>>174
まず、奥平先生の名誉のために真っ先に反論すべきことですが、
ここでの奥平理論は、あなたのいいまわしで言えば、
「国民全体の総意がわいせつ規制に対してどの位置にあるかとは無関係に独立した、
原理的な視角であり、これは即ち表現の自由規制への必要以上のスキャンダラス性
への牽制であって、純粋に思索的にその線引きの異常性を"原理的に"指摘した行為」です。

>猥褻な表現を規制する動機のみを述べたところでその境界線の適切な
>位置について何も主張した事にはならない"のは自明だからです。

これは意味不明なところがありますが、善解すれば、あなたの>>173@の文脈なのでしょう。
この@は利益調整の結果としての結節点のことであり、法実務的な問題処理の典型的なパターンの
ことですが、奥平氏は少数者保護という原理的な視点での表現の自由の価値を述べたものだから、
利益調整の結果の言明でなぞあり得ず、むしろ>>173のAと位置づけるべきものです。

そして、私が直接言及したという、
「世間の意識があるなかでは困難ではないか」
「規制するとすれば、なんだか窮屈さを感じる。」
というのは、>>173の@でいう「線引き」のための反対利益の考慮事項です。
あなたが原理的に平等論で考えても(これはAでしょうね)、社会統制の道具の面を持つ
法が実効性を持つためには、@のごとく対立利益や反対利益を考慮せざるをえません。