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>は?日本軍は支那兵の「敗残兵」として攻撃しただけですが?

「従軍とは歩くこと」を読むと、拘束され後ろ手に縛られて坐らされている敗残兵を、日本兵が射殺する
ところを目撃した様子が書かれている。

これを「敗残兵を攻撃しただけ」と言えるのか? 馬鹿w
敗残兵が便衣兵容疑者であるなら、軍律審判を経ないで処刑(処罰)することはできない。
敗残兵が便衣兵容疑者でなかったら、捕虜にして保護するだけだ。殺害することはできない。
おまえは軍律に関する基本的な知識がないのか?w

「従軍とは歩くこと」 /元毎日新聞写真記者 佐藤 振壽
南京戦史資料集U P609〜
(略)
一夜が明けると12月14日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の
社交機関・励志社である。
(略)
中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて
坐らされている。
彼らの前には5メ‐トル平方、深さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭郡に
銃口を当てて引き金を引く。
発射と同時にまるで軽業でもやっているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
(略)
さて筆者が目撃した場所はどこであったのか、大きな門の写真を撮ったが、その門の上には
「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の構舎には
「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが棚○○、捕虜収容所、占獲集積所」
という文字が読める。「駐軍八十八師司令郡」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。
その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の
中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。
ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海で勇戦し感状を
受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称である。