>>181
もし自分の子供が他人にボールを当ててしまう(怪我をさせる)事を
まったく考えずにキャッチボールをしていたら、私は子供を叱るでしょう。
他人にボールを当てる事を考えずキャッチボールをすることは“してはいけない事”と考えるからです。
言うまでもないことですが、それは“怪我をさせる”事を当然に想定しています。
怪我をさせることまでを含めて、両者は常に必ず結びつけておかなければいけない関係なんですよ。
確率の問題ではなく、こちらは頭に刷り込んで決して忘れてはいけない繋がりだということです。

「充電→部品不具合」は言うまでもないですよね?
子供が充電する時に部品不具合の事を考えていなかったでけで叱ったりはしません。
予見できるかどうかで言えば、頭に浮かぶ可能性は怪我に比べ遥かに低いものでしかないからです。
確率うんぬん以前に、その行動をする時に考えるべき優先順位が格段に低い事象なんですよ。
次元が違うという主張になにも変わりはありません。

正直これ以上簡単に説明するのは難しいです。そろそろご理解いただけませんでしょうか?


裁判所ですが、法の判断としては単に“公的”“私的”の違いではないかと思うのですが。
裁判所の判断が唯一の公式な判断であるとしか言えないと思います。
ただ、それは正しい・正しくないとは似て異なるものですので、
あなたの主張の中ではあなり意味を持たないですよね?ですから、撤回をお勧めしました。


「国沢氏のケース」については、私は>>183に書かれている内容に賛成です。
というより、前スレで学者とか研究生っぽく見せかけた法律マニア相手に
同じ様な主張をした記憶があるw
27氏がしばらく出てこなかった時じゃなかったかな。