>>82
これも嘘ばっかりだな。とりあえず目立つ所だけ

>Q禁門の変の時会津は長州側の嘆願書を拒んでいたのですか?
>A拒んで取り次がないようにしていました。

京都守護職は嘆願書の取次を専断的にやっていたわけでもなんでもない。

>Q会津は新政府と戦争をやるのにどのような準備をしていましたか?
>A新潟と北海道の領地を担保にドイツに味方に付くよう打診したり
>奥羽北越で同盟を結んだり、北海道で国家樹立を目指したりしました。

箱石大が指摘したファブルブラントの書簡には
「今なら有利な条件で艦隊寄港地の交渉が可能」とあるだけで、
この書簡以外には実際に交渉があったという裏が全く取れていない。
さらに同書簡には「南の島とミカドの政府」が先行していると書かれてるわけだが

>Q新政府は旧幕府側を何がなんでも潰そうとしましたか?
>Aしてません。新政府は和平交渉から入ってます。
>世良修蔵なども「従わないなら討つ」としていて
>何がなんでも武力で討つという方針はとってません。

「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」という方針が林通顕によって提示されており、
世良修蔵はそれを忠実に実行して会津の恭順打診を拒否して出兵を督促している。
なお、大総督府が公式に会津藩の恭順条件を提示したのは白河口の戦いが始まってから後。