>>404
>保坂さんの「東條英機と天皇」の時代は間違い?

少なくとも、筒井の著書を読んだ限りでは保阪正康の記述内容よりは
筒井説の方に説得力を感じます。

詳しくは『昭和十年代の陸軍と政治』中の「第五章 第一次近衛内閣に
おける首相指名制陸相の実現−杉山陸相から板垣陸相へ−」の部分を
お読みいただきたい。

以下に筒井の主張の結論部分を引用します。
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近衛の弁明説流布と陸相交代の意味

 しかし、こうまでして実現した板垣陸相であったが、近衛はその実現直後に
本領を見せることになる。六月三日、原田が近衛に会った時、近衛は「昨夜板垣が
東京に着いたので、今日これから食事をしながら話すつもりだ」と言ったのだが、
その結果を原田は二日後に知ることになる。六月五日松平康昌内大臣秘書官長は、
天皇が内大臣に言ったという次のような発言を原田に伝えたのである。
「近衛は板垣のことを、会ってみましたけれども、ぼんくらな男だ、と言って
おったよ」「近衛はすぐ変るね」。
天皇はこう言って「笑っておられ」たという。

 さらに近衛は梅津次官をひどく嫌っていたのだが離任の際長時間会談した後
「梅津という人はなかなかしっかりした人で、もっと早く会っておけばよかったと
思った」と言ったのだった。
 矢次一夫はこうした近衛の態度について、「人物を識るのに人の噂話や、評判
やらちょっとみただけの印象で判断し、自らの識見で人物を鑑識しようとしない
長袖貴族の政治的浮気性というか、その政治的多情さをみるべきであろう」と
著している(「長袖貴族」とは、公卿らのことをいう)。

 そして、こうして見てくると近衛が後に、東条次官就任要因としての梅津説を
流した謎もとけてくるのである。
 すなわち、風見章は「板垣氏は、どうして近衛氏の期侍に、そいえなかった
ものか」と自問して、一九四三年初秋に近衛が次のように語ったとしている。
「せっかく、おおきな期待を、板垣氏の力にかけたものであったのを、ついに、
その期待がうらぎられるにいたったのは、杉山、梅津が、そのおき土産に、
東条(英機)を次官にすえておいたせいだ。あのばあいは、気がつかなかったが、
東条は、梅津と同心一体の存在だったのだ」。
 元来、板垣陸相・東條次宮のコンビを考えたのは近衛自身だったのだが、板垣
陸相には会うなり失望した。そして、この後、板垣は期侍したような日中戦争を
和平に導くような活動を何もすることができなかった。その意味で無能な板垣を
なぜ無理をして陸相に就けたのかという近衛への批判は高まる。板垣を自分が
起用した事実は否定できない。そこで、板垣起用は間違っていなかったのだが、
同時に着任した東条次官が悪かったのだということにする。

 本当は、この東条次官も自分の発案による人事なのだが、この真実は極秘工作の
中にあったことなのでほとんど知る人はいない。杉山陸相のやったことだとしても
よいのだが、杉山は梅津次官によって動かされていたと誰もが見ているのだから
梅津の貴任ということにすればよい。

 あくまでも推論だが、近衛がこの弁明を思いつくに至った思考の流れはこのよう
なものではないだろうか。

 これまで誰もこの件についての事実関係についての詳細な検討を行わなかったので、
いわば近衛にだまされた歴史叙述が繰り返されてきたわけである。
これがいわゆる「長袖者流」ということなのだろうか。(p172-174)
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