米国は攻撃を知っていたどころか、罠に誘い込んだとしか思えない。

吉川猛夫の最終電報…空母、重巡がすべて出港したことへの無念
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例えば12月1日のホノルルからの報告電報の中には「艦艇の出港及び帰投の予定」として、「火曜日に出港して金曜日に入港
するか、金曜日に出港して日曜日に入港する。そしていずれも約1週間在泊する」とある。吉川の情報収集は極めて正確で
あったのだ。
 12月5日、6日になると、真珠湾内に停泊する艦艇数を朝夕の2回送るようにとの命令に変わった。吉川が打った最終電報は、
12月7日の午前2時近くであり、真珠湾攻撃の5時間ほど前のことだったという。その電文の中には、「(二)6日夕刻真珠湾在泊
艦数は戦艦9隻(注 練習戦艦ユタを算入) 軽巡3隻 4隻入渠中 駆逐艦17隻 2隻入渠中 潜水母艦3隻 其の他多数 
(三)艦隊航空兵力では航空偵察を実施していないようである」といった具体的な数字がきちんと書かれている。実はこの項目の
(一)には「5日夕刻入港せる空母2隻、重巡10隻は6日午後全部出港せり」とあったのだ。吉川は無念そうに書いている。
「もしこの空母2隻が出港しないで在泊していたならば、ミッドウェイの敗戦も──というのは、この空母がミッドウェイのアメリカ側
の勇者であったから──なかったであろうし、太平洋戦争の様相も変わっていただろう」
 空母2隻を撃沈できなかったことが残念だったというのであった。しかし太平洋艦隊の主力艦隊である戦艦8隻が真珠湾に揃う
などというのは、吉川の偵察行動8カ月の間ではまったくなかったことだったというのだ。欲を言えばキリがないと、吉川は自らを
慰めた。その後吉川は領事館で仮眠を取った。この日に攻撃があることは知らない。そして8時前から朝食のテーブルについて
いると、地震のような地響きが始まった。2弾3弾と続く。雷かな、演習かなと思い、外に出てみた。真珠湾上空は黒煙に覆われて
いる。東から西へ朝霧の中を飛ぶ飛行機の機体には日の丸が見えた。「戦争だ」と吉川は叫び、喜多総領事と涙を流しながら、
握手を繰り返した。