=== 高城守一証言の問題点まとめ ===

【創価学会青年部反戦出版委員会】出版「揚子江は哭いている」に登場する第六師団輜重第六連隊高城守一証言も
その信ぴょう性に大いに疑問がある。

問題となるのは、下記の「翌十四日昼前頃・・・糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、
物資を取りに出発した。」の部分。

 ◇高城守一証言(「揚子江は哭いている」より)
 翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、
 物資を取りに出発した。

 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、
 下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。

 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。

 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わ
 たす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい
 数に思えた。


高城守一証言が真実なら、十四日の時点で輸送船が下関に来ていたことになるが、史実では、軍艦以外の貨物船が
南京までの運行を開始したのは、【十八日以降】のこと。

 http://www.howitzer.jp/topics/box6/01.pdf
 『太田供述』と『梶谷日記』との相違点
 A 『供述書』によれば太田少佐は十五日に許甫鎮から貨物船で南京に到着したとあるが、『梶谷日記』
 によれば、太田少佐は常熱から二十五日に到着している。海軍第十一戦隊の「保津」、「勢多」が揚子江
 の烏竜山閉塞線を強行突破して下関に突入したのは十三日午後三時四十分であった。その後、烏竜山
 閉塞線が排除され軍艦以外の貨物船が南京まで運行し始めたのは十八日以降のこととなる。(P17)

肯定派の拠り所となってる【証言モドキ】は、傍証がないものばかり。これが、無学歴集団肯定派の限界を示している。