【戦前】 旧制の学制について2 【教育】
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>>192-193
逓信官吏は大卒、高等文官試験合格者が基本かも
社会党党首の田邊誠氏(1922-2015)は
旧制前橋中学→逓信官吏練習所→前橋郵便局→応召→前橋郵便局→組合専従員→政治家へ
という経歴です 大学予科って言っても、
北海道帝国大学予科と龍谷大学予科では全然意味合いが変わってくるからなあ。 >>277
どちらかというと、今の大学院入試に近いね
>>279
予科だけでなく、高専、高師からもとっていた 特に東北帝大 高専っていうと、今の5年制の一条校みたいな。旧制度の学制下でも、専門学校や高等実業学校のことを高専って言ってたの? >>283
大正13年生まれの父親は「こうせん」と行っていた
工専という字だっかもしれないけど
工専 高商 経専 医専 高師 をまとめて言う言い方があったかはわからない 専門学校専門部や予科の柔道は高専柔道と呼ばれていたから
当時から一括りに高専だったんだろう
しかし高等師範が含まれるかどうか分からない 高専野球もあったが、結局は高校野球と専門学校野球に分裂した。
全国高等専門学校野球大会が昭和10年、高校と専門学校の両大会に分かれた背景には、
主催者の四帝大連盟の中で東大と京大の確執、さらには一高と三高の対立があった。
同大会は大正13年、京大の提唱で始まったが、創設当初から東大と京大が主導権を争い、
会場も東京と京都で1年交代の持ち回りとなっていた。しかし昭和3年になって京大が
大阪朝日の後援に加え、阪神電鉄の援助も受けることにしたため、会場は甲子園球場に定まった。
昭和5年になると、入場料を取って私鉄会社の援助を受けることに対して批判が起き、
一高が独特の高校野球精神の立場から“高専分離”を提案。専門学校勢の台頭が背景にあったが、
三高は「分離はレベル低下となる」と反論したため、結局、改革は行われなかった。
昭和7年、野球統制令が出されたことをきっかけに、改革論議が東大と京大の間で再燃。
東大の主張を容れる形で同9年は大会を2部制とした。しかし中途半端な改革だったため
再び論議を呼び、同10年春、連盟はついに解散した。
一高はこの機に乗じ、全国の高校を1ヶ所に集めて大会を開くことを提案、これが各校の賛同を呼び、
三高もやむなく従い、全国高等学校野球大会がスタートした。会場はやはり東京と京都の持ち回りだった。
同大会は3年間の戦時中断をはさんで昭和23年まで行われた。 >>286
寝技主体の高専柔道の精神はいま七帝戦に引き継がれているそうです 下級生は上級生にちんぽ見せながら踊らなければならない。 M検は新制になっても続いていたんだろ?
1970-80年代まで行われていたのかな、特に医学部
受験でおちんちんの皮を剥かれお尻の穴を調べられた人はまだ沢山存命しているはず
今の防大受験でもそこまでしていないはず 今それやってるのって、
もはや拘置所や刑務所だけかねえ。 北陸に旧制私立専門学校がないのはなぜかな。官尊民卑の風潮があるのは事実だが。金沢から一番近い京都にしても夜行列車で行く時代だよ。 >>292
萩から津軽までの日本海側に私立専門学校はいくつあるの? >>284
実際やってる仕事の内容からいったら、学識は高専で十分で
後は現場で覚える知識の方が大事って職業が大半なんだよなあ
町医者なら医専で十分っていう池田信夫の意見には賛成だなあ
やる仕事に対して教育にカネと時間かけ過ぎなのよ >>294
戦後だが子供の頃は満州免許とか朝鮮免許とか田舎の開業医の先生は怪しかったが
そでも大きな事故もなく村人に慕われていた。 >>294
ところが現在の日本の大学と高等専門学校の数の比は。 何でもかんでも6年制にしようとしているね
次は教育学部だっけ? 旧制だと私立高校にコネでねじ込めば実質無試験で帝大行けたってことでおk? 7年制尋常科(旧制中学)は府立一中よりも難しいから受験しないとダメ
学習院初等科(旧制小学校)にコネで入れるレベルは
華族かそれに準ずる(三島由紀夫の祖父くらい)位階勲等が必要
それでも平民の三島家は紹介者に頼み保証人になって貰わないと学習院へ入学できなかった
成城小学校は知らん
あまりにも低脳だったら高校の時に放校させられるだろう
しかし成城小学校から東大総長になった人もいる 甲南あたりもコネが利きそうな気がするなあ。
あくまでも心証だけど。 7年制尋常科って今の難関高校と比べてどうだったのかな
灘や開成レベル?府立一中より難しいってことは日比谷より難しいんだろうけど 以下Wikipediaより
府立高尋常科出身の独文学者山下肇によると、
昭和7年ごろの東京では、最も優秀な受験生が府立高等学校と
東京高等学校と武蔵高等学校の各尋常科か東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学し、
それらに落ちた者の上位層が府立一中や四中や東京高等師範学校附属中学校に入学、
その次の中位層が各府立中学校(九中まで)に入学、
そして一中や四中に落ちた者が麻布や開成に入学、
慶應普通部や早稲田中は三流四流の扱いだった、という
(『ふたりの昭和史』p.184-185)。
府立高、東京高、武蔵は旧制7年制高校で今でいう灘筑駒のような一貫校
7年制は中学四修で高校入学相当と1年早く大学受験出来る
東京女高師附はお茶の水附属中学、東京高師附は筑附で
教駒(筑駒)は戦後の新制中高一貫なので存在しない >>300
旧制甲南は小学校がないので受験しないといけない >>302
ハリーポッターの学校を見ると学齢13年生まであり、教師のことを
プロフェッサーと呼んでいる。 これは灘筑駒のような中高一貫校ではなく
旧制7年生高等学校なんだね イートンなどのパブリックスクールも13年生まで
いて教養課程は済ませてしまう。旧制の学制を見たかったら英国に行くと良い。 尋常科受験=今の高校受験だからそれさえ突破すりゃ帝大までエスカレーターなんだよな
安倍ちゃんも旧制なら帝大には入れたのかもね
成蹊は小学校からだし >>303
その受験をコネで下駄履かせるということじゃないの。 >>306
落ちこぼれたら落第のあとは放校だろ?
底辺の旧制私立高校がどこか知らんけど甲南は出自がしっかりしている そういうのは戦前から慶應幼稚舎へいくか華族は学習院へいく
昔はコネも実力のうちだし慶應は受け入れていたと思うよ
7年制高校は旧帝へ進学するのが目的だから裏口入学しても
結局本人の為にならない >>308
入っちゃえばこっちのもんじゃね?
つか文科だったら語学さえ出来ればどうにかなる気もするけどな
受験資格も文学部志望なら大抵無試験だし >>307
高校を放校になったてのはあんま無くない?
1留はセーフみたいだし
むしろ帝大進学後に中退ってパターンが多い気がするわ
特に学習院からエスカレーターで進学して中退ってのは結構見る
志賀直哉とか >>310
あなたのレスは思い込みばかりですな
>>310
>高校を放校になったてのはあんま無くない?
ソースをお願いします
思想信条で放校になったのは記録に残るし
志賀直哉は成功者だから来歴に残る
落ちこぼれの末路なんざ大成しないのだから記録に残らないのかもしれないが
入学者と卒業者の差くらい本買って読めば書いてあるんじゃない?
因みに昭和初期の東北のある中学は約10%が落第をし20%超が半端退学をしてる
7年制高校尋常科のデータは見当たらないが結構な割合で放校になっていると推測される >>311
いやあんたも旧制中学のデータに基づく思い込みじゃん
7年制高校のデータが見当たらないんならお互い根拠は示せないんじゃないすか? >>312
しかしあなたは何一つ提示できていない
秦郁彦 高校物語
旧制武蔵高校は、山本良吉教頭(当初)の主導のもと、
英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で
純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、
ガリ勉を推奨した。それゆえ 東京帝国大学合格者数では及ばないまでも
進学率で旧制第一高校、旧制東京高校等と首位の座を争ったこともあった。
しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育に嫌気の差した生徒の退学が相次ぎ、
当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった >>313
勉強になります
しかし2留による放校(強制)と武蔵の学風に対する自主退学(任意)って違うような気が...p >>315
嫌気が差したってことは自主退学じゃないの? >>315
まぁ武蔵はスパルタで進級も厳しかったてのはあるかもしれない
ただこの成蹊高の例は?
遊び呆けてても卒業できてるようだが...
高校によってまちまちってこと?
>小生は東京帝国大学の化学科を希望したのですが,中,高と遊び呆けていた
(※成蹊高校は、三菱財閥の幹部の子弟の教育を目的に岩崎家が創立した私立の中高一貫高のため、競争率の激しい旧制高校受験が免除されていた)つけが回って成績が届かず,東京工業大学に回されました。
(向山光昭東大名誉教授「化学よもやま話」より;同氏は私立成蹊高校出身) 旧制高校を出て帝大に入れなかったのかw
まあ、東京を離れたくなかっただけで、場所と学科さえ選ばんかったらどこかには入れたんだろうけど。 >>303
Wikipediaがソースなので断定は避けるけど、甲南も小学校があったみたいよ。
甲南高校尋常科への進学も無試験だったみたい。
しかも、少数精鋭制と経営難が祟って授業料が高く、親の世帯収入が全高校でトップだったとか。
ますます、金さえ積めばなんとかなりそうな感じがしますな。 >>319
旧制だったら安倍ちゃんも東大に入れたかもしれないということか
家柄が良くて金があっても頭が悪いと東大には入れない新制もそう悪くない 学習院も甲南もそもそも定員が少ないし、
東大といっても人気の学科は選抜があるから、
当時はさほど問題にならなかったんだろうけど、
仮に旧制のまま制度が変わらなくても、
大学の大衆化が進む内に、必ずどこかで問題になってたと思う。 本屋で吉野 源三郎の君たちはどう生きるかが山積みにされていた
なんと漫画化されていたのだ! 戦前へのノスタルジーがあるんだろうか
最後に読んだのはリアル中学生のころだ
昭和10年代でもかなりリベラルな雰囲気が残っていることが驚きだったが 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
7F8KG 哲学館事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>この後、哲学館は東洋大学となり、1928年(昭和3年)に大学令
>(1919年(大正8年)施行)による大学となるが、申請をしたにもかかわらず
>他の大学に比べて認可が遅れた(慶應義塾大学、早稲田大学、國學院大學などは
>1920年(大正9年)に認可)のは哲学館事件が尾を引いたからではないかと
>当時の新聞は論説を書いている。また、公文書の開示結果、1920年(大正9年)に
>既に認可できる要件は整っていたが、この事件が影響して認可できないという
>内容が残されていることが判り、東洋大学が遅れた存在ではなかったことが証明された。
君さあ…何でこんな嘘を書いたの?
___
rュ,―― 、 r":::::::::::::::ヽ、
‖| / f::::::::::::::::::::::ヤ
‖ ヽ__/ !::::::::::::::::::::rイ
‖ ヽ::::::::::::::::/ソ ∧_∧
‖ __ イ二二二ニト、_ <丶`Д´>
|| / /ヽ >、/⌒ヽ ←東洋工作員
|| ./ ! / ハ、 ッ'-‐y' / i
||_ / | 〈_ ハ  ̄ ̄`⌒ー'  ̄ ̄ ̄ ̄/
__/〈 ! /\_ \ /
ヽ/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ヽ Y ヽ__ノ /
―――| | |――──────――
| | | 福知山は国鉄の機関区があるから工業専門学校から工学部に昇格させても良かったような気がする。その後、経済学部や経営学部を設けて総合大学になる方法もあったかもしれない スレ違いかもしれませんが
昭和10年代の国立の大学教授の
定年って、60才ですよね。
その後は大学に残ることができたんですか?
できたとしたら肩書きはなんですか? 昭和10年頃、
旧制高等学校の受験日って何月頃でしたか?
また、旧制高等学校に入学した人の日常が
よくわかる本などを
教えていただけませんか
知りたいのはできれば
第三高等学校のことです >>327
仮に残ることが出来そうなのは総長(学長)、病院長など組織のトップ
その場合教授のままだと思う
で定年などで退職する時に名誉教授が授与される
テレビに出るかなり年寄りの学者は名誉教授の場合が多い
退職した後も特に私立は特任教授など大学が定めた肩書きで残る場合がありそう
私の伯父は学部長時代、総長選挙に負けて肩身が狭くなりつつも定年退職
定年前から植民地的な国公立大学の学長にと請われていたので移った
国公立大学なのに伯父は70歳くらいまで学長をしていたので
その大学の学長は定年制ではなく任期制だったのだろう
伯父は二つの大学から名誉教授を授与されている
自伝によると学生から総長まで一生一大学を目指していたが夢破れた的なことが書いてある >>329
天野郁夫、秦郁彦や竹内洋などの本は読んだ?
秦郁彦『旧制高校物語』(文春新書)
入試日は全国上級学校大観に載っているかもしれない
>>331
申し訳ない
戦前の教授の話だったんだね
昭和10年前後生まれの人の話と勘違いしてしまった
戦前なら官立や帝大と頭の中に刷り込まれていたよ 教員志望者はほぼ全員高師から文理科大学に進学したの?
あと戦前の立正大や高野山大の評価はどのくらい? http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm
昭和19年の図を参照してくれ
普通は高師出たら先生になるだろう
東京高師出て東京文理科大進学てルートは
大学専門部から学部に移るようなものじゃない?
師範学校卒で高等教育者になりたい者が文理大受験
高師からも多少は文理大に進んだみたいなこと書いてあるね
文理大開学後も高師附属小学校みたいだから文理大と高師は並立していた
私大高等師範部の他大戦末期金沢、岡崎に高等師範があった
旧制立正大、高野山大が大学案内本で詳しく紹介されているのは
見たことがなく早慶が2ページ、明治が1ページ、日大中央が1ページ弱だとしたら
立正大はだいたい住所と概要くらいの数行
その筋では超エリートなんだろうけど坊さん以外に就職口あるの?
てか坊さんの子息がいく学校なんじゃないの? >>335
旧制立正大学にも専門部高等師範科がありますが…。 明治時代にできた日大早稲田高等師範と
昭和4年にできた立正高等師範では影響力が違う
考えてもみよ、昭和10年前に卒業し教諭になったとして
終戦時点ではまだ30歳前後の若手教諭だ >>338
なるほど。
影響力として日教組が台頭したのですね。 >>339
私大高等師範は全国的な影響力はなかった
東京、広島高師、旧二文理大が東西に大きな影響力をもっていた(広大は今も)
レポートの為なのかいつも質問ばかりなので検索して欲しい
山口の旧制中学教諭の出身校や俸給の推移などの論文が
ネットで読めたはずだから探してみてよ
日大高等師範や早稲田高等師範を題材とした論文も検索すれば出てくる
昭和に入り高師卒は即教職に就く率が6割くらいまでに下がっている
日教組に関して詳しく知らない
GHQも関係しているし昭和30年代くらいまでほぼ全ての職業に
赤化分子がおり何も日教組だけではなかった(国鉄の各労組や炭鉱、自治労とか)
下士官みたいと揶揄された都道府県師範卒の所謂師範タイプが転向しアカになったんじゃないかね?
ミスター日教組も高師、二文理卒ではなく青年師範学校卒 >>340
師範卒は一年兵として徴兵される
辻政信は軍人育成には少年教育が大切と考え特に師範卒の
短期兵には懇切丁寧に教え訓練をさせた
結果三千里の逃亡から舞い戻った辻は地元の先生が手弁当で
辻の国政選挙活動を支援した
辻は下士官にも優しかったので旧第7師団の連中は積極的に手伝った
兵より足腰が強く重いものを運べる陸士出なんてそうそういない 【捏造中】東洋大学ウリナラファンタジー【歴史をコリエイト中】
__ 「三田の理財、早稲田の政治、駿河台の法学、白山の哲学」!
/ ../) 戦前はそう呼ばれたニダ! 出典? そんなものは後から考えるニダ!
三三)/) 嘘も100回言い続ければ真実になるニダ !
__ 三三)/ __
/ ../). こうだったハズニダ♪ / ../) 東洋大学の昇格が遅れたのは
三三)/) ∧_,,∧ ∧_,,∧ 三三)/) 哲学館事件のせいニダ!
三三)/ < `∀´> <`∀´ ;> .三三)/ . かんしゃく起こるニダ!
∧_,,∧ と φ) (つ φ) ∧_,,∧ __
< #i!`Д>/⌒/⌒/ ̄/⌒/⌒/ ̄<田´#> / ../)
/ _∧_,,∧口 ∧_,,∧ ⌒ φと_ ヽ 三三)/) ←偽書
(/< `>口 < #>φ/⌒//(__ム 三三)/)
‖ ̄(l ノ  ̄( ノ ̄ ̄ ̄|| 三三)/
__.`ー‐' .`ー‐' 東洋は六大学野球に誘われたニダ! でも断ったニダ!
/ ../) __. 歴史は自由に書き換えることができるニダ!
三三)/) / ../) 〃∩ ∧_∧
三三)/) 三三)/) ⊂⌒< `∀´>ウェーハハハ♪
三三)/ 三三)/ `ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ .⌒ いろいろと役に立つ嘘みたいに金の生る木を作れる方法
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
95M 戦前は名門だった高千穂高商
戦後の高千穂商大はなぜ没落したのか?
答え:後継者争いが起きたから。
高千穂学園八十年史(昭和58年)
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I073927769-00
対立の過程
一、前兆
川田鉄弥は、独断専行の欠点を補う積極的実行力が老境により欠如して
各方面に亘り進歩の点が見られなかった。殊に私情が強くなったことは遺憾であった。
二、川田鉄弥の発病
昭和二十八年四月六日川田鉄弥卒中後痴呆となり精神能力を失った。
三、川田正斉の学長及び理事長就任
川田鉄弥の疾病により川田正斉はその筋の関係省庁に「手続きを完了して、
学長と理事長となった。
四、川田正清の不承認
川田正清は、川田正斉の学長及び理事長就任は正規の手続によらざるものであるとして、
就任を認めず、正斉の行為に対して悉く反対の態度を示した。
茲に於て兄弟の不和を生じ、学校教育並に学校運営は日増に不運の道に入って行った。 学園の荒廃
こうした対立の中でも、ともかくも学園の運営はつづけられてはいた。
だがそれは、およそ正常な学園とはほど遠いものであったことは想像にかたくない。
学園の経営を形ばかりにぎって、学園とは関係ない問題に借金をかさね、
学園の土地を売却して狂奔する正斉氏と、これに裁判で対立した正清氏は、
学校運営でも対立し、正斉氏が主として大学を地盤に、
正清氏が高校等を地盤に学園内でことごとに対立をくりかえした。
指導者なき学園、その下で創立者子息の権力争い、このあおりで学園は荒れに荒れた。
戦争で多くの校舎を失って再建がまだ十分でなかった学園の建物は、
その多くが老朽化した木造建築が多かったが、その木造建築も管理の不行届から、
窓は破れ、床は落ち、天井もしずむ、廊下は穴だらけでろくに歩けない、
まるで廃屋に近かったとの証言もある。しかも経営の対立から、
教員、学生への指示が二重に行われ、教員への任命書、給与支払書が対立する双方から出されたり、
卒業証書が二枚出されたりといった、今日では想像も出来ない混乱が続いたという。
当然そこで行われる教育は、およそ教育の名に値しないものであったことも想像にかたくない。
授業よりの生徒の逃亡、試験時のカンニング、教員・学生の授業時の飲酒など、
これまた常識では考えられない数々の話が伝えられているのもこのころである。
その結果として後の学校編であげた高校生の非行もこの時期に激増し、
修学旅行などでの暴力事件なども相ついだ。伝統ある高千穂が、悪名高い暴力学校として
名を広めたのもこのころのことであった。(『高千穂学園八十年史』 256-257ページ) 昭和三十七年、東京地方裁判所は、川田正清氏から出された、
川田正斉氏の理事および理事長の職務執行停止の仮処分を認め、
木村善太郎氏を理事および理事長の代行者に選任した。
だが昭和三十九年三月二十三日にその申立人であった川田正清氏が突然死去され、
同年四月二十七日にこの仮処分が取消された。したがって木村氏は一時、
学園の事務を川田正斉氏にかえす動きがあったが、この時期からようやく
同窓会の再建への動きが出てきた。(『高千穂学園八十年史』 271ページ)
高千穂学園が落ち着きを取り戻したのは昭和40年代以降のこと。 >>347
最初、この大学名を目にしたとき、てっきり宮崎県にあるものと思った。
お家騒動でたいへんだった時期もあったかもしれないけど、その後はなんとか持ち直したみたいですね。
しかし、知名度が低いせいか、今ではかなり苦戦してるみたいでたいへんそうです。やっぱり私立の単科大学は厳しいですね 時期にもよるけど、6歳就学で小6中5高3大3のコースをたどって卒業時23歳はあり得るっていうかオーソドックスだと思う ていうか、中学4年終了時点で高校へ飛び級入学可能で(阿川弘之など)
22歳で帝大卒業した人間すら、少なからずいる。
まして、23歳で帝大卒業なんて普通でしょ。 さらに言えば、制度上だけでの話なら、
小5終了時点で中学に飛び級入学可能であったが、
流石にこの制度を使う人間は少なく、理論上では21歳で帝大卒業も可能だが、
実際にそうなった人間はいないか、いてもごく少数だろう。 当然だろ。法律上、一高も他の高校と同格なんだから。
なぜ一高と他の高校で差が出る可能性があると考えるのが、訳がわからんぞ。 もしWW2後の占領がなければ今日も旧制続いてたんだろうかね まあその代わり
北陸帝国大学
中国帝国大学
四国帝国大学
くらいは出来てたろうよ。 現代でザックリ例えると
旧制大学→大学院
旧制高校→大学
だな >>365
うーん、陸軍から独立した空軍を作ろうと思ったら、
大日本帝国憲法を変える必要があるからなあ。
憲法の条文は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」であって、空軍のことはどこにも書いてないからね。 >>364
感覚的にはそうなんだけど、
学歴的には、旧制でも大卒は現代でもあくまでも大卒に、
旧制高校は、短大卒に相当するのね。
こないだの国勢調査の学歴欄でもそうなってたから、
国としては今でもそうなんだと思うよ。
あと、旧制高等専門学校卒はともかく、
旧制高校を卒業した人間が、そのままどこかに就職するなんて事はあり得ないからね。
ほぼ全員が、必ずと言っていいほど帝大に進学する。
その進学の容易さは、今の大学院入試以上に簡単。
例外は医学系と東京帝大法学部くらい。
なので、現代に強引に例えるなら、
旧制高校は、必ず院に進学することが前提の専用大学、といったところ。
ちなみに、戦後しばらくの間の国立大学が、入学後一年半から二年はまず教養学部に所属し、
その後に各学部に進級していたのは、この旧制高校卒が自動的に帝大に進学していた名残。
この制度を今でも残しているのは、東大くらいじゃないかな。
文Tとか理Vとかの言い回しも旧制高校から。 >>366
陸軍航空士官学校ならあったけどね
ただ多分日本のことだし畏れ多いとか保守派が反発して結局明治の憲法を21世紀になっても改正できてなさそう… 婦人参政権もなしで民法も戦前そのまんまな社会を想像したけど案外悪くなかったのかもな 旧字体も使われ続けたんだろうか。
スレタイも【學大國帝京東】 旧制と比べてレベルも格も上がったのは、何と言っても薬学部 この人はやっぱり凄いの?
早坂暁
旧制松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)を経て、海軍兵学校在学中に終戦。被爆直後の広島の惨状を目撃している。旧制松山高等学校(現在の愛媛大学文理学部の構成母体)卒業後、東京大学医学部に合格するも、医業に疑問を持ち入学せず[2][3]、日本大学芸術学部演劇学科に進学し同校卒業。 何を持って凄いと言うべきか判断に迷うが、
現代に例えるなら、京大卒以上の学歴を持っていると言っていいのではないかと。 ただし、東大医学部合格が本当ならば、
というのが前提ではあるが、
これの確認は、現代となっては困難なのかも。 >>375
一応ソースは本人談なので…
流石に詐称するような人では無いと思う >>376
いやまあ、多分本当なんでしょう。
ただ、367でちょっとそれっぽいこと書きましたが、
当時はとにかく旧制高校に入ることがエリートコースの前提で、
入ってしまえば、その後のことは例え医学部だろうが東大法学部だろうが、
現代ほどの大差はないので、東大医学部だろうが、日大芸術学部だろうが、
現代ほどの意味はないでしょうよ。
当時でも、東大医学部を捨てて日芸なんて、アフォかと言われたでしょうが、
現代のアフォか、よりは意味が狭いでしょうよ。 >>373
さらっと書いてあるけど海軍兵学校在学が地味に凄い うーん、確かに凄いのは凄いのだが、
兵学校在学中に原爆を見たと言うことは、75期以降だろう。
この頃の兵学校はなあ。大量入学させてた時期だからなあ。
それでも相当難しかったのは確かだと思うが、
一高陸士海兵と言われてた頃よりは下がると思うな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています