太平洋戦争は共産主義者の陰謀【3】 [無断転載禁止]©2ch.net
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亡国の思想、共産主義に精神を侵された売国奴どもの策動が日本近代史を狂わせた。 「尾崎秀実の関東軍司令部爆破計画」は実在したか
https://web.archive.org/web/20150919024621/http://chikyuza.net/archives/tag/%E3%80%8C%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E9%83%A8%E7%88%86%E7%A0%B4%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%8D 月刊WiLL:2016年4月号
朝日大物OBの痛憤対談2
■長谷川煕×永栄潔
朝日新聞は歴史に学ばない
ttp://web-wac.co.jp/magazine/will/201604_w
【永栄】 前篇でも話題になった「敗戦革命」ですが、かの尾崎秀実と親しかった三木清が当初は中国との和平を
説いていたのに、ある時から「長期戦を覚悟せよ」と方向転換を図り、朝日も「暴支膺懲」などと尖りに尖った
紙面を展開するわけですね。
私は戦争が始まった以上、必然の紙面だと思ってきたのですが、敬愛する長谷川さんまでが今度のご本で、
そうした紙面づくりは陸軍統制派やいわゆる革新官僚などと連携して日本を消耗・疲弊させ、敗戦に持ち込み、
革命につなげようとしたものだったのではないかとの見方を示されているのを読み、気が重いです。
尾崎がひとり突出していたわけではなく、尾崎と世界観をともにした人々が朝日の社内に少なからずいたということ
ですものね。
東大名誉教授で近代史家の伊藤隆さんの近著『歴史と私』(中公新書)にも、尾崎や近衛文麿と昵懇だった
同盟通信社(共同通信社・時事通信社の前身)の幹部で、戦後も活躍された松本重治氏に触れて気になる
記述がありました。 また、近衛首相が1938年1月16日に
「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず・・」とした一・一六声明に対し、
1月19日の読売新聞夕刊で三木清は「長期戦の覚悟」を書きます。
そこには、
「いよいよ長期戦の覚悟を固めねばならぬ場合となった。
それはもちろん新しいことではなく事変当初からすでに予想されていたことである。
・・・これに処して行くには強靭な精神が必要である」
これは国民に支那事変の長期化を覚悟せよということです。
三木清も共産主義者であり、
1942年に治安維持法違反で検挙され獄中で悲惨な死を遂げました。
しかし戦後、三木清は「戦争に反対したがゆえに軍閥政治の犠牲となって獄死した」と伝えられたが、
反戦どころかコミンテルンの指示通り読売新聞で真っ先に長期戦を訴えたのです。
http://megalodon.jp/2016-0303-0421-20/mozugoe.jugem.jp/?eid=71 偉人たちのゴシップ集/『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』
伊藤は疑問の人物についても容赦はしない。その代表例としては同盟通信の大ジャーナリスト松本重治がいる。
会議の場での「私は終始平和主義者であった」という発言に伊藤は強い違和感を覚える。戦前戦中に松本自らが書いた文章で、
松本と軍部との深い関係を知っていたからだ。松本の回想録には「自己を語らない同時代史」だと落第点をつける。
http://www.dailyshincho.jp/article/2015/08031600/?all=1
『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』 伊藤隆/著 (中公新書)
P76
松本氏は平成元(1989)年に亡くなられ、翌年に国際文化会館から『追想 松本重治』が刊行されました。その時私も寄稿を
求められ、躊躇したのですが、批判的に書いてもよいというので、「昭和史の中の松本重治氏」という文章を書きました。
氏が一貫して「軍国主義」として批判した軍部、その軍部と松本氏との深い関係を指摘したのです。
P205
『文藝春秋』の求めに応じて、「『御用学者』の弁」という文章を書きました。少し引用してみましょう。
・・・(略)・・・
私は1920年代以降の日本近代史の理解のためには、日本社会の特に知識層に深く浸透した共産主義思想(それは共産党という
組織と一体のものである)のより深い研究が必要だという事を主張してきた。 【別冊正論「南京」斬り】
日中共鳴で肥大化させた「南京大虐殺」 その捏造の歴史を概観する
http://www.sankei.com/politics/news/160324/plt1603240031-n2.html
なお、南京戦の2年前にモスクワで開かれたコミンテルン世界大会でスターリンは日本を中華民国と戦わせるよう演説。
最終的には戦争に敗れた日本を共産主義陣営に取り込むことを想定していた。そうした構想のもと、ソ連は蒋介石に対して
莫大な軍事援助を提供し、日本を中華民国との全面戦争に引きずり込むことを画策していた。 梅津美治郎 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E7%BE%8E%E6%B2%BB%E9%83%8E
6月9日に昭和天皇に関東軍の視察報告を上奏した際に「兵力が8個師団分しかなく、弾薬は大会戦の一回分しかない」
と伝える[4]など、戦争の継続に対して懐疑的な態度を見せたこともあった。
歴史通:2016年5月号
■北村 稔
満洲国の崩壊と偽軍
ttp://web-wac.co.jp/magazine/rekishi/2016%E5%B9%B45%E6%9C%88%E5%8F%B7
劉煕明は、共産党側と国民党側の資料を用いて多くの事例を示す。ちなみにソ連軍は45年9月の時点で、瀋陽付近に勢力を
扶植していた共産党軍に対して、瀋陽近郊の蘇家屯にあった日本軍の武器庫を管理させた。共産党軍に、自由に武器を持ち
出させるためである。このほか日本軍が山海関などの地に保管していた大量の武器(十個師団が3年間戦える武器弾薬!)を、
共産党軍に提供したという。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています