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山田仙三という長州兵は二本松に入ると菓子屋の略奪に熱中する。
散々菓子を食ったあと大きな羊羹の箱を持ち帰ったら俺にもくれと隊友がせがみ菓子売のようになった。
その後で母成峠に入ったが、食糧が来ないので百姓家から唐茄子や米を奪って飯を食った。
峠を越した後はやっぱり放火する。

白井良三郎は干城隊で越後に出征したが、村松城下が燃え上がるのを目撃。
「敵が退いたからと言ってあんなに焼く理屈はない」と思って聞いたところ、
今度は米沢藩の放火だった。村松藩は米沢藩から脅されたが中々従わなかったので放火されたらしい。

佐藤保介も干城隊で、越後・会津の国境まで進軍して庄屋宅に宿泊するが、
池にコイを見つけるとさあ獲れと言って15,6匹も獲った。煮ようとしたが味噌も何もない。
百姓は食糧を持って逃げてしまったので分捕りもできず、まずいコイの味に失望して捨てた。

本田友一も越後に出征。第一次長岡攻防戦で強引な渡河を行ったが、
小者に「うまくやったら武士に取り立ててやる」とマッチ箱を渡して渡河させた
小者はやっぱり放火をして回るがやりすぎて捕まった。
本田によると会津、長岡、庄内の三藩の兵が最も強かったらしい。

河村楳治は長州第4大隊第1中隊で、杉山素輔と戦歴が重なる。
上野戦争の翌日に大小を指した立派な武士が通りかかったが、
自分は幕府方ではないというのを無視してその場で殺した。

小島荒一は越後方面に出征。
長岡城攻防戦のときに暗いと言って百姓家を何軒も放火して回る。
長岡が落ちたあと避難する行列に大砲をぶっ放してやった。
6月1日の見附杉の森の戦いで村松藩兵3人を捕虜にしたが面倒だから斬った。
戦争が終わったあと村松藩兵2人が迷子になってたのを捕まえてまた斬った。
初めて戦争に出た人らしく、降参するから助けてくれと言われたが面倒くさかった。
(杉山素輔の部隊も、彼の部隊も捕虜がかなりいたようだが全員殺している)
戦況が不利になり見附を放棄するが地元民には先へ進むと騙して撤退した