倒幕派のテロは会津の自作自演 [無断転載禁止]©2ch.net
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アンチ長州が史料提示も説明もできないのはいつもの事だな。 >>17
おいおいwww
自分が証明できないのにそりゃねーだろwwww
答えに困って「勉強しろ」って古い挑発だし
ブーメランじゃないかwwwww 調べたら戊午南呂初五密勅なら毛利博物館にあるし公開されてるようだが…
これをコピーだ何だ難癖つけといて
その根拠を示さないのか?
それが会津プロパガンダ洗脳者のやり方か? 会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである すぐ長州だと思う典型的な会津プロパガンダ洗脳者(笑) 既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考)
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し 四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編)
遂に代官領の領民達も恫喝に屈して
会津藩の支配を受け入れる事になるのである。
他の旧幕領も同じような経緯で
四月には会津藩による旧幕領の制圧は
終わった模様である。 かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 反日プロパガンダ、会津プロパガンダ制作者一覧
■星亮一…福島民報(サヨク新聞)、福島中央テレビ
■原田伊織…クリエイティブプロデューサー、反日思想
■半藤一利…反日作家、文藝春秋
■中村彰彦…文藝春秋
■早乙女貢…小説家
■ねずまさし…サヨク作家、治安維持法違反で検挙
■宮崎十三八…会津若松市商工観光部長
■佐高信…サヨク作家、社民党支持者、教師時代に不倫結婚
■石光真人…「会津人柴五郎の遺書」の作者
■渡部恒三…元民主党議員、福島県へ原発を誘致
■野口武彦…文芸評論家、学生運動のリーダー
■小谷野敦…「天皇制批判の常識」の作者
■リチャード・コシミズ…元商社マン、陰謀論者、在日の出版社から出版
■鬼塚英昭…竹細工職人、陰謀論者、在日の出版社から出版
■TweetTV JPの老夫婦…共産党支持者
■瑞穂の国から出ておいで管理人…社民党支持者
■高橋美智子←星亮一主催の戊辰戦争研究会事務局
2ちゃんねるの削除板で大暴れ
歴史学者が1人もいなくてサヨクが多いのが特長 会津プロパガンダQ&A
Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。 会津プロパガンダQ&A 2
Q会津は恭順していたのに新政府に討伐されたのですか?
A会津は新政府との和平を蹴り、新政府側の交渉人を拉致し
会津側から攻めてきました。
Q会津戦争では会津の領民が新政府に便乗しましたか?
A便乗して一揆を起こしたり、新政府に道案内したりしました。
Q白虎隊は少年ですか?
A元服を終えた青年です。現代の価値観で少年としてるだけです。
Q白虎隊は善戦しましたか?
Aしてません。直ぐ逃げました。
Q白虎隊は食料がなかったのですか?
Aありました。隊長は食料がなく調達に行ったと記してますが
後に食料はあったという記録が出てきました。
そもそも20人分の食料を一人で調達しに行きますか?
Q白虎隊は城が落ちたと勘違いして切腹したのですか?
Aそのような記録はありません。飯沼の記録には
城が落ちてると思ったら落ちてなかった
皆で議論して切腹する事にしたという
不可解な記録です。
Q飯沼証言を裏付けするものはありますか?
Aありません。不可解な回顧録のみです。
Q新政府は見せしめの為に会津人の死体を放置したのですか?
Aしていません。双方の死体に触るなと命じてただけです。
会津人の死体もちゃんと埋葬されました。
Q会津は斗南に強制連行されたのですか?
Aされてません。自分達で斗南行きを決めました。
Q会津は斗南で鳩侍と恐れられてましたか?
A拾い食いをするので鳩侍とバカにされてました。
Q会津の大名や家臣はどれくらいで解放されたんですか?
A2年です。 会津プロパガンダQ&A 3
Q会津戦争後に長州人が会津人を保護したのは本当ですか?
A前原一誠が中心になり保護をしたり
木戸孝允や伊藤博文も個人的にお金を出したりしています。
白虎隊の飯沼も長州で保護され勉学していました。
Q会津は北越で善戦していましたか?
Aしていません。蛮行三昧でした。
Q会津は箱館(函館)で善戦していましたか?
Aしてません。松前を襲ったり民間家屋に放火したりしてました。
Q会津は関東で善戦してましたか?
Aしてません。放火や略奪をしていました。
Q会津若松市は萩市との姉妹都市関係を拒否したのですか?
Aしました。全国から抗議の電話が鳴り、回線がパンクする自体になりました。
Q会津では薩摩・長州に罵声を浴びせて斬殺する祭りがあるのですか?
Aあります。会津新撰組まつりです。
Q会津プロパガンダの目的は何ですか?
A地域振興、日本史の改竄、WGIPです。
Q会津プロパガンダは反日プロパガンダですか?
A反日プロパガンダです。日本近代史の否定ですから。
Q会津プロパガンダの嘘はどのようにしてバレたのですか?
Aネットの普及で嘘がバレました。
Q同じ東北でも会津プロパガンダに差別されてる地域はありますか?
A秋田県、酒田市、三春町などが会津プロパガンダの的にされています。
Q戊辰戦争は東西対決ですか?
A違います。日本対会津、仙台、南部、米沢、庄内、長岡、新撰組、旧幕です。 会津プロパガンダQ&A 4
Q東日本大震災で萩市から義援金をもらった会津若松は
どのような対応をしましたか?
A当時の市長菅家は、和解はないと記者団に答え
自身のブログにも義援金には触れず、さらには
山口県内で会津の米や野菜を販売してもらいました。
Q会津の十の戒めとはどのようなものですか?
また、その戒めは守られてますか?
A思考停止させる教えです。誰も守っていません。
守っているなら会津プロパガンダなど蔓延しないはずです。
Q会津プロパガンダ洗脳者は減っていますか?
A昔に比べたらかなり減ったと思います。
会津蛮行を記した史料がたくさん紹介されたので。
Q白河似北一山百文と差別されましたか?
Aされていません。勝手に言ってるだけで
まったく証明されてません。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 直ぐ長州が出てくる会津プロパガンダ洗脳者。
朝鮮人と同じプロパガンダをやってる会津こそ朝鮮人(笑) ここで会津叩いてるやつのヒッシさがどうみてもチョン公wwww 禁門の変で長州が朝敵
戊辰戦争で会津が朝敵
西南戦争で薩摩が朝敵
所詮はお互いが朝敵・国賊なんだから仲良くして貰いたい。 禁門の変は長州の覚悟を感じる
西南戦争は武士への不満を感じる
戊辰戦争は政府との交渉を蹴った藩が討伐されただけ。
特に会津は売国は企てるわ、政府の交渉人拉致するわ
民間人攻撃するわ略奪するわで最低。 京都守護職も民の事を考えず受けてるからな。
会津プロパガンダでは天皇から直接任命されたと嘘ぶっこいてるし。 しかも、こういうスレを立てているのから、幕末の史料文献全てに目を通しているのかと思いきや
会津や新撰組の悪いネタだけを拾い読みしているだけで、その他の事項は全然知らないと言う(笑)
当時の戊辰戦争に於ける薩長軍に対する謂われのない濡れ衣を晴らすなどという大義名分を振りかざ
してはいるが、その実、ただ会津を始めとする福島・東北を徹底的に中傷誹謗する事で己の鬱憤を
晴らすだけの目的でこんな糞スレを立てた精神的にも性格的にも腐りきった、ゴキブリ以下の基地害 会津藩家老のブラック度は異常
藩主を諌めた西郷頼母は疎まれ一族を自決させられ、神保修理は濡れ衣で自決に追い込まれ
田中土佐と神保修理の息子は陣中で自決、萱野権兵衛は身代わりで腹を切らされた それを会津プロパガンダという朝鮮顔負けのプロパガンダで美化してんだな… >>48
陣中で自決したのは修理の親父な。
まあ会津は殿様がバカ殿だから
過労にとばっちりが来るんだよwww
しかもバカ殿は慶喜と味方を置いて逃げてるし。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ >>48
下士は薄給で遠い京都で重労働、民衆は重税で阿鼻叫喚
下に行くほど酷くなっているのは、今のブラック企業に通じる所があるなw 会津プロパガンダで美化してるだけで
史実的には糞領地だからな若松なんてwwww 戦国では蘆名が伊達に負け、関が原では上杉が徳川に負け、戊辰戦争では薩長にフルボッコ
……そりゃプロパガンダで美化したくなる気持ちも分かるわな ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ >>55
元々東北の鎮守を期待された要衝なので大大名が配置され
周囲の動乱に巻き込まれやすかった土地柄もあるが
最も影響あるのは保科正之の活躍により代々重責を担わされたことだろう
1つでもifがあれば幕末の矢面に立たされることもなかったろうに
伊達が蘆名に不当に侵攻しなければ佐竹と共存共栄していただろうし
石田三成が蒲生騒動を手引なければ蒲生92万石、
関ヶ原がなければ上杉会津120万石の城下町として発展していただろうし
会津騒動がなければ加藤(嘉明)40万石のまま保科正之が入ってくることもなかった 悲劇の里会津、虐殺の里会津
会津の里には今なお虐殺され放置された腐乱死体の異臭がただよっている。
語り継ごう!!!、会津大虐殺、会津従軍慰安婦。 ↑ものすごいわかり安いアンチ会津の怨念に満ちた書き込みだなwwww 下関の現役理学療法士 犯罪者 三木 30代
過去の犯罪歴
・集団監禁暴行
・集団リンチ殺害未遂
・恐喝
・恫喝
・専門学校の事務員などへの暴行計画
・警察への嘘の被害届
口癖
「乙ピヨ様です」
「あいつ使えねー。もう殺していいっすか?」
「役に立たねぇ奴は死んだ方がいいんじゃないっすかね?」
「俺を誰だと思ってんだ? 殺すぞ!ああ!」
「障害者は生きてる価値はねぇ」
「鬱は甘え」
「俺が一体何したってんだよw」
「証拠はあんのかよ」
「田熊がやれって言ったんだよ」
「みんなもそう言ってんだよ」
「お前、頭ぁおかしいんじゃねーかw」
「警察に何ができんだよw」
「学校も俺の味方なんだよ」
「俺に逆らう奴は死ねよ」 このスレを荒らしているのは、キチガイ長州藩の末裔たち。下関のクズども >>63
妄想で長州だの下関だのファビョってないで
原田伊織の著作への指摘を音読しなよwwwwww
https://togetter.com/li/1070502 長州の流れを引く山口県民は基地外が多いのは仕方のない話。 容保が切腹しさえすれば丸く収まったのに命が惜しかったのだろう
当初、官軍が容保の切腹を求めたのは、慶喜が鳥羽伏見を引き起こしたのは会桑で自分は悪くないと主張し、官軍も勝などの働きもあってそれにのったからで
この二藩(悪の枢軸)は他藩のように家老の切腹で済ますわけにはいかなかったのだ。
しかも、会津戦争の主役は土佐と薩摩であり、その後の民生にも長州はかかわっていない。
取り潰しになり再興後、斗南藩の運営が苦しいときに木戸に頼んで資金援助をしてもらったりしてるのに長州を恨むとは、おかしな会津人だ。 会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し
戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。
従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、
埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。
筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が
約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。
会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、
市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、
鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。
発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は
近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。
西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある
阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。
地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
野口さんは
「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。
史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。
以下ソース:福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375 死体埋葬禁止はだいぶ前に嘘だと分かってるじゃん。
命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし。
だめ押しで史料発見って感じだね。 >>1
まーたお前かトンビ
>>2が大嘘な件
265 : 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 22:08:04.12 .net
>>256
そのデマとっくに論破済み
コピペ元は御所放火計画肯定論者の中村武生のブログだろ
ttp://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/shin/minaoshi4.html
お前がわざと省いてる続きは以下の通り。
3.古高の供述内容
●…なぜ印象だけで新選組は出兵したのだろう。
●私は新選組には「思い当たる」ふしがあったからと思っている。
●すでに八・一八政変前後から長州による京都放火、天皇の長州動座の噂が各地で流れていたのである。
●近藤勇自身も文久3年10月20日付宛先不詳の書翰で、八・一八政変以前に長州が
●「御所向残らず放火」「天皇を長州へ誘引致」すことを(意訳)計画していたと記している
●(現在所在不明、平尾道雄『定本新選組史録』73頁、新人物往来社)。
●新選組が古高を発見したとき、直感的に「あの一味」だと判断したのだろうと思うのである。
しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
●「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である。
●前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
●筆者はこれを古高俊太郎の供述調書の良質の写本と位置づけていることもすでに述べた。
●注目すべきは、中川宮の「放火」についても、「6月4日、因州家来の山部隼太がやってきて申すには、只今大高又次郎方へ行ったところ、
●いよいよ近く中川宮を放火致すため相談しようとしたら、急考にはいまだ時節も少し早く思うので、
しばらくのところ差し止め置くことにした」と聞いたあることである。
●中川宮「放火」を隠蔽せず自供してはいるものの、延期になったと収拾する点である。
●拷問にともない強要された発言かとも考えられるが、延期と付言した上での供述は
●かえってその存在の信用性がたかまるというものである。
●計画の全貌は明らかにできないが、少なくとも中川宮「放火」は、計画のなかに含まれていた
●と認めてよいと思われる。 なお、原口清が慶喜を疑ったという件も嘘。
原口の論文を読めば分かるが、原口は慶喜の証言を重視しており、
逆に取り扱いに慎重になっている。
479 : 日本@名無史さん:2016/06/07(火) 16:51:15.36 .net
>>468
原口清が池田屋事件について触れてるのは「禁門の変の一考察」という論文だからね。
>>466は
>つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
>会津・新撰組によるでっちあげ。
>近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。
と言ってるが、原口は池田屋事件は冤罪だなんて一言も言っていない。
もちろん会津・新選組によるでっち上げだとも言っていない。
原口は当時、浮浪取締や長州藩士の入京禁止令が出ていたため、
召し取っても合法であると言うのを前提に議論してるし、
池田屋事件は栂尾集会の「援兵」計画が新選組側に漏れたことで捜索が行われ緊急事態となったのではないかと推測している。
(この推測についてはのちに反論がなされたのは前スレで指摘した通り)
慶喜についても逆に
「慶喜のような責任ある立場の人間を浮説と同列に見ることはできないであろう」
と言って、取り扱いに慎重になっている。
だから論文では繰り返し「研究の進展に待つほかない」と念を押している。
ちゃんと論文読んでれば分かるけど、
原口は慶喜の書簡にも「放火」と記されてるのを見て逆に慎重になってるのだよ。 >>27はもうあらかた検証されてるから放っておくとして、
>>64の原田伊織の検証やってる「すんすけ」なる人物の検証も気になるんだよね。
まあ、原田の言ってることはその辺の維新マンセー史家の鏡でしかないんだが…
廃仏毀釈の例に苗木藩・水戸藩を挙げてるが、苗木藩が廃仏毀釈をエスカレートさせたのは
明治3年あたりだから、慶応4年3月の神仏分離令以降の太政官布告の影響を受けたとしかいいようがないんだよね。
まあ基地外平田国学の徒はどこの藩にもいたがそいつらを神祇官に集めて暴走させたのが
明治初期の施策なわけで。もっと言えば、だから批判が集中して明治5年以降にバックラッシュがおきてるわけで。
島崎藤村の「夜明け前」なんてその辺の葛藤を描いてるわけで。
そいつ、笑えることに大教宣布の詔とか都合の悪い史実には綺麗に口ぬぐってますね。 あと見ていくと
>「薩長が江戸を壊した」みたいな単純な図式で江戸時代を見ると、
>肥前鍋島藩出身の江戸町奉行が居たとか、篤姫は薩摩人、という史実が完全に捨てられてしまう。
うーん、篤姫が仙台藩に逆賊薩長を討ってくれと頼んだ史実を無視するのはどうなんだろうね…
少なくとも戊辰戦争においては篤姫さんは完全に「徳川方」のメンタリティだったわけで…
あと、鍋島直正が井伊直弼の親友だったことも忘れちゃいけないと思うんだなあ…
桜田門外の変のときに、一緒に襲撃されるのではと警戒したという、いわくつきの所だしね。 >なお、井伊彦根藩出身であることを原田伊織氏は強調するが、彦根藩は新政府軍なので、
>幕府軍として義兵を挙げ、箱根関を乗っ取った林忠崇は「彦根・尾張の裏切り者を討て!」と主張していた。
>このことを原田伊織氏が取り上げないのはちょっとどういうことなのか。
特に不思議じゃないだろう。だいいち徳川家だって恭順後は蝦夷地脱走兵を取り静めるため
慶喜が出馬するという話があったわけで。
彦根に関して言えば、鳥羽伏見の直前までは確実に「佐幕」藩と見られてたわけで、
それを無視するのもどうなのかと思うんだなあ、そういうの当然知ってるんでしょ?すんすけさんとやら… >これ、「歴史書」の参考文献なんですよ。歴史書の。小説を「参考文献」として
うーん、実はそれって「維新マンセー」の人たちがさんざんやらかしてきたことなのね。
参考文献に挙げないだけで竜馬がゆくの薩長同盟構図みたいなのをろくに検証せずもろパクリしてたりとか…
そういうことやってると、ブームが変わったときに同じ文献使って全く違うアクロバット論理を組み立てる奴が出てくるってのは、
以前から言われてた懸念なわけで、この点は責任あると言わざるを得ないんだなあ… 中でも一番ダメなのがこれ。
>マジですか…徳川斉昭ファン本当に何考えているんだろう…
それは藤田東湖に心酔してた西郷吉之助や、水戸藩のオルグに捕まった吉田松陰や、
オルグつながりで水長盟約を結んで藩論を急進化させた桂小五郎に対する皮肉なのか?!
久坂玄瑞なんて水戸藩仮想戦記を信じ込んでた筆頭みたいな男なんだが。 >>69
これも笑えるほど無知だよね。
前近代においては「法人」というものが存在していない。
会津藩家中の正式な身分は「松平肥後守家来」だから、
主人の松平肥後守が死罪になる=会津藩滅藩にほかならない
しかも明治政府は滅藩処分を「首魁」である徳川慶喜処分で事実上撤回しているから、
鳥羽伏見では「首魁を助けた」罪に問われた会津・桑名両藩が期待するのは当然のことなんだなあ。
現に明治政府は閏4月下旬の戦争が始まった後になって恭順条件を公式に提示しているし、
その条件が公式に提示されるだろうとも予測されていた。
藩主の存在こそが藩の存続にかかわるという認識はたとえば長州藩においても生きてるから、
禁門の変のあと毛利慶親の身柄争奪や隠退だの定広の処分だのにそれが反映されている。 >>71
>伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし
伴は遺体の扱いに憤慨して何十回も足を運んで民政局に頼み込んだすえ
三宮耕庵から許しを得てるわけで、「金貰う」のは当然のことなんだが。
本来は民政局がやるべき作業が遅々として進んでないもしくは進ませないから
会津藩士に業務委託の運びになったわけで。
なお「伴」が「記している」という史料はどこだ?また奉祀の由来か?
あれは「伴が記している」わけじゃないぞ。 >>71
>命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
これも「奉祀の由来」からの孫引きか?
そんな「命令文」は現在確認できず、強いて言えば
「埋葬妨害があった」と言っている奉祀の由来にしか出てこないんだが。
どんだけアクロバットな史料操作してんだよお前は 会津プロパガンダQ&A
Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。 >>72
変な妄想してるようだけど
もっと具体的な話があるんだよ >>83
そいつがソースにしてるのは
@中村武生のブログ
Aおよびそこで引用された「禁門の変の一考察」(原口清)
だが、
@の中村武生はもちろんAの原口清も「慶喜がデマを流した」などとは言ってない。
原口は慶喜のような人物が言ってることまで浮説扱いにはできないといって
「後の研究に待つ」と慎重な態度を取ってる。
>>1は「禁門の変の一考察」をまったく読まずに原口の主張をでっち上げたすえ、
なおかつ中村武生が「御所辺放火計画はあった」と主張してる本論部分を丸々すっ飛ばしてる。
つまり典型的なデマコピペ。
うそだと思ったら禁門の変の一考察のどこで「慶喜がデマを流した」と原口清が言ってるのか、
原文あげてみ? >>82
これも嘘ばっかりだな。とりあえず目立つ所だけ
>Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
>A拒んで取り次がないようにしていました。
京都守護職は嘆願書の取次を専断的にやっていたわけでもなんでもない。
>Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
>A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
>奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
箱石大が指摘したファブルブラントの書簡には
「今なら有利な条件で艦隊寄港地の交渉が可能」とあるだけで、
この書簡以外には実際に交渉があったという裏が全く取れていない。
さらに同書簡には「南の島とミカドの政府」が先行していると書かれてるわけだが
>Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
>Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
>世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
>何がなんでも武力で討つという方針はとってません。
「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」という方針が林通顕によって提示されており、
世良修蔵はそれを忠実に実行して会津の恭順打診を拒否して出兵を督促している。
なお、大総督府が公式に会津藩の恭順条件を提示したのは白河口の戦いが始まってから後。 会津戦争に関しては2月段階の対徳川家強硬論が、江戸に関しては西郷隆盛によって修正されたが、
ほったらかしたままで世良などという小物に任せたために柔軟に修正されず
結局は戦争に突入しそうになって非難が高まってからやっと大総督府で腰を上げたら遅かった
というのが正式な経緯だな。特に世良が仙台藩・米沢藩以下の周旋を最後まで軽く見たのが命取りになった
米沢は世良では相手にならないから、直接、京の広沢真臣とかけあって
会津藩問題では「帰正」という線で軟着陸を図るようにというアドバイスを得たりしている
広沢と世良では同じ長州藩でも総理大臣とその辺の下っ端官僚くらい違うわな >>82
>会津は京都警備の元締めであり
>実際に警備してたのは新撰組などです。
これも明白な間違い。所司代、見廻組、新撰組と並んで
「守護職」の警備エリアは独自に定められている。
基本中の基本。 >>85
最近発見された史料には、会津庄内が蝦夷地と引き換えに、軍隊派遣の要請をプロイセンと交渉していたことも書かれているな。
https://pbs.twimg.com/media/DAO8ffFV0AAHos0.jpg
戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 (読売新聞2017年5月17日)
明治新政府と旧幕府が戦った戊辰戦争(1868年〜69年)の最中に、旧幕府軍側だった会津、庄内の両藩が、蝦夷地(北海道)に持つ
所領と引き換えに、プロイセンから資金か軍隊を送ってもらう交渉をしていた経緯が最新の調査で明らかになってきている。
幕末期の駐日プロイセン代理公使、マックス・フォン・ブラントが本国の宰相ビスマルクに送った外交書簡群を、
五百旗頭馨・東京大教授の研究チームが独・ベルリン連邦文書館で見つけ、国立歴史民俗博物館の福岡万里子准教授が読み解いた。
蝦夷地をめぐる両藩とプロイセンとの交渉を示すブラントの書簡については、2009年、東京大史料編纂所の箱石大准教授らが
フライブルクの連邦軍事文書館で発見しているが、今回見つかったブラントの書簡は、交渉内容や経緯がより詳細に書かれている。
ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が
難しく、日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が
手元にあると書かれている。会津藩は紋別など、庄内藩は留萌などを領有しており、それらのいずれかを提供しようとしたと考えられる。
翌日付の書簡では「蝦夷における我々の領地を、銃で武装した軍隊または借款と引き換えに担保として与える」という、
両藩が資金だけでなく、武力介入も期待していたことを示す文書の一部も引用されている。ブラントは、両藩の領地からの収益を
見積もった計算書も書簡に添付したと言及。「当地(横浜)の商会を通じて、適当な額を前払いとして払うことは考えられるでしょう」と提案している。
戊辰戦争は間もなく終結し、ブラントが予想したような状況に陥ることはなかった。福岡准教授は「追い詰められた会津、庄内両藩の
『最後の手段』を示す史料。仮に戦争が長引いていた場合、その後の蝦夷地の状況が変わっていた可能性もある」と話す。
書簡の概要は、年内に吉川弘文館から刊行予定の戊辰戦争論集に収録される。
(文化部 前田啓介) >>84
そいつってのが誰のことか知らないけど、
こっちは最初から「禁門の変」の話なんてしてないんだよ
もっと具体的な話できないのか >>88
だからその史料が、箱石大の論文に出てくるやつな。
「ミカドの政府は南の島を売ろうとしているから、
われわれも急がねばならない」という箇所を何で省くんだお前は?
どこがどうおかしいかは>>85に書いた通りだがもう1回繰り返すか? >>88
何度も指摘されてるけど、箱石大の元ねた論文では、フォンブラントは
「ミカドの政府が南の島を売ろうとしていて、我々も急がねばならず、
いまなら『艦隊の寄港地』を求めることができるかもしれない」とつごう3回ほど
本国に薦めている。つまり時系列的には新政府が琉球もしくは奄美などをイギリスに売却し、
それを知ったフォンブラントが東北諸藩と交渉したということ。
ところがこれを裏付ける史料が当のフォンブラントの書簡以外に一切見当たらない。
今回のその史料も「フォンブラントの別に書簡にはこうあった」といってるに過ぎず、
日本、ドイツ、イギリスのどの国においても彼以外の裏づけが取れてない。 だから
1、フォンブラント書簡の内容が正しいなら「薩摩藩が琉球奄美の売却を持ちかけた」という前提事実も存在してないとおかしい
2、「新政府が琉球奄美の売却を持ちかけたという話が嘘である」場合はフォンブラント書簡は自動的に嘘確定
であるわけだが、
巷の新聞記事しか読んでないとこの関係に気づかない。
>ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、
>東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が難しく、
>日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
>1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、
>蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が手元にあると書かれている。
この書簡も前に発見された書簡と同一内容。
もっといえば「発見された」わけではなく、日本側もそういう書簡が何通かあるという
存在は知ってたが今まで興味を持たなかったというだけ。
ところが箱石ら研究者が関心を持ち始めてから「発見」されたことになってしまった。 >>89
お前は>>83で
>もっと具体的な話があるんだよ
と言ってるだろ。
もっと具体的な話とは何か、ぜひ聞かせてくれや。
原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?
原口は長州人の召し取りは合法行為であることを前提にして話を進めてるのだぞ。
>>72のどこが間違ってるか言えよ。 >>88
おそらくフォンブラント公使の本国への通信は相当出まかせが入ってるよ。
新政府が奄美琉球を既に売却交渉したと言うのも、蝦夷地の領地云々も嘘なんだろう。
書簡ごとに「奥羽列藩側」との交渉内容が変わってるのもおかしい
(西蝦夷地なのか、日本海岸の飛島なのかも分からない
そもそも紋別は結氷して冬季航海が不可能なんだがそれすら認識していないと言うのはおかしい)
本国外務省およびビスマルク政府を列強間均衡政策から転回させるために
誇張した報告を送ってたんだろうな。 箱館は清水谷公考が閏4月に旧幕から接収したから
蝦夷地は官軍の勢力下
各国領事にも通告されている
そのあとで売る計画があったなら
新政府の許可がおりてたはずという奇妙な理屈になるよね >>95
清水谷の件もそうだけど、11月の書簡てすでに新潟が政府軍の手に落ちて
会津藩が籠城戦庄内藩兵も前線から撤退始めて時期に書かれてるんだが
どうやって連絡取ってたんだテレパシーかという >>93
具体的な話が何のことか理解してないくせに連投しまくってたのか
「原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?」
なんて、こっちがレスしてないことを質問してキチガイ丸出しだな >>97
具体的な話を理解してない連投キチガイなんて、もうこれ以上相手にする価値はないな 「具体的な話がある!」と連呼しつつ
どんな話かはひとことも言えない>>1であった
ちなみに池田屋事件が長州藩兵進発の引き金になった説も嘘
原口清はそれも同論文で指摘している 長州が京に放火して天皇拐うって新撰組のデマだと原口が解いてる。 >>101
原口清はそんなこと言ってないのは>>72>>73の通り
そもそも原口は浮浪の取締は適法行為であることを前提にしているし、
栂尾集会での長州援兵計画が間違って伝わった結果、
池田屋捜索に繋がったのではないかと憶測しているので、
誰それのデマなどということは全く主張していない
ただしこの原口仮説だと、慶喜の書簡に御所辺放火計画が記されていることと矛盾する
そこで原口は「浮浪取締が適法行為だったとしても、世評を気にして
このような弁解を行った可能性もある」と整合性をつけようとはしているものの
「慶喜のような責任ある立場にある者の書簡を他と同一視することはできないであろう」
とも指摘して慎重になっている
以上が「禁門の変の一考察」の内容
お前が先行研究も知らない紙読まないヴァカだから中村武生のブログの要約を思いっきり誤解して飛びついただけ
恥ずかしい奴だね しかもこの原口仮説に対しては中村武生が「新撰組より差出候書付写」の存在を指摘して
御所辺放火計画が池田屋事件の前に発覚していたことを指摘してるから、
栂尾集会の長州援兵の動きが伝わったという仮説が成り立つのは難しくなった
栂尾集会の「援兵」の目的も長州藩の上洛行動ではなく攘夷戦援助のためではないかと指摘されているし
そもそも中川宮邸放火襲撃計画の存在は木戸孝允ら志士側も認めていて
位置的に「御所辺放火」計画になるわけだからな 中村は原口の「仮説」に対して批判を加えているだけで、
原口だって誰それのデマだなんていってるわけではないのにね >>1はアンチ会津ってやつだよ
仙台の女にふられた恨みがひん曲がった異常者 【>>1の過去】
28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:03:20 ID:akny3QSX0
>>26
会津で震度4wwwwww
ざまああwww死ね死ね死ねw
w
【 958 】: 日本@名無史さん 2011/03/11(金) 15:43:36.78
会津観光史学洗脳者もこれで頭数が減ったろ?
どうした?
挑発と個人攻撃はどうした?
震度6だからできませんってか?
624 名前:日本@名無史さん :2011/04/11(月) 20:10:42.25
連発する余震と停電で会津は完全に死んだかな(笑)
得意の誹謗中傷はどうした会津よ?
次々にスレッドを変えて自作自演しないのか?
返事をしろ会津(爆) >>1
>>1
これは中村武生の論考から一部を恣意的に切り取ったものだね
何でこんな分かりやすい陰謀論コピペに騙される人間が後をたたないのだろう
まあ何度日本史板で指摘されてもIDトリップ変えてコピペを撒き散らす>>1の会津憎悪ぶりも異常だけどさ >>1
具体的な話を早く言えよ
逃げられると思ってんじゃねえぞ >>100
具体的な話を理解できなくて悔しいから原口の話に執着してんのか
>>105
妄想がさらに悪化すると「仙台の女」とか幻覚までみえちゃうんだねw
>>106
お前そんな昔から居座ってたのかよ
>>107
バーカそれも具体的な話じゃないな
>>108
具体的な話が何かを早く気づけよ
もうすぐ年越しちゃうぞ >>1
>>109
んで具体的な話ってなんだよ逃亡屑 >>1
俺も知りたいな
原口清や中村武生のソース付を超える具体的な話ってなんだ? 具体的な話って何だろうね。
原口先生がそんなこと言ってたのかな?
ぜひソースつきで頼むわ。
禁門の変の一考察はスレで挙げられてる通りの内容なんで、
当然それ以外の論文でね。出鱈目な歴史ブログとかじゃなくて。 蛮行、工作、どちらにもあると思うんだが
アンチ薩長の人は何がしたいの?
自分達の思い描く歴史にしたとしても
現代人からしたら「ああそうなんですか」
で、終わりだよね。
歴史への異常なこだわり、朝鮮人みたいだよ。 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 >>1
>>3
これ>>1の完全な捏造なので解毒コピペを置いておく
池田屋事件がデマだと原口先生が言ってるなんてトンデモ信じ込んだら大変だから
【転載元を暴かれる>>1】
486 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:59:35.60
あと>>462も>>1がネット上から引っ張ってきたコピペなわけだが、
文章そのまま検索かけてみたらなんと
「見直し・新選組」4 − 池田屋事件その2「御所辺放火」計画は実在したのか(中村武生)
2、原口清氏の先行研究
というのがヒットする
ところが知っての通り中村は「御所辺放火」計画の存在を肯定する研究者であり、
「2、原口清氏の先行研究」の直後の「3、古高の供述内容」において反論している
具体的に言うと
>しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
>「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である
>前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
>「書付写」によれば古高は自分たちの「計画」内容について明確に供述している
(以下略)
と反論が続けられており、この馬鹿>>1はよりによって原口説の御所辺放火計画の部分について反論する研究者の前フリ部分だけ引用すると言う
きわめて悪質な手口をやらかしている
リンク貼らなくたって検索に放り込めばすぐ分かるんだぞ、本一冊も読まないネットソースオンリーの馬鹿が。 >>114
デマ太郎>>1はまずこれに反論しろよ
中村武生はもちろん原口清>>3も「新撰組のデマ」だなどと一言も言ってない
原口清は新撰組の手入れは完全な適法行為だということを前提にしてる
しかも「長州援兵」計画の存在は肯定しているから、
会津藩が出動して当然の案件だということは大前提なんだが
内容はこのスレでさんざん指摘されてる通り ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています