中央、地方、国外を問わず、機会のあるレースには積極的に出走させる調教師である。
開業当初から、「ゆくゆくは関東へ行くような気軽な感覚で遠征をしてみたい」と意欲を語り、香港で勝利を挙げた頃には「中央競馬の枠組みの中で戦っている限り、それは定められた総賞金というひとつの山を何百人かの調教師で奪い合っているにすぎない。しかしその枠組みから外に飛び出していけば、"山"はひとつではない。力さえあれば賞金の上限はそれこそ無限に近くなる」と、賞金という面から捉えた国際化論を唱えた[11]。

またシーキングザパールでモーリス・ド・ゲスト賞を制したときには「自分は調教師だし、調教を軽視するわけじゃないけど、いくら調教のレベルが素晴らしくても、未勝利馬ばかり集められたらどうにもならない。だから、いかにいい馬をもらえるか。そうするためには馬主さんへのアピールが必要になってくる。勝ち鞍をあげてアピールするか、賞金を上げてアピールするか。僕は賞金でアピールしたいし、もう一つ、海外のGIに勝ってアピールしたかった」と語っている[22]。

また自著の中では、英仏での勝利によりシャトル種牡馬としての需要も生まれたアグネスワールドを例に引き、「アグネスワールドクラスの馬になったら、調教師は種馬としての評価を上げることを考えなければならない」、「もちろん、馬主のなかには海外遠征を嫌がる人もいる。海外に行ったら、調教師だけでなく、馬主だって赤字になる。でも、種牡馬としての価値が上がったら一番得をするのは馬主なのだ。それを考えたら、私はどんどん海外に行くべきだと思う」との持論を述べている[23]。