インパール作戦って実は、生存率高くね?
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史上最悪の作戦なんて言われるけど、太平洋の島の戦いなんて、ほとんど全滅のところ、ざらにあるぞ >>2
結構そこ
現場に行く気ないヤツがよく口が動く インパール作戦は将校の生還率は高い
参謀で戦士したのはゼロ
兵士は88%が死んでるけど インパール作戦
動員数 10万人
死者 3万人
なお、ナポレオンのロシア戦役は、脱走兵除けば、全滅に近い
しかし、日本人に言わせれば、ナポレオンは偉大な軍人らしい
ジャップの白人コンプ、半端ねえ >>6
過大評価のゴミは宮崎繁三郎
佐藤幸徳や柳田元三は過小評価、名将 >>8
インパール作戦の死者は72000
戦病死が40000以上あるぞ インパール作戦は一応後方連絡線は繋がっていたから
太平洋の戦いはほとんどが制海権を失って援軍も補給も撤退も不可能な完全に包囲されている状態からのスタートだからどう頑張ろうと玉砕するしかない
サイパンもフィリピンも沖縄も後退できないんだから全滅必至
インパールは連絡がついているある意味まともな戦いができたはずなのに兵站が最低の作戦してるから際立つんだろう 連絡線がつながっていたって…w
途中にはチンドウイン川があって、健康体じゃないと流されて死んでしまうし物資も輸送できんし
連絡は通信兵が持っていた無線だったし…。
インパールの無線兵の人が近所にいて、もっと話を聞いていれば良かったな。 ポートモレスビーもインパールも陸上補給がなってなさすぎる
特にインパールはポートモレスビー攻略で南海支隊が散々な目に遭った戦訓を大本営も南方総軍も丸無視で健忘症としか思えん
ガダルカナルなど太平洋の島嶼戦も悲惨だがあれらは一応補給する意思はあって護衛つたなく輸送船が沈められたという話でインパールは敵の妨害もないのに自然の前に補給が出来ませんとか兵要地誌以前の話だ
カンビュセスのエジプト遠征レベル 牟田口中将とインパール作戦に対する批判本は中身はみな、お決まりのほぼ同じ内容ですが、
定説化されたそれらは事実を歪曲しておりデタラメです。
1ヶ月程度でインパールを攻略するというこの作戦は、
さほど無謀な作戦ではなく、また作戦計画(補給を含めて)も十分に練られたものであり、
予定通りに普通に作戦を遂行していれば難なく成功していた作戦です。
このことは連合軍の司令官、参謀など当時の関係者の多くがそのような
見解の記録を残しており、日本での定説、評価とはまったく異なります。
作戦失敗の最大要因は、太平洋の対米戦線に全兵力を投入すべきだとする、海軍とそれを支持する
対米決戦派の勢力(反東条派)による妨害工作です。
これが原因で作戦開始が遅れ、兵力の減少、統帥の乱れ等によって、作戦は失敗しました。
連合軍側の見解では、師団を指揮した師団長(特に31師・佐藤、33師・柳田)らが
あまりにも消極的で進行を遅くさせ、そのために日本軍は勝てた作戦で負けに転じた
(わざと勝たせたとも)と評してます。
これは多数の連合軍関係者が同じ見解です。英国公刊戦史にも記載されてます。
その他にもインパール作戦では定説化された嘘が多数あります。
●補給を無視した、補給をしなかった、険しい道なき道を進行したという定説の嘘
補給が無かったのは参加した三個師団のうち、31佐藤師団だけです。
他の2個師団には補給されてます。
また33師団は連合軍の物資集積拠点をほぼ無血で確保し有り余る物資(武器、弾薬、車両、燃料、食料)
を得ており、もし補給なしでも物資を持て余しています。
(シンゲルで師団2か月分の物資を確保したとの記録があります)
15軍の作戦計画である期間の1ヶ月程度、長くても2ヶ月程度では補給はまったく問題ないです。
(作戦が延長され4ヶ月にも及んだのは、参謀本部、南方軍の判断で牟田口の判断ではありません)
補給が無かったのは31師・佐藤師団だけです。
しかしこの部隊は敵の背後へ回り込むという、日本軍がもっとも得意とした迂回、浸透戦術の部隊です。
こういった特殊な任務の部隊は、普通、作戦が終了するまで補給が無いのは当たり前です。
佐藤師団長も、そんなことは百も承知だったはずです。
実際に15軍の想定した1ヶ月は物資に何の問題もありませんし、
2ヶ月間は問題無かったわけですから、補給が尽きた責任は15軍・牟田口の責任ではありません。
作戦延長の判断は参謀本部によるものです。
(参謀本部の判断は中国からB29で日本本土を空爆するという連合軍のマッターホルン作戦を阻止すべく発令された
大陸打通作戦との兼ね合いから、ビルマに米支軍を引き付ける意味でインパール作戦がさらに重要となったため)
(またチャンドラボースも作戦中止に猛反対したため、日本軍のインパール作戦中止の判断が遅れました)
進行経路は険しい山岳地帯の道なき道を進行した、という話も嘘です。実際には道路が完備されています。
33師団、15師団の進行経路は全てトラックが通れる道路が整備されてますし、
もっとも険しいとされた佐藤31師団の進行経路でさえも、実は連合軍側によってジープ道が整備されており
それを利用し道なき道では無かったことが判明してます。
牟田口15軍はそれらを綿密に調査した上で作戦を立てています。
●参謀ら皆が無謀だと反対していたという嘘。
参謀らが反対したのは、以前の計画のウ号作戦です。
これはインド、アッサム州を攻略するという作戦であって、
それより遥か手前のインパールを攻略するインパール作戦とはぜんぜん別物です。
話がスリ変えられています。 ●白骨街道の嘘
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団(山内師団)だけです。
31師団(佐藤師団)と33師団は飢餓に苦しんでいません。
また餓死者が多数という話も嘘です。
飢餓に苦しんだ15師団でも、餓死という記録はまったくありません。
負傷兵が撤退をあきらめて自決したのがほとんどです。
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団の特に60連隊(松村連隊)だけです。
しかしこの白骨街道の話の当事者である60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)は驚くべき内容です。
60連隊が悲惨な撤退を強いられた原因は、佐藤師団の抗命、無断撤退が原因であるとして、
佐藤師団を激しく非難した内容です。牟田口に対する批判は一つもありません。
60連隊が飢餓で苦しむ2ヶ月の撤退を強いられた要因は(白骨街道となった)
佐藤師団(烈師団)の無通告撤退、撤退時に集積所の食料を強奪したためだと明確に書かれ、
31師、烈師団を「劣師団」だと激しく非難しています。
インパール作戦の資料として日本で最も価値のある一次資料は
この60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)で間違いありません。
連合軍側の資料では、スリム中将の「敗北から勝利へ」です。
全てのインパール作戦本は、この二つの資料をソースとして書かれているはずです。
奇しくも両資料とも、佐藤師団に対する激しい批判が共通しています。そこに重点が置かれています。
牟田口15軍に対する批判はまったくありません。
しかしどの書籍にも、この肝心要の両資料の一番言いたかったことが作為的に削除、改ざんされてきました。
(スリム中将の佐藤批判を、牟田口批判であるかのように改ざんされてます)
他にも定説化されたインパール作戦批判は、事実の歪曲が多数あり突っ込みどころが満載です。
とても書ききれません。
なおこれらの貴重な情報は歯科医師、軍事研究家であった故・大田 嘉弘氏の功績です。
氏が始めてその全貌を書籍で明らかにしました。
戦後の日本の権力者は、陸軍の一部の人物を悪党に仕立てる手法で、海軍や政党、マスコミの戦争責任を
国家ぐるみでゴマカしてきました。それに迎合してきた文化人や学者、マスコミのほうこそが、
日本の悪しき体質を引き継いでいると言えるでしょう。 牟田口の指揮は正しく佐藤がアホで、あと一歩で日本軍は勝利していたと
イギリスでは牟田口の作戦指導は評価されている。
■アーサー・スウィンソン大尉『コヒマ』
牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。
佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
■スチルウェル中佐(フーコン方面軍作戦主任)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、
一旦遠くカルカッタ方面まで退却して後図を策するの是非を、
マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
■アーサー・パーカー中佐の書簡(英第四軍団参謀)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
■マウントバッテン大将の報告書(英軍東南アジア総司令部司令官)
「英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。」
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、そのころ、
まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。
ディマプールで補給を済ませれば、日本軍はインパール道路をコヒマで切るのと同じような有効さで切ることが出来る。
さらにもっと重大な全アッサム補給戦の切断ができ、対支援助も北部方面への補給も不可能になる」
■第14軍司令官スリム中将『敗北から勝利へ』
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残し、
師団の主力を持って猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。 ★インパール作戦が失敗したのは、佐藤がアホだったから
連合軍を利する無能の佐藤は、殺すなと
連合軍が特命www
全くの話し、ストップフォードのごときは、英空軍が佐藤の本部を発見し、それを爆撃しようとしたとき、
爆撃しないように特命した事について話してくれました。
それは佐藤がもし殺されたら困る(もっと利巧な者が佐藤の代わりになってくるからだ)
とストップフォードは言ったそうです。
第四軍団参謀アーサー・バーカー中佐
私は、私の部下の不屈の勇気によって、敵のコヒマ侵入の能力を過小評価
した私の過誤の重大な影響から救われた事を前に述べたが、それが必ず
そうなるためには敵の局地の指揮官の愚鈍を必要とした。
後になってそれが明らかになったとき、佐藤司令部への航空攻撃を計画している
熱心な英空軍の幾人かの将校を見出したことがあった。
彼らの意図する犠牲者を私は最も頼りとなる将軍の一人として考えていたので、
彼らにその計画を放棄すべきであることを私が勧告したとき、彼らは驚いた。
第14軍司令官スリム中将 白骨街道の当事者、飢餓で苦しんだ当事者らが、牟田口ではなく佐藤師団のことを
どれほど恨んでいたか、その一部を紹介します。
『二つの河の戦い―歩兵第六十聯隊の記録 ビルマ篇』
「隣接友軍の無通告退却のために、直接の被害者となったわが右突進隊は、腹背の敵から挟撃されて、
推定260名以上に及ぶ犠牲者を出す運命の日となった。」
「損害の主因が戦場のルールと道義を無視した隣接部隊の友軍にあったという紛れも無い事実によって、
戦後なお敵に対するよりも、さらに激しいある種の感情を捨てきれない宿命を背負っている。」
「同じ戦場で同じ目的のために、死力を尽くしあってきた同胞に対し、ここに問題を提起して
新たな対立感情を起こすことは回避したいと思うし、この記録の目的とするところではないが、
「わが連隊の記録」への投稿者の戦友のうちには、この間の感情に対し、激烈な非難をこめた
ものが少なく無い異常さがあった。」
「歴史が単に局外者の推理やエゴイズムによって、創作されるとしたならば、それは恐るべきことである。
しかもこの形式が、ひとたび活字となった場合には公刊、非売、限定等の形式に関わらず、また内容の
当否は別として、既成事実化し、真実は葬り去られるのが世の常である。」
※これは佐藤師団長を美化した高木氏の小説に対すする反論だと思います
白骨街道の当事者らはみんな、牟田口ではなく佐藤師団長を激しく非難しています
『6月下旬、私は師団輜重連隊の本部と行動をともにしていた。
宿営地のそばのフミネ方面に通ずる道路をガヤガヤと大勢が通る足音に目覚め、天幕外に飛び出して驚いた。
見ると松明をかざした野盗に見まごう一団が歩いている。』
『その後、輜重連隊にも転進命令が下り、フミネに到着したが、そこには一粒の米も無かった。
耳に入ったのは6月下旬に烈の兵隊の襲撃を受け、否応無しに少ない糧秣を奪われたという情報であった。
友軍である烈の徒党を組んだ襲撃の情報は信じたくなかったが、タナンに向かう撤退行軍の苦難の日々が重なるにつれて、
烈の兵隊に対する憎しみの感情が起るのは、やむを得なかった。
戦後20数年を経た今日でさえ、捨てられた弁当箱にご飯粒が残っているのを見ると、
あの山の中で、この米粒があったらと思うと同時に、「あの時の米は烈に奪われたのだ」という思いが、
頭をかすめてくるのである。』 定説化されてきた牟田口批判、インパール作戦批判は
・無謀な作戦。初めから勝算が無かった。この作戦はやる意義、必要があったのか?
・部下や参謀らが無謀だと反対したが、聞く耳を持たず強行した。
・戦線を拡大しすぎている。補給のことを考えてない。
・防御を固めるべきなのに、攻勢に出た。
・勝算が無くなっても作戦を中止せず被害をひたすら拡大させた。
・そもそも牟田口は司令官の器ではない。
だいたいこういった内容でしょうか。
しかしこうした批判内容は、対米戦争で攻勢しまくって戦線を拡大し
結果、どこも補給が尽きて各地で玉砕を繰り返した
海軍主導の作戦と山本五十六の作戦指導こそが批判されるべき内容
そのまんまではないでしょうか?
しかしなぜか山本五十六は名将だと賛美されています
海軍側の太平洋戦線の作戦は、どんなにバカな作戦をやっても
だれも批判されない。
東部ニューギニアなんか20万もの兵力を送り込んでおきながら
補給なんか一粒の米も武器も、全く送ってません。
それで戦えとひたすら命令を出しているだけ、というのが
当時の日本軍です。
マスコミもそうしたバカな戦域の作戦を煽ってました。
こうした他の愚かな作戦が批判されず、だれも責任を問われず
インパール作戦だけが批判され、牟田口だけが批判されるのは
小学生でもおかしいと思うでしょう。
そうした出版社の意向に、ひたすら迎合しただけの書籍を出すような学者や作家が
人様を批判する資格があるんでしょうか? インパール作戦は国家方針「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に沿った戦いです。
海軍の暴走によって時期は遅れ、規模を縮小し陸軍単独作戦となってしまいましたが、
太平洋戦線の劣勢な状況を海軍側から知らされて無い東条首相が
この作戦を支持したのは当然の流れといえます。
当初予定した独伊と連携したインド、中東方面の作戦を西亜作戦と言います。
海軍ではインド洋作戦です。
大儀はビルマ、インド、イランの大英帝国からの独立支援です。
アジア独立を旗印にしたこの方面の作戦は、英軍に打撃を与えるだけでなく、
それ以上にソ連軍が窮地に追い込まれます。
スターリングラードの戦いで、補給の要衝であるペルシア回廊とバクー油田を
ソ連が失えば、独ソ戦の展開は大きく変わっていたでしょう。
ソ連軍は実は補給路が非常に限定されており、決定的な弱点がありました。
さらに日本軍が日本海を封鎖してシベリア鉄道の補給路を遮断すれば
ソ連軍の敗北はもはや決定的です。
ソ連が停戦を申し出た場合、単独講和を認めない連合軍の規定によって、
アメリカの戦争継続は不可能になりますので、戦争はこれで終結です。
アメリカ国民を刺激さえしなければ
大東亜戦争で日独伊が勝つのは、さほど難しくありません。
「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」のとおりに
やっていれば良かったのです。
こういった主張を始めて行ったのは故佐藤晃氏です。
ハワイを攻撃した山本五十六を愚将だと評し、
インパール作戦で陸軍は勝てたという、その衝撃的な内容は、
当時はトンデモ本扱いされていましたが
徐々に認められ、今では保守派ではこの主張が完全に支持されています。 要するに日本が大東亜戦争で勝つためには
ドイツのスターリングラードの戦いに合わせて
インパール作戦のようなインド方面の作戦をやり
海軍はインド洋作戦を実施し、ペルシア回廊の遮断、ドイツはバクー油田の攻略
政略としてビルマ、インド、イランなどアジアの独立支援
さらには日本海の封鎖によりシベリア鉄道のソ連軍補給路の遮断。
これだけやってれば日本は勝てたのです。
これは当時の日本の主導者も、ちゃんとそれを理解してましたし
現に「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」でもそうなってます。(対ソ宣戦布告を除いて)
単独講和の禁止規定によって、ソ連またはイギリスの脱落でWW2は停戦に持ち込めます。
当然こういった日本側の意図をチャーチルもルーズベルトも
百も承知で、連合軍側は相当な危機感があったと思います。
連合軍側は負けることも想定していたと思います。
そこで米軍が打った手は、ドーリットル空襲とガダルカナル攻略です。
この作戦は米軍にとって戦略的な意味がまったく無く多大な犠牲を覚悟した
バカな作戦で、軍から相当な猛反対されたと思うます。
しかしルーズベルトは、迷うことなくこの大博打作戦を早期に打ってきました。
そして結果は、連合軍の思惑通り大成功しました。
日本の海軍は愚かにもこの餌に反応し、全軍でこの太平洋の陽動作戦に食いついてしまいました。 むちゃくちゃw
前線で戦っていた兵士に、英軍は「牟田口は提示に退庁して、旅館〇〇に乗り込み。芸者□□と朝まで…」
なんて放送していたんだw
やる気がなくなるなくなるw >>22
このコピペで一番わけ分からんのが連合国宣言の単独不講和の規定があるから英ソのどっちかが脱落したら全連合国が右へ倣えで停戦するという発想
第一次世界大戦のロンドン宣言で英仏露は単独不講和を誓った
ロシアは革命で脱落ブレスト=リトフスク条約で単独講和したが当然のように英仏連合国は戦争を継続した 西亜作戦自体が他力本願的なゴミ作戦。
秋丸機関はガイジの集まり。
支持する林千勝は異常者w 仮に佐藤幸徳がゴミだったとしても牟田口がゴミなのはかわりない。
要はインパールは池沼オールスター軍団だったw
寺内とかいう役立たずの猿もいたぐらいだしなw もっというと陸海軍の大東亜戦争時の指導者共はゴミばかりだったということ
昭和天皇もそこの部分を示唆されている。
東郷なら真珠湾奇襲とかアホみたいなことやらなかっただろうしな >>26
インパール作戦で実際に日本軍と戦った連合軍側の司令官、参謀らは皆が
牟田口の考えどおりに攻めていれば、日本軍は勝てたとの見解で一致しています。
こういった情報は日本ではまったく報道されず黙殺されています。
アーサー・スウィンソン大尉(英軍第二師団参謀・コヒマ戦線)『コヒマ』
牟田口の方が、実際には正しかったのである。何といっても正しかったのは間違いないのである。
これがナポレオンの言った「機宜」というものであろうか。
佐藤師団長が一ヶ月の間に、ディマプールを占領しさえしていたら、英軍は懸崖に立たされていたであろう。
スチルウェル中佐(米支軍作戦参謀・北部ビルマ戦線)
「英軍は完全に奇襲された。準備半途を衝かれ、奇襲は決定的なものであった。
首府ディマプールには予備団も無く、日本軍があのまま 一押しすれば攻略は易々たるものであったのだ。
一方に、インパールの驚きは想像以上であって、守将ジファード大将の如きは、一旦遠くカルカッタ方面まで
退却して後図を策するの是非を、マウントバッテン総師に伺いを立てるほどの驚きであったのだ」
アーサー・パーカー中佐の書簡(インパール防衛の英印第四軍団参謀)
「もし日本の連隊がディマプールに突進しておれば、インパールも日本軍によって占領されていたでありましょう。
なぜなら、佐藤師団がディマプールに突入していたら、英第四軍団はインパールから撤退していたからであります。」
マウントバッテン大将の報告書(連合軍・東南アジア戦域軍・総司令官)
「英印軍に非常に幸運だったのは、日本軍が驚くほど弾力性を欠いていたことだ。」
「すぐに第二目標であるディマプール攻撃に移っていたならば、
そのころ、まだ兵力の集中できていなかった連合軍はこれを防ぐ方法は無かった。 」
スリム中将(この戦い全般を指揮した連合軍第14軍司令官)『敗北から勝利へ』(英国公刊戦史)
日本の軍司令官のなすべき全ては、コヒマを妨害するため一支隊を残置し、師団の主力を持って
猛烈にディマプールを衝く事であった。
幸いにも彼(佐藤師団長)はほとんどそれをとろうとしなかった。
佐藤中将は、私の遭った日本の将軍中で最も消極的であった。
ストップフォード中将(第33軍団司令官・ディマプールで英第二師団等を指揮)
「このときもし日本軍がコヒマからディマプールに果敢に急進していたのなら英国に勝利はなかった。(作戦全体において)」
デリク・タラク准将(ウィンゲート部隊参謀長)(連合軍を勝利に導いた最大の功労者)
彼(牟田口)はその最後の作戦(インパール作戦)を除いて、その主要な戦闘の全てにおいて勝利を収めている。
インパールの戦いはワーテルローの戦いと同様に「非常に際どい」時期があった。
しかし、牟田口将軍はナポレオンの場合よりもはるかに優勢な敵を相手にして戦ったのである。
私は彼が生前、その戦いぶりについて日本国民から評価されたことを知って、うれしく思う。 >>26
このように実際に現地で連合軍として戦っていた
多数のそうそうたる人物が牟田口の戦いを評価している
おまえなんぞの感想文とはわけが違う。 重要な事は、海軍主導の太平洋戦線の全ての作戦が
インパール作戦よりも、愚劣でバカな作戦ばかり
だったということ。
そのバカな作戦を賛美していた、海軍省記者クラブの連中(山本五十六の応援団)と
権力者に迎合した商売作家ら(阿川や司馬、半藤など)が
牟田口批判を広めてきたと言う事実。
この汚い連中は文芸春秋とかがその中心
今年の8月15日にも、5ちゃんで大量の誹謗中傷を実施した。
(ニュース速報+で)
山本五十六の信者は
実に汚い連中 イギリス人の評価とかw池沼の言うことは違いますなぁw
日本人の評価にしろよw >>31
おい五十六信者の痴呆
なにか一つでも反論してみw 山本五十六のアホさえこの世に存在しなければ
インパール作戦は成功してるだろうし
日本は戦争で勝てていた。
というより戦争は起こらなかった。 海軍ガー君は海軍のダメさに注力すればいいのに海軍ガーそれに比べてインパールを立案した牟田口はーと書くからグダグダになる
真珠湾は下の下 御前会議の絶対国防圏を無視 ブーゲンビル航空戦や台湾沖航空戦の大虚報 天王山のフィリピン決戦で勝利条件はマッカーサーの上陸軍の撃破にあるのに輸送船攻撃はしとうない艦隊決戦やりたいなどと幼児のようなわがまま言った上なんの戦果もあげなかったレイテ沖海戦 一方こちらの兵員輸送船は片っ端から沈められ海没した陸兵は数知れず 南方資源輸送船の護衛すら特にできず帝国をジリ貧にさせる
海軍のダメさは枚挙にいとまはない が海軍のダメさと牟田口がダメなのとはべつにトレードオフではないんだから海軍ガーに専念したら >>8
プロイセン軍だのオーストリア軍だの寝返るというか御免なさいしてロシア軍に駆け込んでいるのが結構おるよ。 三個師団全滅で12万近くの犠牲者って
一個師団って多くて二万くらいだろ。
残りはどこの兵隊だ? Dデイが予定(1944年5月)が一ヶ月遅れて、米英はソビエトにますます頭が上がらなくなった。
ドイツ軍はとっくに弱りきっていたので、Dデイ開始が遅れたのは日本軍の影響でしかない。 ★インパール作戦は無謀な作戦ではない。
1ヶ月程度でインパールを攻略するというこの作戦は、
さほど無謀な作戦ではなく、また作戦計画(補給を含めて)も十分に練られたものであり、
予定通りに普通に作戦を遂行していれば難なく成功していた作戦です。
このことは連合軍の司令官、参謀など当時の関係者の多くがそのような
見解の記録を残しており、日本での定説、評価とはまったく異なります。
作戦失敗の最大要因は、太平洋の対米戦線に全兵力を投入すべきだとする、海軍とそれを支持する
対米決戦派の勢力(反東条派)による妨害工作です。
これが原因で作戦開始が遅れ、兵力の減少、統帥の乱れ等によって、作戦は失敗しました。
連合軍側の見解では、師団を指揮した師団長(特に31師・佐藤、33師・柳田)らが
あまりにも消極的で進行を遅くさせ、そのために日本軍は勝てた作戦で負けに転じた
(わざと勝たせたとも)と評してます。
これは多数の連合軍関係者が同じ見解です。英国公刊戦史にも記載されてます。
その他にもインパール作戦では定説化された嘘が多数あります。
●補給を無視した、補給をしなかった、険しい道なき道を進行したという定説の嘘
補給が無かったのは参加した三個師団のうち、31佐藤師団だけです。
他の2個師団には補給されてます。
また33師団は連合軍の物資集積拠点をほぼ無血で確保し有り余る物資(武器、弾薬、車両、燃料、食料)
を得ており、もし補給なしでも物資を持て余しています。
(シンゲルで師団2か月分の物資を確保したとの記録があります)
15軍の作戦計画である期間の1ヶ月程度、長くても2ヶ月程度では補給はまったく問題ないです。
(作戦が延長され4ヶ月にも及んだのは、参謀本部、南方軍の判断で牟田口の判断ではありません)
補給が無かったのは31師・佐藤師団だけです。
しかしこの部隊は敵の背後へ回り込むという、日本軍がもっとも得意とした迂回、浸透戦術の部隊です。
こういった特殊な任務の部隊は、普通、作戦が終了するまで補給が無いのは当たり前です。
佐藤師団長も、そんなことは百も承知だったはずです。
実際に15軍の想定した1ヶ月は物資に何の問題もありませんし、
2ヶ月間は問題無かったわけですから、補給が尽きた責任は15軍・牟田口の責任ではありません。
作戦延長の判断は参謀本部によるものです。
(参謀本部の判断は中国からB29で日本本土を空爆するという連合軍のマッターホルン作戦を阻止すべく発令された
大陸打通作戦との兼ね合いから、ビルマに米支軍を引き付ける意味でインパール作戦がさらに重要となったため)
(またチャンドラボースも作戦中止に猛反対したため、日本軍のインパール作戦中止の判断が遅れました)
進行経路は険しい山岳地帯の道なき道を進行した、という話も嘘です。実際には道路が完備されています。
33師団、15師団の進行経路は全てトラックが通れる道路が整備されてますし、
もっとも険しいとされた佐藤31師団の進行経路でさえも、実は連合軍側によってジープ道が整備されており
それを利用し道なき道では無かったことが判明してます。
牟田口15軍はそれらを綿密に調査した上で作戦を立てています。
●参謀ら皆が無謀だと反対していたという嘘。
参謀らが反対したのは、以前の計画のウ号作戦です。
これはインド、アッサム州を攻略するという作戦であって、
それより遥か手前のインパールを攻略するインパール作戦とはぜんぜん別物です。
話がスリ変えられています。 ●白骨街道の嘘
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団(山内師団)だけです。
31師団(佐藤師団)と33師団は飢餓に苦しんでいません。
また餓死者が多数という話も嘘です。
飢餓に苦しんだ15師団でも、餓死という記録はまったくありません。
負傷兵が撤退をあきらめて自決したのがほとんどです。
撤退時に飢餓で苦しんだのは15師団の特に60連隊(松村連隊)だけです。
しかしこの白骨街道の話の当事者である60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)は驚くべき内容です。
60連隊が悲惨な撤退を強いられた原因は、佐藤師団の抗命、無断撤退が原因であるとして、
佐藤師団を激しく非難した内容です。牟田口に対する批判は一つもありません。
60連隊が飢餓で苦しむ2ヶ月の撤退を強いられた要因は(白骨街道となった)
佐藤師団(烈師団)の無通告撤退、撤退時に集積所の食料を強奪したためだと明確に書かれ、
31師、烈師団を「劣師団」だと激しく非難しています。
インパール作戦の資料として日本で最も価値のある一次資料は
この60連隊の公式連隊記録(二つの河の戦い)で間違いありません。
連合軍側の資料では、スリム中将の「敗北から勝利へ」です。
全てのインパール作戦本は、この二つの資料をソースとして書かれているはずです。
奇しくも両資料とも、佐藤師団に対する激しい批判が共通しています。そこに重点が置かれています。
牟田口15軍に対する批判はまったくありません。
しかしどの書籍にも、この肝心要の両資料の一番言いたかったことが作為的に削除、改ざんされてきました。
(スリム中将の佐藤批判を、牟田口批判であるかのように改ざんされてます)
他にも定説化されたインパール作戦批判は、事実の歪曲が多数あり突っ込みどころが満載です。
とても書ききれません。
なおこれらの貴重な情報は歯科医師、軍事研究家であった故・大田 嘉弘氏の功績です。
氏が始めてその全貌を書籍で明らかにしました。
戦後の日本の権力者は、陸軍の一部の人物を悪党に仕立てる手法で、海軍や政党、マスコミの戦争責任を
国家ぐるみでゴマカしてきました。それに迎合してきた文化人や学者、マスコミのほうこそが、
日本の悪しき体質を引き継いでいると言えるでしょう。 >>1
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ポチどもよ(メディア、政治家、企業)
混血を促進させて日本を南米のような混血だらけの国にさせて実質滅亡の状態に追い込むユダー
混血を増やすために英語学習を奨励して外人との結婚を容易にさせるユダー
また、サニブラウンなどのハーフのスポーツ選手を持ち上げたり、
テレビでは容姿端麗な白人やハーフを用いたりして、
外人やハーフに対するジャップの心証を良くし、憧れを抱かせるユダー
ジャップが混血との結婚や国際結婚をしないようにしなければ、
やがて肉体的や外見的に劣るジャップは外人や混血の中に埋没し、イジメられたりモテなくって結婚出来なくなり根絶されるユダよqqq
それに混血や外人がいるコミュニティーでは混血や外人の祖国に対しての批判的な言論が極めて難かしくなるユダからユダたちの根城の白人国家に対するジャップの恨みの拡大を抑える事が出来るユダよqqq
純血のジャップが根絶されたり減ったりすれば、皇室への忠義心や殉国する覚悟のある世論が支配的になることはなくなるユダから、大日本帝国の時のようにユダたちに歯向かうような正義の国家に二度と日本がならないようにさせる事ができるユダよqqq
行け!ポチども!総員出動せよ!6457 だれよりも日本の事を考えていた真の愛国者
それが山本五十六の実像に他ならない。
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ヽ〃 真珠湾奇襲プシュ!
( _)
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/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
/ ゝ |
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/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-| ハァハァ…
/ ) (彡 |
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山本五十六を賛美して毎回射精w
ホラ吹きジジイ 自称歴史探偵団www
半藤一利wwww
利権勢力と癒着した汚い日本のホラ吹き三馬鹿評論家
半藤 一利
保阪正康
秦郁彦
こいつらに、だまされてはいけない な?だつおがスレに住みつけばコピペだらけになったろ?
もうお終いなんだよ。 インパール作戦ことウ号作戦はそもそも作戦目的が曖昧模糊としている
作戦目標は大陸指第1776号の通りインパール付近の東部印度の要域を確保となっている インパール周辺を何のために確保するのか これが全く明確ではない
wikiでは援蒋ルートの遮断を目的に云々とあるがこれは少しおかしい 援蒋のビルマルートは緒戦で既に遮断済であるインパール作戦構想の1944年の時点では援蒋ルートはアッサムから昆明へのいわゆるハンプ越えの空輸が主体になっている これは日本軍もはっきり理解しており支那派遣軍総司令官の畑元帥もそう書き残している また建設中のレド公路はインパールよりずっと北にある
つまりインパールを攻略しても援蒋ルートの遮断には何ほども寄与しない 遮断をするなら出発地のアッサムを攻略するかインパール攻略後そこに航空軍を進出して輸送機を攻撃するかだがそもそもそんなことができる空軍力はビルマ方面軍にはない 牟田口中将には英印軍のビルマ侵攻前にこちらが攻勢に出て出鼻を挫く いわゆる攻勢防御の考えがあったと言う話もある
だが攻勢防御なら出鼻を挫いて時間を稼いだら撤収して防衛に当たることになるがインパールを占領さらに余勢をかってアッサムへとかそれはもう攻勢防御ではなく立派な侵攻作戦である
成功するなら別にそれもありと思うが高々3個師団でしかも航空支援なしで倍の英印軍と一大航空軍の守るアッサム攻略とか誇大妄想にも程があるだろう >>44
その批判はそのまんま
海軍の作戦に当てはまるんだが? 海軍ガー君は海軍の批判に注力しろ
陸軍への批判と海軍への批判は両立する
陸軍を貶しても海軍を持ち上げてるわけじゃないから >>43
>インパール周辺を何のために確保するのか これが全く明確ではない
ビルマ防衛のために決まってるじゃないか。
ここを日本が確保している限り英軍のビルマ奪還は不可能。
またここでインド国民党軍の旗揚げも重要な目的。
政略的にも戦略的にもインパール攻略は必然。 インパールを押さえたとしても海沿いのアキャブからラングーンを突かれるとか雲南から侵攻するとかいくらでも侵攻ルートはあるんじゃないの
大体空軍なしでいつまでもインパールを保持できるのか
この時期には印支方面の英米の航空戦力は段違いに強化されている 軍の作戦でありながら軍司令部が前線から400kmも後方にいて軍だけが前線にいるというのは指揮官先頭の日本軍の面汚しと言える
ガダルカナルでは百武軍司令官がニューギニアでは安達軍司令官が軍と共にあった
山下方面軍司令官も牛島軍司令官もおよそ帝国の軍司令官達は軍を指揮掌握して戦ったのである
牟田口中将がやっていたのは大本営参謀本部と同じく遥か遠方から督戦していただけである
海軍で言えば山本がミッドウェー海戦で遥か後方から大和でノコノコついてくるとかレイテ沖海戦で豊田司令長官が日吉のおかのうえで一大決戦を眺めてると言った醜態と同じである >>1
そう言う事を言うから牟田口が付けあがるんやで 日本軍はインパールで敗れた、しかしながら聯合軍のDデイ計画を狂わせる効果があった!
インパールの失陥は英軍にとって致命的な損失であり、連合軍にたいしてもはかり知れない打撃をあたえるであろう。
その時(一九四四年三月〜七月)、英国民の関心はドイツとの戦いに集中し、ドイツ軍の英本土爆撃、
連合軍のノルマンディ上陸作戦(六月六日)に心を奪われ、遠いアジアでの戦いは余り問題にされなかったが、
スクーンズ中将は当面の責任者としてインパールの持つ政略上、戦略上の重要性はどれほど重視しても
重視しすぎることはないと考えていたという。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/inparl/biruma2.htm
テヘラン会談ではDデイは5月ということになっていたのに、インパール作戦で遅れた! >>52
D day が1月遅れたとしてなんか日本に有利な影響でもあったんか >>52
大島駐独大使が送ってくるドイツの情報が連合軍に筒抜けでお陰様で連合軍の反攻は一気に早まった説がありそれからすると1月など大した挽回にはなってないな 独ソ戦もオスとリッチ進攻も教えてもらえなかったぞ、大島。 >>57
ジークフリード線の視察をさせてもらいその配備状況とかを本国に伝えたりしたんだよ そうした情報が連合軍に丸ごと筒抜け それか、モンティが空挺でしくじった後始末の時間取られた方がでかいぞ。 戦争は錯誤とミスの連続だからそういう話は連合国と枢軸双方にいくらでもあるな 1945年3月ドイツ終局段階
参謀総長だったグデーリアンは会議の席上でヒトラーと大喧嘩をやらかしてクビになった もはや参謀総長が誰だろうとどうにもならん状況だがそれでも後任のクレープスより遥かにグデーリアンが上であり グデーリアンであればベルリン陥落が数日遅れたかもしれない
このヒトラーとの大喧嘩であるが会議の前にグデーリアンは日本大使館で昼飯をご馳走になってたのだがその際大島が酒を勧めたらしい
酒の入ったグデーリアンはタガが外れ今までの鬱憤を一気に噴き出してヒトラーとやり合ってしまったのである
このように大島中将ホントはろくなことをしないのである しかしグーデリアンも良く命あったな。
普通なら良くて収容所おくりだろ。 ヒトラーはルントシュテットとかマンシュタイン グーデリアンのようにヤイヤイ噛み付くタイプは意外と嫌いじゃないらしい まあ言ってる事の筋は通ってるし
ヴァイトリングもコイツは銃殺だーからベルリン防衛司令官にしてみたり >>8
ナポレオン戦争は、フランス革命の余韻があって、
「農奴から解放される小作農」の士気は高かった。
他方でインパール作戦。
東條首相からの「インド解放」の掛け声あっても、
赤紙徴兵で引っ張って来られた日本の将兵達は、雨の降り頻る遥かなアウェーの戦地で、
インド独立の為に、どんだけやる気があったのかねえ。
そりゃ、東條首相をおだてるのが上手な、チャンドラ・ボース氏以下、
ホームのインド国民軍の皆様は、士気高かったと思うけど。 >>1
南方戦線は逃げる船も僅か
撤退命令を出す指揮官も僅か
大体の命令が機関銃や戦車に手榴弾とバヨネットで突っ込め
なお、南方の米英戦車は軽戦車であり手榴弾踏ませれば運が良ければ動けなくできたらしい
インパールは撤退命令が出た
この差が大きい >>54
戦略上の重要性はどれほど重視しても重視しすぎることはない! >>57
大島はちゃんとヒトラーに独ソ戦不可避と教えてもらって独ソ戦の予告情報を何度も本国に打電してるぞ その電文をGRUとMI6辺りが解読して美味しくご馳走さまでしただろ。 トップが信じなければどんな素晴らしい情報も意味をなさない
バルバロッサ作戦の情報は結構漏れていて英国やゾルゲなど複数のルートでクレムリンに届いていた
だがスターリンがそれを信じずなんの措置も取らないのであるから意味がない
意味があるとしたらその次ゾルゲが送ってきた日本の南進情報をスターリンが信用する糧になったという事くらいだろう
日本も小野寺少将がヤルタ情報を送ってきたしソ連の対日参戦情報は各ルートから大本営と関東軍にはいっていたが上層部はそれを信じないというより戦争遂行上ソ連参戦など都合が悪いので信じないことにするという対応でソ連軍はやりたい放題となった訳である
現在も正しい情報であろうと為政者が信じ政策に反映させなければなんの意味もない
ただただ言った者がトロイ戦争の悲劇の予言者カッサンドラ姫の悲哀を嘆ずるのみである 何でこんな無茶をやろうとした。
現場司令部が後方に有りすぎる弊害か。 >>69
オレが情報担当だったら、孫氏の兵法が主張する通り、二重スパイを多用する。つまり、スパイを手なづけ、普段は
正しい情報を流し、いざとなったら誤った情報を流す役だ。スターリンはそれを疑ったんじゃないのか?
スターリンはそれでなくても疑心暗鬼で優秀な部下をどんどん左遷したり、処刑したりするから、そういった点で
工作しやすかったはず。 で、今から歴史を俯瞰して見ると「正しい情報」だと分かるが、当時のスターリンは処刑しまくっていて、何が正しいか何が二重スパイか
わからんようになっていたんだろ。為政者が普段きちんと政治をしているか否かってのが結構重要だったりする。 >>64
インド国民軍はさっさとイギリスに降伏したがってたんだよなあ
威勢がよかったのは最初だけ >>73
トップは猜疑心の塊
これは独裁者ほど顕著だが、民主主義国でもその傾向はある
結果情報部が正しい情報を上げてるのに為政者が黙殺したという事例が出てくる 911なんかにもあったと思う
実際情報部も結構ガセネタを掴まされたりしてるがそう言うのは歴史に残らない ドイツ軍の春の目覚め作戦と双璧
意味のなさと言う点で 海軍の作戦は一応意味ありげだが結果が伴わないのだらけ 大戦中最大の作戦 陸海軍比較
陸軍
大陸打通作戦 兵力50万と奉天大会戦の実に倍の兵力を投じた陸軍史上空前の作戦であり、兵の質練度も含めてこの時の支那派遣軍の戦闘力は絶後とも言える
国民党軍に勝利し作戦は成功したがマリアナが落ちたため戦略的意義がなくなって戦局全般への影響はほとんどなくなってしまった
海軍
レイテ沖海戦 日本史上空前絶後の大海戦
戦艦だけでもこの時点にあった9隻全てを投入 空母4、重巡14、軽巡7、駆逐35他多数 まさに連合艦隊の総力がここに結集
これに第一、第二航空艦隊の航空機が加わる
結果は余りにも惨めな大惨敗 作戦目的であるマッカーサーのレイテ上陸部隊はなんら損害を受ける事なく上陸し、海軍の虚報を信じた参謀本部にレイテ逆上陸をやらされたりと山下将軍の14方面軍は散々な目に遭い、その上海軍がなんら戦術的意味のないマ海防などを編成し山下のマニラ放棄の方針に逆らいマニラで市街戦などを展開しフィリピン人民の怒りにガソリンを注ぐなど、マレーの虎は徹頭徹尾海軍に足を引っ張られたのであった 陸軍はフィリピンで50万人も死んでるのがね
ほとんど餓死させられたんだよな
東條英機も山下奉文もクズ >>81
台湾沖航空戦での海軍の虚偽の報告によって
そうなったんだろ。
対米戦での日本大敗と大きな犠牲の責任は
すべて海軍にある。 国賊・山本五十六と海軍の大罪
@岡田首相(海軍大将)とともに予備交渉を破綻させ
日本を海軍軍縮条約から脱退させた
Aアメリカを仮想敵国に見立てて予算を要求し、対米兵力を拡大させ
アメリカから経済制裁を受ける原因を作った。(マル3計画・マル4計画)
B自作自演の大山事件を図り日中交渉を妨害
年無差別爆撃を強行して日中戦争を計画的に勃発、泥沼化させた。
海軍は無差別爆撃によって、意図的に戦争を泥沼化させた
このの都市無差別爆撃が原因で、日本は世界を敵に回す結果を招く
C三国同盟を認める代わりに、陸軍に南進を要求(豊田海軍次官)
D日米交渉を妨害するため南部仏印進駐を強行(豊田外相)
E真珠湾をだまし討ちで攻撃するため、野村大使と結託し
偽りの外交を実施。
海軍と外務省は、アメリカだけでなく日本政府と陸軍をもあざむく。
図上演習で真珠湾奇襲は無通告でなければ失敗することが明らかになり
海軍は当初から無通告で攻撃する気だった。 山本を殺すとき 後任にもっと優秀なのが来たら困ると検討したら
他は山本よりバカばっかだと判断して 殺すことになった
古賀は米軍系ゲリラに捕まったが こいつはバカだから殺さないほうがいいと
殺されず捕虜にもならず戻された
米軍の判断は正しかった
ゲリラに作戦計画書を全部奪われたと言うのに
そのまま作戦を実施して 大敗北 米軍「指揮官たる者は二階級下の前線地区へ視察に行き、状況を把握せよ」
・軍司令なら最前線の旅団へ
・師団長なら最前線の連隊へ
・旅団長なら最前線の大隊へ
牟田口軍司令官は奥で威張っているだけで最前線へ全く出てきません、負けて当然なんですよ >>86
また知りもしないくせにデタラメ乙
牟田口は最前線へ行ってるんだが? 0874名無しさんといっしょ
2023/08/14(月) 21:55:16.82ID:IpCYbyPI
何か月か前に放送された佐賀市ものだが佐賀藩のことに
触れたのなら同じ長崎警備を隔年で担当していたバカタ藩の
ショボさに少しでも触れてほしかったな
明治維新で全く活躍できず50万石もありながら財政難でありとあらゆる
贋金偽札つくって廃藩置県前に取り潰された唯一の反社マヌケな藩w
幕末維新の時から修羅の国だった
まあこの知ったかグラサン野郎はよその地域はバカにしても
ネタの宝庫バカタ、不幸化は落とさんからな
まじで志村の代わりにシネバよかったのに ★★★インパール作戦は、史上最良の作戦2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1360078828/l50
続き
>作戦に期間内に攻略できなければ敵前逃亡するって入ってたのか?
計画通りに執行できなければ中止するしかないだろう 牟田口第十五軍司令官は、果断の人だった。弱音を吐かぬ信念の
人だった。物量・兵員数の劣る我が軍による巧妙な用兵と作戦で英印軍を
一時的にせよ、叩くのに成功したことは、我々日本人は記憶せねばなら
ない。十五軍隷下の各師団長の弱音も聞き入れず、果断、決断、実行に
より、帝国陸軍の名を歴史に残した。よく兵站を無視したと批判されるが、
司令官は、我が軍将兵の発奮を促すのに、あえて食糧・弾薬を少なめに携行
させたのだった。このことはあまり知られていない。これは、司令官が
功に誇るような人物でなく、謙虚な典型的帝国陸軍軍人だったからに
他ならない。印度独立運動の指導者チャンドラ・ボースは、後にこう
言っている。「彼(牟田口司令官)は約束を守った。亜細亜の開放に
貢献した。その獅子奮迅の指揮ぶりは、東洋のカエサルと呼んでも過言
ではない」と。
終戦後、牟田口司令官は、左翼勢力の台頭の為にあらゆる批判を受ける
ことになった。しかし如何せん、時代の弊風には抗えなかった。
赤誠な人ほど、不当な評価を受けることが多いが、彼がまさにそうだった
のである。 補給が難しく3週間以内という作戦において、多くの将兵が戦傷病死し、9週目になっても作戦が達成できないとき
多くの将兵は牟田口の「口で噛みついて行け」という命令通り6万人?が徒死した。
佐藤師団長は牟田口を見限って5,500人の将兵と共に生還した
戦後、生還した人たちによって香川県高松市に佐藤を悼む碑が建立された
私は佐藤師団長の判断が正しいと考える
インパール作戦を研究し猛省し牟田口のような人物が出ないよう教育すべきである >>71
戦病死40000以上だからね。
チンドウィン川を渡っても補給所がなく、まだまだ長く白骨街道が続いたらしい 牟田口司令官は東洋のカエサルとまで言われてるが
佐藤は? チャンドラ・ボースが言ったという「東洋のカエサル」は捏造ですよ
ネットの記事は捏造が多いので、裏を取ってくださいね 「東洋のカエサル」だと主張する人が根拠を示してください 君が「東洋のカエサル」だと主張しないのならそれでいいよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています