に高等師範があった
旧制立正大、高野山大が大学案内本で詳しく紹介されているのは
見たことがなく早慶が2ページ、明治が1ページ、日大中央が1ページ弱だとしたら
立正大はだいたい住所と概要くらいの数行
その筋では超エリートなんだろうけど坊さん以外に就職口あるの?
てか坊さんの子息がいく学校なんじゃないの? >>335
旧制立正大学にも専門部高等師範科がありますが…。 明治時代にできた日大早稲田高等師範と
昭和4年にできた立正高等師範では影響力が違う
考えてもみよ、昭和10年前に卒業し教諭になったとして
終戦時点ではまだ30歳前後の若手教諭だ >>338
なるほど。
影響力として日教組が台頭したのですね。 >>339
私大高等師範は全国的な影響力はなかった
東京、広島高師、旧二文理大が東西に大きな影響力をもっていた(広大は今も)
レポートの為なのかいつも質問ばかりなので検索して欲しい
山口の旧制中学教諭の出身校や俸給の推移などの論文が
ネットで読めたはずだから探してみてよ
日大高等師範や早稲田高等師範を題材とした論文も検索すれば出てくる
昭和に入り高師卒は即教職に就く率が6割くらいまでに下がっている
日教組に関して詳しく知らない
GHQも関係しているし昭和30年代くらいまでほぼ全ての職業に
赤化分子がおり何も日教組だけではなかった(国鉄の各労組や炭鉱、自治労とか)
下士官みたいと揶揄された都道府県師範卒の所謂師範タイプが転向しアカになったんじゃないかね?
ミスター日教組も高師、二文理卒ではなく青年師範学校卒 >>340
師範卒は一年兵として徴兵される
辻政信は軍人育成には少年教育が大切と考え特に師範卒の
短期兵には懇切丁寧に教え訓練をさせた
結果三千里の逃亡から舞い戻った辻は地元の先生が手弁当で
辻の国政選挙活動を支援した
辻は下士官にも優しかったので旧第7師団の連中は積極的に手伝った
兵より足腰が強く重いものを運べる陸士出なんてそうそういない 【捏造中】東洋大学ウリナラファンタジー【歴史をコリエイト中】
__ 「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」!
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三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/) 哲学館事件のせいニダ!
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