会津プロパガンダQ&A

Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。