正論 2021年2月号
マルクス主義支配の歴史学界を憂える    東京大学名誉教授 伊藤 隆×評論家 江崎道朗 
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【江崎】 伊藤先生のご著書『歴史と私』(中公新書)には、我が国の近現代史研究の基盤を構築されたこれまでの先生の
足跡が克明に記されています。
 せんごの歴史研究、歴史教育は、マルクス主義に基づく、階級闘争史観や発展段階説による思考に支配されてしまって
いました。そうしたなかで、マルクス主義の歴史観に代わる新しい枠組みを提示されただけでなく、木戸幸一、佐藤栄作、
重光葵、鳩山一郎らの日記や手紙を始めとする膨大な史料を収集・発刊され、多くの重要人物に対して聞き取り調査をして
こられました。…(略)…
【伊藤】 私は独りぼっちというか、あまり付き合いがいいほうでもないですからね。ですが、いま江崎さんが指摘されたように、
日本の歴史研究は、一貫してずっとマルクス主義的な歴史研究に傾斜してしまっていることは確かです。平成25年の話です。
私は『史学雑誌』という東大の史学会が出している雑誌に「『東京裁判史観』を想う」と題する文章を寄稿したことがありました。
       …(略)…
 後で聞いた話では、この文章を雑誌に掲載するか大問題になったそうです。最終的には無視はできず掲載はされましたが、
私の文章へのコメントなどは一切なかった。反論すれば議論になるから、それもない。なるべく触れないようにしている。そんな
感じですから、私は孤高の人になってしまうのかもしれません。
 ただ、東大の史学会は学会では、比較的に公正で実証主義的な研究者が多い団体なんですよ。「とうとうそうなったか」という
のが偽らざる感慨でした。もちろん、これは象徴的な出来事に過ぎませんが、戦前から戦後、現在に至るまでマルクス主義的
な研究者組織の支配は一貫して続いています。
【江崎】 日本は、欧米諸国の動きと逆行していますね。というのも1991年のソ連崩壊後、欧米諸国では、マルクス主義史観や
ソ連・共産主義体制に対する疑問を呈する方向で近現代史研究が進んできているからです。
 …(略)…大戦勃発80年にあたる2019年9月19日、欧州議会で「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」と題する決議が可決
されました。ソ連は第二次世界大戦を始めた侵略国家であって、そのソ連を正義の側に位置付けたニュルンベルク裁判は
間違いだとしている。事実上、戦勝国史観を修正しているんです。
       …(略)…
 私の議論に先生が目に留めて下さっているのは有難い限りです。先生が書かれた『シリーズ日本の近代―日本の内と外』
(中公文庫)を改めて読み返しましたが、先生の問題意識がひしひしと感じられました。
【伊藤】 分かったでしょう?
【江崎】 『シリーズ日本の近代―日本の内と外』には国際共産主義と近代日本、特にロシア革命からソ連崩壊までの歴史を
追いつつ、20世紀に人類が経験した壮大な実験である共産主義に日本人がどう接してきたのかが、詳細に描かれ、論じられて
います。マルクス主義に支配された日本の歴史学界のなかで、先生がどのような思いを込められて執筆に尽力されたか、それを
考えると実に刺激的でした。
【伊藤】 昭和から平成に変わる時期に、ソ連が崩壊したでしょう。あのとき左翼の人たちの研究論文の引用文献からマルクスや
レーニン、スターリン、毛沢東など共産主義者の名前が一斉に消えました。彼らは今も大人しくなり、私に反論もしなければ、
たいした議論もせずに過ごしている。「ヴェノナ文書」など存在を今も見ようとしていないんですよ。でも探ると、やはりマルクス主義
に根差している。
       …(略)…
【江崎】 なぜ、日本の歴史研究や歴史教育は、マルクス主義の影響から抜け出せないのでしょうか。
【伊藤】 マルクス主義者やマルクス主義に影響を受けている人たちは、それが物の見方の軸になっているわけです。これを
失ったら頼るものがなにもない。捨てたら別の見方があるわけじゃなく、視座を自分でつくらなければいけない。…(略)…
(続く)