陸軍大学と海軍大学について [無断転載禁止]©2ch.net
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>>27
確かに、梅津は陸大首席のエリートだが。
ポストでいったら、日の当らないポストばかりなんと、あと始末ばかりやらされる、便利屋扱いだったではないですか。 宇垣一成
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
大正末期から昭和初期にかけて長州出身者に代わって陸軍の実権を握り、宇垣閥と称される勢力を築いた。
陸軍大臣として宇垣軍縮を断行したほか、クーデター未遂計画である三月事件に関与した。
予備役入り後に組閣の大命が下ったが陸軍の反対で頓挫し、
以後も幾度か首相に擬せられたがいずれも実現しなかった。
短期間外相を務めた後公職から引退し、戦後になり参議院議員となったが在職中に死去した。
慶応4年(1868年)備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市東区瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれた。
水呑百姓・宇垣杢右衛門の五男で、幼名は杢次(もくじ)[1]。後に海軍中将となる宇垣纏と同郷だが縁戚ではない。
学校事務員として働いた後に上京し、成城学校を経て陸軍に入った。軍曹に昇進した宇垣は陸軍士官学校に入学した。
明治23年(1890年)7月26日に陸軍士官学校(1期)を150人中11位で卒業、
明治24年(1891年)3月24日に陸軍歩兵少尉に任官した。明治29年(1896年)に一成と改名している。
明治33年(1900年)に陸軍大学校(14期)を39人中3位で卒業し恩賜の軍刀を拝領した。
尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。
尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。
明治35年(1902年)から明治37年(1904年)にかけてドイツに留学した。この間に最初の妻の鎮恵が死去している。
明治39年(1906年)に再度ドイツに留学した。明治40年(1907年)に小原貞子と再婚。
明治43年(1910年)に陸軍大佐に進級した。
上原勇作を中心とする九州閥には「蝙蝠のような男」と揶揄された。
小説家の司馬遼太郎は紀行文集『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。
「聞き置く」など曖昧な表現を多用し、外相在任中に起きた張鼓峰事件においては、
あたかも出兵を容認したかのように受け取られた。
宇垣は昭和天皇に対しては明確に反対論を上奏していたため天皇は不信感を持ったとされ、
『昭和天皇独白録』では「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」と酷評されていた。
昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと考えていた。
自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、
結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。
惑星は太陽(=首相)のまわりを回り続けるが、太陽(=首相)にはなれなかった意味である。
議会主義を尊重していたことなどから大物軍人としては珍しく政党政治家グループにも人気があり、
戦前は民政党総裁に、戦後直後には日本進歩党総裁に推されたことがあったが、これらも実現をみることはなかった。
宇垣は、田舎者らしく無頓着な平民的容貌だったが、人一倍功名心に燃えているところもあった[1]。
公刊された『宇垣一成日記』(正式名は『一如庵随想録』)には「!」が2000回以上、「!!」が1000回以上登場するという[12]。 >>50
軍事課長、参本総務部長、陸軍次官、関東軍司令官、参謀総長と歴任した梅津の、
どこが陽の当たらないポストばかりなのでしょうか?
二・二六事件後の次官、ノモンハン後の関東軍司令官は、彼にしかできないからでしょう。 >>52
確かに、梅津が歴任したポストは、陸大首席の肩書きに恥じないポストで、陽の当たるどころか凄いポストばかりですが。
梅津が歴任した時の陸軍次官、関東軍司令官、参謀総長に限っては、いずれも後始末ばかりの面倒で誰もやりたくない時にやっているのが、どこが陽のあたると言うのでしょうか。
(いくら梅津にしかできないことだったとしても)
梅津本人にいたっても、参謀総長就任した時に、息子に「今度もまた後始末だよ」と不満を述べているくらいですし。
もっとも、本人の意向で組織のポストが回ってくるわけではないですが。 東条を陸軍から追い出したのも梅津だしなあ。
参謀総長になってからの梅津は、陸軍の最高実力者だろ。
後始末とはいえ、これ以上のポストは日本陸軍にないだろ。 昭和の軍閥 高橋正衛
http://books.rakuten.co.jp/rb/1556453/
将校の大部分はその軍人生活を隊付で終わる。
陸大を出て中央三官衙[陸軍省・参謀本部・教育総監部]に勤める
エリートの経歴をみると、ほとんど大隊長(少佐)と連隊長(大佐)をやっている。
これは将官(大将、中将、少将)になるには、佐官時代に最低2年の隊付を
やらねばならぬという内規があるからである。
佐官時代の年数がこのエリートの軍人でも12、3年はある。
このうちわずか2年の隊付をすれば、将官になれるというのは、
やがて旅団長、師団長になったとき下級将校や兵の気持や兵営生活の苦しみが
この上級指揮者にほんとうにわかるか、という疑問がある。
このことは昭和8年ごろに、このエリートの将校自身からも深刻な反省がでて、
内規をあらため、陸大出も最低6、7年は隊付をしなければ将官になる資格はないと
改めることが考えられたが、実現はしなかった。 >>53 降伏文書調印式の時の海軍代表。豊田と高柳が断ったからといって横山とは核落ちし過ぎじゃないか?もっと適当な人物おらんかったのか? >>57
直系ではないけど、自分は宇垣一成と犬養毅の一族と関西のミスが集まった集会で公言している。 >>37
井上成美は母が伊達政宗の系統だし、義兄は阿部信行だからね。 講談社現代新書の「参謀本部と陸軍大学校」って
読んでも勉強になりゃしねえ
戦局についての駄文が半分くらいであとは歴史に興味あれば誰でも知ってる浅い内容 >>54
近衛の後任に東條でなく梅津という意見はなかったのか >>62
なかった。
当初名が出たのは東久邇宮(皇族軍人だから当然陸大出) 東久邇宮は戦後の奇矯な言動が知られてるけど
戦前は政治家として大したものだと思われていたのか。 >>6
フランスに留学してから変わったようだよ。(そのせいなのか元々変わっている性格なのか、第二師団時代に石原莞爾を歩兵第四連隊長として、引き取ったくらいなので) >>62 >>63
豊田副武も東條内閣の海軍大臣を初めから嫌がらずに受けたら面白かったのにな。東條内閣流産になっていたぞ。 単に陸軍の長老だからだろ。
さすがにこの時点ではもう閑院宮は耄碌してることが知れ渡ってたし。 >>67
いや、朝香宮も東久邇と陸士、陸大とも同期で41年には大将だったが、首相候補に名が挙がったことは一度もない。
直宮は別として、東久邇宮は皇族の中で唯一、政治感覚があるとされていたから近衛後継で浮上した。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ 東大と陸大と海大
全部受かるとしたら、どこが一番いいの?
名誉、カネ、偏差値…
詳しい人教えて 陸大と海大は、それぞれ陸軍将校、海軍将校しか受験資格がないので、
全部受かるなんて事はあり得ないとマジレスしとくわ。 東大の学士卒じたいは士官学校と同等じゃなかったっけ。むろん
そのあとに引かれたエリートコースは別だけど。給与面では東大卒は
初任給じたいは少尉なみだったはず。 田中角栄はTBSのインタビューで、
戦前は海軍士官学校、陸軍士官学校、
一高、海軍経理学校、陸軍経理学校の順で
狭き門だったと言っていた。
これとは別に、海軍士官学校なんかは、
県で一番の中学の
1番か、2番が受験生になるという話を
ラジオで聞いたことがある。 >>72
陸士や海兵は旧制高校と同格なので、学歴的には実は帝大卒の方が上。
ただ、戦前は民間企業よりも官職の方が社会的地位が高かったので、
確実に軍人という官職に就ける陸士や海兵の人気が高かった。
東大に限らず、帝大はどこも旧制高校を卒業すれば確実に入学できたので、単純に現代と比較できない。
実際、文学部なら例え東大でも、下手すりゃ田舎の中学の教師程度しかなれなかったくらい。
ただ、東大法学部だけは当時も別格で、ここを出て高等文官試験に通れば、むしろ単に陸士海兵出ただけの士官よりは出世が早い。
軍人が高級官僚と同格になるには、陸軍なら陸大卒、海軍なら海兵を上位で卒業する必要があった。 陸軍の場合、陸大卒重視になったのが、日露戦争後かな? >>75
詳しいですね。
もう一つ、今の防大も同じだけど陸士、海兵だと学費はもちろん、生活費もかからないというのは大きく、優秀だけど旧制高校・専門学校へ経済的に行けない層の受け皿になった部分があったと思う。 >>76
日露戦争はほら、寺田屋事件に居合わせた人が満州軍総司令官をやってたり、
宮古湾海戦に参加した人が連合艦隊司令長官だったりしてたから。
>>77
仰る通りで。 戦前は中学校(いまの高校)でも私立なみの学費とってたらしいからね。
学歴は買うところがあったんだろう >>77
>>79にあるとおり経済に難がある層は中等学校ではねられてるからたいした受け皿にはなってない
幼年学校も学費取ってたし でも高木惣吉は、中学校にも通えないほどの超貧乏人だったよ。
だけど海大首席。 中にはそういう努力する天才もいる、て話であって、
基本的に陸士海兵もそれなりの家出身者が多数を占める。
山県有朋が陸幼を作ったのも、下級階層に陸軍を乗っ取られて革命を起こされるのを防ぐためだった。
才能のある貧乏人はどちらかというと、下士官で活躍する。 渡辺錠太郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E
家庭が貧しかったために、小学校を中退している。
その後、看護卒を志願して陸軍に入営(当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたので、医師を目指して入営している)。
中隊長から優秀であることを評価され、陸軍士官学校の受験を勧められ、師団内1位の成績で合格。
その後陸軍大学校に入学し明治36年に首席で卒業。 >>83
流石にこういうのは陸軍ならではだね。
海軍なら、兵隊から現役の兵科将校になった例なんて、大戦末期の飛行科特務士官くらいちゃうかな。 そりゃ有能で自分に忠実な例外は、むしろ喜んで子分にするわな。
そうではなくて、陸士のメイン層が下層社会出身に占められては困る、ということだろう。 山県有朋も大した家柄じゃないんだけどな
足軽以下の中間の出だよ ある意味では、革命に成功した側だからね。
だからこそ寝首のかかれ方をよく知ってるんだろう。 福留繁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%95%99%E7%B9%81
1891年(明治24年)2月1日、鳥取県西伯郡所子村大字福尾(現大山町)の農家に生まれる。
1905年(明治38年)年4月、鳥取県立米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)に入学。
入学当初は貧しく、四里(16キロ)の道を歩いて通学していた。
海軍を志したのはなんとなく海にあこがれをもっていたのと「貧乏中学生の進学の道は学資のいらない軍人学校」ということからだった。
1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校に40期生として入校。
1912年(明治45年)7月、144名中第8番の成績で卒業、少尉候補生。
1924年(大正13年)2月1日、少佐に昇進し、海軍大学校甲種24期に入校。
1926年(大正15年)11月25日、首席で卒業。 >>90
それでもその当時の日本全体からみれば、
中学行ってるだけでまだましな方なんだよ。
貧乏中学生と言うのは、同級生での比較の話。 そりゃ、当時の中学進学率考えればそうにきまってる。中学からさらに上に行けるか、行けないかの選択の際の問題で、現代と比べても意味ない。
ただし、昔は本当に優秀だと篤志家や地元の援助を受けられるチャンス等はあったから。 親の意識の問題もあるからね
勉強なんかいいから家業を手伝えって感じだったら貧乏じゃなくてもアウトだ むかしは公立の中学(いまの高校)でも現在換算で70万くらい学費
かかったからね。農家なら自営百姓の長男が行かせてもらえる程度
だったろうね。 >>95
さすがに今と昔の格差は一緒にできんよ
昔と違って公立トップ校ならろくに学費がかからんし、奨学金(実質ローンとはいえ)もある。
篤志家や地元の援助を受けるよりずっとハードルは低い
意識低い親のせいで進学できないのは今でもちらほらいるようだが。。。 子供を純粋に投機対象として見た場合、教育費を回収できるの?という疑問があってな
不良債権化しそうなら進学させない、そういう合理的で意識の高い親もいる >>96
なるほど。
ただ、昔も今も、学歴重視なのはかわっていないよね。(特に陸軍場合は陸大卒重視だし)
本来、実力(能力)で評価しなくてはいけないのに。 >>98
天保銭主義が大戦の敗因と言われてるよね。
とはいえ、米陸軍もウエストポイントの上位じゃなくても出世できるようになったのはせいぜいここ2、30年の話だし、なかなか難しい。 軍隊司令官はとくにそうだろうけど、じっさいに指揮させてみなければ
だれが有能か分からない、というのが学歴偏重のすべての原因なんよね。
戦国時代の日本の武士がつよかったのはひたすら殺しあってたからであって
士官学校の場合はそうはいかないから難しい。 明治の陸海軍が強かったのは、
明治維新で実践経験のある人間が指揮官だったからという話にも通じるやね。 観戦武官として外国に赴いたり、日本大使館に駐留してただろ
その時に学や教養もないと勤まらんのだよ
武士も戦闘技術だけじゃなしに教養も身に付けていたわけで そもそも省部勤務は基本的には官僚なのだから当たり前>学と教養
ただ、その内容がひどく偏っていたのが問題だったわけで。陸大は本来、参謀養成が目的だったのに、それが出世の必要条件になったのが失敗。その点は海大のほうがましだった。 指揮しかできない低学歴軍人なんか、政治家や官僚から相手にされない
政治における軍部の発言力も落ちる 知識と実践はちがうんだよ。決定的にちがう。知識だけで成功するなら
東大卒はみな株式投資で億万長者だ。やるべきときにやれない、
やるべきでないときにやってしまう、いうべきでない言葉を言ってしまう、
いうべき言葉を言えない、といった人間要素がリーダー論には徹頭徹尾
ついてまわるんだ だからって知識すら無い奴がトップになれるわけがないんだよ
一流は知識と実践の両方を備えてるわけでな >>92
篤志家や地元の援助を受けられるチャンスと言っても全国津々浦々そうなってわけじゃない
金光恵次郎なんて成績は優秀だったけど進学できず徴兵されて兵から下士官、将校と昇進した
せめて陸幼ぐらい師範学校並みに学費無料にしてあげるべきだったと思う
陸幼は中学より学費が高く最終的には無料になるけど昭和19年じゃもう陸軍消滅直前 知識があるやつをトップに据えるから東芝みたいなことになったんじゃねーのかよw 頭が悪いやつがリーダー務まるわけがないけれど、あたまいいから
リーダーがつとまるわけでもねんだよ >>100
おっしゃる通りです。 客観的に実力&能力を判定するシステムがないですからね。
あとは、他の方々が述べられた通りです。戦国時代の武士達と違いますからね。
日露戦争で活躍した、長谷川好道・大将が梅沢道治・中将(花の梅沢旅団)について、後に述べているがまさにそうではないでしょうか。 学歴偏重批判は、嫉妬や劣等感から由来してるものが多いからまともに聞く気にならん
各自が卒業証書などを見せ合って学歴を確認しあった上でならいいけど そうやってすぐ感情論にすり替えてナニゴトカを証明したつもりになってる。
現実に陸大あがりの高級官僚がどんな体たらくだったか、現場の士官学校卒が
いかに有能だったか、物証は膨大にあるだろ。 学歴偏重批判には2つの面があって
1つは、通常いわれる「お勉強ばかりできてリーダーシップがまったくない」
2つは、学ぶべき対象である学問そのものが間違っているのにそこを考究
批判することをゆるさない「学歴社会」システムの問題。
この二重の鉄鎖が組織を硬直化させ無能化させるんよ。 現場の士官卒が上層部にのしあがって舵取りした事例がないので何とも言えないんだよ
低学歴に任せた時のリスクや損失が未知のままで大日本帝国は終了してしまった 端的にいえば灘校の連中とか筑駒の連中に軍幹部なんかやってもらいたくないって話し。
なにされるかわかったもんじゃない。低学歴だのおぼっちゃんだの馬鹿にされてる安倍みたいな
将軍のほうがよっぽど信用できる。灘とか筑駒の連中はその手足になってりゃいいんです。 じゃあ君は低学歴を信じたらいいよ
日本に学歴という尺度がなかった時代は、家柄が物を言ったわけだが
血統だけ良い馬鹿殿みたいなのがいっぱい居たという歴史があるんだけどな 高学歴インテリはろくな存在じゃないと言って追放した
毛沢東閣下が中国を上手に回したかという疑問もあるんだよね
旧ソ連もインテリの粛清やったけど崩壊した >>115
明治維新
>>120
中共は今に至るまで存続して、中国としては清以来の大国になった。
ソ連が崩壊したのはスターリンの粛正時代ではなく、それから半世紀後のモスクワ大法学部卒エリートのゴルバチョフ時代
あなた、よくいるタイプだね。童貞か? 学歴を重視しない共産圏の国々の方が優れてると思うのは勝手だが
俺はそんな国には住みたくないね >>119
低学歴で家柄のいいボンボンが国家のリーダーになる…
まさに今の日本じゃないか。
低学歴層の高学歴者に対する嫉妬、恨みは凄まじいからな。
スマホの普及で、キーボードも使えなかった低学歴層の
社会的発言力が、劇的に強くなってしまった。 井上達三
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%81%94%E4%B8%89
井上成美海軍大将の実兄。
宮城県仙台に生まれる。小学校時代は山梨勝之進海軍大将と同級。
東北学院を経て、陸軍士官学校に進んだ。士官候補生(士候)11期、1899年(明治32年)11月卒業。陸軍砲兵少尉に任官。
士候11期の著名な同期生には、寺内寿一元帥、多門二郎中将[両名とも陸軍大学校(陸大)21期]がいる。
井上は、陸大を卒業せず、人事慣例で陸大卒と同等とみなされる資格(後述)も有しない「無天組」ながら、
臼砲・要塞砲の開発に寄与した重砲の権威で、少将として重砲兵学校長を務め、
1932年(昭和7年)12月7日に中将に進級すると同時に輜重兵監に補され、1935年(昭和10年)8月1日まで同職を務めた。
また、1943年(昭和18年)9月から終戦後の1945年(昭和20年)9月まで法政大学第二中学校(旧制)の校長(第2代)を務めている。
井上が畑違いの輜重兵監に補されたのは、輜重兵出身者の人材不足を補うためだった。
井上は、輜重には素人ながら人格識見の卓越した教育家であったが、
輜重兵出身者はなかなか納まらず、大臣官邸に座り込みをするなど騒いだ一幕もあった。
帝国陸軍では、陸大卒業者は、それまでの実績に基づく序列にかかわらず、
陸士同期生の最右翼に置かれる特権的待遇を受け、他の陸士同期生を引き離して昇進した。
また、砲工学校高等科優等卒業者、国内外の大学に派遣されて学位ないし工学士・理学士等の学士号を得た者は、
陸軍の人事慣例上、陸大卒同等とみなされた。
陸軍史上、技術系の要職を歴任して大将に親任された「技術将校たる陸軍大将」は4名いる
(士官生徒9期 田中弘太郎、士候5期 吉田豊彦、士候7期 緒方勝一、士候11期 岸本綾夫)。
うち、緒方は、陸大卒業者・砲工学校高等科優等卒業者・学位ないし学士号保有者」の三要件のいずれにも該当しない「無天組」であった。
同じく「無天組」の技術将校であった井上は、大将親任には至らなかったが、緒方に準じた処遇を受けて中将に昇ったと思われる。
士候11期で、陸大卒業者以外で中将に進級した者は、井上を含めて7名いた。
うち2名(東京帝国大学造兵学科卒業の岸本綾夫【1936年(昭和11年)8月1日に大将に親任される】、
砲工学校高等科優等卒業の勝野正夫)は、「陸大卒同等とみなされた資格」を有する技術将校であり、
陸大卒の寺内と多門に1年遅れるだけの1930年(昭和5年)8月1日に中将に進級した。
士候11期の陸大卒業者以外の中将進級は、井上を含む3名が1932年(昭和7年)12月7日に進級したのが最後であった。 安江仙弘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%B1%9F%E4%BB%99%E5%BC%98
1940年10月、大佐であった安江は予備役に編入される。
軍中央部の方針と意見が合わず、陸相・東条英機によって予備役に編入されたという説もあるが、
そもそも安江は参謀延いては将来の将官(将軍)を養成する陸軍大学校を卒業していない、
いわゆる「無天組」であるため、この予備役編入自体は決して特別・異端なことではない。
陸大出身者は将官への昇進を事実上約束された存在であるが、陸大非出身者は後の太平洋戦争時や、
軍隊の部隊長として戦功を挙げたごく一部を除き、大佐ないし中佐で現役を退く事が多く昇進も遅い
(安江と陸士同期であった石原完爾・樋口季一郎(陸大30期)は、1940年当時には既に中将に昇進している)。 長々と転載しなくてもわかってるから。
ちなみに、鈴木貫太郎の弟は無天で陸軍大将になった。 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ リーダーは実績を示すしかないんだよ。そして学歴は実績ではない。 共産主義国家おすすめ
実績は粛清した不満分子の数で証明できる
学歴も関係ない >>117
そもそも陸大はともかく、海大は海軍の出世において必須条件ではない。
基本はあくまでも兵学校のハンモックナンバー。 時期によっては海大の成績が出世に加味された期もあったそうだ。
ちょうど米内光政の前後。
米内は兵学校の成績はたいしたことなかったが、海大の成績がよかったらしい。 海大は兵学校の成績が悪かった人間のゲタを履かせる要素になったけど、
海大出なくても出世できた将官が少なからずいるのが海軍だからね。
逆に陸軍は士官学校では兵学校みたいにトップからビリまで序列されることはなくて、
せいぜい恩賜組が明確になるくらいだけど、
その代わり陸大出ないと、将官になるのは相当に困難だった。
元々技術系士官であり、帝大の員外学生になる手もあった砲工兵はまだしも、歩兵出身者はなおのことだったろう。 海軍は連合艦隊司令長官という現場の最高ポストがあるのに対して、陸は最高が軍(末期は方面軍も)司令官で、軍令的に全体を把握
できるのが参謀本部しかなかったからね。
参謀=陸大偏重になってしまった。 日露戦争くらいの規模なら、
大山巌みたいに事実上の陸軍総司令官を置けるんだけどねえ。
組織が肥大化するにつれ、官僚化が進むのもお約束かなあ。 >>133
海軍でも時代が新しくなると連合艦隊と軍令部は仕事が被るからもう軍令部だけでいいという意見もあった
そもそも本来は艦隊決戦で1Fと2Fをまとめて1F長官が指揮するためにGFがあっただけ
>>134
日露戦争のころは戦場がほぼ満州だけだっただろ
WWIIのころは関東軍に支那派遣軍、南方軍と戦線がいくつもあったから >>136
確かに結局、
連合艦隊司令部は日吉台に上がっちゃうもんねえ。 学歴偏重主義だから日本は負けた、に同意。
勝てる人間と勉強のできる人間はちがう
チンギス・ハンなんて読み書きすらできなかったんだぜ。
それは大袈裟にしても、
当時の一高とならぶエリート校だった陸士海兵に合格できる人間は確実にバカではないわけで、
ある程度の水準は保証されてる。
そっからさらに学力や学校成績至上主義で30まで競争させ続けて
生涯のランク付けをするのは無意味だし、
成績バカを量産する制度だとおもうがな。 ぶっちゃけ幕末明治の豪傑連中が学校成績で抜群とは思えない。
西郷、伊藤、大久保、坂本 あるいは榎本、土方、立見といったやつらより第二次大戦の将官たちのほうがある意味頭はいいんだろう。
でも人間としてのスケールは前者がでかいはずだ。
10代20代の青春時代に、
本音はどうかは知らんが、しかし確実に
日本国 日本民族の未来のために立場思想はどうあれ命かけて斬った張ったしてた連中と
大人の言うとおりに、立身出世のためにお勉強やスポーツをがんばってた奴等じゃ器が違いすぎるんだよ。
それは学歴至上主義というよりは時代の差もあるとはおもうけど 基本、エリートの作り方が下手なんだと思う。
西洋の制度を取り入れても、東洋で試験で選ぶエリートとを実施すると、
どうしても科挙のイメージがまとわりつく。
元々、日本は科挙制度を導入せずに武士階級というオリジナルのエリート制度を産み出したわけだが、
明治維新って結局は武士階級の否定になっちゃったからねえ。 なるほどその論点は根本において正しいですね。科挙はしょせん
皇帝の臣下を選抜するもので臣下教育なんですね。そして問われるのは
道徳の実践ではなく儒学の知識。哲学の実践ではなく哲学学と。 みなさん詳しそうなので、欧米の将官選抜制度と比較してどうなんでしょうか 江戸時代の朝鮮外交なんかも典型で、古典に精通して「〇〇にいわく××」
みたいなのが言えないようだと相手国を軽蔑してそれ自体を交渉材料にする、
みたいな感じで、有職故実に由来した象徴的なものを贈呈して、それに正しく
回答できて初めて交渉が進む、みたいな生ぬるいことやってた 東条英機とかそこら辺の戦争時のお偉いさん方、
陸軍士官学校をトップクラスで卒業して今で言う東大主席とかそんな感じだけど
フランス閥、ドイツ閥とか明治の初めの軍の語学閥引きづり過ぎだし
既にアメリカが最強国家だったのに英語できる奴がおらへんし無能すぎた
https://twitter.com/univ0/status/855801439506923520 原子力論考(24)人はメンツで理屈を語るもの(前編)
http://blogs.itmedia.co.jp/kaimai_mizuhiro/2011/10/post_92.html
人はメンツで理屈を語るものだ
というところにありそうな気がします。
「理屈」というのは本来、理にかなっていなければならないはずですが、
現実には非常に知識経験の豊富な専門家でも、その専門分野において
理にかなった結論ではなく、
自分のメンツを保つような結論をまず探し、
次いでその結論を支持する理屈を組み立てる
というケースがしばしばあります。
脚気問題に関する森鴎外や日本医学界のハマった罠はこれだったのではないでしょうか?
当時、医学研究の最先端はドイツと目されていました。
鴎外をはじめとする日本医学界はドイツ閥だった、という理解でいいようです。
一方、高木兼寛は英国医学界出身です。
この時点でドイツ閥の医学者達にとっては「イギリス野郎になにがわかる」ぐらいに見下す気持ちがあったかもしれません。
実は似たような構造は今でもあります。
現在の主流医学は西洋医学系であり、「病気の原因をつきとめてそれを直す」という考えがとことん精緻化されていているのに対して、
漢方医学は原因究明をせず、「出た症状に対応する」という対症療法的なところがあります(かなりおおざっぱに言ってますが)。
たとえていうならこんな感じです。
A医師:脚気の病人に玄米を食わせたら治ったよ
B医師:なぜ玄米で治るんだ? 説明してみろ
A医師:理由はわからんけど、治るんだからいいじゃないか
B医師:だめだこいつ・・・(学術的に真理を探究する精神がない。話にならん)
ものすごい乱暴なたとえを承知で言うと、A医師のほうが漢方的、B医師のほうが西洋医学的です。
そして1900年前後においてB医師のように学問的に「病気の原因」という真理を探究する方向を突き詰めていたのがドイツ医学界で、
逆に「理屈はわからなくても治ればいいじゃないか」的な考え方だったのがイギリス医学界だったわけです。
現代の日本においても、西洋医学者が漢方医学に対して「あんなもの」と蔑視するようなところはありますが、
そういう空気がドイツ対イギリスで存在したのが1900年前後の数十年であり、
そんな中で高木兼寛というイギリス系海軍軍医が「脚気の食事原因説」を唱えたわけです。
・・・・何だこのやろう、こんな非科学的な話があってたまるか
のような隠れた思いをドイツ閥の医学者達に引き起こしたとしても、まあ、無理はないのではないでしょうか。 >>144
英語できるやつもちゃんといることはいる、今村とか栗林とかね
それは学生時代の語学専攻が後を引いているんだな
三国干渉もあって幼年生徒は独仏露から修得する語学を選べってことになった
だからドイツ、フランス、ソ連の駐在武官はみんな幼年出
対してアメリカやイギリスの駐在武官はみんな中学出
中学出で駐米武官経験者でもサトケンみたいなどうしようもないのもいる >>146
栗林の孫は葬儀の後にソープへ行った新藤義幸。 そもそも日本の陸軍は、アメリカを相手に戦争する気がなかったのだろう。
陸大で対米戦について扱うようになったのも、太平洋戦争が始まって、
しばらくしてからだし。
だから英語の優先順位は低かったのだろう。 >>148
じゃ、陸軍にドイツ語屋が多かったのはドイツが仮想敵国だったからかw
アメリカと戦う気がなかったのはその通りだろうけど、英語の優先度が低かったのは現在に比べれば英語の国際性が低く(フランス語が最もグローバル)、海軍と違って英語国に範を取ってないからでしょ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています