答えは簡単。ポストが浦田先生と大須賀先生で埋まっていたから。そこに、早稲田大学法学部三人体制に拡張したさい、年下の今関先生が採用されて完全に目がなくなった。まー、藤井先生自体は千葉大学晩年は教育学部から法経学部に所属が変わったから満足していたのでは。
可能性としては、あともう少し早く、博士論文書いていたら帰還もなくはなかったかもね。でもその場合、カール・シュミット研究で一足早く博士論文を提出していた山下威士先生が新潟大学から帰還していたかもしれず、難しいかな。
しかし、藤井先生とは懐かしい名前だな。非常勤では山下先生も藤井先生も早稲田で教えていたよ。