【てっちゃん】ねえジジイども、佐藤哲三ってどんくらい凄かったの?【マスコミ嫌い?】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
1989年にデビュー。
1996年にマイネルマックスで朝日杯3歳ステークスを制し、GI競走を初制覇。
2000年代以降はタップダンスシチー、エスポワールシチー、アーネストリーといった騎乗馬で数々のGI・JpnI競走を制し、
タップダンスシチーとアーネストリーの管理調教師・佐々木晶三とも名コンビをうたわれた。
2012年11月に競走中の落馬で重傷を負い、以後騎乗のないまま2014年10月に引退。
以後は主に競馬評論家として活動している。
インティライミのジョッキーとしても有名 競馬がまだ鉄火場だったころの
マジモンの騎手
マスコミがチャラチャラいらんことを
書くから嫌われただけのこと
まあ今はそっち側に行っちゃったけどね ダービー馬を武に奪われた悲劇の男かな
とらせてやりたかったな 騎手として目指した姿は「一流のホースマンではなく、一流のギャンブルレーサー」であったといい、「馬券を買うファンのための騎乗」が信条であった。自身も競艇ファンとして舟券を買う立場にあり、その経験を騎手としての姿勢にも反映させていたという。
騎乗していた頃から「なんとか3着に入ってやろうと思っていつも乗っている。
1着が全てとは僕は思わない。もちろん、1着を目指して乗っていますけど、馬券は単勝だけではないんでね」と語り、そういったなかで、1着にはなれずともファンの中で主役になれる馬がいるはずだ、という信条も口にしている。
また、2000年の皐月賞においてラガーレグルス(3番人気)に騎乗した際、スタートを切れないまま終わるという失態を演じたことも背景にあった。
「あのときに何も説明できなかったという思いがずっと残り」、「多くのファンにスタートも切れないまま損をさせてしまったので、これからの騎手人生のなかで絶対に返していこうという思いが芽生え」たのだという
佐藤は自身の引退会見においても、失敗例として、また自身の向上に繋がった例としてこの競走を挙げている 引退のきっかけにも「ギャンブルレーサー」としての意識が関わっていた。
「馬を可愛がりつつ、競走では割り切って結果を出すことなどできない」
「馬にとっては騎手は嫌な存在のはず」と考えていた佐藤は、努めて馬の可愛い面を目に入れないようにしていたが、リハビリ生活中にキズナのもとを訪れた際、
自身にじゃれつく姿を見て「めちゃくちゃ可愛い」と感じ、「この感性のまま、もし明日、腕が動いたとしても、ギャンブルレーサーとしての佐藤哲三には戻れない」と考え、引退を決断したのだと述べた。 そんなでもないかな
ただ引退した後の佐々木の劣化が酷い 競馬初めてやってこの人のナリタルナパークが来て60万近く勝ったのは良い思い出 佐々木晶三との関係
タップダンスシチー、アーネストリーでGIを制した佐々木晶三とは「コンビ」として知られた。
1997年に佐藤が佐々木厩舎のサクラエキスパートに騎乗して愛知杯を勝ったとき、佐々木はまず「なんとも度胸がいい」という印象を抱いたという。
さらにタップダンスシチーで佐藤が高い技術をもつことを確信し、以後「コンビ」が成立。
それから20以上の重賞勝利を挙げた。
佐々木は佐藤を重用した理由として、「哲ちゃん(注:佐藤)みたいな超一流ジョッキーを乗せ続けていったら、馬はどんどん成長する」
「そうやって育てられた馬は成績も安定するし、上のクラスに行っても通用する。まあ、それは競走馬を育てるということに関しては三本指に入ると思っている哲ちゃんだからこそかも知れないけどな」と語っている。 最近の例にするとキタサンブラック武有馬にガチ仕掛けて5着に負かして
自分は2着に粘る
こういうことをやった騎手
なおレース後武と調教師にボロクソに批判されました
あの騎乗はないだろ!!ルール違反だろ!!!とwww
競馬にはファンが知らない暗黙のルールが有ることを教えてくれた最高の騎手です
後に宝塚JCを勝つタップダンスシチーの全国お披露目でありますた 横柄でかなりの嫌われ者だった
特に若手から嫌われてた
このポジションは藤田、川田と受け継がれていった ガチの騎手だった
外人がーとか言う前に
哲三のレベルまできてみせろよ
日本人騎手は 甘えが出ないようにあえてマスコミと距離取ってただけやぞ 馬券内に持って来る努力ありきのジョッキー
俺、何度もてっちゃんに救われてるな 結果がついてきたかは別として
道中積極的に動いていくしお前ら好みの騎手だったよ エスポワールシチーでGT7勝
ただし2010南部杯で単勝1.0倍を飛ばす キズナは哲三のままなら更にG1はとれていた
本当に惜しいよ
あのケガは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています