倒幕派のテロは会津の自作自演 [無断転載禁止]©2ch.net
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長州の流れを引く山口県民は基地外が多いのは仕方のない話。 容保が切腹しさえすれば丸く収まったのに命が惜しかったのだろう
当初、官軍が容保の切腹を求めたのは、慶喜が鳥羽伏見を引き起こしたのは会桑で自分は悪くないと主張し、官軍も勝などの働きもあってそれにのったからで
この二藩(悪の枢軸)は他藩のように家老の切腹で済ますわけにはいかなかったのだ。
しかも、会津戦争の主役は土佐と薩摩であり、その後の民生にも長州はかかわっていない。
取り潰しになり再興後、斗南藩の運営が苦しいときに木戸に頼んで資金援助をしてもらったりしてるのに長州を恨むとは、おかしな会津人だ。 会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し
戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。
従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、
埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。
筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が
約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。
会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、
市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、
鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。
発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は
近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。
西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある
阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。
地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
野口さんは
「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。
史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。
以下ソース:福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375 死体埋葬禁止はだいぶ前に嘘だと分かってるじゃん。
命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし。
だめ押しで史料発見って感じだね。 >>1
まーたお前かトンビ
>>2が大嘘な件
265 : 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/08/30(火) 22:08:04.12 .net
>>256
そのデマとっくに論破済み
コピペ元は御所放火計画肯定論者の中村武生のブログだろ
ttp://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/shin/minaoshi4.html
お前がわざと省いてる続きは以下の通り。
3.古高の供述内容
●…なぜ印象だけで新選組は出兵したのだろう。
●私は新選組には「思い当たる」ふしがあったからと思っている。
●すでに八・一八政変前後から長州による京都放火、天皇の長州動座の噂が各地で流れていたのである。
●近藤勇自身も文久3年10月20日付宛先不詳の書翰で、八・一八政変以前に長州が
●「御所向残らず放火」「天皇を長州へ誘引致」すことを(意訳)計画していたと記している
●(現在所在不明、平尾道雄『定本新選組史録』73頁、新人物往来社)。
●新選組が古高を発見したとき、直感的に「あの一味」だと判断したのだろうと思うのである。
しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
●「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である。
●前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
●筆者はこれを古高俊太郎の供述調書の良質の写本と位置づけていることもすでに述べた。
●注目すべきは、中川宮の「放火」についても、「6月4日、因州家来の山部隼太がやってきて申すには、只今大高又次郎方へ行ったところ、
●いよいよ近く中川宮を放火致すため相談しようとしたら、急考にはいまだ時節も少し早く思うので、
しばらくのところ差し止め置くことにした」と聞いたあることである。
●中川宮「放火」を隠蔽せず自供してはいるものの、延期になったと収拾する点である。
●拷問にともない強要された発言かとも考えられるが、延期と付言した上での供述は
●かえってその存在の信用性がたかまるというものである。
●計画の全貌は明らかにできないが、少なくとも中川宮「放火」は、計画のなかに含まれていた
●と認めてよいと思われる。 なお、原口清が慶喜を疑ったという件も嘘。
原口の論文を読めば分かるが、原口は慶喜の証言を重視しており、
逆に取り扱いに慎重になっている。
479 : 日本@名無史さん:2016/06/07(火) 16:51:15.36 .net
>>468
原口清が池田屋事件について触れてるのは「禁門の変の一考察」という論文だからね。
>>466は
>つまり長州が京に放火して天皇を拐うというのは
>会津・新撰組によるでっちあげ。
>近代、現代だけでなく、当時からせこい工作やってるのが会津だよ。
と言ってるが、原口は池田屋事件は冤罪だなんて一言も言っていない。
もちろん会津・新選組によるでっち上げだとも言っていない。
原口は当時、浮浪取締や長州藩士の入京禁止令が出ていたため、
召し取っても合法であると言うのを前提に議論してるし、
池田屋事件は栂尾集会の「援兵」計画が新選組側に漏れたことで捜索が行われ緊急事態となったのではないかと推測している。
(この推測についてはのちに反論がなされたのは前スレで指摘した通り)
慶喜についても逆に
「慶喜のような責任ある立場の人間を浮説と同列に見ることはできないであろう」
と言って、取り扱いに慎重になっている。
だから論文では繰り返し「研究の進展に待つほかない」と念を押している。
ちゃんと論文読んでれば分かるけど、
原口は慶喜の書簡にも「放火」と記されてるのを見て逆に慎重になってるのだよ。 >>27はもうあらかた検証されてるから放っておくとして、
>>64の原田伊織の検証やってる「すんすけ」なる人物の検証も気になるんだよね。
まあ、原田の言ってることはその辺の維新マンセー史家の鏡でしかないんだが…
廃仏毀釈の例に苗木藩・水戸藩を挙げてるが、苗木藩が廃仏毀釈をエスカレートさせたのは
明治3年あたりだから、慶応4年3月の神仏分離令以降の太政官布告の影響を受けたとしかいいようがないんだよね。
まあ基地外平田国学の徒はどこの藩にもいたがそいつらを神祇官に集めて暴走させたのが
明治初期の施策なわけで。もっと言えば、だから批判が集中して明治5年以降にバックラッシュがおきてるわけで。
島崎藤村の「夜明け前」なんてその辺の葛藤を描いてるわけで。
そいつ、笑えることに大教宣布の詔とか都合の悪い史実には綺麗に口ぬぐってますね。 あと見ていくと
>「薩長が江戸を壊した」みたいな単純な図式で江戸時代を見ると、
>肥前鍋島藩出身の江戸町奉行が居たとか、篤姫は薩摩人、という史実が完全に捨てられてしまう。
うーん、篤姫が仙台藩に逆賊薩長を討ってくれと頼んだ史実を無視するのはどうなんだろうね…
少なくとも戊辰戦争においては篤姫さんは完全に「徳川方」のメンタリティだったわけで…
あと、鍋島直正が井伊直弼の親友だったことも忘れちゃいけないと思うんだなあ…
桜田門外の変のときに、一緒に襲撃されるのではと警戒したという、いわくつきの所だしね。 >なお、井伊彦根藩出身であることを原田伊織氏は強調するが、彦根藩は新政府軍なので、
>幕府軍として義兵を挙げ、箱根関を乗っ取った林忠崇は「彦根・尾張の裏切り者を討て!」と主張していた。
>このことを原田伊織氏が取り上げないのはちょっとどういうことなのか。
特に不思議じゃないだろう。だいいち徳川家だって恭順後は蝦夷地脱走兵を取り静めるため
慶喜が出馬するという話があったわけで。
彦根に関して言えば、鳥羽伏見の直前までは確実に「佐幕」藩と見られてたわけで、
それを無視するのもどうなのかと思うんだなあ、そういうの当然知ってるんでしょ?すんすけさんとやら… >これ、「歴史書」の参考文献なんですよ。歴史書の。小説を「参考文献」として
うーん、実はそれって「維新マンセー」の人たちがさんざんやらかしてきたことなのね。
参考文献に挙げないだけで竜馬がゆくの薩長同盟構図みたいなのをろくに検証せずもろパクリしてたりとか…
そういうことやってると、ブームが変わったときに同じ文献使って全く違うアクロバット論理を組み立てる奴が出てくるってのは、
以前から言われてた懸念なわけで、この点は責任あると言わざるを得ないんだなあ… 中でも一番ダメなのがこれ。
>マジですか…徳川斉昭ファン本当に何考えているんだろう…
それは藤田東湖に心酔してた西郷吉之助や、水戸藩のオルグに捕まった吉田松陰や、
オルグつながりで水長盟約を結んで藩論を急進化させた桂小五郎に対する皮肉なのか?!
久坂玄瑞なんて水戸藩仮想戦記を信じ込んでた筆頭みたいな男なんだが。 >>69
これも笑えるほど無知だよね。
前近代においては「法人」というものが存在していない。
会津藩家中の正式な身分は「松平肥後守家来」だから、
主人の松平肥後守が死罪になる=会津藩滅藩にほかならない
しかも明治政府は滅藩処分を「首魁」である徳川慶喜処分で事実上撤回しているから、
鳥羽伏見では「首魁を助けた」罪に問われた会津・桑名両藩が期待するのは当然のことなんだなあ。
現に明治政府は閏4月下旬の戦争が始まった後になって恭順条件を公式に提示しているし、
その条件が公式に提示されるだろうとも予測されていた。
藩主の存在こそが藩の存続にかかわるという認識はたとえば長州藩においても生きてるから、
禁門の変のあと毛利慶親の身柄争奪や隠退だの定広の処分だのにそれが反映されている。 >>71
>伴百悦が政府から金貰って埋めたと記してるし
伴は遺体の扱いに憤慨して何十回も足を運んで民政局に頼み込んだすえ
三宮耕庵から許しを得てるわけで、「金貰う」のは当然のことなんだが。
本来は民政局がやるべき作業が遅々として進んでないもしくは進ませないから
会津藩士に業務委託の運びになったわけで。
なお「伴」が「記している」という史料はどこだ?また奉祀の由来か?
あれは「伴が記している」わけじゃないぞ。 >>71
>命令文にも会津の死体だけ放置しろとは書かれてないし
これも「奉祀の由来」からの孫引きか?
そんな「命令文」は現在確認できず、強いて言えば
「埋葬妨害があった」と言っている奉祀の由来にしか出てこないんだが。
どんだけアクロバットな史料操作してんだよお前は 会津プロパガンダQ&A
Q会津は官民一体となり民に善政を敷きましたか?
A会津は朱子学の影響で上が下を押さえつける思考です。
民は負担を強いられ暮らしが圧迫していました。
Q会津の京都守護職は天皇直々の指名ですか?
A違います。福井が断ったので会津に回ってきただけです。
Q会津は天皇を守っていたのですか?
A誇大解釈です。会津は京都警備の元締めであり
実際に警備してたのは新撰組などです。
天皇が住んでる京都の警備の元締め=天皇を守っていたと
誇大解釈してるに過ぎません。天皇の身辺警護をした事は一度もありません。
Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
A拒んで取り次がないようにしていました。
Q会津は禁門の変で勇敢に善戦しましたか?
A会津は薩摩が来るまで押されていました。
Q鳥羽・伏見の戦い以降、会津は新政府恭順していましたか?
Aしていません。それどころか新政府と戦争やる気でした。
Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
Q会津は天皇、幕府の忠臣ですか?
A都合がいい時だけ忠臣です。ダメだとなると国土を売却しようと企てたり
新国家を樹立しようと企てたりしてます。
Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
何がなんでも武力で討つという方針はとってません。 >>72
変な妄想してるようだけど
もっと具体的な話があるんだよ >>83
そいつがソースにしてるのは
@中村武生のブログ
Aおよびそこで引用された「禁門の変の一考察」(原口清)
だが、
@の中村武生はもちろんAの原口清も「慶喜がデマを流した」などとは言ってない。
原口は慶喜のような人物が言ってることまで浮説扱いにはできないといって
「後の研究に待つ」と慎重な態度を取ってる。
>>1は「禁門の変の一考察」をまったく読まずに原口の主張をでっち上げたすえ、
なおかつ中村武生が「御所辺放火計画はあった」と主張してる本論部分を丸々すっ飛ばしてる。
つまり典型的なデマコピペ。
うそだと思ったら禁門の変の一考察のどこで「慶喜がデマを流した」と原口清が言ってるのか、
原文あげてみ? >>82
これも嘘ばっかりだな。とりあえず目立つ所だけ
>Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
>A拒んで取り次がないようにしていました。
京都守護職は嘆願書の取次を専断的にやっていたわけでもなんでもない。
>Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
>A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
>奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。
箱石大が指摘したファブルブラントの書簡には
「今なら有利な条件で艦隊寄港地の交渉が可能」とあるだけで、
この書簡以外には実際に交渉があったという裏が全く取れていない。
さらに同書簡には「南の島とミカドの政府」が先行していると書かれてるわけだが
>Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
>Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
>世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
>何がなんでも武力で討つという方針はとってません。
「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」という方針が林通顕によって提示されており、
世良修蔵はそれを忠実に実行して会津の恭順打診を拒否して出兵を督促している。
なお、大総督府が公式に会津藩の恭順条件を提示したのは白河口の戦いが始まってから後。 会津戦争に関しては2月段階の対徳川家強硬論が、江戸に関しては西郷隆盛によって修正されたが、
ほったらかしたままで世良などという小物に任せたために柔軟に修正されず
結局は戦争に突入しそうになって非難が高まってからやっと大総督府で腰を上げたら遅かった
というのが正式な経緯だな。特に世良が仙台藩・米沢藩以下の周旋を最後まで軽く見たのが命取りになった
米沢は世良では相手にならないから、直接、京の広沢真臣とかけあって
会津藩問題では「帰正」という線で軟着陸を図るようにというアドバイスを得たりしている
広沢と世良では同じ長州藩でも総理大臣とその辺の下っ端官僚くらい違うわな >>82
>会津は京都警備の元締めであり
>実際に警備してたのは新撰組などです。
これも明白な間違い。所司代、見廻組、新撰組と並んで
「守護職」の警備エリアは独自に定められている。
基本中の基本。 >>85
最近発見された史料には、会津庄内が蝦夷地と引き換えに、軍隊派遣の要請をプロイセンと交渉していたことも書かれているな。
https://pbs.twimg.com/media/DAO8ffFV0AAHos0.jpg
戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 (読売新聞2017年5月17日)
明治新政府と旧幕府が戦った戊辰戦争(1868年〜69年)の最中に、旧幕府軍側だった会津、庄内の両藩が、蝦夷地(北海道)に持つ
所領と引き換えに、プロイセンから資金か軍隊を送ってもらう交渉をしていた経緯が最新の調査で明らかになってきている。
幕末期の駐日プロイセン代理公使、マックス・フォン・ブラントが本国の宰相ビスマルクに送った外交書簡群を、
五百旗頭馨・東京大教授の研究チームが独・ベルリン連邦文書館で見つけ、国立歴史民俗博物館の福岡万里子准教授が読み解いた。
蝦夷地をめぐる両藩とプロイセンとの交渉を示すブラントの書簡については、2009年、東京大史料編纂所の箱石大准教授らが
フライブルクの連邦軍事文書館で発見しているが、今回見つかったブラントの書簡は、交渉内容や経緯がより詳細に書かれている。
ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が
難しく、日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が
手元にあると書かれている。会津藩は紋別など、庄内藩は留萌などを領有しており、それらのいずれかを提供しようとしたと考えられる。
翌日付の書簡では「蝦夷における我々の領地を、銃で武装した軍隊または借款と引き換えに担保として与える」という、
両藩が資金だけでなく、武力介入も期待していたことを示す文書の一部も引用されている。ブラントは、両藩の領地からの収益を
見積もった計算書も書簡に添付したと言及。「当地(横浜)の商会を通じて、適当な額を前払いとして払うことは考えられるでしょう」と提案している。
戊辰戦争は間もなく終結し、ブラントが予想したような状況に陥ることはなかった。福岡准教授は「追い詰められた会津、庄内両藩の
『最後の手段』を示す史料。仮に戦争が長引いていた場合、その後の蝦夷地の状況が変わっていた可能性もある」と話す。
書簡の概要は、年内に吉川弘文館から刊行予定の戊辰戦争論集に収録される。
(文化部 前田啓介) >>84
そいつってのが誰のことか知らないけど、
こっちは最初から「禁門の変」の話なんてしてないんだよ
もっと具体的な話できないのか >>88
だからその史料が、箱石大の論文に出てくるやつな。
「ミカドの政府は南の島を売ろうとしているから、
われわれも急がねばならない」という箇所を何で省くんだお前は?
どこがどうおかしいかは>>85に書いた通りだがもう1回繰り返すか? >>88
何度も指摘されてるけど、箱石大の元ねた論文では、フォンブラントは
「ミカドの政府が南の島を売ろうとしていて、我々も急がねばならず、
いまなら『艦隊の寄港地』を求めることができるかもしれない」とつごう3回ほど
本国に薦めている。つまり時系列的には新政府が琉球もしくは奄美などをイギリスに売却し、
それを知ったフォンブラントが東北諸藩と交渉したということ。
ところがこれを裏付ける史料が当のフォンブラントの書簡以外に一切見当たらない。
今回のその史料も「フォンブラントの別に書簡にはこうあった」といってるに過ぎず、
日本、ドイツ、イギリスのどの国においても彼以外の裏づけが取れてない。 だから
1、フォンブラント書簡の内容が正しいなら「薩摩藩が琉球奄美の売却を持ちかけた」という前提事実も存在してないとおかしい
2、「新政府が琉球奄美の売却を持ちかけたという話が嘘である」場合はフォンブラント書簡は自動的に嘘確定
であるわけだが、
巷の新聞記事しか読んでないとこの関係に気づかない。
>ブラントは書簡で、戊辰戦争では一時的に新政府軍が勝利するとしても、
>東北は新政府への反感が強いこともあって全国的な統治が難しく、
>日本は群雄割拠の状態に陥ると予想している。
>1868年11月12日付の書簡には、借款と引き換えに、
>蝦夷地にある両藩の領地を99年間担保として差し出す意向を示した文書が手元にあると書かれている。
この書簡も前に発見された書簡と同一内容。
もっといえば「発見された」わけではなく、日本側もそういう書簡が何通かあるという
存在は知ってたが今まで興味を持たなかったというだけ。
ところが箱石ら研究者が関心を持ち始めてから「発見」されたことになってしまった。 >>89
お前は>>83で
>もっと具体的な話があるんだよ
と言ってるだろ。
もっと具体的な話とは何か、ぜひ聞かせてくれや。
原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?
原口は長州人の召し取りは合法行為であることを前提にして話を進めてるのだぞ。
>>72のどこが間違ってるか言えよ。 >>88
おそらくフォンブラント公使の本国への通信は相当出まかせが入ってるよ。
新政府が奄美琉球を既に売却交渉したと言うのも、蝦夷地の領地云々も嘘なんだろう。
書簡ごとに「奥羽列藩側」との交渉内容が変わってるのもおかしい
(西蝦夷地なのか、日本海岸の飛島なのかも分からない
そもそも紋別は結氷して冬季航海が不可能なんだがそれすら認識していないと言うのはおかしい)
本国外務省およびビスマルク政府を列強間均衡政策から転回させるために
誇張した報告を送ってたんだろうな。 箱館は清水谷公考が閏4月に旧幕から接収したから
蝦夷地は官軍の勢力下
各国領事にも通告されている
そのあとで売る計画があったなら
新政府の許可がおりてたはずという奇妙な理屈になるよね >>95
清水谷の件もそうだけど、11月の書簡てすでに新潟が政府軍の手に落ちて
会津藩が籠城戦庄内藩兵も前線から撤退始めて時期に書かれてるんだが
どうやって連絡取ってたんだテレパシーかという >>93
具体的な話が何のことか理解してないくせに連投しまくってたのか
「原口清の論文のどこに「会津藩新撰組の陰謀」なんて書いてある?」
なんて、こっちがレスしてないことを質問してキチガイ丸出しだな >>97
具体的な話を理解してない連投キチガイなんて、もうこれ以上相手にする価値はないな 「具体的な話がある!」と連呼しつつ
どんな話かはひとことも言えない>>1であった
ちなみに池田屋事件が長州藩兵進発の引き金になった説も嘘
原口清はそれも同論文で指摘している 長州が京に放火して天皇拐うって新撰組のデマだと原口が解いてる。 >>101
原口清はそんなこと言ってないのは>>72>>73の通り
そもそも原口は浮浪の取締は適法行為であることを前提にしているし、
栂尾集会での長州援兵計画が間違って伝わった結果、
池田屋捜索に繋がったのではないかと憶測しているので、
誰それのデマなどということは全く主張していない
ただしこの原口仮説だと、慶喜の書簡に御所辺放火計画が記されていることと矛盾する
そこで原口は「浮浪取締が適法行為だったとしても、世評を気にして
このような弁解を行った可能性もある」と整合性をつけようとはしているものの
「慶喜のような責任ある立場にある者の書簡を他と同一視することはできないであろう」
とも指摘して慎重になっている
以上が「禁門の変の一考察」の内容
お前が先行研究も知らない紙読まないヴァカだから中村武生のブログの要約を思いっきり誤解して飛びついただけ
恥ずかしい奴だね しかもこの原口仮説に対しては中村武生が「新撰組より差出候書付写」の存在を指摘して
御所辺放火計画が池田屋事件の前に発覚していたことを指摘してるから、
栂尾集会の長州援兵の動きが伝わったという仮説が成り立つのは難しくなった
栂尾集会の「援兵」の目的も長州藩の上洛行動ではなく攘夷戦援助のためではないかと指摘されているし
そもそも中川宮邸放火襲撃計画の存在は木戸孝允ら志士側も認めていて
位置的に「御所辺放火」計画になるわけだからな 中村は原口の「仮説」に対して批判を加えているだけで、
原口だって誰それのデマだなんていってるわけではないのにね >>1はアンチ会津ってやつだよ
仙台の女にふられた恨みがひん曲がった異常者 【>>1の過去】
28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/30(木) 21:03:20 ID:akny3QSX0
>>26
会津で震度4wwwwww
ざまああwww死ね死ね死ねw
w
【 958 】: 日本@名無史さん 2011/03/11(金) 15:43:36.78
会津観光史学洗脳者もこれで頭数が減ったろ?
どうした?
挑発と個人攻撃はどうした?
震度6だからできませんってか?
624 名前:日本@名無史さん :2011/04/11(月) 20:10:42.25
連発する余震と停電で会津は完全に死んだかな(笑)
得意の誹謗中傷はどうした会津よ?
次々にスレッドを変えて自作自演しないのか?
返事をしろ会津(爆) >>1
>>1
これは中村武生の論考から一部を恣意的に切り取ったものだね
何でこんな分かりやすい陰謀論コピペに騙される人間が後をたたないのだろう
まあ何度日本史板で指摘されてもIDトリップ変えてコピペを撒き散らす>>1の会津憎悪ぶりも異常だけどさ >>1
具体的な話を早く言えよ
逃げられると思ってんじゃねえぞ >>100
具体的な話を理解できなくて悔しいから原口の話に執着してんのか
>>105
妄想がさらに悪化すると「仙台の女」とか幻覚までみえちゃうんだねw
>>106
お前そんな昔から居座ってたのかよ
>>107
バーカそれも具体的な話じゃないな
>>108
具体的な話が何かを早く気づけよ
もうすぐ年越しちゃうぞ >>1
>>109
んで具体的な話ってなんだよ逃亡屑 >>1
俺も知りたいな
原口清や中村武生のソース付を超える具体的な話ってなんだ? 具体的な話って何だろうね。
原口先生がそんなこと言ってたのかな?
ぜひソースつきで頼むわ。
禁門の変の一考察はスレで挙げられてる通りの内容なんで、
当然それ以外の論文でね。出鱈目な歴史ブログとかじゃなくて。 蛮行、工作、どちらにもあると思うんだが
アンチ薩長の人は何がしたいの?
自分達の思い描く歴史にしたとしても
現代人からしたら「ああそうなんですか」
で、終わりだよね。
歴史への異常なこだわり、朝鮮人みたいだよ。 会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 >>1
>>3
これ>>1の完全な捏造なので解毒コピペを置いておく
池田屋事件がデマだと原口先生が言ってるなんてトンデモ信じ込んだら大変だから
【転載元を暴かれる>>1】
486 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:59:35.60
あと>>462も>>1がネット上から引っ張ってきたコピペなわけだが、
文章そのまま検索かけてみたらなんと
「見直し・新選組」4 − 池田屋事件その2「御所辺放火」計画は実在したのか(中村武生)
2、原口清氏の先行研究
というのがヒットする
ところが知っての通り中村は「御所辺放火」計画の存在を肯定する研究者であり、
「2、原口清氏の先行研究」の直後の「3、古高の供述内容」において反論している
具体的に言うと
>しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
>「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である
>前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
>「書付写」によれば古高は自分たちの「計画」内容について明確に供述している
(以下略)
と反論が続けられており、この馬鹿>>1はよりによって原口説の御所辺放火計画の部分について反論する研究者の前フリ部分だけ引用すると言う
きわめて悪質な手口をやらかしている
リンク貼らなくたって検索に放り込めばすぐ分かるんだぞ、本一冊も読まないネットソースオンリーの馬鹿が。 >>114
デマ太郎>>1はまずこれに反論しろよ
中村武生はもちろん原口清>>3も「新撰組のデマ」だなどと一言も言ってない
原口清は新撰組の手入れは完全な適法行為だということを前提にしてる
しかも「長州援兵」計画の存在は肯定しているから、
会津藩が出動して当然の案件だということは大前提なんだが
内容はこのスレでさんざん指摘されてる通り 日本史板の解毒スレを転載
>>1は、なんと昨年もこのデマコピペをばら撒いており
すぐさま反論を受けたものの逃亡、
8ヵ月後に他板で知らん振りしてまたばら撒いてるという悪質な分断工作チョン 467 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 14:58:23.21
>>462
重複スレでとっくに論破済み
会津藩必殺「手代木直右衛門勝任」公用人
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1443841615/
468 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 14:59:14.01
25 :日本@名無史さん:2016/01/24(日) 19:05:40.56
>>19
9日以前の近藤勇の郷里宛書簡に御所放火計画が明らかになった云々の記述は登場する
というか5月の西郷吉之助や小松帯刀らの書簡にも風聞として登場する
26 :日本@名無史さん:2016/01/25(月) 18:02:32.11
古高って下獄してから自白の内容(朝彦親王襲撃・刺殺)を同房の村井政礼に語ってるのだよね。
それも一度ならず二度計画していた(これも日時的に4日か5日の違いだけで他の口書と一致)
家臣も5月に切り殺されてるし自白の任意性においてまずかけるところはないとみていい
公安事件の処理の常道として完全な自白が得られなくても他の状況証拠から事態が切迫してると思われる場合
被拘束者が自白を始めた段階で治安機関は出動を決める(完全な自白を待ってたら時間稼ぎを許してしまう)
池田屋から7日までの記録に宮襲撃が公的書簡に現れず、8日9日になって出てくるのは要するに事件の全貌がその段階で明らかになったため
新撰組から出動要請を受けた会津藩がわざわざ重武装に切り替えて時間をかけても長州藩邸との合戦に備えてるのは、
単なる浪士の暴発事件でなく、長州藩邸との合戦の可能性すらある治安擾乱事件という認識を得ていたため
28 :日本@名無史さん:2016/01/27(水) 00:17:33.91
実際に前の年に高杉晋作が挙兵計画立ててるし、同年に入っては島津久光殺害を計画してたわけだし、
大坂南御堂の大谷梟首事件のように対薩摩挑発もなされてる
長州藩兵の進発方針なんて半年以上前に決定されてるし馬揃まで池田屋の前にやってる状態だからね
長州側も会津藩士切り殺したりして盛んに脅しかけてるし
もともと自分たちが脅し半分で噂流してたから薩摩藩邸の小松・西郷や公家衆が危機感持ってたのにね 31 :日本@名無史さん:2016/01/27(水) 18:23:47.91
新撰組が池田屋の2か月前から情勢急迫で浪士取締に当たってたのも知らんらしいな>>1
32 :日本@名無史さん:2016/02/04(木) 17:49:21.00
新聞紙に火をつけて投げ込もうとした犯人を取り押さえたら
「あれは家を燃やそうとしてたのではない、新聞紙を燃やしてただけなのにデマを流された」
と言い張るみたいな話だなw
【>>1、ここでやめておけばよかったのに…】
472 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:01:51.82
脳内解決は論破になりません。きちんと史料を用いてください。
475 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:03:34.56
繰り返します。脳内解決は論破になりません。きちんと史料を用いてください。
【と挑発してしまう】 【当然、詳しい反論を受ける>>1】
483 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:43:15.87
>>472
史料出てるだろ>>468も読めないのか
ざっと整理しておくと
・近藤勇の郷里宛て書簡(6月8日付)←これで少なくとも「慶喜捏造説」は否定される
・上を補強するものとして「御所辺放火」が公文書や私信に頻繁に登場すること
文久3年9月に会津藩公用方が作成した罪状書に「御所辺放火」が登場する
翌年5月の小松帯刀書簡にも同様の記事が登場する
同月の西郷吉之助の大久保一蔵宛書簡にも浪士暴発、警備人数差出の希望があったことを記している
(この頃は薩摩藩は敵対的とはいえ一応中立)
・池田屋当日(6月5日)の枡屋逮捕の直前に新選組より会津藩の応援を願う旨の上申があること
逮捕後に再び連絡があり、容易ならざる書類の所持が判明し自白もあるので応援を願う旨の具申(会津藩庁記録)
・会津藩は重大性に鑑みて議論が割れたが、桑名・一橋に問い合わせた結果、ようやく応援を決めていること
(桑名・一橋のほうが先んじている以上、会津藩−新選組のでっち上げ説は崩れる)(孝明天皇紀)
・本人の「新選組より差出候書付写」(中川宮「焼打」に触れた自白)
・上を補強するものとして古高と同囚だった村井政礼の日記が自白内容と一致すること
・長州上洛を主導した真木和泉「出師三策」の「上策」が大坂襲撃・中川宮問罪に、
「下策」が禁中乱入・反対派討滅に言及している
中川宮邸は下立売門のそばだから焼打ちは当然「御所辺放火」となる
もともと御所放火天皇動座は長州系浪士が流したデマの一環だから捜査側は完全な自白を得る前に容疑とするし、
新選組からの追っての上申では古高は既に重大事件の発生を匂わせる自供を始めていたものらしい 【転載元を暴かれる>>1】
486 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 15:59:35.60
あと>>462も>>1がネット上から引っ張ってきたコピペなわけだが、
文章そのまま検索かけてみたらなんと
「見直し・新選組」4 − 池田屋事件その2「御所辺放火」計画は実在したのか(中村武生)
2、原口清氏の先行研究
というのがヒットする
ところが知っての通り中村は「御所辺放火」計画の存在を肯定する研究者であり、
「2、原口清氏の先行研究」の直後の「3、古高の供述内容」において反論している
具体的に言うと
>しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、
>「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である
>前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。
>「書付写」によれば古高は自分たちの「計画」内容について明確に供述している
(以下略)
と反論が続けられており、この馬鹿>>1はよりによって原口説の御所辺放火計画の部分について反論する研究者の前フリ部分だけ引用すると言う
きわめて悪質な手口をやらかしている
リンク貼らなくたって検索に放り込めばすぐ分かるんだぞ、本一冊も読まないネットソースオンリーの馬鹿が。 >>1
☆アンチ長州をという生き物を考察する★
132 : 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 02:59:07.51 .net
>>127
原口氏の「禁門の変の一考察」見てみたが、初出が慶喜書簡だと指摘してるけど、
会津藩・新選組関係者だなんて言ってないよ
状況的には、適法行為であっても志士弾圧には違いなく、
7日8日には志士捕縛(何度も言うけど浮浪取締は適法行為ね)について慶喜に天誅を加えるという物騒な札が立ったが、
御所への放火となれば「何人も弁護できない」と言ってて慶喜を暗に疑ってるんでしょ。
あと古高俊太郎の検挙も偶発的なものではなく、4月下旬に浪士の放火未遂を取り押さえた所、
長州系浪士が多数の浪士潜伏を自白し、さらに探索を進めるうちにクーデタ計画の自白が得られたので
捕縛に踏み切ったもの。3月25日には来島や久坂らの上洛視察が決定されてるし、
参預会議の解体と諸侯帰国を見た久坂は進発論に転じて帰国、6月4日に世子を担いでの進発が決定している。
491 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 16:12:40.72
>>488
実際>>462をそのままグーグル先生に放り込むと中村のホームページがバッチリヒットするんだよ。
一字一句の間違いもなく。紙の史料から引用したらそんなこと起きねえぞ。
しかも中村はもちろん原口も「会津藩・新選組の陰謀」だなんて言ってないわけだが。
お前、人の研究を改ざんするのもいい加減にしろよ 【狼狽する>>1、だが、まだ舐めていたので取り繕う】
492 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 16:13:48.65
>>487
おまえも中村をソースにしたHPから抜粋してるじゃん。
その続きをコピペして貼らないのは都合が悪いからだよなwwww
493 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 16:14:27.68
>>489
>ネットでも史料の抜粋が掲載されてるんじゃん。
じゃ原口清が「会津藩・新選組の陰謀」と言ってる部分を
「禁門の変に関する考察」から引用してみろ。
ネットのコピペでなければ当然、原口清の論文手元にあるんだろうからな。
495 :日本@名無史さん:2016/05/17(火) 16:15:46.73
>>492
とんでもない。自分はペーパーから引用してるよ
たとえば>>483に挙げたソースのうち真木和泉の出師三策とかは中村のホムペには一言も載ってない 【ところが…】
604 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 13:55:11.36
>>462
禁門の変の一考察を読み直してみたが、
原口先生べつに会津藩の捏造だの陰謀だなんて一言も言ってないぞ
慶喜の書簡についても
「責任ある地位に立つ慶喜や京都所司代の文書に事実として書かれてある以上、
単なる世上の風説と同じように見るわけにはいかないであろう」
としてて、むしろ慎重な態度になってるんだけど。
ただ御所辺放火計画を否定する立場だから、その後にご自分の憶測を付け加えておられるけど、
「ともあれ研究の前進に期待する以外にない」と結ばれていて、結論は留保だよ。
お前は大間違い引用を冒してることになる。
605 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 14:02:05.34
あと「禁門の変の一考察」は御所辺放火計画の存在は否定するけど、
その直後に長州藩が池田屋事件以前に既に進発を決定していたことに触れてる。
また桂小五郎の北条瀬兵衛宛て書簡にみえる「援兵」に触れ、
5月27日の栂尾集会において長州援兵が論じられたのではないかと推測し、
これが漏れたことで池田屋事件が発生したのではないかと言ってるから、
捏造とあべこべの主張をしてるのだが。 606 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 15:11:50.48
トンビ完全脂肪w
607 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 16:14:52.20
ジロキチ出てこい!!!
608 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 17:33:58.03
もともとブログをコピるだけ
いつかはこういう日が来る
609 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 17:53:50.31
>>1の運命が急変したのは1か月前
知恵袋を掘られナマポや性癖がバレた
続けて過去ログも掘られ地震歓喜の件がバレた
そしてコピペまで次々に反証される ← 今ここ
だから最近コピペが貼れない
目に見えて元気がない 【涙目になった>>1 とつぜん「仙台人」を称する】
610 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 17:56:40.90
このスレの4−6辺りが盛り上がっただろw
見てみw
俺が書いたネタに会津が激しく反応してそこから会津がファビョったんだろww
その時にどさくさにまぎれてジロキチだのと騒ぎ出して今になってるから
きっかけは仙台人の俺だw
611 :日本@名無史さん:2016/05/21(土) 18:00:05.65
会津プロパガンダ4
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1453532427/
会津プロパガンダ5
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1461486625/
会津プロパガンダ6
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1462295676/
ここから急に会津が連投してファビョりだして強引に長州不利の流れに持ち込んだんだろ
だからきっかけは俺の投下したネタだw
相当効いてるんだなww ※なお、>>242 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1463047729/604 の反論以降、
>>1は以下のような再質問に対して完全に沈黙したまま逃亡する
624 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 09:37:24.05
>>1がオボAAを連投するときは特徴がある
完璧に議論で負けて何とか話題をそらしたいとき
626 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 12:09:17.03
>>625
禁門の変の一考察で原口先生が捏造なんて一言も言ってなかった件どうする?
631 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 13:01:56.06
ジロキチが哀れになってきた
633 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 13:52:40.33
自称仙台人になってるしなw
逃亡準備ですわ
637 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 14:47:15.82
>>629
>だからきっかけは俺(第三者の仙台人)
自称「仙台人」って何区に住んでるの?
645 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 19:39:37.79
それで自称仙台人は何区に住んでるの?
急に消えてしまったけど
646 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 19:58:02.28
もうライフがゼロなんだろ
647 :日本@名無史さん:2016/05/22(日) 20:47:34.90
で、けっきょく禁門の変の一考察で原口先生が会津藩新選組の捏造なんて一言も言ってなかった件どうするのかという。
全く反応ないけどこれ論破ってことでいいね >>1
こいつまだ会津叩きしてんのか
先祖が会津藩士に殺されたのかなw
東日本大震災で喜んでたやつだろ >>129
会津叩きではなく会津プロパガンダ叩きだろ
チョーシューガーと一緒にすんな
おまえの理屈ならチョーシューガーは
長州に先祖殺された奴ってなるぞwwwwww
妄想で震災喜ぶとか頭どうかしてるぜwww >>128
妄想を論というのか会津プロパガンダはwww 明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より 軟弱揃いの会津は戦争が下手くそなくせに、
官軍に逆らうなどという愚かな判断をするなんて、頭いかれてるよね >>135
確かにそうだがそこを非難するつもりはない。
非難すべきは会津プロパガンダだから。 トンビ>>1
今しがた証拠突きつけられてこのスレでデマだって認めたよ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1480876025/943
934日本@名無史さん2017/11/08(水) 19:36
潔く認めた人に責任とか…
940日本@名無史さん2017/11/08(水) 19:40:42.7
>>934
あれ?潔く認めた???
つまり デ マ だと認めたということですね????
943日本@名無史さん2017/11/08(水) 19:41:24.64
>>940
認めてるじゃん。他にまだ何か? >>137
白虎隊士中二番隊の食料不足は嘘だった!
>会津戊辰戦争 戸ノ口原の戦い
>日向内記と白虎隊の真相 冨田国衛
>ご推薦 川口芳昭(会北史談会長)
>戸ノ口原への食糧供給
>本書第一章において
>士中白虎二番隊および
>戸ノ口原への食糧供給について
>考察した(63頁)。
>複数の資料を提示して
>八月二十二日の夜は白虎隊への
>食糧供給はなされていた、と書いた。
>その後、会津藩士相馬直登の手記に
>次のような記述をみつけた。
>「八月二十二日、未だ全癒これ無く
>病床に罷あり候ところ、猪苗代切迫の
>趣相聞こえ候に付、御城に罷り出で
>御機嫌伺い奉り、直に会所へ罷り出で
>郡奉行牧原奇平を十六橋へ出張せしめ
>居残りの者は終夜人足の配り並に
>兵量の配りを致し、黒川酒居共へ申し付け
>十六橋並に御城内諸番所共へ
>差配申付け候事」
>「白虎隊には兵糧のそなえが
>なかったので」と
>根拠もなく一般に固く
>信じられているので
>本書においてはくどいほど反証を述べた。
間違いを訂正しときました。 >0106 やまとななしこ 2017/11/07 14:26:34
>「埋葬禁止令」などという
>誰も問題にしてないものを
>でっち上げたのはもともと大山の一派だぞ?
↓
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
wwwwwwwwwwwwwwwwww んで>>1の言う「具体的な話」って何だよ
原口清は「禁門の変の一考察」で会津藩・新撰組のデマなどという説唱えてない件
このままだと>>116-125が確定するんだが 結局のとこ何が本当なの?会津って。
プロパガンダによる美化・悲劇化で
わけわかんねーよ。
とりあえず見せしめ死体野晒しや
勘違い切腹、斗南強制連行
薩長から会津に攻めてきたのは嘘なんだな。
蛮行は会津も相当してたみたいだな。 >>1
禁門の変の一考察のどこにも
「新選組のデマだった」なんて書いてない件。
さんざん既出だけど改めて。
原口論文を改ざんしてるのか? cherry_phenixさん 2017/3/20 05:39:06
会津プロパガンダですね。
会津プロパガンダというのは
近代史の捏造、WGIP、地域分断工作
村興しで反日プロパガンダと同じです。
自分達を絶対的正義、絶対的被害者とし
相手を絶対的悪として国内外に発信します。
会津プロパガンダは鹿児島や山口だけに
向けられてるわけではなく
同じ福島の三春町などにもぶつけられてます。
書くとキリがないので
会津プロパガンダで検索してください。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13171828923?__ysp=5Lya5rSl44OX44Ot44OR44Ks44Oz44OA
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=cherry_phenix
言われたとおり検索したら出てきただけだからな!
おれを恨むなよ!笑 もっとぐぐったらおもしろいもん見つかった
woodstock2017さん 2017/10/1920:56:25
会津プロパガンダによる工作ですよ。
ありもしない悲劇やいじめを創作し
会津が正義の被害者だと嘘を発信した結果
会津や会津プロパガンダ洗脳者による
一方的な山口への中傷が行われてます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10180828415
woodstock2017さん 2017/6/2422:48:43
頑固なわりには
騙されやすいというか
会津プロパガンダ作家の
財布ですよね(笑)
早く脱会津プロパガンダをして
恨文化から脱して欲しいと思います。
woodstock2017さんのMy知恵袋
https://chiebukuro.yahoo.co.jp/my/myspace_ansdetail.php?writer=woodstock2017 >>3
原口清の「禁門の変の一考察」にはでっち上げなんて書いてないけど?
慶喜の書簡を「慶喜のように責任あるものの書簡を他と同じように扱うわけにはいかないだろう」
と言ってむしろ慎重になってる。
原口氏の名誉のために言っておくけど。 吉田松陰は会津に来てるし
吉田松陰が学んだ山鹿流兵学の創始者・山鹿素行も会津出身だし
会津の秋月悌次郎も長州の奥平謙輔と交流があったし(萩の乱の人だけど)
長州の山田顕義の長女・梅子は松平容保の三男・松平英夫と結婚したし
松平容保は水戸徳川家の徳川治保の子孫だし
容保の養子も水戸徳川家の徳川斉昭の十九男・喜徳だし
容保は桜田門外の変が起こった際には水戸藩討伐に反対し幕府と水戸藩との調停に努めたし
徳川慶喜ももちろん水戸徳川家 会津と長州は仲良しwwwww
会津の容保(と慶喜)が
薩長と共に明治維新を起こした側の水戸とズ〜ブズブwwwww
会津は捨て駒にされただけなのが丸わかりですね〜wwwww
ロスチャイルドに取りあえず戦争してお前負けとけと命令されてたわけでwwwww 低価格のラーメンチェーン、「幸楽苑」を運営する会社は、人手不足で人件費が上昇し
採算が悪化しているとして、全体のおよそ1割に当たる50店舗余りを今年度中に
閉鎖することになりました。
発表によりますと、「幸楽苑ホールディングス」は、560のラーメン店のうち、
およそ1割に当たる51店舗を来年3月までに閉鎖することを決めました。
これにより、北海道、福井県、滋賀県、京都府、岡山県からは撤退することになります。
幸楽苑は、デフレの中、低価格なラーメンの販売で店舗数を急速に拡大しましたが、
人手不足を背景とした人件費の上昇や原材料価格の値上がりを受けて、
一部の店舗で採算が悪化していることから、今回の閉鎖を決めたということです。
また、店舗の閉鎖に伴っておよそ5億円の特別損失を計上するため、今年度の
最終損益が当初の黒字の予想から一転して6億7400万円の赤字になると発表しました。
幸楽苑は、ステーキ店の「いきなり!ステーキ」を展開するペッパーフードサービスと
先日フランチャイズ契約を結んだばかりで、今後は首都圏や東北地方を中心に、
単価が高く利益が見込めるステーキ店の出店を進めるなどして業績の改善を
目指すことにしています。
★1:2017/11/10(金) 21:53:13.20 >>147
日新館は萩の明倫館を参考にして協力の下作られていて
元々萩の人々には借りがある 明治維新の際の内戦、戊辰ぼしん戦争で、長州藩と敵対した会津藩があった福島県会津若松市の博物館「会津藩校日新館」館長の宗像精ただしさん(84)が26日、山口県萩市の松陰神社で講演した。
約150人が聴講する中、宗像さんは「歴史の事実を消すことなく交流を深め、結びつきを強めたい」と語った。
萩市の医師で「長州と会津の友好を考える会」代表を務める山本貞寿さん(78)の働きかけで実現した。
会津藩は戊辰戦争で長州藩などの新政府軍に敗北。戦死者の遺体埋葬を禁じられたり、青森県に領地を移されたりするなど厳しい戦後処理を受けたと伝えられ、今も山口県を快く思っていないとされる。
来年の維新150年も会津若松では戊辰戦争から150年と呼ぶ。
宗像さんは「150年たったが、仲直りは歴史の事実をご破算にするということだからできない」と強調。しかしその一方で、遺体埋葬の言い伝えを否定する史料が発見されたことを紹介し、「会津も長州も
同じ日本人として、日本の素晴らしさを世界に発信できるよう
子供たちに教えていきたい」と述べた。
また宗像さんは、会津の白虎隊士の生き残りの山川健次郎が長州藩士に保護されて教育を受け、東京帝大総長にまでなったことについても触れ、感謝の言葉を述べた。終了後、山本さんは「これからも
交流を続けていきたい」と話していた。
2017年11月27日 14時47分
YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/national/20171127-OYT1T50019.html ■「反薩長史観ブーム」の捏造を許すな■
「○流ブーム」に続き、新たなブームの捏造を極左マスゴミが仕掛ける動きがあったので、注意喚起を兼ねてここに公表する。
そのブームとは「反薩長史観」。その名の通り、薩摩長州の志士をボロクソに中傷する史観のことである。
誤解しないで頂きたいのは、この「反薩長史観」とは新選組や白虎隊などに心酔した結果の、一種の判官びいき的な「親幕反薩長」感情・史観のことではない。
これは反日パヨクが仕掛けた反日極左史観に他ならない。
イデオローグである武田鏡村は
「歴史修正主義的な傾向の強い安倍晋三首相は「長州」出身であり、その言動には「薩長史観」が深く反映されている。」
「薩摩と長州を中心としてつくられた絶対的な天皇主義、軍国主義、愛国心であった。」と言い、
「反薩長史観」のバックボーンが、反安倍、反日、反皇室のパヨク思想であることを図らずも吐露している。
奴らの狙いは何か?それは2018年を見据えた反日パヨク運動の扇動である。
2018年は明治維新からちょうど150年目である。またこの年のNHK大河ドラマは「西郷どん」である。
この歴史的な節目の年に便乗する形で反日パヨク運動を激化させる危険性がある。
例えば・・・
・政府主催の明治150年式典に対するテロ
・「鹿児島県民と山口県民は日本最凶のDQN県民」というプロパガンダを垂れ流し、日本社会の分断を図る。(いわゆる「田布施陰謀論」もこれの変種である)
・「明治維新を評価する奴はネトウヨ」キャンペーンを繰り広げ、評価する人に対する嫌がらせやテロをする。
・「(アメリカ南軍のリー将軍像のように)西郷隆盛の銅像をぶっ壊せ!!」と喚き、西郷像を破壊する。
・西郷像のみならず維新の元勲の像も破壊され、靖国神社や松陰神社などの元勲由来の神社もテロの標的となる。
・「皇太子の娘の名前を改名せよ!」と喚き、東宮御所前をデモ行進する。(御名前の由来が西郷の座右の銘である「敬天愛人」だから)
このような奇痴害活動を絶対に阻止しなければならないし、反薩長史観を称揚するマスゴミを厳しく指弾しなければならない。 明治2年5月11日
旧幕軍(会津)が箱館市内に放火
900の家屋が焼失
箱館戦争年表より
会津は北海道の敵でもある 収録で対談するリード教授(右)と宗像館長(会津若松市の「会津藩校日新館」で)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20171206/20171206-OYTNI50041-L.jpg
来年の戊辰戦争開戦150年の記念事業として、会津若松市などがドキュメンタリー番組の制作を進めている。
戊辰戦争当時の精神や文化を紹介して観光振興につなげるのが目的で、来春の放送を目指している。
番組の全体テーマは「義」で、来年3月までの間に「道義」「信義」「忠義」「大義」の4番組(各25分)の撮影を行う。
外国人が進行役として各番組に登場し、会津地方の名所を訪れる。
同市の博物館「会津藩校日新館」で2日、撮影が行われ、米国人で山梨学院大学国際リベラルアーツ学部教授の
ウィリアム・リードさん(65)が、同館長の宗像精さん(84)に、幕末の藩校で行われた人づくりなどを尋ねた。宗像さんは「ならぬことはならぬものです」で知られる「什の掟」をリードさんに解説していた。
制作を担当する企業「XPJP」(神奈川県鎌倉市)の渡辺賢一社長(46)は、「懐古主義に陥らない未来志向の内容にする。一人でも多くの人に見てもらいたい」と話す。
完成した番組は来年5月頃、民放BS局で放送できるように市などが調整を進めている。また、インターネットによる動画配信も予定している。
読売新聞 2017年12月06日
http://www.yomiuri.co.jp/local/fukushima/news/20171206-OYTNT50150.html まだ具体的な話を理解できないようだな
>>72 >>84 >>93 >>97>>100 >>105-108
>>110-111>>113>>129>>141>>143
今年中に具体的な話が何かを気づけなかったら、おまえ負け犬確定な >>72 >>84 >>93 >>97>>100 >>105-108
>>110-111>>113>>129>>141>>143
具体的な話が何かを早く気づけよ
もうすぐ年越しちゃうぞ ヤフー知恵袋で原田伊織を推しアンチ長州展開をしてるsaos90lvはイジメられっ子で高校中退のヒキコモリだったwwwwww
>saos90lv
>元引きこもりです。
>なった理由は同級生からのイジメ。
>毎日何をしてたか?
>俺は資格取得の勉強と体力づくり。
>あとは家事全般でしたから、
>それなりに忙しく過ごしていましたよ^^V
>saos90lv
>まず、犯罪、家庭内暴力とニート
>引きこもりを同列で論ずること
>自体おかしな話ではないでしょうか?
>saos90lv
>いじめ から引きこもり今は
>正社員やってます。
>加害者は卒業後大手企業に
>就職したと聞きましたね
>saos90lv
>いいけど国民の義務は果たせよ
>saos90lv
>俺も小学校からイジメにあい
>高校では中退までしてしまい
>その後引きこもりになって
>今は正社員で働いてます。 八幡和郎は滋賀作、原田伊織も滋賀作、松居一代も滋賀作
井伊直弼は近江生まれの近江育ち
キチガイの産地ということでよろしいか?
戦国の井伊家
甲州・上州・信州の武田遺臣と、三州の強兵を合体させた徳川家最強の赤備え軍団。
幕末の井伊家
上方の華美な風土に染まり軟弱化、諸藩から弱兵と侮られてしまう。
あまりの弱さに『(討ち取られていく様子を)遊猟』と揶揄された彦根藩 八幡は会津プロパガンダの嘘を指摘したから良いだろ。
原田と松居はダメだけどな。 戊辰戦争直後の会津藩士の埋葬に関する古文書などが展示された新収蔵・公開史料展
http://www.minyu-net.com/news/assets_c/2018/01/180115topic4-thumb-300xauto-22331.jpg
会津若松市歴史資料センター「まなべこ」の企画展「新収蔵・公開史料展」は13日、同センターで始まった。本年度新たに収蔵したものや、調査研究をする中で新たな発見があった史料が速報的に展示されている。2月18日まで。
江戸時代末期から明治時代初期の激動の時期に活躍した人物の展示で、戊辰戦争直後の会津藩士の埋葬に関する古文書「戊辰戦争屍(かばね)取始末金銭入用帳」の原本を展示。
「会津藩の戦死者の遺体は半年も埋葬を禁じられ、鳥獣の餌食になるなど悲惨な状況に置かれた」という定説を覆すとされる史料で、会津藩降伏の10日後から埋葬が行われたことが記されている。
会津藩の和歌や会津藩家老西郷頼母、旧会津藩士町野主水らの戸籍なども展示されている。
14日は戊辰戦争屍取始末金銭入用帳に関する著書がある野口信一市史研究会副会長によるミニ講演会なども開かれた。
月曜日は休館。午前9時〜午後5時(最終入館同4時30分)。
福島民友 2018年01月15日 09時10分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20180115-235287.php 近代史の明治維新のように稼げるかもしれないブログ
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