☆★☆★☆南京大虐殺を語ろう53☆★☆★☆
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
=== 太田供述の問題点まとめ ===
太田は、中国収容所内での供述で、「15日に南京に到着」し、「16日から18日まで3日間、安達少佐と
分担して死体処理を行」ったと証言していた。
◇私(太田少佐)は昭和12年12月15日に南京に到着。16日から18日まで3日間、安達少佐と分担して
死体処理を行い、私は1.9万人、安達少佐は1.6万人の死体をそれぞれ揚子江に投じた。
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/ota-hisao.html
だが、梶谷日記によれば、太田が南京に到着したのは「25日」となっていた。
◇梶谷日記 1937年12月25日
朝来寒気殊に甚しきも快晴なり。正午頃常熟より太田少佐外来る。津倉、泉原来り久し振りにて歓談す・・・
梶谷日記により、「15日に南京に到着」したと供述してた太田供述との食い違いが認められ、更に、「16日
から18日まで3日間、安達少佐と分担して死体処理を行」ったとする証言にも疑問符がついた。
http://www.howitzer.jp/topics/box6/01.pdf
◇『太田供述』と『梶谷日記』との相違点
A 『供述書』によれば太田少佐は十五日に許甫鎮から貨物船で南京に到着したとあるが、『梶
谷日記』によれば、太田少佐は常熱から二十五日に到着している。(P17)
◇太田供述に対する大虐殺派江口教授のコメント。
いずれにせよ、梶谷日記は『太田供述書』の信ぴょう性を疑わせるに足る内容を持っています。
それだけに、梶谷日記にまったく触れない今回の記事は、はなはだ説得力に欠けると申上げざ
るをえません。
おまけに太田供述の内容は、意味不明なものばかり。
下記【第十一軍】など存在しないし、焼却埋没作業にあたった約五〇〇名の部隊が【明らかならず】も意味不明。
http://www.howitzer.jp/topics/box6/05.pdf
◇2. 南京到着後に於ける罪行
・・・配属陸上輸送隊 約八〇〇名(南京に碇泊場司令部が到着と共に【第十一軍】より配属せられしもの)
・・・焼却埋没作業は攻略部隊の人員約五〇〇名を以て実施す。右人員は南京攻略の何れの部隊かは
【明らかならず】、作業実施の地点に至る此の人員の運搬は小舟を以て行ふ。(P422)
地図に「死体焼却埋設位置」が記されていて、ここには「焼却、埋没位置に運搬せる数(二日間にて概ね終る)
約三万」の死体があることになるが、その死体が全く見つかってない。
◇南京下関に於ける死体処理略図(第一)
※浦口より揚子江沿い下流約4km、縦約500〜600m、横約700〜800m(P424-425)
更に、太田供述にある「南京市民の大虐殺」は存在しない!大量の南京市民が虐殺されたとする解釈は、連合
軍側の資料とも整合性がとれない。
◇ハ 南京事件に於て死体処理総数 計十五万と推定す
右の死体の種別は抗日軍捕虜(推定約三万)其の他は住民にして老若男女あり、要するに死体の内別は
住民の方が多数なりしは明らかなり。(P426)
↓
http://oira0001.sitemix.jp/frame22.html
http://oira0001.sitemix.jp/frame23.html
http://oira0001.sitemix.jp/frame28.html === 赤星証言の問題点まとめ ===
赤星が、「14日に獅子山にいた」とする下記は、明らかに史料と食い違っている。
◇第六師団歩兵第十三連隊の二等兵であった赤星義雄もまた、そうした目撃者の一人である。赤星は十二月十
四日、獅子山を下って揚子江岸に降りた時に、現場の惨状を目撃しているのである。
揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そこに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられな
いような光景が広がっていた。
下記資料より、「14日」の南京城内における日本軍配置が確認できる。赤星がいた第十三連隊の区域は漢中路の手
前まで、獅子山方面は、第十六師団第三十三連隊の担当区域だった。
http://www.howitzer.jp/topics/box4/05.pdf
◇14日に、獅子山区域を担当していたのは、第16師団第33連隊(33i)。
◇14日に、赤星がいた第13連隊(13i)は、城内南部「漢中路」手前(P238-239)
そして、14日夕方からは、赤星がいた第13連隊(13i)は、中華門すぐそばで警戒態勢となっている。
http://www.howitzer.jp/topics/box4/05.pdf
◇14日夕方は、赤星がいた第13連隊(13i)は、中華門すぐそばで警戒態勢
◇この時、第六師団本部は、更に南方の「安徳門」で警戒態勢(P233)
また、赤星は、14日獅子山に行った際、「敵の姿はなかった」と証言しているが、実際には相当数の敗残兵が潜伏中で、
第十六師団第三十三連隊が掃討戦の最中だった。
◇揚子江を埋めた屍 赤星義雄
明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んだ。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲
陣地のある獅子山へ行った。山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な
砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作るために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。
↓
http://www.howitzer.jp/topics/box4/05.pdf
2、歩兵第三十三連隊の下関付近の戦闘と城内外掃蕩
十三日夜、この廃墟にひとしい町中に露営した連隊は、翌十四日から、第二大隊をもって城内の西北角一帯を、第
一、第三大隊をもって下関地区の掃蕩を開始した。中国兵の大半は逃走したが、まだ相当数の敗残兵が潜伏してお
り、獅子山砲台に立て籠って最後まで抗戦した中国兵は、この日武器を捨てて投降しはじめ、その数は約二百人に
達した。(P156-157)
赤星が、「14日に獅子山にいた」ことを示す資料は皆無!赤星証言の信ぴょう性は、完全に崩れた。 === 鬼頭久二証言の問題点まとめ ===
松岡本に登場する「第十六師団歩兵第三十三連隊 鬼頭久二」証言は使い物にならない。下記の【光華門】が問題。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/468.html
・・・我々中隊は、有名な脇坂の後を引き継いで、ずっと【光華門】の警備にあたってたんや。詳しい時間は覚えてい
ないけど、脇坂の後なんで十二月末ぐらいだったと思うな。
・・・私がいた所は確かに南京城内で、【光華門】の近くにいたと思う。南京戦の時、、時の宮さん〔朝香宮〕から命令
があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。
天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。
下地図を見ればわかるが、【光華門】の区域を担当していたのは第九師団。第十六師団第三十三連隊の担当は、下
関及び獅子山周辺。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/Battle_of_Nanking_1937.jpg
http://www.howitzer.jp/topics/box4/05.pdf
◇第16師団第33連隊(33i)の担当区域は下関-獅子山周辺(P238-239)
「南京戦史」でも、このように認識されていて、第十六師団が【光華門】を担当した記録はない。
http://www.howitzer.jp/topics/box4/04.pdf
二、第九師団と第十六師団との作戦地境が問題とされた。第九師団が戦場に早く到着したため歩三五の当初の攻
撃目標は中山門であったが、のち両師団の面目を考慮して中山門の三つの門のうち中央の門を両師団の作戦地境
と定められたのである。(P112)
その後の第十六師団の警備状況についても、鬼頭が所属してる第三十旅団は、こう報告されている。
http://www.howitzer.jp/topics/box5/06.pdf
○第十六師団「状況報告」 昭和十二年十二月二十四日
・・・南京【地区西部】警備隊(歩兵第三十旅団、独立機関銃第二大隊)は主力を南京に、一部を江寧鎮・・・(P577)
※南京【地区西部】は光華門の逆の地区(地図左下に方位)
http://oira0001.sitemix.jp/
「第十六師団歩兵第三十三連隊 鬼頭久二」が【光華門】にいたとする証言は、資料と食い違ってる。鬼頭久二証言の
信ぴょう性を確認できる資料がない。
肯定派の根拠は、こんなものばかり。与太話ばかりで、すぐボロが出る。K-KのHPには、鬼頭証言の全文が掲載されて
なかった。【光華門】は不都合だから、全文掲載しなかったのだろう。 === 高城守一証言の問題点まとめ ===
【創価学会青年部反戦出版委員会】出版「揚子江は哭いている」に登場する第六師団輜重第六連隊高城守一証言も
その信ぴょう性に大いに疑問がある。
問題となるのは、下記の「翌十四日昼前頃・・・糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、
物資を取りに出発した。」の部分。
◇高城守一証言(「揚子江は哭いている」より)
翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、
物資を取りに出発した。
昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、
下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。
揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。
そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わ
たす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい
数に思えた。
高城守一証言が真実なら、十四日の時点で輸送船が下関に来ていたことになるが、史実では、軍艦以外の貨物船が
南京までの運行を開始したのは、【十八日以降】のこと。
http://www.howitzer.jp/topics/box6/01.pdf
『太田供述』と『梶谷日記』との相違点
A 『供述書』によれば太田少佐は十五日に許甫鎮から貨物船で南京に到着したとあるが、『梶谷日記』
によれば、太田少佐は常熱から二十五日に到着している。海軍第十一戦隊の「保津」、「勢多」が揚子江
の烏竜山閉塞線を強行突破して下関に突入したのは十三日午後三時四十分であった。その後、烏竜山
閉塞線が排除され軍艦以外の貨物船が南京まで運行し始めたのは十八日以降のこととなる。(P17)
肯定派の拠り所となってる【証言モドキ】は、傍証がないものばかり。これが、無学歴集団肯定派の限界を示している。 === 太田供述の問題点まとめ その2 ===
太田供述書によると太田少佐は10月30日に常熟に司令部を設置している。
業務の内容は「揚塔掛として許浦鎮方面からの糧秣の揚陸作業の指導」。
つまり許浦鎮から糧秣が揚陸されていた事を示している。
しかし史実によれば常熟の占領は11月19日。
「揚陸作業の指導」や「糧秣の揚陸」以前に常熟への接近そのものが不可能。
「司令部の設置」など論外なのは言うまでもない。
さらに太田供述書によると太田少佐は10月下旬に司令部と共に許浦鎮に上陸した事になっている。
http://tv.81.cn/2014/attachement/jpg/site294/20141214/1803732bdeef15f7689842.jpg
しかし梶谷日記から部隊長、副官太田少佐、安達少佐の司令部3名が同時に上陸したのは「11月17日」と判明。
また太田供述書では糧秣を積んだ大図丸で15日朝許浦鎮を出発し15日夕に南京の下関に到着した事になっている。
しかし許浦鎮から下関までの距離は約285km。
大図丸の最強速力(公試運転で最善の条件で出しうる最高の速力)は11.5ノット。
播磨造船所進水記念絵葉書写真集
http://furusatoaioi.com/pdf/d100_harimazousen.pdf
空荷の理想的な条件でも許浦鎮から下関までの航行時間は約13時間。
12月の上海の日の出はおよそ7時、南京の日没は17時なので、例え大図丸が糧秣を積んでいなくても太田供述書に書かれた時間では到着は不可能な事が判明。
さらに史実では、軍艦以外の貨物船が
南京までの運行を開始したのは、【十八日以降】のこと。
http://www.howitzer.jp/topics/box6/01.pdf '
下の文を読んで「ハーグ陸戦条約の規定を中支那方面軍軍律に準用する」と読解するバカは日本人ではない。↓
中支那方面軍軍律
第一条 本軍律は帝国軍作戦地域内に在る帝国臣民以外の人民に之を適用す
<但し中華民国軍隊又は之に準ず軍部隊に属する者に対しては陸戦の法規及慣例に干する条約の規定を準用す>
上の但し書きの中は、
<ハーグ陸戦条約の規定を ≪中華民国軍隊又は之に準ず軍部隊に属する者に≫ 準用する>、としか書いていない。
これが中卒アスペ集団肯定派の読解力の現実。↓
(中卒アスペ肯定派)
482 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 19:55:22.02 ID:QBWyvbil0
つまり、ハーグ陸戦条約の規定を【【【中支那方面軍軍律に】】】準用するということ。
チョンモメン肯定派どもが日本人ではないのは確実だね。↓
http://seesaawiki.jp/w/nankingfaq/
南京事件FAQ編集者名簿
タラリ Apeman ja2047 K-K pippo Queso 青狐(bluefox014) ゆう トロープ
さっさと「ごめんなさい」して取り消さなければ、延々と晒すぞwww 前スレ>>700
バカw 究極のバカw
>お前のキチガイ解釈では、「中支那方面軍軍律」は主語ではなく【間接目的語】になってしまってるじゃねーかよ?
何が【間接目的語】だ? わけのわからんことを何回も書いてw 馬鹿の一つ覚えか?w
「つまり、ハーグ陸戦条約の規定を中支那方面軍軍律に準用するということ。」、これの
解釈は「条文の読み方」の定義に基づいていると、前に何回も書いたぞ。
都合の悪いことは、すぐに忘れるのか?
基本的に「条文の読み方」も一般の辞書も、ほとんど同じだ。(下記、資料1資料2)
(準用の定義、資料1から)
ある事項(a)について定める法令の規定(A)を → ハーグ陸戦条約の規定を
これと似た別の事項(b)に → 中支那方面軍軍律に
借用して当てはめること → 準用するということ
つまり、ハーグ陸戦条約の規定を中支那方面軍軍律に準用するということ。
ちゃんと準用の定義通りになっている。
主語は「本軍律」だと書いたし、おまえも「本軍律」を主語だとして何回も書いていた。
その証拠を、また貼って欲しいのか?
解釈は省略された主語を補足すると、ただし書は
「(本軍律は)中国兵に対してはハーグ陸戦条約の規定を準用する」となる。
おまえの書くように、間接目的語にはならない。主語は「本軍律」であって、「中華民国軍隊又は
之に準ず軍部隊に属する者(中国兵)」は主語にならない。中国兵では意味不明になる。
>キチガイすぎだろ、コイツは?
おまえがな。自分に都合のいいように器用に間違えてw おまえは、やっぱり日本人じゃないな。
何処かの既知外土人か? 哀れw (資料1)
▽「準用」
「準用」とは、ある事項(a)について定める法令の規定(A)を、これと似た別の事項(b)に
借用して当てはめることをいいます。本来bには適用されないAをbに当てはめるための
「準用規定」により、bについて定める法令の規定(B)が観念上成立します。
「条文の読み方」法制執務用語研究会 有斐閣
(資料2)
デジタル大辞泉の解説
じゅん‐よう【準用】
[名](スル)
1 ある物事を標準として適用すること。「社員の就業規則を嘱託に準用する」
2 ある事項に関する規定を、他の類似の事項に必要な変更を加えて当てはめること。
例えば、民法上の売買の規定を他の有償契約に当てはめるなど。 前スレ>>701
>文意を書かせたら、【中支那方面軍軍律に=間接目的語】にアスペ変換されてる
バカw 救いようのないバカw
ただし書は主語が省略されていると書いた。だから、主語を補って解釈する。
おまえも何回も「本軍律は」と書いていたのに、都合が悪くなると忘れるのか?
おまえが主張するように、主語が中国兵だとすると、ただし書が意味不明になる。
例えば、「中国兵はハーグ陸戦条約の規定に必要な変更を加えて適用する」、と解釈すると、
いったい何に(誰に)適用するんだ、ということになる。
また、中国兵はハーグ陸戦条約の規定に必要な変更を加えて適用するのなら、ただし書の
文章は「ただし中国兵はハーグ陸戦条約の規定を準用するので除外する」、というような
珍妙な文章にするしかない。これでは中支那方面軍軍律第一条に、ただし書を付け加えた
意味がない。これも文章としておかしいし、壊れている。
ただし書は、主に本文の内容に対する例外や制限を規定するものであるから(資料3)、主語は
本文と同じ「本軍律」だ。この場合、中国兵は主語にならない。
(資料3)
「ただし」
「ただし」は、主に@本文の内容に対する例外や制限を規定する場合に用いられるほか、
A本文の一部の内容についての追加的、説明的な規定をする場合、B解釈上の注意規定を置く
場合などに用いられます。
「条文の読み方」法制執務用語研究会 有斐閣 前スレ>>702
>延々と晒してやるわ。
おもしろいw 晒してみろ。おまえの馬鹿が延々と晒されるだけだ。
前回の結論で書いたが、歴史学者・研究者の3人(秦氏、吉田氏、原氏)が、(戦争犯罪をした)中国兵は
中支那方面軍軍律の適用対象だったという認識だ。それに国際法学者の佐藤和男氏も同じだ。
これで「中国兵は中支那方面軍軍律の適用対象だった」ということが確定した。否定派も認めざるを得ない。
おまえの完敗だ。
>下をどう読めば「ハーグ陸戦条約の規定を中支那方面軍軍律に準用する」になるんだよ?
ただし書は、省略されている主語「本軍律」を補って読めばいい。おまえも、何回も「本軍律」を補って
書いているが。
>こんなキチガイ読解をやらかす阿呆が日本人であるはずがない
そう、おまえがな。
ただし書を、「中国兵に陸戦法規慣例に関する条約を準用する。主語を「中華民国軍隊又は之に準ず
軍部隊に属する者」として問題なし。」と解釈するバカが日本人であるはずがない。
もう、ハチャメチャw 日本語が壊れてる。やっぱり何処かの国の工作員か?w
日本で工作員活動をするには、日本語をもっと勉強しなくちゃねw すでに手遅れかw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています