倒幕派のテロは会津の自作自演 [無断転載禁止]©2ch.net
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「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。
名城大学の原口清氏の成果である
(「禁門の変の一考察」『名城商学』1996年)。
原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の
元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である。
(『会津藩庁記録』4巻、664から668頁)
在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く
最も信用に足る史料の一つである。
原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。
新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺
長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と
記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた
その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから
新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので
すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し
会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。
原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという
記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。
そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に
古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと
突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが
慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと
非難を受けることをかわすため(「史料的に確定は困難」とされてはいるが)
一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが
何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として
6月9日ごろから御所辺放火計画が
でっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 会津って孝明天皇から直々にぃぃぃぃと歓喜するけど
孝明天皇から守ってくれって密勅が下ったのは
長州と水戸だって知らないよな(笑) 戊午の密勅が下ったのは水戸
長州はコピーをもらった他の十数藩の一つに過ぎない
なぜか山口県発情報には本物もらったと書いてあったりするが
八月十八日の変の前に守ってくれと密勅が下ったのは薩摩
事件後には会津と薩摩が宸翰をもらった
なぜか会津オタは会津しかもらってないと思い込んでることが多いが >>10
安政5年8月、朝廷から 藩主毛利敬親に
宛てて一通の密書が届きました。
この密書は天皇側近の議奏中山忠能
三條実愛が孝明天皇の内意を奉じたもので
敬親に対して「国中騒動の兆しあり、
心中密かに深く苦悩す、もし急変があれば
機に応じて速やかに内裏の警衛に任ずべき
『天下の忠臣』を毛利に期待する」
旨の内容でありました。
いわゆる「戊午南呂初五密勅」と称される
勅書です。外国に対する反感に加え
幕府が天皇の意志を無視する形で
日米修好通商条約を締結したことにより
危機感を抱かれた孝明天皇が、以前から
信任の厚い毛利家に『天下の忠臣』を
求めて密書を下賜されたものでした。
(戊午拝勅会議図)
コピーなら毛利宛ではなく徳川宛になってるはずだろ。
勅も残ってるようだし、何を根拠にコピーだと断言してんだよ? >なぜか山口県発情報には本物もらったと書いてあったりするが
ってちゃんと書いたのになあ
>>12のコピペは山口県発情報だろ?
このサイトって世間では偽勅じゃないかと疑われてるものも美化して書いてるから眉唾
戊午南呂初五密勅は「小子つらつら天文を推考するに」と星占いをしたら
11月に騒乱の兆しがあるから守ってくれとかいう奇妙な文章で
体裁も通常と違うから「維新史」なんかだと中山忠能が勝手に出したんじゃと書いてるね
もっとも内裏の警衛なら薩摩も朝廷に頼まれてるから大した内容ではない
別に会津びいきではないがこんな怪文書と宸翰(天皇の直筆)を比べると格負けするぞ
水戸への密勅のコピーについてはくぐればわかるw引用も楽に見つかるけど毛利宛てだよ >このサイトって世間では偽勅じゃないかと
>疑われてるものも美化して書いてるから眉唾
その世間てどこよ?
どこが美化なんだよ?
何を根拠に眉唾なんだよ?
>「維新史」なんかだと
>中山忠能が勝手に出したんじゃと書いてるね
何を根拠に中山が勝手に出したとしてんだ?
「かも」だったら誰でも何とでも言えるわ。
>薩摩も朝廷に頼まれてるから
>大した内容ではない
何で現代人のオマエが事の大小を決めるんだよ?
>怪文書と宸翰(天皇の直筆)を
>比べると格負けするぞ
怪文書だって明確な証拠も出せないのに
よく怪文書だと断定できるよな。
スゲー脳してんな(笑)
勅と宸翰を比べてる発言なんかどこにもないが
おまえ、何が見えてるんだ?(笑)
>コピーについてはくぐればわかるw
コピーだと断言してるおまえが
何故証拠として引用を出さないのか不思議だし
コピーだって事は頑なに信じるんだな(笑)
つか、仮に中山が書いたならコピーではないよな(笑)
おまえはコピーって言ってるんだからな。
さ、コピーだという証拠を早く出せよ。 あと、維新史も色々あるから
どの維新史で誰がそう書いてるのかも
ちゃんと書いとけよ。
おまえが維新史に書いてると書いたんだからな。
ページなんかもよろしくな。
あとな
>>なぜか山口県発情報には
>本物もらったと書いてあったりするが
>ってちゃんと書いたのになあ
って言い訳意味が分からん。
おまえへの指摘とどう関連してるのか
説明してくれ。
ってちゃんと書いてるって事と
おまえへの指摘がどう関連してるのか
意味不明だから。
じゃ、よろしくな。 >>13
毛利宛なら水戸のコピーじゃないじゃんwww
中山忠能が書いたとしても孝明天皇の
意思かもしれないじゃないか。
勝手に書いたという証拠の文献はあるのか?
それも示せないのに怪文書と詰るのは人間性がヤバイと思うwww
会津プロパガンダがバレて信用がガタ落ちなとこに
こういう話を持ってこられてムカついてるようにしか見えないよwww
とりあえず、毛利宛の時点で水戸へのコピーではないのは分かった。 長文で煽ってる暇があったらせめて戊午の密勅についてくらい勉強しようなw
ぐぐれば見つかるって言ってるのに毛利宛の写しの原文も見ずに語るやつに
いちいち説明する気はしない アンチ長州が史料提示も説明もできないのはいつもの事だな。 >>17
おいおいwww
自分が証明できないのにそりゃねーだろwwww
答えに困って「勉強しろ」って古い挑発だし
ブーメランじゃないかwwwww 調べたら戊午南呂初五密勅なら毛利博物館にあるし公開されてるようだが…
これをコピーだ何だ難癖つけといて
その根拠を示さないのか?
それが会津プロパガンダ洗脳者のやり方か? 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである すぐ長州だと思う典型的な会津プロパガンダ洗脳者(笑) 既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考)
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し 四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は
終わった模様である。 かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
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■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
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■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 会津プロパガンダQ&A
Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。 会津プロパガンダQ&A 2
Q会津は恭順していたのに新政府に討伐されたのですか?
A会津は新政府との和平を蹴り、新政府側の交渉人を拉致し
会津側から攻めてきました。
Q会津戦争では会津の領民が新政府に便乗しましたか?
A便乗して一揆を起こしたり、新政府に道案内したりしました。
Q白虎隊は少年ですか?
A元服を終えた青年です。現代の価値観で少年としてるだけです。
Q白虎隊は善戦しましたか?
Aしてません。直ぐ逃げました。
Q白虎隊は食料がなかったのですか?
Aありました。隊長は食料がなく調達に行ったと記してますが
後に食料はあったという記録が出てきました。
そもそも20人分の食料を一人で調達しに行きますか?
Q白虎隊は城が落ちたと勘違いして切腹したのですか?
Aそのような記録はありません。飯沼の記録には
城が落ちてると思ったら落ちてなかった
皆で議論して切腹する事にしたという
不可解な記録です。
Q飯沼証言を裏付けするものはありますか?
Aありません。不可解な回顧録のみです。
Q新政府は見せしめの為に会津人の死体を放置したのですか?
Aしていません。双方の死体に触るなと命じてただけです。
会津人の死体もちゃんと埋葬されました。
Q会津は斗南に強制連行されたのですか?
Aされてません。自分達で斗南行きを決めました。
Q会津は斗南で鳩侍と恐れられてましたか?
A拾い食いをするので鳩侍とバカにされてました。
Q会津の大名や家臣はどれくらいで解放されたんですか?
A2年です。 会津プロパガンダQ&A 3
Q会津戦争後に長州人が会津人を保護したのは本当ですか?
A前原一誠が中心になり保護をしたり
木戸孝允や伊藤博文も個人的にお金を出したりしています。
白虎隊の飯沼も長州で保護され勉学していました。
Q会津は北越で善戦していましたか?
Aしていません。蛮行三昧でした。
Q会津は箱館(函館)で善戦していましたか?
Aしてません。松前を襲ったり民間家屋に放火したりしてました。
Q会津は関東で善戦してましたか?
Aしてません。放火や略奪をしていました。
Q会津若松市は萩市との姉妹都市関係を拒否したのですか?
Aしました。全国から抗議の電話が鳴り、回線がパンクする自体になりました。
Q会津では薩摩・長州に罵声を浴びせて斬殺する祭りがあるのですか?
Aあります。会津新撰組まつりです。
Q会津プロパガンダの目的は何ですか?
A地域振興、日本史の改竄、WGIPです。
Q会津プロパガンダは反日プロパガンダですか?
A反日プロパガンダです。日本近代史の否定ですから。
Q会津プロパガンダの嘘はどのようにしてバレたのですか?
Aネットの普及で嘘がバレました。
Q同じ東北でも会津プロパガンダに差別されてる地域はありますか?
A秋田県、酒田市、三春町などが会津プロパガンダの的にされています。
Q戊辰戦争は東西対決ですか?
A違います。日本対会津、仙台、南部、米沢、庄内、長岡、新撰組、旧幕です。 会津プロパガンダQ&A 4
Q東日本大震災で萩市から義援金をもらった会津若松は
どのような対応をしましたか?
A当時の市長菅家は、和解はないと記者団に答え
自身のブログにも義援金には触れず、さらには
山口県内で会津の米や野菜を販売してもらいました。
Q会津の十の戒めとはどのようなものですか?
また、その戒めは守られてますか?
A思考停止させる教えです。誰も守っていません。
守っているなら会津プロパガンダなど蔓延しないはずです。
Q会津プロパガンダ洗脳者は減っていますか?
A昔に比べたらかなり減ったと思います。
会津蛮行を記した史料がたくさん紹介されたので。
Q白河似北一山百文と差別されましたか?
Aされていません。勝手に言ってるだけで
まったく証明されてません。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 直ぐ長州が出てくる会津プロパガンダ洗脳者。
朝鮮人と同じプロパガンダをやってる会津こそ朝鮮人(笑) ここで会津叩いてるやつのヒッシさがどうみてもチョン公wwww 禁門の変で長州が朝敵
戊辰戦争で会津が朝敵
西南戦争で薩摩が朝敵
所詮はお互いが朝敵・国賊なんだから仲良くして貰いたい。 禁門の変は長州の覚悟を感じる
西南戦争は武士への不満を感じる
戊辰戦争は政府との交渉を蹴った藩が討伐されただけ。
特に会津は売国は企てるわ、政府の交渉人拉致するわ
民間人攻撃するわ略奪するわで最低。 京都守護職も民の事を考えず受けてるからな。
会津プロパガンダでは天皇から直接任命されたと嘘ぶっこいてるし。 しかも、こういうスレを立てているのから、幕末の史料文献全てに目を通しているのかと思いきや
会津や新撰組の悪いネタだけを拾い読みしているだけで、その他の事項は全然知らないと言う(笑)
当時の戊辰戦争に於ける薩長軍に対する謂われのない濡れ衣を晴らすなどという大義名分を振りかざ
してはいるが、その実、ただ会津を始めとする福島・東北を徹底的に中傷誹謗する事で己の鬱憤を
晴らすだけの目的でこんな糞スレを立てた精神的にも性格的にも腐りきった、ゴキブリ以下の基地害 会津藩家老のブラック度は異常
藩主を諌めた西郷頼母は疎まれ一族を自決させられ、神保修理は濡れ衣で自決に追い込まれ
田中土佐と神保修理の息子は陣中で自決、萱野権兵衛は身代わりで腹を切らされた それを会津プロパガンダという朝鮮顔負けのプロパガンダで美化してんだな… >>48
陣中で自決したのは修理の親父な。
まあ会津は殿様がバカ殿だから
過労にとばっちりが来るんだよwww
しかもバカ殿は慶喜と味方を置いて逃げてるし。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ >>48
下士は薄給で遠い京都で重労働、民衆は重税で阿鼻叫喚
下に行くほど酷くなっているのは、今のブラック企業に通じる所があるなw 会津プロパガンダで美化してるだけで
史実的には糞領地だからな若松なんてwwww 戦国では蘆名が伊達に負け、関が原では上杉が徳川に負け、戊辰戦争では薩長にフルボッコ
……そりゃプロパガンダで美化したくなる気持ちも分かるわな ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>55
元々東北の鎮守を期待された要衝なので大大名が配置され
周囲の動乱に巻き込まれやすかった土地柄もあるが
最も影響あるのは保科正之の活躍により代々重責を担わされたことだろう
1つでもifがあれば幕末の矢面に立たされることもなかったろうに
伊達が蘆名に不当に侵攻しなければ佐竹と共存共栄していただろうし
石田三成が蒲生騒動を手引なければ蒲生92万石、
関ヶ原がなければ上杉会津120万石の城下町として発展していただろうし
会津騒動がなければ加藤(嘉明)40万石のまま保科正之が入ってくることもなかった 悲劇の里会津、虐殺の里会津
会津の里には今なお虐殺され放置された腐乱死体の異臭がただよっている。
語り継ごう!!!、会津大虐殺、会津従軍慰安婦。 ↑ものすごいわかり安いアンチ会津の怨念に満ちた書き込みだなwwww 下関の現役理学療法士 犯罪者 三木 30代
過去の犯罪歴
・集団監禁暴行
・集団リンチ殺害未遂
・恐喝
・恫喝
・専門学校の事務員などへの暴行計画
・警察への嘘の被害届
口癖
「乙ピヨ様です」
「あいつ使えねー。もう殺していいっすか?」
「役に立たねぇ奴は死んだ方がいいんじゃないっすかね?」
「俺を誰だと思ってんだ? 殺すぞ!ああ!」
「障害者は生きてる価値はねぇ」
「鬱は甘え」
「俺が一体何したってんだよw」
「証拠はあんのかよ」
「田熊がやれって言ったんだよ」
「みんなもそう言ってんだよ」
「お前、頭ぁおかしいんじゃねーかw」
「警察に何ができんだよw」
「学校も俺の味方なんだよ」
「俺に逆らう奴は死ねよ」 このスレを荒らしているのは、キチガイ長州藩の末裔たち。下関のクズども >>63
妄想で長州だの下関だのファビョってないで
原田伊織の著作への指摘を音読しなよwwwwww
https://togetter.com/li/1070502 長州の流れを引く山口県民は基地外が多いのは仕方のない話。 容保が切腹しさえすれば丸く収まったのに命が惜しかったのだろう
当初、官軍が容保の切腹を求めたのは、慶喜が鳥羽伏見を引き起こしたのは会桑で自分は悪くないと主張し、官軍も勝などの働きもあってそれにのったからで
この二藩(悪の枢軸)は他藩のように家老の切腹で済ますわけにはいかなかったのだ。
しかも、会津戦争の主役は土佐と薩摩であり、その後の民生にも長州はかかわっていない。
取り潰しになり再興後、斗南藩の運営が苦しいときに木戸に頼んで資金援助をしてもらったりしてるのに長州を恨むとは、おかしな会津人だ。 会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し
戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。
従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、
埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。
筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が
約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。
会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、
市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、
鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。
発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は
近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。
西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある
阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。
地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
野口さんは
「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。
史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。
以下ソース:福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375 死体埋葬禁止はだいぶ前に嘘だと分かってるじゃん。
命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし。
だめ押しで史料発見って感じだね。 >>1
まーたお前かトンビ
>>2が大嘘な件
265 : 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 22:08:04.12 .net
>>256
そのデマとっくに論破済み
コピペ元は御所放火計画肯定論者の中村武生のブログだろ
ttp://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/shin/minaoshi4.html
お前がわざと省いてる続きは以下の通り。
3.古高の供述内容
●…なぜ印象だけで新選組は出兵したのだろう。
●私は新選組には「思い当たる」ふしがあったからと思っている。
●すでに八・一八政変前後から長州による京都放火、天皇の長州動座の噂が各地で流れていたのである。
●近藤勇自身も文久3年10月20日付宛先不詳の書翰で、八・一八政変以前に長州が
●「御所向残らず放火」「天皇を長州へ誘引致」すことを(意訳)計画していたと記している
●(現在所在不明、平尾道雄『定本新選組史録』73頁、新人物往来社)。
●新選組が古高を発見したとき、直感的に「あの一味」だと判断したのだろうと思うのである。
しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
●「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である。
●前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
●筆者はこれを古高俊太郎の供述調書の良質の写本と位置づけていることもすでに述べた。
●注目すべきは、中川宮の「放火」についても、「6月4日、因州家来の山部隼太がやってきて申すには、只今大高又次郎方へ行ったところ、
●いよいよ近く中川宮を放火致すため相談しようとしたら、急考にはいまだ時節も少し早く思うので、
しばらくのところ差し止め置くことにした」と聞いたあることである。
●中川宮「放火」を隠蔽せず自供してはいるものの、延期になったと収拾する点である。
●拷問にともない強要された発言かとも考えられるが、延期と付言した上での供述は
●かえってその存在の信用性がたかまるというものである。
●計画の全貌は明らかにできないが、少なくとも中川宮「放火」は、計画のなかに含まれていた
●と認めてよいと思われる。 なお、原口清が慶喜を疑ったという件も嘘。
原口の論文を読めば分かるが、原口は慶喜の証言を重視しており、
逆に取り扱いに慎重になっている。
479 : 日本@名無史さん:2016/06/07(火) 16:51:15.36 .net
>>468
原口清が池田屋事件について触れてるのは「禁門の変の一考察」という論文だからね。
>>466は
>つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
>会津・新撰組によるでっちあげ。
>近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。
と言ってるが、原口は池田屋事件は冤罪だなんて一言も言っていない。
もちろん会津・新選組によるでっち上げだとも言っていない。
原口は当時、浮浪取締や長州藩士の入京禁止令が出ていたため、
召し取っても合法であると言うのを前提に議論してるし、
池田屋事件は栂尾集会の「援兵」計画が新選組側に漏れたことで捜索が行われ緊急事態となったのではないかと推測している。
(この推測についてはのちに反論がなされたのは前スレで指摘した通り)
慶喜についても逆に
「慶喜のような責任ある立場の人間を浮説と同列に見ることはできないであろう」
と言って、取り扱いに慎重になっている。
だから論文では繰り返し「研究の進展に待つほかない」と念を押している。
ちゃんと論文読んでれば分かるけど、
原口は慶喜の書簡にも「放火」と記されてるのを見て逆に慎重になってるのだよ。 >>27はもうあらかた検証されてるから放っておくとして、
>>64の原田伊織の検証やってる「すんすけ」なる人物の検証も気になるんだよね。
まあ、原田の言ってることはその辺の維新マンセー史家の鏡でしかないんだが…
廃仏毀釈の例に苗木藩・水戸藩を挙げてるが、苗木藩が廃仏毀釈をエスカレートさせたのは
明治3年あたりだから、慶応4年3月の神仏分離令以降の太政官布告の影響を受けたとしかいいようがないんだよね。
まあ基地外平田国学の徒はどこの藩にもいたがそいつらを神祇官に集めて暴走させたのが
明治初期の施策なわけで。もっと言えば、だから批判が集中して明治5年以降にバックラッシュがおきてるわけで。
島崎藤村の「夜明け前」なんてその辺の葛藤を描いてるわけで。
そいつ、笑えることに大教宣布の詔とか都合の悪い史実には綺麗に口ぬぐってますね。 あと見ていくと
>「薩長が江戸を壊した」みたいな単純な図式で江戸時代を見ると、
>肥前鍋島藩出身の江戸町奉行が居たとか、篤姫は薩摩人、という史実が完全に捨てられてしまう。
うーん、篤姫が仙台藩に逆賊薩長を討ってくれと頼んだ史実を無視するのはどうなんだろうね…
少なくとも戊辰戦争においては篤姫さんは完全に「徳川方」のメンタリティだったわけで…
あと、鍋島直正が井伊直弼の親友だったことも忘れちゃいけないと思うんだなあ…
桜田門外の変のときに、一緒に襲撃されるのではと警戒したという、いわくつきの所だしね。 >なお、井伊彦根藩出身であることを原田伊織氏は強調するが、彦根藩は新政府軍なので、
>幕府軍として義兵を挙げ、箱根関を乗っ取った林忠崇は「彦根・尾張の裏切り者を討て!」と主張していた。
>このことを原田伊織氏が取り上げないのはちょっとどういうことなのか。
特に不思議じゃないだろう。だいいち徳川家だって恭順後は蝦夷地脱走兵を取り静めるため
慶喜が出馬するという話があったわけで。
彦根に関して言えば、鳥羽伏見の直前までは確実に「佐幕」藩と見られてたわけで、
それを無視するのもどうなのかと思うんだなあ、そういうの当然知ってるんでしょ?すんすけさんとやら… >これ、「歴史書」の参考文献なんですよ。歴史書の。小説を「参考文献」として
うーん、実はそれって「維新マンセー」の人たちがさんざんやらかしてきたことなのね。
参考文献に挙げないだけで竜馬がゆくの薩長同盟構図みたいなのをろくに検証せずもろパクリしてたりとか…
そういうことやってると、ブームが変わったときに同じ文献使って全く違うアクロバット論理を組み立てる奴が出てくるってのは、
以前から言われてた懸念なわけで、この点は責任あると言わざるを得ないんだなあ… 中でも一番ダメなのがこれ。
>マジですか…徳川斉昭ファン本当に何考えているんだろう…
それは藤田東湖に心酔してた西郷吉之助や、水戸藩のオルグに捕まった吉田松陰や、
オルグつながりで水長盟約を結んで藩論を急進化させた桂小五郎に対する皮肉なのか?!
久坂玄瑞なんて水戸藩仮想戦記を信じ込んでた筆頭みたいな男なんだが。 >>69
これも笑えるほど無知だよね。
前近代においては「法人」というものが存在していない。
会津藩家中の正式な身分は「松平肥後守家来」だから、
主人の松平肥後守が死罪になる=会津藩滅藩にほかならない
しかも明治政府は滅藩処分を「首魁」である徳川慶喜処分で事実上撤回しているから、
鳥羽伏見では「首魁を助けた」罪に問われた会津・桑名両藩が期待するのは当然のことなんだなあ。
現に明治政府は閏4月下旬の戦争が始まった後になって恭順条件を公式に提示しているし、
その条件が公式に提示されるだろうとも予測されていた。
藩主の存在こそが藩の存続にかかわるという認識はたとえば長州藩においても生きてるから、
禁門の変のあと毛利慶親の身柄争奪や隠退だの定広の処分だのにそれが反映されている。 >>71
>伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし
伴は遺体の扱いに憤慨して何十回も足を運んで民政局に頼み込んだすえ
三宮耕庵から許しを得てるわけで、「金貰う」のは当然のことなんだが。
本来は民政局がやるべき作業が遅々として進んでないもしくは進ませないから
会津藩士に業務委託の運びになったわけで。
なお「伴」が「記している」という史料はどこだ?また奉祀の由来か?
あれは「伴が記している」わけじゃないぞ。 >>71
>命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
これも「奉祀の由来」からの孫引きか?
そんな「命令文」は現在確認できず、強いて言えば
「埋葬妨害があった」と言っている奉祀の由来にしか出てこないんだが。
どんだけアクロバットな史料操作してんだよお前は 会津プロパガンダQ&A
Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。 >>72
変な妄想してるようだけど
もっと具体的な話があるんだよ >>83
そいつがソースにしてるのは
@中村武生のブログ
Aおよびそこで引用された「禁門の変の一考察」(原口清)
だが、
@の中村武生はもちろんAの原口清も「慶喜がデマを流した」などとは言ってない。
原口は慶喜のような人物が言ってることまで浮説扱いにはできないといって
「後の研究に待つ」と慎重な態度を取ってる。
>>1は「禁門の変の一考察」をまったく読まずに原口の主張をでっち上げたすえ、
なおかつ中村武生が「御所辺放火計画はあった」と主張してる本論部分を丸々すっ飛ばしてる。
つまり典型的なデマコピペ。
うそだと思ったら禁門の変の一考察のどこで「慶喜がデマを流した」と原口清が言ってるのか、
原文あげてみ? >>82
これも嘘ばっかりだな。とりあえず目立つ所だけ
>Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
>A拒んで取り次がないようにしていました。
京都守護職は嘆願書の取次を専断的にやっていたわけでもなんでもない。
>Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
>A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
>奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
箱石大が指摘したファブルブラントの書簡には
「今なら有利な条件で艦隊寄港地の交渉が可能」とあるだけで、
この書簡以外には実際に交渉があったという裏が全く取れていない。
さらに同書簡には「南の島とミカドの政府」が先行していると書かれてるわけだが
>Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
>Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
>世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
>何がなんでも武力で討つという方針はとってません。
「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」という方針が林通顕によって提示されており、
世良修蔵はそれを忠実に実行して会津の恭順打診を拒否して出兵を督促している。
なお、大総督府が公式に会津藩の恭順条件を提示したのは白河口の戦いが始まってから後。 会津戦争に関しては2月段階の対徳川家強硬論が、江戸に関しては西郷隆盛によって修正されたが、
ほったらかしたままで世良などという小物に任せたために柔軟に修正されず
結局は戦争に突入しそうになって非難が高まってからやっと大総督府で腰を上げたら遅かった
というのが正式な経緯だな。特に世良が仙台藩・米沢藩以下の周旋を最後まで軽く見たのが命取りになった
米沢は世良では相手にならないから、直接、京の広沢真臣とかけあって
会津藩問題では「帰正」という線で軟着陸を図るようにというアドバイスを得たりしている
広沢と世良では同じ長州藩でも総理大臣とその辺の下っ端官僚くらい違うわな >>82
>会津は京都警備の元締めであり
>実際に警備してたのは新撰組などです。
これも明白な間違い。所司代、見廻組、新撰組と並んで
「守護職」の警備エリアは独自に定められている。
基本中の基本。 >>85
最近発見された史料には、会津庄内が蝦夷地と引き換えに、軍隊派遣の要請をプロイセンと交渉していたことも書かれているな。
https://pbs.twimg.com/media/DAO8ffFV0AAHos0.jpg
戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 (読売新聞2017年5月17日)
明治新政府と旧幕府が戦った戊辰戦争(1868年〜69年)の最中に、旧幕府軍側だった会津、庄内の両藩が、蝦夷地(北海道)に持つ
所領と引き換えに、プロイセンから資金か軍隊を送ってもらう交渉をしていた経緯が最新の調査で明らかになってきている。
幕末期の駐日プロイセン代理公使、マックス・フォン・ブラントが本国の宰相ビスマルクに送った外交書簡群を、
五百旗頭馨・東京大教授の研究チームが独・ベルリン連邦文書館で見つけ、国立歴史民俗博物館の福岡万里子准教授が読み解いた。
蝦夷地をめぐる両藩とプロイセンとの交渉を示すブラントの書簡については、2009年、東京大史料編纂所の箱石大准教授らが
フライブルクの連邦軍事文書館で発見しているが、今回見つかったブラントの書簡は、交渉内容や経緯がより詳細に書かれている。
ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が
難しく、日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が
手元にあると書かれている。会津藩は紋別など、庄内藩は留萌などを領有しており、それらのいずれかを提供しようとしたと考えられる。
翌日付の書簡では「蝦夷における我々の領地を、銃で武装した軍隊または借款と引き換えに担保として与える」という、
両藩が資金だけでなく、武力介入も期待していたことを示す文書の一部も引用されている。ブラントは、両藩の領地からの収益を
見積もった計算書も書簡に添付したと言及。「当地(横浜)の商会を通じて、適当な額を前払いとして払うことは考えられるでしょう」と提案している。
戊辰戦争は間もなく終結し、ブラントが予想したような状況に陥ることはなかった。福岡准教授は「追い詰められた会津、庄内両藩の
『最後の手段』を示す史料。仮に戦争が長引いていた場合、その後の蝦夷地の状況が変わっていた可能性もある」と話す。
書簡の概要は、年内に吉川弘文館から刊行予定の戊辰戦争論集に収録される。
(文化部 前田啓介) >>84
そいつってのが誰のことか知らないけど、
こっちは最初から「禁門の変」の話なんてしてないんだよ
もっと具体的な話できないのか >>88
だからその史料が、箱石大の論文に出てくるやつな。
「ミカドの政府は南の島を売ろうとしているから、
われわれも急がねばならない」という箇所を何で省くんだお前は?
どこがどうおかしいかは>>85に書いた通りだがもう1回繰り返すか? >>88
何度も指摘されてるけど、箱石大の元ねた論文では、フォンブラントは
「ミカドの政府が南の島を売ろうとしていて、我々も急がねばならず、
いまなら『艦隊の寄港地』を求めることができるかもしれない」とつごう3回ほど
本国に薦めている。つまり時系列的には新政府が琉球もしくは奄美などをイギリスに売却し、
それを知ったフォンブラントが東北諸藩と交渉したということ。
ところがこれを裏付ける史料が当のフォンブラントの書簡以外に一切見当たらない。
今回のその史料も「フォンブラントの別に書簡にはこうあった」といってるに過ぎず、
日本、ドイツ、イギリスのどの国においても彼以外の裏づけが取れてない。 だから
1、フォンブラント書簡の内容が正しいなら「薩摩藩が琉球奄美の売却を持ちかけた」という前提事実も存在してないとおかしい
2、「新政府が琉球奄美の売却を持ちかけたという話が嘘である」場合はフォンブラント書簡は自動的に嘘確定
であるわけだが、
巷の新聞記事しか読んでないとこの関係に気づかない。
>ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、
>東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が難しく、
>日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
>1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、
>蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が手元にあると書かれている。
この書簡も前に発見された書簡と同一内容。
もっといえば「発見された」わけではなく、日本側もそういう書簡が何通かあるという
存在は知ってたが今まで興味を持たなかったというだけ。
ところが箱石ら研究者が関心を持ち始めてから「発見」されたことになってしまった。 >>89
お前は>>83で
>もっと具体的な話があるんだよ
と言ってるだろ。
もっと具体的な話とは何か、ぜひ聞かせてくれや。
原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?
原口は長州人の召し取りは合法行為であることを前提にして話を進めてるのだぞ。
>>72のどこが間違ってるか言えよ。 >>88
おそらくフォンブラント公使の本国への通信は相当出まかせが入ってるよ。
新政府が奄美琉球を既に売却交渉したと言うのも、蝦夷地の領地云々も嘘なんだろう。
書簡ごとに「奥羽列藩側」との交渉内容が変わってるのもおかしい
(西蝦夷地なのか、日本海岸の飛島なのかも分からない
そもそも紋別は結氷して冬季航海が不可能なんだがそれすら認識していないと言うのはおかしい)
本国外務省およびビスマルク政府を列強間均衡政策から転回させるために
誇張した報告を送ってたんだろうな。 箱館は清水谷公考が閏4月に旧幕から接収したから
蝦夷地は官軍の勢力下
各国領事にも通告されている
そのあとで売る計画があったなら
新政府の許可がおりてたはずという奇妙な理屈になるよね >>95
清水谷の件もそうだけど、11月の書簡てすでに新潟が政府軍の手に落ちて
会津藩が籠城戦庄内藩兵も前線から撤退始めて時期に書かれてるんだが
どうやって連絡取ってたんだテレパシーかという >>93
具体的な話が何のことか理解してないくせに連投しまくってたのか
「原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?」
なんて、こっちがレスしてないことを質問してキチガイ丸出しだな >>97
具体的な話を理解してない連投キチガイなんて、もうこれ以上相手にする価値はないな 「具体的な話がある!」と連呼しつつ
どんな話かはひとことも言えない>>1であった
ちなみに池田屋事件が長州藩兵進発の引き金になった説も嘘
原口清はそれも同論文で指摘している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています