スレッド:<西部邁>にスレッドを立てられない、ここにレスする。問題のスレッドは>>380 ,>>381だ。

君たちはどう考えるか知らないが、上記の言論に対しては批判しなければならない。「ネイチュア(自然)は元々は「産まれる」という意味で、「血統」ということから始まっている。」、これは人間にとってはそうだろう。
しかしマイティな自然にとっては違うのだ。そもそも人間がこれを言えば国家主義になるのは必然である。国家主義は必ずや個人を押し潰す。戦時下の国家体制が、国民の自由を許さないように。

自然にとっては血統などという人間の造語は存在しないのだ。人が死のうが生きようがどうでも良いのである。とはいうものの、人間にとってはそうはゆくまい。血統といっても、アホも大勢いるからである。
あなたが言うように「国家そのものが歴史のなかで徐々に形成されるものだからである。
ネーション・ステート(国家)を「神の国」(アウグスティヌス)に帰属させるのは無理であり、この世俗化や多宗教並存の時代では有害ですらある。
そして、国の歴史から憲法を導くものとしての当然法に立つならば、人類に普遍的な原理などを国家の表札にすることなどできはしない。」などと言えないのである。人間の歴史はさておき、だからそれが忌むべき歴史だからだ。
人間の歴史を肯定する者は、いかなる犯罪に巻き込まれても、その加害者を咎めてはならない。天災と同じである。であるならば、人間の法律が存在すること自体がおかしいことになる。

法律はおかしい。これは金持ち(昔は王族)を守るために過ぎないからだ。法律の起源は何か言ってみたまえ。自ずと答えが出るだろう。

国家の憲法は、当然法であるべき等と言ってはならない。それでは「人間の歴史」が単なる事実に留まってしまうからである。君にそれがわかるか? 答えは、人間は事実ではないからである。歴史と言うならば「国家の歴史」ではなく人間の歴史と言うべきである。
人間は人間としてとしてのその自由を発現させる歴史でなければならない。それを国家や法律で人間を固めてしまってはならない。自然法はあらゆる存在の自由に繋がるのだ。君は君の自由を知るまい。つまり人間の自由を知らないということだ。
人間にとっての自由が何かと言うことは、あなた自身が考えるべきことである。だからといって、それがあなたの勝手になるものではない、正義とは「何か」に等しいのだ。

人間の考えることは、極めていい加減である。あなたが歴史主義に捕らわれているように。