「血戦」越後口の戦いを語る「激戦」 [転載禁止]©2ch.net
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戊辰最大にして真の天王山「越後口の戦い」について語ろう 戊辰北越戦争で長岡軍がアームストロング砲で、榴散弾を発射して奇兵隊ら西軍の頭上で爆発させる戦術を用いて、多大な損害を与えた。 久保田が変節しなければ、庄内も各方面に南進できたのになあ。 まず、長岡兵はどっかの峠とかの守備に出払って誰も居ない長岡城に、新政府軍が信濃川を渡って奇襲をかけ奪取。
長岡城内にはほんと誰も居なかったらしい。
城を落とされても長岡兵は無傷のまま残ったわけだ。
その長岡兵は八丁沖を6時間もかけて渡り奇襲して長岡城を取り戻す。
この奇襲攻撃は後に石原莞爾が注目し論文にしてるほど異例の出来事。
しかし、新政府軍は制海権を取った上で新発田藩を寝返らせ、新発田藩領に上陸を開始。
新政府軍の上陸部隊はそのまま新潟港を制圧、同じ日に長岡城も再び制圧。
城の奪取をめぐり、両軍ともに被害が拡大していき、最後は物量に押された感じじゃないかな。
ガトリング砲は何十門も並べて「面制圧」をする兵器だが、長岡藩は1門もしくは2門しかなかったため弱点を突かれて大して効果はなかった。
弱点というのはガトリング砲1門1門は旋回しづらく、敵が四方に散ってしまったらどうにもならない。
それを補うために何十門も並べるわけだよ。 あと、アームストロング砲はそれなりに活躍したようだ。 北越戦争での会津は、越後の幕府直轄領に出兵して防衛にあたっていた。
長岡藩や新発田藩などだな。
が、会津はそこで重税を課したり、地元の人を徴用するなどした上で、更に会津藩士が個人個人で略奪や強姦を行っている。
同じく救援にかけつけた米沢藩兵は評判がよかった模様。
なんだかんだで長岡城が落ち、いよいよ会津領に侵攻する事になった際、
北越戦争に参加していた官軍はそのまま南に下り、会津領の大芦村(今の昭和村)あたりで会津の朱雀隊を撃退した。
会津攻めのメインは南の方から北上してきた官軍がメインだから、こっちの話はほとんど語られない。 いた。
それからwikiに書かれてないが官軍側に加賀藩や富山藩も参加してた。
二度目の長岡城落城の一番乗りが加賀藩。
まぁ富山は加賀前田家の分家だが、北越戦争は正確には
長岡、会津、米沢、桑名 vs 薩摩、長州、加賀、富山
の戦いじゃないかな。誰か詳しい人は補足してくれ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています