君主に残された三つの権利もその範疇である。この三つの権利は、「政治関与」すなわち影響力ではあっても、命令権限には基づかない。
英国は「君臨すれども統治せず」の憲法律によって、大日本帝国は憲法典3条、4条、55条などによって代表される帝国憲法体制によって、君主個人の意思による命令権限は制約された。
 
しかも、帝国憲法体制においては天皇の代行者として元老が存在した。元老不在後は内大臣と重臣が存在した。
英国君主にも相談に与る長老政治家がその時々に存在したが、日本の場合はさらに制度化された元老や内大臣が存在した点で、さらに影響力の行使には条件が抑制的であったと解さなければならない。
 
勿論、バジョットと同時代のヴィクトリア女王はしばしば政治に容喙した。その事実は女王崩御直後に書簡集が公表され、日本でも著名な国際法学者であった立作太郎により翻訳されている。
また、吉野作造などは「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」において、女王の容喙が歴代大臣を懊悩させた事実を指摘している。

ただし、女王といえども議会の決定を覆すことは出来ないとの前提が存在する。女王の関与は首相や外相など国務大臣や一部の相談役の政治家に限定される。
これは、統治機構内部における三つの権利による影響力の行使は許されても、それは決して命令権限に基づく統治行為ではあってはならないとの意味である。
たとえ、臣下に対して女王がどれほどの影響力を行使しても、それは警告なり激励なり相談なりを聞いた国務大臣の責任である。決して女王が自由自在に関与していたのではない。

後の英国君主も政治に関与した。特に、1931年の混乱に際して、ジョージ5世が労働党を除名され少数を率いるに過ぎないマクドナルドを首相に選任した行為には、批判が強い。
古くはハロルド・ラスキが、最近ではヴァーノン・ボグダナーのような憲政史家が国制違反(日本流に言えば憲法違反)として批判している。

ただ、それすらも18世紀の暴君であるジョージ3世のような専断ではない。議会が自ら首相を選任できない状態であったので、英国憲法の伝統に従って国王が調停者として裁定を下しただけである。
旧憲法下でも新憲法下でもこのような法が日本には存在しないが、それが英国憲法の伝統である。帝国憲法下の元老の役割を君主自らが果たしたと解すべきである。