>>102
「慰安婦」問題 強制連行否定を批判
歴史学16団体が声明
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-05-26/2015052601_04_1.html

<特別寄稿>私の日本近代史研究回顧 松尾, 尊~ (2011-05-31)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240187/1/shirin_094_3_493.pdf
日本史研究会は東京の歴史学研究会と密接な関係をもっていましたが、その支部ではありませんでした。
共に共産党の影響下にありましたが、東京と京都の距離に起因する差がありました。

歴史学研究会って左翼の巣窟?
https://katintokei.at.webry.info/201505/article_59.html
https://web.archive.org/web/20150530010526/https://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-12031185403.html

日本現代史序説講義ノート
http://nagaikazu.la.coocan.jp/josetu/9908.htm
 1945〜50年は再出発した戦後歴史学が民主的カオスの中からマルクス主義的歴史学が優位を獲得していく時期であった。
その中心となったのが歴史学研究会であった。歴史学研究会の1949年度大会の統一テーマ(統一テーマなるものが設けられた
のが、そもそもこのときがはじめて)が「各社会構成における基本矛盾について」であり、その三つの報告がともに唯物史観に
立つものであった。

「戦後歴史学」から見る戦後日本における歴史学の変遷 : 歴史学研究会を例にして
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&;item_id=13073&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1
 歴史学研究会の人々が初めに掲げた目標は、言うまでもなく、「皇国史観」の早期克
服と新たな歴史学の手法の模索であった。特に後者において、歴史学研究会は天皇制批
判に力点をおいた。これは、そこに所属する大多数の人々がマルクス史観を信奉してい
たことも要因であった。

 君主制を批判するマルクス史観は、天皇制の反人民性を批判し告発するという意図が
多分に含まれていた。1946 年 6 月の歴史学研究会総会で決定された綱領には、「歴史を
人民の立場に立って把握するという歴史観」と「歴史家は人民の中に入り、その研究成
果をもって人民に奉仕するという歴史研究者の社会的責任」4というふたつの問題を盛
り込んだ。このことから、その特色は天皇をはじめとした支配者から見た歴史観から脱
却し、被支配者である人民の視点から描かれる歴史像を目指していたことが窺える。
戦後の歴史学に携わった人々の多くが、こうしたマルクス史観を採用することは決し
て不思議なことではなかっただろう。その最大の要因は、「皇国史観」が当時の日本政
府に都合よく利用されていたことを戦後の早い段階から日本国民全体が自覚していた
ことである。

 さらに 1946 年末には、歴史学研究会の中に歴史教育部が設置され、翌年からの教育
改革に備えて日本教職員組合の協力を得て、学校教科書の作成に着手することになった。

 さらに、1957 年『前衛』3 月号、9 月号において多数の科学者が日本共産党によって
研究の自由を組織的に圧迫されたという事実が報じられることによって、マルクス主義
理論およびその理論に立つ研究者の業績の科学性に対する疑問と不信を生じさせてい
た。
 遠山は主に国内外の政治事情を要因に挙げているが、同時に、「戦後歴史学」の研究
活動にも、問題の発端が開かれ始めていたと考えることができる。歴史学研究会は、
1950 年には『日本の歴史』という研究会独自の教科書を出版していたが、記述内容が
マルクス主義理念を多分に含んでいたため、それは帰結的に「社会主義・共産党の礼讃」
に陥っていた。その影響は、1963 年に出版された『日本歴史講座』全 8 巻にも及んで
いる。
 例えば、『日本歴史講座 第 6 巻』には、節のタイトルが「中日戦争」となっている
など、人民の歴史ではあっても、社会主義者や共産党員の視点から見た歴史叙述が目立
つ。
 こうした動向は、歴史学研究会全体に見受けられる。

歴史科学協議会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A
マルクス主義史観が占めた左派歴史学者団体と指摘されている[2]。