維新の三傑って誰なの? [転載禁止]©2ch.net
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戦国の三英傑
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
↑文句なし
維新の三傑
・西郷隆盛
・大久保利通
・木戸孝允
↑えっ、この三人? テロリストとカルト教祖と詐欺師と人殺しが勢揃いのスレ 歴史家がもう幕末の最重要人物が誰だったか書いてるよ
維新の6傑だな
【歴史の転換点から】江戸無血開城の「点と線」(7)西郷と勝 家近良樹教授に聞く(下)勝のけれん味
https://www.sankei.com/life/news/190915/lif1909150001-n3.html
>幕末維新史における最重要人物がだれだったかと考えると、まず孝明天皇が浮かびます。そしてやはり西郷・大久保。
それから島津久光と慶喜。また、『功山寺挙兵』で長州藩を一変させた高杉晋作。いずれも超一級です。彼らに比べると勝海舟は2番手です。 高杉晋作を外して山岡鉄舟を入れるべき
あとやっぱり木戸は外せないので、七傑で >>456
5年位前にレスしてた>>20って歴史学者とほぼ同じ意見じゃん
すげえな 木戸は、明治になってからも五箇条、版籍、廃藩など功績は残しているが、
何か地味なんだよね。ずる賢くて、陰湿な政治家というイメージがある。
だから、小説家や歴史家が感情移入できないと思う。
でも、戦前は西郷と同じくらいの人気があったみたいね。
戦後は国民的小説家の司馬によっておきおろされたのが痛かったね。 >>456
1月15日の英雄たちの選択が孝明天皇だからヨロシク 戦国時代の良さって全国的に人気みたいだけど、俺分かんないんだよな。
もともと歴史好きじゃないし。
ただ最近勉強して思うのは、 戦国時代なんて
全国がばらばらで統一された状態に不満があるなんて
上に文句あるの? とでもいいたいけど、
勝手に上の代弁をしても 上の承認もないから
負ける意見なんて認定もないって撥ね付けられるんだよね。
維新の3傑が何かって
ぼろぼろにまで働いて、何の地位も名誉も
得られず死んでいってなんか憐憫の情も湧くし、死後の名誉ぐらいあってもいいよね >>456
功山寺挙兵とやらはそんなに重要だったの?
坂本とどっちが重要? >>471
歴史家によって評価はわかれるだろうな実際
高杉選ぶか竜馬選ぶかだと
もしくは>>20が書いてる後藤か広沢か >>473
後藤、広沢より、木戸と思うが、ダメかね。 倒幕三傑。西郷、坂本、高杉
維新の三傑。西郷、大久保、木戸 明治三傑に西郷・大久保はちょっとな。
彼らはやはり維新だよ。
明治三傑は、伊藤、山縣、東郷くらいかな。 日本がグローバル化の波に巻き込まれたことにより生じた様々な案件の根本的、抜本的処理 維新の3傑は
大村益次郎、木戸孝允(桂小五郎)、山田顯義(市之允)が正解
いづれも長州藩出身で明治新政府誕生の
最大の功労者。
高杉晋作が遺言で一番期待したのがこの3傑です。 愛エメ総長
日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 [無断転載禁止]©2ch.net
https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1506120669/l50
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 1
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1501510625/
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 2
https://tamae.5ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html >>476
木戸はむしろ前者に入ると思うけどね
高杉は藩論全体を動かす根回しは苦手で西郷、木戸、坂本と違って枠組み作ることはできんかった
維新後の木戸は体調不良とメンタルの問題で参議としての役割も十分に果たしたとは言い難い
長州の実務屋は西郷、大久保、大隈に諮ることはあっても木戸には事前連絡と報告しかしとらん 大久保と木戸を、松平春嶽が明治の父母と評し、徳富蘇峰が性の合わない夫婦のようと
評しているのだから、この二人は三傑から外せないよ。
アンチ木戸の人たちは木戸を「ずる賢くて、陰湿」と言うけど、当時の人達の木戸評を読めば、
「世話好きで、きさくで、人の話を良く聞いて、根回しが上手で、多くの人から好かれる性格」
ってことが伝わってくるぞ。
もちろん八方美人という意味でもなくて、ウマが合わない連中もいただろうけど、
長州嫌いの山内容堂公とも呑み友だったという事は、人好きだったということの証明だ。 >>494
木戸は冷淡な部分が多い
陰湿である!
裏の顔は奇兵隊の皆殺し >>495
アンチ乙。
冷淡な部分って、脱退騒動と萩の乱の鎮圧だけだろ。
鎮圧=皆殺しではないし、下っ端兵士には米を与えて帰郷させている。
そもそも、拙速な奇兵隊解散は良くない、十分な報酬を与えて次の仕事を手配してから
解散すべきだと、木戸は県に指示していたんだよ。それを怠った県の責任だ。
鎮圧後の処罰を、同郷だからってナァナァにして甘いものにしたら、それはそれで
身内びいきだと非難するんだろ。身内びいきにせず、公平に対処するところに
木戸の凄さがある。 脱退騒動では、木戸は自ら軍を指揮して銃弾飛び交う中で戦っているんだよね。
元志士の血が騒いだのかどうか、逃げの小次郎のイメージはない。
この点、佐賀の乱における大久保とは違うところ。
武力鎮圧後は藩内での木戸のリーダーシップが確立され、木戸・井上の了解を得ない限り、
藩政の要路につけないことになった。藩政の主導権は完全に木戸・井上の手中になり、これが、
廃藩置県に繋がったんだよね。
時代はさかのぼるが、維新直後、新政府確立には「戦争より良法はなし」と確か小松に書簡を送り、
戊辰戦争の拡大を望んでいる。又、彰義隊鎮圧の為、大村投入を三条に説いたのも木戸だと
する歴史家もいる。会津への過酷な処分、浦上キリスト教徒処分を主導したのも木戸。
うーん、木戸はやはり冷徹・聡明・怜悧だよ。西郷にもう少し、木戸のような個性があれば
西南戦争は防げたかも。 >>497
概ね同意だが、会津への処分が過酷というの会津史観の影響を受けすぎだし、
キリスト教徒処分も当時の禁教令通りのもので、特別酷いものとは言えない。
会津の件についてさらに言えば、一会桑の中で慶喜と桑名が早々に恭順したのに対し、
徹底抗戦を望んだのが会津。会津への処分が、慶喜や桑名に対するものより重いのは
当然だ。
容保の命は助かり、減封・転封だけですんだのは恩情とも言っていいくらいだ。 だから長州閥は国滅ぶ寸前まで米国に徹底抗戦したのかー納得 国滅ぶ寸前まで米国に徹底抗戦した長州閥ってナニ?
夢か幻の話?
それともキミの妄想での話? 国滅ぶ寸前まで米国に徹底抗戦したのは長州閥ではない。
長州、薩摩が政治、軍の要職を占めていたのは、大正まで。
昭和になってからは 軍の要職には士官学校卒の東北出身者が多い
(東条、石原、米内、板垣など)。 黒幕だろ?
岸は何故総理に?
満洲国では産業開発国務院高級官僚、
商工大臣、国務大臣と軍需省次官兼務
終戦後3年5か月A級戦犯として服役
後に不起訴無罪放免
政界から姿消すが冷戦後復帰
石橋の時外務大臣後に総理
日米安保成立中身は糞
安保闘争乗り切るが
昭和の妖怪
安倍で山口県総理も終わりよ 岸は満州で培った人脈と利権によるものがその実力の源で長州閥とはまるで関係ないし
この当時の長州閥など政界にはすでに跡形もなく消え
かろうじて陸軍内に宇垣が率いる軍閥として存在感薄く漂ってたにすぎないのにナニを言ってるのかな? >>506
最後に久慈力の本読めよ
江戸から現代までの本だ
俺は吉田松陰を三傑に入れてる
後はスレタイに従う。 ではスレの趣旨に戻ろう。
維新三傑を挙げるのなら、維新政府成立後にも影響があった人を挙げるべきだ。
象山、松陰、晋作は新政府の方針への影響は直接的ではないという点でNGだと思う。
もちろん、彼らの影響を受けた人が維新を担ったのは確かだけど。 で、オレ自身の意見としては、>>494に書いたように大久保と木戸は外せない。
で、西郷を入れたらこの3人は明治10年前後に3人とも、志半ばにして倒れる
というドラマチック要素があって収まりが良い。
ただ薩州2人、長州1人というバランスの悪さが気になるので、大久保・木戸・岩倉が
維新三傑に相応しいと思うのだ。 >>508
ちよwおまw久慈力とかww
久慈の言ってること鵜呑みにしてんのなw
すごく納得したわw
ま、あんま恥ずかしいこと人前で言わん方がいいぞw 洋行中に、伊藤博文(長州ファイブ)と森有礼(薩摩留学生)が国教をキリスト教にしましょう、
公用語を英語にしましょう、と浮かれていたのを、青木周蔵(長州ドイツ留学生)の意見を参考に
一蹴したのが木戸。
現代人がその是非を論じても良いけど、明治以降木戸は精彩を欠いた・何もしてない等の意見は
全く的外れだと思う。 >>510
文久年間までは岩倉は公武合体派で幕府よりで三条らとは距離が遠いんだよな
久光の上洛と文久の改革を経て薩摩が本格的に朝廷工作を始める段階で長州に肩入れし過ぎた三条らが追われて以降近衛の仲介を経て岩倉を発見した大久保がこれと組む
ここからの岩倉のすっとぼけと謀略で薩摩が朝廷を抑え禁門の変、長州征伐、薩長同盟と目まぐるしく政局が変わる中でいつの間にやら幕府をポイ捨てw
普通なら戸惑うばかりのハズの朝廷が薩摩と近衛プラス三条の返り咲きで一気に討幕まで向かうっていうとんでもシナリオを成立させた
維新後の留守政府追い落としから大久保の返り咲きとポスト大久保に伊藤を持ってくるところまで結局トップ人事を決めたのはいつも岩倉だったっていう すぐ辞表を出して逃げる、と木戸を批判する人もいるけど、政策論争で負けて下野するのは
当時では当たり前のことだから。
西郷:征韓論で負けて下野
木戸:征台論で負けて下野
大久保:征韓論でも征台論でも勝ち
それでも再び政治の場に駆り出されるのは、西郷も木戸も同じ立場だろ。 >>513
そう、岩倉こそ、倒幕と明治新政府の方針に多大な影響を与えた人物。
大久保・木戸は外せないとして、もう一人挙げるなら岩倉だよ。 岩倉に関しては、当初公武合体派で、その後倒幕派になるという変わり身の速さが
嫌われている原因だと思うけど、天皇・朝廷の地位を上げるためという目的では一貫
しているんだよね。
状況に合わせて戦略を最適化しただけだ。
明治の世になったら維新政府の中では保守的だったというのも、面白い。 征韓論争で、洋行組が逆転勝利したのも岩倉が絡んでいるだろ。
あれは、岩倉じゃないとできないよ。 オレは去年の11月頃からこのスレを覗き始めたのだけど、このスレ当初2015年頃の
「広沢推し」の人に教えを請いたい。
広沢真臣さんって何した人なのか。
なぜ、木戸よりもこの人のほうが、維新三傑にふさわしいのか?
オレが知っている広沢さんは、長州征伐の時に宮島で勝海舟と交渉した人で、
(当の宮島では木戸孝允とアピールしているけどww)
おそらくは倒幕の密勅(=偽勅?)工作に関わった人、くらいだ。
倒幕に貢献したのは間違いないが、維新政府の方針に影響を与えたとは思えないんだが。 司馬史観、水戸史観
色々見方があるが
長州五傑は外せない。 幕末に長州藩からイギリスに密航した5名の藩士のことじゃない?
所謂 長州ファイブ(伊藤、井上薫、井上勝、遠藤、山尾)。
その中で、山尾は工部省の開設に尽力している。
民蔵分離で近代化路線が後退。大久保は工部院設立に反対、民部省で事業を継続
することを求めたが、木戸・山尾の奔走により、工部院設立が廟議で決定され、
工部省の開設に繋がった。
民蔵分離をめぐる政治闘争では、木戸は大久保に敗北したが、工部院設立で挽回。近代化の流れを絶やさずにすんだことは大きいよ。
497だが、”小次郎”なんて恥ずかしい書き込みをしてしまった。
桂さんに申し訳ない。 長州五傑と長州ファイブとでは全然意味あいが違ってくるとおもうが こっちの本では、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允・井上馨。
『吉田松陰と長州五傑 』 頭山 満 ・田中 光顕・伊藤 痴遊 著
こっちでは、いわゆる長州ファイブのこと。
『明治の技術官僚 - 近代日本をつくった長州五傑』 柏原 宏紀 著
紛らわしいね。 やっぱり司馬史観がガンだよな〜・・・
「司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解」 土居 豊著 関西学院大学出版会2018年
では、西郷を結局上手く描けなかっただけでなく、大久保や木戸を矮小化してしまった
ことが述べられている。
他にも『花神』『竜馬がゆく』『世にも棲む日日』にも触れられている。 維新の三傑で一番不思議なのは、木戸と西郷の関係だと思う。
西郷は一般的には器が大きいと言われているし、木戸も気さくで人付き合い上手と言われている。
だからこそ、この二者間で薩長同盟が成立したわけだ。
だけど、明治の世になって廃藩置県までは協力し合えたのに、征韓論争以降は
西南戦争で両者が死ぬまで全く接点が成立しなかった。
馬が合わなかった、だけなのかな〜・・・?
風雲児たちでもあったけど、人付き合い好き同士が仲が悪く、その両者とも
上手く付き合えるのが、人付き合い嫌いの人だったということもあるのかなww 人望があるというのはその人に期待するそれぞれの出身藩や新政府の派閥があり、木戸も西郷も本人達の考えだけで付き合えるわけじゃなかったということだと思う 木戸や大村の国民皆兵に反対し、旧武士の利権を守ろうとしたという意味で、
西郷と前原一誠は同じ立場だし、木戸と前原の仲が悪いように、
木戸と西郷の仲が悪いのも当然と思う。 それに関しては御親兵動員で高禄を与え過ぎたというのが一番の間違いだったと思う
戦場で役に立つからと高いサラリー与えたらみんな女と酒と次の利殖に夢中になって良い思いをしたんで、国民皆兵でサラリーが減るのを嫌がった士族とその状況を用意した奴が悪い >>497
>>浦上キリスト教徒処分を主導したのも木戸
というけど、大隈がイギリス公使ハリー・パークスと交渉した一件から見ても
当時の政府としては当然の対応だと思うぞ。 描いたというよりはプロイセンやフランスみたいな封建制から中央集権による郡県制への移行しか政治体制はできないだろうという観測だろ
幕府将軍自体が天皇によって封建領主連合の主導者としての地位でその幕府組織を中心にした郡県制への意向は当時の幕末日本では無理だと
地方領主と天皇の間で外交政策の決定にも難渋し分野によっては雄藩の西洋技術導入に遅れを取り、組織変更も立ち遅れている
特に富国強兵のための政策は雄藩の方が実務的にも組織的にもその対応が早くから行われていて幕府を出し抜いている
そして幕政に関与しつつ幕府が後手に回るような時には雄藩同士が結びついてまた幕府の意向とは違う動きもしている
その初期の首魁が島津斉彬で斉彬時代に再整備された下級藩士登用による政治改革と外交活動の素地がじんわりと雄藩内に広がった
表立って武力衝突はないけどいずれ薩摩を中心とする雄藩が連合して幕府と武力対決に及ぶことは幕府とも薩摩とも交渉している当事者の目にはかなりハッキリ見えていただろう <<禁門の変
この事変で たった300名ほどの長州兵に 完全に御所まで突入されてしまった
ちゃんと戦ったのは 薩摩兵と会津兵だけだった
徳川の軍事力が空洞化してるのがバレてしまった >>536
会津は京都守護職だし、禁裏守衛総督徳川慶喜は自ら出馬して戦い、長州は敗退
久坂玄瑞も戦死した
これが禁門の変 >>1
>維新の三傑って誰なの?
ジェイ‐Z
ザ・ノトーリアス・B.I.G.
ナズ >>538
はあ?
2Pac
Snoop Dogg
Dr. Dre
だろタコ助 たこ焼き
お好み焼き
焼きそば
もんじゃ焼きはハブ ロバート・スミス
バーナード・サムナー
マーティン・ゴア 薩州代表で、大久保
公家代表で、岩倉
長州代表で、木戸 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています