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以下、『ドキュメント差別糾弾』に登場する"被差別部落(但し、江戸期、もしくはぞれ以前に由来する地区は一つも無い)"を紹介する。
ほとんどは解放令以降、港湾労働力として集まった貧民(元非人や元野非人も一部に含まれる)により自然発生した「貧民窟、もしくは近代的スラム」であり、計画的に配置、集住された地区ではない。

横浜市S地区(西区浅間町[32]? 南区清水ヶ丘?)、N地区(南区中村町) - 江戸時代末期、日米通商条約などにより横浜の開港を迫られ、当時寒村であった横浜を港にする突貫工事の労働者の寄場が起源。[33]
横浜市Y地区(南区八幡町?) - 横浜周辺に多い谷戸にひらかれた町並。県内の大きな被差別部落からの移住者が多い。江戸時代末期、外国人居留地と日本人商社街の夜の警備をしていたのが当時の被差別部落民だった。
彼らは、県内各地の被差別部落から交代で来ていた。この地区は今でも道が狭く、バラック建てに近い小さな家が軒を並べている。地区の南側に高台がある。[34]
横浜市M町[35] - 南区南太田町。通称"乞食谷戸"。『横濱繁盛記(明治36年)』によれば、「明治14年(1881)、横浜に浮浪してきた、"菅原虎吉"という者が紙くず拾いをはじめ、この(久保山の)山腹に住むようになった。
そして(中略)人口が500人以上になった。(中略)十数件の長屋を持ち貸している一ノ瀬栄吉や園田作蔵などの家主は、2間くらいの家に住んでいる」、「住民は貯蓄をし杉山神社の祭礼の費用」にあてた、という。
80年代半ばに廃刊した横浜のタウン誌『浜っ子』には「1893(明治26)年、斉藤芳次郎(通称・三楽)という、(中略)東京出身の理髪職人がいた。その彼が久保山に「慈善堂」という乞食を収容する長屋を建てた」とある。
久保山に建つ新善光寺の境内には斉藤芳次郎の像がある。以後、大正12年(1923)の関東大震災の義捐金を基に設立された財団法人・同潤会により、「南太田町不良住宅地区改良事業」が行われることとなる。