最初に言っておくが、ワシはン十年前の高校生じゃ。二畳庵師には世話になった。だからここで書くことに悪意はない。あるのは愛のみじゃ!

漢文の専門家には共通して言えることじゃが、二畳庵師も一貫して、漢文学習に英文法の発想を持ち込むことに異を唱えておられる。ただ、その論拠とされる事例に説得力がないんだナァ。

例えば、p.36から引用する。
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「千慮有一失」という文になると、見た目から言えば、「千慮」が主語のような気がするが、どうもしっくりといかない。しかし、英文法でゴリ押しすると、「千慮」が「一失」を「有」している。すなわち、「千慮の中に一失がある」である、と。この論理はメチャクチャである。
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しかしだ、「千慮が一失を有す」を「千慮の中に一失がある」と解するのは、(いや、そのように解されることがあるとすれば)それは英文法が原因ではない。テクストを解するセンスが根本的に欠落しておるのじゃ。

師は語感を重視されるから、「有」に対応するhaveの語感をチョット考えて見たまえ。例えば、
S has O.という文があったとき、「SにはOという事柄なり状況なりが付帯している」、ということなのじゃ。これは語源を同じくするドイツ語のhaben、フランス語のavoir、イタリア語のavere等に共通の語感じゃ。
のみならず、漢文の「有」の感覚と共通のものではないか。

漢文教育に英文法を援用する事に否定的なのは、つまるところ、言語が同族ではないというのが唯一の理由と察せられる。学者諸君の世界では影響関係をもって論証することが重視されるようじゃが、無関係のところに生じる偶然の一致ということもあり得るわけじゃ。