【戦前】 旧制の学制について2 【教育】
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>74
その体験談の息子の家庭も、平均より裕福な家庭の子供なのは間違いないだろうな
ただ皇族華族は、その家庭よりはるかに金持ちだから、そういう表現になるのだろう 陸士・海兵は貧乏人救済ルートにはなってないだろ
貧乏人の子じゃ陸士・海兵の入り口に辿りつけない >>76
だから、戦前の帝大出ってのは、現在の難関大の出身者に比べて、とくに優秀とは言い難い。
もともと競争する分母が少ない上、旧制高校や学習院高等科の出身者は無条件で入学できるから。
戦後の方がガチの受験競争で高いハードルを乗り越えてきているといえる。 人種が違いますんでね。人種が。
日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種
北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人 旧帝大という教訓があるのに、東大に面接導入とかふざけてんのかな? 基準に満たないやつバリバリ落として定員割れも厭わないなら、試験項目が増えて悪いことは何もないんじゃねえの?
しかも試案だとセンターは受けるんだし、面接も何時間もある口頭試問みたいなもんだし
ただ面接する側に用意がないのは問題かもな 入試とかもう関係ないから、ぶっちゃけどうでもいい。
まして東大なんて、もともと無縁だし。 >>83
起立性調節障害で高校を中退した女子学生が面接0点で秋田大学医学部を落とされた事件があったから
今のままで面接導入したら大変な事になると散々言われてる >>85
だから、それは面接の採点基準の問題だろう
それに直接臨床で命預かる医学生の選抜なら、健康状態の善し悪しも考慮してしかるべしかと じゃあ生理痛がある女性は採用ゼロじゃないのはなんでだ?
わかってて言ってるのか?
だから危険なんだよ
主観で0点になる 明治大学女子部設立趣意書
我国に於ける女子教育は良妻賢母を造るは勿論なりと雖も、漸次時代の変遷に伴い
女子も亦家庭のみに在ることを許さず。或は官公吏となり、或は会社員となり、
其他諸般の事業に従事することとなり、又従事せざるべからざる事となれり。
而して其家庭のみに在る女子の為めには旧来の教育にて足れるも、家庭外広く
諸般の事業に従事する女子の為には良妻賢母を造る教育以外其職業に必要なる
基礎智識、特に法律、政治経済の学識を授くるは実に時代の要求なりと謂はざるべからず。
然るに現時各種の職業に従事する女子は其基礎智識を欠くが為め、
向上発展することを得ず。其前途を思ふときは転々同情に堪へざるもの
あるのみならず、社会問題としても亦之が対策を講ずるの必要ありとす。
加之近く女子にも弁護士資格を与ふるの域に進み、現に文官高等試験も
亦之を受くることを許され、女子の地方議会議員及び衆議院議員の選挙資格及び
被選挙資格を与へられることも亦決して遠きに非ずと信ず。然るに之が為に
何等の準備なきは女子の不幸は勿論国家発展上真に遺憾なりとせざるを得ず。
茲に於て我明治大学は率先して女子部を新設し、大に女子の向上発展を図り、
国家社会に貢献せんとす。是れ女子部設立の挙ある所以なり。
女子法曹界の先駆者・女子部
, - ―― - 、
, ´::::::::::::::::::::::::::::::::::::` 明治大学短期大学は、昭和4年4月16日明治大学記念館において
/ ::::::::::::::::::::\::::::::::::::::::::::\. . 専門部「女子部」として開校入学式が行われた。女子部の設立趣意書の
. /::::::::::/i:{:::::\::::::::ヽ:::::::::::::::::::::::: なかにも見られるように「女子教育は良妻賢母を造るは勿論、
/:::::/::/ i|\⌒\::::::::::::::::::::|:::::::::| 新時代の変遷に伴い・・・広く諸般の事業に従事する女子の為には・・・
:::::⌒メ | \: __ヽ:|:::::::i:::::|:::::::::| 職業に必要なる基礎智識、特に法律、政治経済の学識を授くる」とある。
|::::: i::八_ l ィr'心}|::|:: |::: |:::::::::| 時代を先取りした女子専門教育の誕生である。しかし必ずしも
|:i:: 从f´心 弋iソ レ‐: |::: ト::::::::| 順調な発展とはいえなかった。“婦徳”を尊重する当時の風潮は
|八::::ハ. Vソ 、、 |:::::l:::::|ノ:::::::. 女子の専門教育とはなじまなかった。特に戦争末期にはなおさらであった。
| Y:::、、 ' _ │/j:::::|::::::::::::.、. 一時は廃止論まで出たほどで、まさに女子部の歴史は試練の連続であった。
. リ::∧ マ:::ノ リ'::/::: ハ:::::::::::::\ (『図録明治大学百年』 明治大学、1980年)
/:/:::介ト:.. イ/:::::::::∧::丶:::::::::::::\
. /:::::::/::八::::`T:::::∨::/::::/ >''^⌒\::::::丶、
/:::::::/::/ \_:ヾ::/:::/::::/ _」 \:::::::::::::::::ー::::::―::::::─- _
. /:::::::/::/ /:/::::/ | / }::::::::::::::::::... ̄  ̄ ̄ ̄ミ
/:::::::::/ /::イ/:::::/ < 人::::::::::::::::::::::::::..... \
. /:::: / :::/ ∨::::/ / }::::::::::::::::::::::::::::::::::...、
秋山澪 (けいおん!) >76
文学部は無試験で入れたとうしな
旧制高校も学校によってもは入るのは難しくなかったようだ
ただ中等以上の学校への進学は、経済的なハードルが高かった。 何故、樺太の豊原に樺太帝国大学を設置しなかったのか >>92
戦前の樺太は人口40万人で県の規模にも達していなかった。 師範学校と医専とその他の専門学校(商・工・農)は、
戦後の国立大学(駅弁大学)の前身になってるな。 人種が違いますんでね。人種が。
日本人 ← 日本人種
韓国人 ← 中央蒙古人種
北方蒙古人種・・・・・モンゴル人、満州人、北方アジアの少数民族
中央蒙古人種・・・・・華北人、華中人、朝鮮人
南方蒙古人種・・・・・福建省以南の華南人、台湾人、タイ人、ミャンマー人
インドネシア人種・・・・・ベトナム人、ラオス人、カンボジア人、フィリピン人
日本人種・・・・・日本人
アイヌ人種・・・・・アイヌ人 >>79
でも陸士や海兵の生徒の多くは貧しい家庭に生まれていたら進学は無理だっただろうな
多少頭が良くても生活のために活動時間の多くを労働に費やさなければならないのだから >>57
第七高等学校?
>>98
しかし将官へ進級したものに貧家出身は珍しくない。
軍学校、教員養成学校が貧家でも立身できるコースだったのは、
間違いないでしょう。
>>75
面接の話は聞いてないが、
どうやら身体検査は適当だったらしい。
うちの爺さんが京都帝大の医学部受験の際に、
滅茶苦茶寒い中での試験だったので、
「この寒い中、試験を受け抜いた者は頑強に相違なく、
身体検査の必要はない」と試験官が宣言し、
爺さんが受験した際は、身体検査はしなかったと言っていた。 >>99
>しかし将官へ進級したものに貧家出身は珍しくない。
どういうソースを基に言ってるの? 貧家といっても明治は没落士族、それ以降は職業軍人家庭の子弟が多いけどな。
資産家ではないが、地べたの最底辺の人間というわけでもない。 >>98
師範学校から陸士や海兵に進学した人っていたのかねえ。 >>102
貧農の家にうまれた朴正煕大統領は大邱師範卒業後、教員生活の後、満州軍官学校入学。
優秀な成績で卒業したので陸軍士官学校に留学している。 >>103
なるほど、ある種典型例ですね。
軍官学校って士官学校予科的な意味もあったのかな? 朴正煕大統領の言葉
「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、
日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分
を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。」
「さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を
含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は
感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」 ☆☆☆☆☆
☆ 自民党、グッジョブですわ。 ☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ >>99
>軍学校、教員養成学校が貧家でも立身できるコースだったのは、
>間違いないでしょう。
陸軍幼年学校は中学の4倍の学費がかかった。
無料になったのは昭和19年から。 結局のところ、授業料無料の中等教育機関は
実質的には師範学校しかなかったのね。 恩典制度で、士官の子は半額、戦死者の子は無料だったから、政府としては「代々続く軍人の家柄」を作ろうとしてたのかな 貧乏人の子供が学歴を身につける方法としては志願兵として軍隊に入り
例えば陸軍なら少年戦車学校、海軍ならば予科練に入って卒業すれば
中等学校卒業と同等の資格を得ることができた。 戦争末期には看護婦養成所、鉄道講習所、陸海軍工員養成所その他
働きながら中等学校卒業資格が得られる場所がたくさん出来た。 【法政大学総長が学生・教職員向け哀悼メッセージ(抜粋)】
皆さんに、たいへん悲しいお知らせをしなければなりません。
法政大学の付属校(法政大学第二高等学校)と社会学部で学んだ卒業生、後藤健二さんが、誘拐され拘束された末、殺害されたと思われます。
これが事実であるならば、総長として、卒業生がこのような経過で命を奪われたことは、実に悲しく耐えがたい思いです。
後藤さんは卒業後、インデペンデント・プレスという映像制作会社を自ら設立し、紛争地域で生きる弱者である子どもたちや市民の素顔を取材し、私たちに伝え続けてきたジャーナリストです。
常に平和と人権を希求して現地で仕事をされてきたことに対し、ここに、心からの敬意と、深い哀悼の意を表します。
なぜこのような出来事が起きたのか、この問題の本当の意味での「解決」とは何か、私たちは法政大学の知性を集め、多面的に考えていきたいと思います。
まず全学の学生・生徒・教職員が人ごとではなく、この世界の一員として自らの課題と捉え、卒業生としての後藤さんの価値ある仕事から多くを学びつつ、
この問題を見る視点を少しでも深く鋭く養って欲しいと、心から願っています。
法政大学総長 田中優子
総長メッセージ全文http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/socho/message02.html
≪総長メッセージに感動の声が多数≫
sakurainobuhide
悲しいけれど奮い立つメッセージ。ぜひご一読を。 (後藤健二さんは法政二高→社会学部だったんですね…)
nnt_sokuhou
ちょっと法政を見直した。総長がイチ卒業生の死に対してこういうメッセージをくれる大学はなかなかないだろうな。
jannedadasshu
RT>このタイミングでちゃんと大学として総長メッセージ出したの素晴らしいな
それに入学式の式辞の時にも思ったけど、今回も間違いなく田中優子総長にしか言えない言葉で出してる
法政にしか出せない法政らしいメッセージだと思う 世の中全てにおいて言葉の力って大事だからね(^ ^)
Tgjaggj
東京六大学初の女性総長だけあって、違うなと感じた。
♪大学校歌の名曲と言われる同校校歌
http://m.youtube.com/watch?v=-ZsQL72V9pY&amp >>105
>すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。
この日本人の先生と出会わなかったら、朴正煕も貧しい農村に埋もれて世に出ることも無く
韓国は北朝鮮と大差の無い貧しい国だったんだろうな。 >>71
アメリカでは公立大学でも年間4万ドルの学費がかかったりする
GHQのニューディーラー達もアメリカに帰ってレッド・パージされたのかな? >114
ニューディーラーは自国でできない自らの政策を
日本でやってみたのだろうな >>101
「地べたの最底辺」なら今だって、
学歴での立身出世なんてままならない。
戦前だって、そういう生まれの格別優秀な子弟には、
勿論数多くはなくても、それなりの然るべき援助があった。 地主の息子でも「とにかく入学しただけで充分、百姓に学問はいらない」と言って中学を中退させる親がいた。
欧米じゃ大学中退は全く意味を持たないけど、日本では伝統的に中退は高い評価をうけてきた。
特に文化人の間では早稲田中退はややもすると卒業以上の以上の意味があった。
高見順の「今ひとたびの」でも一高を中退した主人公に、せっかく高等教育まで受けた人だからと
就職を世話する人が現れたりしてるし。 >>117
野坂昭如は早稲田を卒業しているけど中退を自称していた
仲間がみんな中退してるので卒業じゃ格好悪いという理由で >>117
昔のそういうセーフティネットの目は非常に荒く、運良く引っかかる人がいるだけ。
現代ならば本人にその気があれば優秀な人間はほぼ確実に掬い上げられる。 宮沢の「竹下さんの頃の早稲田は無試験でしたよね」
は事実? 旧制高校でも一高が格別ってのは何故?
横並びだと思うのだが一高だからって特権があるわけじゃないし 中国人は京都大学・三高が日清戦争の賠償金で作られたってことを日本人より知ってるらしい >>122
今だって大学は横並びなのに格差があるのは何故? 一高がなんだかんだで東大入学者数が一番多かったんじゃないの?
東大が一番ってのは戦前から磐石だし。 最近は職業教育に特化した大学の設立構想が持ち上がっているけど、
社会階層や目標とする職業によって学校が分かれていた戦前の教育
制度を検証する意義は大きいと思う。 目標とする職業を親に決められていたという前提で考えような 一高が今でいう東大で、東帝大本科が東京院修士、東帝院は東京院博士だよ。
>>30これからはそうしなければいけないね。大相撲に代表される職人教育も教養同様に廃れているからさ。
>>23そうだな。社会の進歩で30代前半以降4歳児までは医療系短大卒レベルが前提になっているし、3歳時以降の31年間は修士が前提になるよ。
で最終的には新卒博士が絶対になり、セーフティネットという例外も消滅するさ。
>>83独立大学院は大学がないから筆記試験ができないので、こういう入試になっているんだから大丈夫だよ。よって山中伸弥あたりなら経験済みだ。
>>112内部生はこのように優遇するから、愛校心もあり就職しやすい。だからお受験が流行りだしたわけ。
>>123そりゃそうよ。負けた方は痛みで恨みだし、これに対し勝った方は忘れるものだよ。 鳩山は吉田茂が東大卒だと知らなかった。
同期生に聞いても誰も知らない。
先輩に聞いても誰も存在を知らない。
後に真相を知った鳩山の言葉
「あいつは一高ではなく学習院だったのか!」 将来の日本の教育はドイツみたいな教育になります。
中等教育は三分岐型になります。
小学校は4年生までです。
小学校を卒業したら10歳で専門教育を受けるか進学校へ行くかです。
基幹学校=5年制義務教育として行われる専門教育
実業学校=6年制専門教育
高等中学校=9年制高度な普通教育
偏差値なし
入試制度なし
入学試験は採用されない。
小学校の成績
進学校以外中卒
基幹学校=中卒
実業学校=中卒
高等中学校=高卒資格
18歳まで職業学校へ行かす義務
学校を卒業したら18歳まで職業訓練を受けさせる義務です。
基幹学校=高等小学校
実業学校=新制中学校
高等中学校=中高一貫校 ドイツと日本の学校の制服
ギムナジウムの学生服は海軍士官型のホック止めと黒ボタンと金ボタンと背広である。
基幹学校(ハウプトシューレ)と実科学校(レアールシューレ)の学生服は金ボタンと銀ボタンと背広である。
日本の高等中学校の学生服は濃紺色と黒色の詰襟学生服の海軍士官型のホック止めと黒ボタンと金ボタンと濃紺色の背広
である。
日本の基幹学校と実業学校の学生服は黒色と濃紺色の詰襟学生服の金ボタンと銀ボタンと濃紺色の背広である。
ほとんどの高等中学校と旧制高校は学生服をテーラー仕立てをする、実業学校と基幹学校は学生服は既製品である。
高等中学校と旧制高校の制服は洋服屋でオーダーメイドをしている。
高等中学校と旧制高校はオランダの木靴(サボ)と革靴の黒色のストレートチップの短靴と編み上げ靴とダービーブーツとオックスフォードブーツとサイドゴアブーツと
コンバースみたいな黒色のキャンバスシューズと将校用レザーロングーブーツを履いています。
実業学校と基幹学校は革靴は茶色と黒色のプレーントウとローファーと白色のスニーカーを履いています。
高等中学校と旧制高校の学生服の生地はフランネルとカシミヤであり、実業学校と基幹学校の制服の生地はポリエステルとサージである。
ほとんどの高等中学生と旧制高校生は学生服とブレザーを洋服屋で仕立て、実業学生と基幹学生は学生服は既製品である。
高等中学生と旧制高校生は学生服の上にのドイツ軍将校が着る黒色のレザーロングトレンチコートを着て、
襟に毛皮が付いている。
高等中学校と旧制高校は黒色の将校用レザーロングトレンチコートの襟に付いた毛皮を着たらバンカラスタイルとギムナウジウムスタイルでかっこいいです。
ドイツ軍のレザーロングトレンチコートに襟に毛皮を付いたらバンカラスタイルとギムナジウムスタイルでかっこいいです。
高等中学校と旧制高校の詰襟学生服の背中はS字ライン(プリンセスライン)はかっこいいです。
黒ボタンと金ボタンと海軍士官型のホック止めの濃紺色と黒色の詰襟学生服の背中はノーベントでS字ライン(プリンセスライン)です。
高等中学校は学生帽は白線2条〜3条の丸帽と基幹学校と実業学校の学生帽は白線なしと蛇腹の巻いた丸帽です。 ドイツと日本の学生帽
ギムナジウムの学生帽は白線2条〜3条の丸帽である。
基幹学校(ハウプトシューレ)と実科学校(レアールシューレ)の学生帽は白線なしと
蛇腹の巻いた丸帽です。
ギムナジウムの学生服はドイツの学校は制服の着用は義務付けています。
ドイツ人は学生服を着ます。
基幹学校(ハウプトシューレ)と実科学校(レアルシューレ)の学生服は既製品です。
ギムナジウムの学生服はオーダーメイドします。
ドイツ人は詰襟学生服を着ています。 高等中学生と旧制高校生は乗馬ズボンと将校用ロングブーツを履いたらバンカラスタイルと
ギムナジウムスタイルでかっこいいです。
高等中学校と旧制高校はストレートズボンの時はオランダの木靴(サボ)と黒色の革靴のストレートチップの短靴と
編み上げ靴とダービーブーツとオックスフォードブーツと黒色のサイドゴアブーツとコンバースみたいな黒色のキャンバスシューズを履いたり、
学生乗馬ズボンの時は将校用ロングブーツを履いたら、バンカラスタイルとギムナジウムスタイルでかっこいいです。
高等中学生と旧制高校生は学ランの上にドイツ軍将校が着る
黒色のレザーロングトレンチコートを着たらバンカラスタイルでかっこいいです。
レザーロングトレンチコートに襟に付いた毛皮はバンカラスタイルとギムナジウムスタイルでかっこいいです。
灰色のレザーロングコートは旧制中学校と旧制高校と旧制大学が好んで着ました。
灰色のレザーロングコートは旧制中学生と旧制高校生は着るのは少ないです。
灰色のレザーロングコートは旧制大学まで着れます。
灰色のレザーロングコートは学校指定がないため誰でも販売して着れます。
黒色のレザーロングトレンチコートは旧制中学校と旧制高校が多く着ました。
黒色のレザーロングトレンチコートは学校指定が多いため販売できませんでした。
黒色のレザロングトレンチコートは多くの旧制中学生と旧制高校生がよく着ました。
黒色のレザーロングトレンチコートは旧制高校生までであり、旧制大学生は着れません。
黒色のレザーロングトレンチコートは旧制中学校と旧制高校が多く着ました。 神戸商大なんて大学高等部も予科もない時期があったから、
その頃は全国の高商から学生を集めてたのかねえ。
高校から入ってくるような奇特な奴は極少数だったろうし。 ドイツの教育でギムナジウムと基幹学校と実科学校がありました。
ギムナジウム→高等学校→大学
レアールシューレ→高等専門→就職
ハウプトシューレ→職業訓練→就職 今和次郎 『新版大東京案内』 中央公論社、1929年
http://bookmeter.com/b/4480086722
東京帝国大学(本郷区元富士町)
聖堂の昔から今日に至る最古の歴史と、三万の学士を世に送つて、
近代日本進出史の中枢にはたらいたといふ、また現にはたらきかけつあゝるといふ
伝等の光まばゆき赤門、所謂官学の総本山である。
震災で、ルネツサンス式建築の、奥ゆかしい俤は、灰燼の彼方に陥没したが
莫大なる復興予算で生れかはつたその姿は、何とまあ豪華なものであることよ。
碧空を摩す大講堂や大図書館、数々の大建築は、近代ゴート式の風貌で、
二十万坪の構内諸所に聳り立つ。これまた面貌を一新した新東京の新風景である。
加賀百万石前田家の邸跡だけに、大きな池もあつて、閑寂な風致をも育み、
最も恵まれた学窓生活はこゝでなければならないと、何人をも強く肯定せしめるものがある。
現在、法、経、文、理、工、医、農の七学部に分たれ、学生の数は約七千、
全国三十有余の高等学校から、俊秀を抜いて集めたものであることは、誰もが知つてゐる。
教授職員また四百を超え、およそ日本一と称する大学者の殆んどすべては、こゝの出身か、
でなければ先生であるといふも過言ではあるまい。その代りに、数十年一日の如く
同じノートを読みつゞけるといふ志操堅固なる先生も多く、近頃耳に入る
「大学の顛落」などといふ失敬な言葉にも一向無頓着なるは慶賀すべきである。
六大学野球リーグ戦に於いては唯一の官学として、健気な奮闘をしてゐるがその芳しからざる
戦績は、官学とスポーツ、スポーツの階級性等々、種々の興味深き論題を提出するものである。
各高等学校の精鋭をぬき、従って俊敏な頭脳が揃つてゐるせゐかどうか、教授にも学生にも
赤化分子のパーセンテイジが多く、他の大学に先立つて時代の尖端に苦悶する大きな影は、
官海の寵児だけに見逃し難い矛盾と皮肉である。曾てのあこがれ、銀時計も最早なくなって数年になる。
現総長は小野塚喜平次博士。大学病院や各種の研究所が附属し、地方にも各科別々に完備した
実験所の幾つかを持つてゐる。本郷の繁栄は一にかゝつて東大にある――と言つても過言ではない。 早稲田大学(市外、戸塚町)
かつては我国政界の巨人であり、国民的偶像の一人であつた
故大隈重信侯の創立したもので、前身は早稲田専門学校と言つた。
官学に対抗する私学の雄であり、卒業者は官学の勢力の及ばざる分野に進出して、
操觚界、文壇、実業界、政界等に抜くべからざる地位を築いてゐる。
校舎も漸次増築されて、壮麗な大隈講堂や、大グラウンド等を取囲み
一昔前の早稲田の田圃は、見違へるばかりの学生街となつた。
現学生数三千五百、専門部その他オールワセダニアンの数は二万に近く、
東都学生界の覇者である。弁論にスポーツに、その活躍は最も活發で、
且つ華やかである。東京帝大と共に学生に進歩系分子多く、
学校騒動に於いても亦た、常に社会の耳目を聳動せしめてゐる。
初めて我国の水泳を世界的ならしめた高石に因んで
校庭にプールが新設されたのは此処が先駆である。
目下は法、政経、商、文、理工の五学部があり、
教授職員の数も三百五十余名に上つてゐる。
現総長は高田早苗博士。 慶應義塾大学(芝区三田)
早大と共に私学の二大権威である。明治初年、実学を唱導した福澤諭吉翁が、
三田山上に打ち建てた学舎だ。独立自尊の四字をモツトウに、出身者がいづれも実業界に入り、
大勢力のあることは語るまでもない。文壇の三田派、医界の三田派も相当権威がある。
理財科を改め経済学科をはじめ、法文、医の各学部を有し、学生数三千、教授職員二百余名、
スポーツでは早大、明大を凌ぐ陸の王者、近来の野球をも凌駕しようとしてゐる。
華やかな原始闘争的なラグビー部の最初の設置者であり硬式庭球の採用者たる点、
いづれも財力に裏づけられた進取的気象の発現と見るべきだ。
所謂塾型流行を学生会に齎すほどあつて財閥、地方素封家の子弟の多いことは
各学園中第一等であらう。「銀ブラ」なる語も大正の初年彼等から生れたものである。
序に明治時代に芝浦の歌妓によつて全国的に拡まつたと称せらるゝ流行歌を
紹介して見るのも強ち場所外れとのみは言へまい。曰く、
「惚れるなら、赤門、早稲田はそりや野暮だ。
ペンの徽章に縞ズボン。ブツク片手にネ、三田指して通ふお方に惚れしやんせ」
併しこれは一時代前のことである。
現総長は林陸毅博士である。 明治大学(神田区駿河台)
白雲なびく駿河台は、神田学生街の中心である。法、商、文、政経の四学部があつて、
学生数千五百、教職員百十余名。前身は多くの人材を法曹界に送り出した明治法律専門学校。
現在は早慶明と鼎立せるリーグ戦の覇者として、より世人の視聴を蒐めてゐる。
今年、他大学に率先して女子部を新設したのは注目に値する。
東京商科大学(神田区一ツ橋)
実業界で対抗する一ツ橋はこゝである。昇格して高商から大学になつた。
現在予科以下は郊外国立大学都市に移つて、学校中心の理想都市を建設しつゝある。
東京文理科大学(小石川区大塚窪町)
東京高師の昇格したもので、中等教育界に牢固たる勢力を張る茗蹊派の産地。
東京工業大学(府下荏原郡大岡山)
そんな大学いつ出来たんだいと聞かされさうな名前だが、これぞ東京高工として
幾多のエキスパートを送り出した蔵前の改名さ、と言はれて昔の名を惜しまぬ人はなからう。
だから大岡山に移つても生徒初め受験者たちまでが「蔵前蔵前」とよんでゐる。
その他の大学に一々言及してゐてはいくら紙面があつても足りさうにない。
重立つた名前を挙げるだけで次へ移らう。
中央大学(神田区錦町)
日本大学(神田区三崎町)
法政大学(麹町区富士見町)
國學院大学(府下渋谷町)
専修大学(神田区今川小路町)
立教大学(府下西巣鴨町)
拓殖大学(小石川区茗荷谷町)
立正大学(府下大崎町)
駒澤大学(府下駒沢町)
東京農業大学(府下渋谷町)
東京慈恵会医科大学(芝区愛宕町)
大正大学(市外巣鴨町庚申塚) その他の特殊専門学校には次のやうなものがある。
東京美術学校(上野公園)
東京音楽学校(上野公園)
東京高等工芸学校(芝区新芝町)
東京高等商船学校(深川区越中島)
水産講習所(深川区越中島)
測候技術官養成所(麹町区中央気象台附属)
東京物理学校(牛込区神楽坂)
明治学院(芝区金今里町)
大倉高等商業学校(赤坂区葵町)
高千穂高等商業学校(府下和田掘村)
東京学院(牛込区市ヶ谷左内町)
東京神学社神学校(麹町区飯田町)
日本ルーテル神学専門学校(府下野方町)
第一臨時教員養成所学校(小石川区大塚窪町)
学習院高等科(府下高田町)
外国語学校(麹町区竹本町)
大東文化学院(麹町区富士見町)
天台宗大学(本郷区駒込林町)
豊山大学(小石川区大塚坂下町)
上智大学(麹町区紀尾井町)
東洋大学(小石川区原町)
東京医学専門学校(府下大久保町東大久保)
東京歯科医学専門学校(神田区三崎町)
日本歯科医学専門学校(麹町区富士見町)
明治薬学専門学校(府下代々幡町幡ヶ谷)
東京薬学専門学校(府下淀橋町柏木)
東京高等蚕糸学校(府下滝野川町) >>34
俺の大叔父がそれで小学校の校長が直談判までして「進学させろ」
ようとしたが曽祖父は、百姓に不要(地主未満な自作農家)と突っぱねたそうだ。
経済的に問題なかったはずなんだが、家を継がせるからと
進学させなかった。農村じゃそんな意識だったんだね。大正ごろの話。亀レス。 昔の小説を読むと、今で言うサラリーマンのことを「高商卒の勤め人」とよく表現している。
中学生のとき、この「高商」のことを、当時高校野球で有名だった高知商業高等学校のことだと思い込んでいた。
「へぇぇ、高知商業は当たり前のように昔の小説に登場するのか。昔から有名だったんだな」などと思っていた。
高等商業学校のことだったんだね・・・。 【旧私立高商】東京経済大学・大阪経済大学・松山大学part2
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/student/1291681873/
東京経済大学=旧大倉高商 ttp://www.tku.ac.jp/
大阪経済大学=旧浪華高商 ttp://www.osaka-ue.ac.jp/
松山大学=旧松山高商 ttp://www.matsuyama-u.ac.jp/
ttp://passnavi.evidus.com/teachers/research/201011_02.html
第二次世界大戦以前、日本では企業人、ビジネスマンの養成は、
高等商業学校(高商)と呼ばれる官立・私立の学校、
および私立大学の専門部で行われていた。
官立の高商は、日本の商業の中心都市に立地し、
なかでも東京高商、神戸高商、大阪高商は、
のちに大学(商科大)に昇格して三商大と呼ばれ、
商学研究をリードする存在とされた。
また小樽、横浜、長崎という海外貿易の拠点に立地した高商は三高商と呼ばれ、
福島、高岡、彦根、和歌山、山口、高松、大分などの官立高商、
大倉、浪華、松山などの私立高商とともに産業人養成の中心だった。
つまり高商は商学という実学を軸に産業人という専門人材の養成を行い、
旧帝大は経済学の理論探究というアカデミックな部分を担っていたわけだ。 俺は「高等学校商業科」かなと思ってた。
流石戦前は普通科よりも専門科の方が主流だったんだなと、今となっては訳の分からない勘違いをしてたw 【読書中】
. ∧,,∧ 『慶応義塾七十五年史』
(´・ω・) 『早稲田大学百年史』
[(っ⌒/⌒o_. ← 『明治大学百年史』
|\⌒''⌒ \ 『法政大学百年史』
|| || ̄ ̄ ̄ ̄||. 『立命館百年史』
. || ̄ ̄ ̄ ̄|| 大阪高商の昇格
公立の専門学校の場合には、大阪に続いて大正9年から12年にかけて、京都・愛知・熊本の
各府県立医専が次々に大学に昇格した。また、唯一の市立高等商業学校として発展をとげてきた
大阪高商も、『大学令』の施行と同時に、同窓会を中心に基金募集を始め昇格をめざした。
しかし、市立高商の昇格には、思わぬ難関があった。すなわち、『大学令』は、
公立大学の設置を「北海道及府県ニ限」って認めると規定していたのである。
このため昇格運動はまず、『大学令』自体の改正をめざさねばならず、
設置者である大阪市当局と高商側が一体となって、政府や帝国議会に働きかけた結果、
大正13年に『大学令中改正ニ関スル建議』が帝国議会で決議され、昭和3年に『改正』が行われ、
同年4月ようやく昇格が実現をみるに至った。それは、運動の開始から10年めのことであった。
(天野郁夫 『旧制専門学校』 日経新書、1978年) 主要私学の在学生数
┌───┬──────┬──────┬──────┬──────┐
│ │明治38(1905)│大正04(1915)│大正14(1925)│昭和10(1935)│
├───┼──────┼──────┼──────┼──────┤
│慶 應│ 1151 │ 2748 │ 6853 (16.9)│ 7306 . (7.7)│
│早稲田│ 4908 │ 5232 │ 9753 (41.4)│. 17242 (39.5)│
│明 治│ 2558 │ 1901 │ 5723 (49.4)│ 6313 (49.1)│
│日 本│ 1838 │ 2374 │ 8665 (80.1)│. 12204 (67.7)│
│中 央│ 1422 │ 2169 │ 4473 (65.1)│ 6838 (61.5)│
│法 政│ 1045 │. 818 │ 3288 (29.3)│ 4148 (46.1)│
│専 修│. 411 │. 831 │ 1074 (65.1)│ 2244 (44.1)│
│立命館│. 962 │. 967 │ 2493 (63.9)│ 4495 (69.5)│
│関 西│. 715 │. 558 │ 1367 (78.0)│ 2027 (53.8)│
└───┴──────┴──────┴──────┴──────┘
天野郁夫『大学教育の日本的構造』より作成
( )内は専門部在学者の占める比率 戦後に新制阪大が出来るとき、旧制大阪商大も参加する話があった、
てな話を聞いたことがあるけど、誰か詳しい話を知らない? >>149
大阪市大は、戦後関西で一番学生運動が激しく、
優秀な高校生が進学を敬遠するようになり、
レベルが低下したらしい。
代わりに神戸大や戦後に新設された阪大経済学部に
優秀な高校生が集まり、大阪市大を凌駕したとのこと。 大阪高商の場合は法律の壁を取り払ってしまえば資金的に問題なかったんだろうけど
私学の中には資金集めに失敗して大学昇格をあきらめたところもあるらしね。
この供託額は1大学50万円のほか、1学部を増すごとに
10万円を加えるものであり、これを大学の認可を受けてから
3週間以内に供託しなければならぬというものであった。
当時大半の私立大学は授業料収入を最大の財源とし、敷地、校舎等の
不動産を除けば基本財産を殆ど持たなかったらしい。例えば法政大学の
大正6年度の経常費は僅かに3万円だったと言われる程の実情を見ても、
これは私立大学撲滅策だと言わざるを得なかったのである。
(早稲田大学大学史編纂所 『早稲田大学百年史 第三巻』 早稲田大学出版部、1987年) 各大学では供託金募集に四苦八苦していた。明治大学でも校友、在学生を
中心に募金運動が大いに盛り上がり、申し込み金額だけは膨大な額に達したが
実際の払い込みははかばかしくなかった。本大学でも三井八郎右衛門から3万円、
三菱合資会社1万5千円、住友吉左衛門3千円、台湾銀行2千円の合計5万円の
財界・企業からの募金もなくはなかったが、これは払い込み金額の25.6%にすぎず、
早稲田大学の70%強とは大きなひらきがあった。明治大学を支持したと見られる
弁護士集団にしても、彼らは実はサラリーマンであり供託金埋め合わせのために
補助金交付の建議はできても、自らが金銭的にバックアップすることは無理があったのである。
(明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史 第三巻 通史編T』 学校法人明治大学、1992年)
同志社の場合は、それまでの経常支出13万円に対して、法学部、文学部の2学部分の
供託金60万円は相当の多額のものであり、加えて、相応の設備充実や特に専任教員の増員は、
第一次世界大戦後の諸物価高騰の影響もあって、大学の経営を著しく圧迫するものであった。
事実、「大学令」による大学昇格が遅れた関西学院大学では、学生らの熱心な運動にもかかわらず、
学院を宗教的に指導するアメリカの学院連合教育委員会の財政的理由によって供託金を準備できず、
即座の昇格は断念せざるを得なかった(昇格は1932・昭和7年、『関西学院百年史 通史T』)。
供託金が私立大学にいかに重くのしかかる問題であったかを物語る事例の一つといえよう。
(立命館百年史編纂委員会 『立命館百年史 通史一』 1999年) 「1532」
海軍の“海軍反戦トリオ(米内、井上、山本)”は、戦後の創作(でっちあげ、虚構)であり、彼らは始めから敵と内通していた英米派だった。
海軍は、陸軍とは断固協調しないで、日本を始めから戦争に負けるように仕向けたのだ。
米内(光政、よないみつまさ。開戦時もずっと海軍大臣だった。副島隆彦注記。こいつが軍人では最大のアメリカの手先。
極東軍事裁判でも、絞首刑になったのは、東條英機以下6人陸軍ばかりで、あと一人は外交官の広田弘毅=ひろたこうき=だ。
海軍は、ひとりも死刑になっていない。起訴さえされていない。このことのおかしさを、日本国民は、真剣に考えなければいけない。
戦後作られた「海軍善玉論」神話(海軍は、ずっと平和主義者だった。悪いのは陸軍だった、という歴史の捏造。)。
ミッドウエー海戦という決定的な敗北を喫した。山本は、ずっと呉(広島)の戦艦大和の艦橋に居て、無線で指令を出していた。
無線封止(むせんふうし)さえしていなかった。これらはすべて露見している。
本当は、ミッドウエーには、戦艦大和 が先導して、空母艦隊を守りながら、戦闘(海戦)をするべきだったのだ。
この時の、「飛龍」艦長、山口多聞(やまぐちたもん)少将(第2航空戦隊司令官)の戦い方と死に方こそは、帝国海軍の軍人の鑑(かがみ)である。
敗戦後も、おめおめと生き延びて、「私たち海軍は、平和主義だった」などと、よくも、あの恥知らずの、アメリカの奴隷になった軍人どもは、言えるものだ。
南雲忠一(まぐもちゅういち)、栗田健男(くりたたけお)(聯合艦隊司令長官)ども!!!許さん。
それから、航空隊の司令官の、源田実(げんだみのる。戦後もずっと自衛隊代表で、参議院議員をやっていた)。
お前たちも、心底、怪しいのだ。始めからアメリカとつながっていた、スパイ軍人どもだ。
ミットウエー海戦で敗退したあとも、山本を連合艦隊長官から罷免せず、単に海軍内の庇(かば)い合いだけをした。 旧制中学、高等女学校、実業学校は今はやりの言葉で言えば
上級国民の養成所だったのだよな。 入学試験のこと
わたくしは入学試験というものを今までに二度しか経験したことがない。一度は姫路中学へ
入学した時で、兵庫県に中学が二つしかなかった。或いは三つ目は出来た年であったかも知れない。
もう一つは一高へ入学した時で、日本中に高等学校が七つしかなかった。いずれの場合にも
入学志願者は四、五倍に達していて、競争率は当時としても高い方であった。しかしその頃の
高等学校は事実上大学の予備門のようなものであって、そこへ入学すれば帝国大学へ入学したのも
同じであった。つまり高等学校へ入るということは、入学試験という重圧から脱れ出ることを
意味していた。これが当時の高等学校生活を非常にのどかなものたらしめたのだと思う。
わたくしはこの時から十数年後に大学に関係するようになり、私立大学や国立大学を通じて
三十年近く教職にあったが、そのいずれの大学でも、わたくしの関係した学部では定員以上に
入学志願者が集まったことはなく、従って試験によって選抜しなければならないなどということは
一度もなかった。試験らしいものをするとすれば、それは同一学部の中の或る二、三の専門学科へ
志願者が片寄るために、そういう学科だけが収容能力以上の志願者を持つことになり、
それを制限して他の余裕のある学科の方へ廻すという必要からであった。これも競争試験には
相違ないが、しかし試験の成績が悪くても第二志望或いは第三志望の学科へは編入して
貰えるのであるから、学部へ入学するという点では変わりはなかった。ところでわたくしの
受け持っていた学科は、第一志望の学生が定員数以上に集まるということの殆んどなかった
ところで、大抵の場合には第二志望とか第三志望とかとしていやいやながら入ってくる学生を
何人か引き受けなくてはならない始末であった。だから、選抜試験によって出来の悪いものを
どしどしはねて行くなどという景気のいい経験をしたことは一度もない。つまり試験する立場に
おいても入学試験というものの経験がないのである。
(和辻哲郎 『自敍伝の試み』 中央公論社、1961年) わたくしが一高を受験した頃には、確かに世間で官立の大学や専門学校を尊重していた。
新聞などでは官尊民卑の風潮をしきりに攻撃したが、しかしわたくしたち中学卒業生が
志望校を選ぶとなると、やはり高等学校か、高商か、高工かであった。だからそれらの学校の
入学試験はいずれも競争率が高かった。それらを初めから眼中に置かず、直ちに早稲田大学や
慶應義塾に入学しようとする人は、わたくしの知っている範囲では、非常に少なかった。
それはわたくしたちの知っている範囲に慶應や早稲田の出身者の子弟が少なく、従ってこれらの
大学に対する特別の愛着を抱いた人がいなかったせいでもあるが、もう一つの理由は、
もし早稲田か慶應への入学を希望するならば、官立の入学試験に失敗した後にでも、
自由に入学することが出来たという便利な事情であったと思う。これらの大学は、
当時まだ大学令の出来ていない頃で、いずれも専門学校令に依ったものであったが、
非常に包容力の大きい予科を持っていて、高等学校幾つかに当る位の学生を楽々と
入れることが出来た。またそこの教授陣は、官立の高等学校や大学に比してさほど
劣るものではなかったのであるから、入学試験に失敗しても、避難する安全な場所は
ちゃんとあったことになる。だから当時の世間に流れていた官尊民卑の風を超越しさえすれば、
入学試験の弊害など受けずに、のびのびと大学教育を受けることも出来たのである。
そういう逃げ込み場所の役目をしていた私立大学が、今では国立の大学以上に烈しい競争率を
持った入学試験をやっているという。官尊民卑の風が逆倒された結果そうなったのであるならば、
まことに結構なことと言うべきであろうが、しかしわたくしどもの経験からいうと、そういう風に
逃げ込み場所が無くなったということは、入学試験の競争を恐ろしく苛烈ならしめることになる。
教育設備がこんなにふえたというのに、入学の競争がそんなに苛烈化するというのは、
一体何故なのであろうか。これはもう教育設備の問題ではなくして、日本人の気風の問題なので
あろうか。その気風が或る少数の大学へ志願者を蝟集させるのであろうか。
(和辻哲郎 『自敍伝の試み』 中央公論社、1961年) 日本の国民性と言うよりは、経済レベルがあがって、
金持ち以外でも進学できるようになって、大学の収容力を越えたから、が理由だと思うが。 ■1986年(昭和61年)経済界役員数 (東洋経済役員四季報1986年版)
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BN0246666X
東大436名 慶應大92名 京大91名 一橋大91名
早大51名 東北大30名 神戸大28名 名大25名 阪大19名 九大12名
<主要銀行> ※資本金300億円以上
・日本興業銀行 ・日本長期信用銀行 ・日本債権信用銀行
・第一勧業銀行 ・北海道拓殖銀行 ・東京銀行 ・三井銀行 ・三菱銀行 ・住友銀行
・富士銀行 ・三和銀行 ・東海銀行 ・大和銀行 ・協和銀行 ・太陽神戸銀行 ・埼玉銀行 ・横浜銀行 ・静岡銀行
<信託銀行>
・三井信託銀行 ・三菱信託銀行 ・住友信託銀行 ・安田信託銀行
<証券>
・大和証券 ・山一證券 ・日興証券 ・野村證券
<政府系金融機関>
・日本銀行 ・日本開発銀行 ・日本輸出入銀行 ・住宅金融公庫 ・中央信託銀行 ・農林中央金庫 ・商工組合中央金庫
・経済団体連合会 ・関西経済連合会 ・経済同友会 ・日本商工会議所 ・全国銀行協会連合会 ・日本証券業協会
・東京証券取引所 >>163
水産講習所から鈴木善幸が出たということは知ってるが。 講習所は学費無料つっても入学条件は中学校卒業だもんな。 それでも最終学歴は農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)と表記できる。
師範学校卒が戦後大卒扱いになったようなもん。 現代において学制改革すると○○国際大学や××学園大学は高卒扱いに変更されそうだ。 >>167
まともな人は一視同仁にその手の大学と旧帝大なんかを混同しないから、心配無用だよ 『拓殖大学百年史』を読んでいるのだが、昭和20年の敗戦&植民地喪失でひどく没落したな。
海外雄飛を夢見て本学に入学し、卒業後は外地に勇躍赴任した
多くの卒業生にとって、祖国日本の敗戦はまさに青天の霹靂であり、
大きな衝撃と失望感を与えた。卒業生の多くは長年住み慣れた
現地への未練を断ち難く、また焦土化した日本の実情を知り、
残留を希望したが、米軍と現地当局の指令で一部の留用者を除き、
日本人全員の引き揚げは避けることのできない現実となった。
敗戦の混乱の中で、外地で鋭意築いた財産や地位は灰燼に帰し、
裸一貫で陸続として帰還してくる本学卒業生を待ち受けていたものは、
国土の荒廃と過酷な住宅難と就職の問題であった。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 昭和前編』) 本学卒業生の多くは台湾総督府、朝鮮総督府、関東州庁及び南洋庁に官吏として採用されていた。
彼らは本学の特色を生かして官吏試験を経ずして、現地採用の判任官待遇で奉職した経緯がある。
これが最大の利点でもあった反面、欠点ともなった。各地に赴任した卒業生の中には国家資格の
必要性を知り、総督府の普通文官試験を受験し合格した者もいたが、その数は極めて少ない。
満州国が成立すると、卒業生の多くが満州国政府、県行政を司る県参事官(副県長)に任用されたが、
満州国は外国政府機関で、日本の敗戦で満州国が崩壊するとその身分や地位は消滅した。
南満州鉄道の場合は日本国有鉄道から派遣された社員や機関士、鉄道工場の技術者、技能工員以外は
極めて不安定な身分に置かれた。雇用の道は残されたが競争倍率は高く狭き門であった。
満鉄に現地採用され鉱山会社等の系列企業に派遣された社員は移籍先の企業と運命をともにした。
満州に本社を置く多くの特殊会社や現地法人では敗戦と同時にほぼ全員が解雇状態となった。
また、中国でも同様で日本内地に本社を置く銀行、企業、商社等の支店、駐在事務所に勤務する者でも
本国からの転勤者や出向者以外は現地採用扱いであり、接収や事業所閉鎖と同時に解雇された。
朝鮮金融組合理事の場合は、任用辞令は朝鮮総督府からの発令にもかかわらず、
その身分は官吏ではない。彼らには長年住み慣れた外地生活の思い出だけが残った。
帰国した卒業生には想像を絶する苦難と試練が待ち構えていた。戦災で荒廃した
祖国の実情には疎く、親と一緒に帰還した子供たちにとっては日本は異郷の地であった。
一般的に外地からの帰郷者の処遇は、上級官吏であっても50歳以上は難しく
再就職の道は閉ざされていたに等しい。外地生活が長いと内地での縁故は皆無に近く、
外地での職務経験や朝鮮語、中国語は必要とされず、英語だけが持てはやされた。
官公庁や企業では技術職が優遇され、運よく一般事務職に採用されてもまったくの
一からの出直しであった。潔く郷里で一から出直す者、東京に出て来た者の中で
当面の落ち着き先のない者は、戦災を被り荒んだ母校の寄宿舎に居候して職を探しに奔走した。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 昭和前編』) 拓殖は、今に至るまで変な名前の学部作ってないな。
学生多いのに5学部しかない。 昔の拓大は桂太郎や後藤新平などの超大物が学長を務めるほどの名門だったんだけどね。
大学令による大学に昇格するには相当程度の資金を調達せねばならなかった。
しかし本学の大学昇格は後藤学長の並々ならぬ努力と協会の支援により
他の私立大学に比べれば順調に推移したものとみられる。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 大正編』 2010年)
後藤はその目標額50万円を台湾の製糖会社に割り当て懇請し、塩水港製糖から20万円、
東洋、台湾、大日本、明治各製糖から7万5000円ずつの寄贈を得て、供託金を始め、
本館、附属設備、東久留米の運動場の建設に要する資金の大部分を調達した。
当時の50万円というのは現在でいえば100億円にも相当する金額である。
私学にとってこのような巨額の資金を用意することは大変なことであり、
それを工面できたとしてもその後の大学経営は容易ではなかった。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 大正編』 2010年)
大正11(1922)年6月5日、財団法人東洋協会大学の設置が認可された。
これまで便宜上、昇格という言葉を使ったものの、実際には東洋協会大学の
新設であった。これにより大正11年4月入学の学生は、東洋協会大学の
予科1年に編入されたが、従来の本科生は卒業まで拓殖大学(専門学校)の
学生として取り扱われることになった。したがって旧制の本科1年生が卒業する
大正14年3月までは2つの学校が併置される形となり、校門には左右に
それぞれの校名を冠した門標が掲げられていた。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 大正編』 2010年) 宮原民平は後年、この時の後藤学長の思い出を『拓殖大学新聞』に寄稿している。
伯(後藤新平)は大正8年本学の学長に為ると直ちに学校を新大学令に依る
大学に昇格せしむることを計画せられ、新学則の立案その他の仕事を進めることに
為つたが、昇格の最要件は何といつても基金50万円を調達することであつた。
抑々拓殖大学は伯の創設したものではない、伯は懇請されて学校に入贅したのである。
さて学長と為つてみると差当り50万円を作らねばならぬ。政党の首領にでも為つたことなら、
その金は勢力拡張に役立つこともあらうが、学校の基金を作つたとて個人的に伯の
利得する所は何もないのだ。伯はよく紳士税といふことを云はれ、紳士として人から
相当の礼遇を受ける者は、人に対しても相当の犠牲を払ふべきは当然であると
云はれたが、50万円は随分多額の紳士税だ。併し伯は快くその調達を引受け、
台湾の各製糖会社から50万円を出させて本学昇格に要する基金は出来たのである。
斯んな大手腕は伯を措いて誰も真似ができないのである。当時在学の学生は
学校の昇格準備が始まつたことを知らず、伯邸に昇格の請願をしに往き、
校歌の合唱をやつたことがある。その時は校歌も始めて出来た頃であつた。
(拓殖大学百年史編纂委員会 『拓殖大学百年史 大正編』 2010年) もし旧制中等教育学校への進学率が昭和初期に50%台になっていたら
その後の昭和史はどうなっていたのだろうな。 >>175
つ「由らしむべし知らしむべからず」
山県有朋などは高学歴層が増えることを望まなかった。
そもそも中学卒業者の受け皿となる大学、高校、専門学校を増設するのには金がかかる。
五官立大学(東京工業大、大阪工業大、神戸商業大、東京文理科大、広島文理科大)設立問題は
大正後期に大政治問題となり、関東大震災の影響もあって(教育予算を削って震災復興にまわした)、
実際に設立されたのは昭和になってからだった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています