>>382
例えの本質は、客観的に証明可能かどうかということではなく、新説を一考することなく頭から排除する姿勢を問題としているのである。
憲法学者は9条を表面的に解釈してきたので、彼らに柔軟な考えは期待できないという意味にすぎない。

自衛権を担保する相当程度の実力組織は合憲でも、その組織がその範ちゅうにとどまっているかは別に考慮する必要がある。規範定立と当てはめの関係である。
同じく、集団的自衛権行使が合憲でも、個別の事案について自衛権の範ちゅうにとどまって行使されているかどうかは別問題として検討すべき問題である。

では今ころになってなぜ自衛権を再検討しているのか。
これは原発事故が関係している。
予見困難な大津波と、原発事故によって、想定外のことが生じた。
そこからどんな教訓を学べるだろうか。安全神話に依存することなく、たとえ発生する確率が低くても万一に備えておくということである。
砂川事件判決を視野に入れた自衛権再構築もその流れの中でとらえることができる。
判決は、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、
国家固有の権能の行使としてとして当然のことといわなければならない」としている。
判決は自国に対する攻撃の着手の有無には何も言及していない。
自国に対する攻撃の着手がなくても、自国の平和と安全が脅かされることだってある。
そして集団的自衛権というのは本来的には相互防衛である。
つまり、我が国と密接に関係する国を守るという確約と引き換えに、自国の防衛を要請するものであり、
そういう意味でも「必要な自衛のための措置」と言えるのである。
だから個別的自衛権に限定する今までの解釈には何の根拠もない。

当時は一般的に集団的自衛権は意識されていなかったと言う人がいる。
一方、当時の左翼や学生運動はソビエトとの軍事同盟を視野に入れたものであるという人もいる。
真相は全く知らないが、要は最高裁がどのような問題意識を抱いていたのかが重要である。
最高裁が自衛権を形式的に分類している形跡は全くない。
むしろ最高裁が述べている「国家固有の権能」とは国連憲章を意識した表現形態で、自衛権一般のことである。
そうでないことを主張する者に立証責任がある。