古文・漢文は高校の授業科目から外すべき!
古文・漢文は実学からかけ離れすぎている。
こんなものを全員に覚えさせて、日本の将来を担う若者の貴重な時間を割いていては、
今後の経済戦争で外国に負けるのである。
やるとしても、高校授業や大学受験の内容からは大幅に内容・配点を縮小すべきである。
やりたいヤツは大学の専門課程の中でやれば良い。
授業科目群の内容を見直すべきである。
かりに国語学者と作家を大規模に動員して、
単独で読んでも古文に劣らないような文学性を備えつつ
かつ正確な決定版的な現代語訳を作ることはできるのだろうか。
題して「国定今訳古文集成」。 >>107
なるほど。
仰る通り、明治〜昭和なんて特に古典の素養が必要だね、楽しむためには。
「楽しむ」なら趣味でいい。
今ふと考えたが、古文の導入として明治の作品を読むというのはどうなんだろう。
いきなり中古まで遡らず、近代初期のを読んで肩慣らしといった感じで。
自分が古文に全く抵抗を感じなかったのは時代劇や歴史小説を好んでいたからだった。
でも今の時代劇は全く見る気がしないね。…というのは余談。
>>108
こちとら影印本読んでるよ。
岩波文庫よりよほど味わえるぞ。
>>109
国文学者が仲間に入れてほしそうにこっちを見ている >>111
>「楽しむ」なら趣味でいい。
話の趣旨が変わってる以上、揚げ足取りにもなってないなw
そのあとの「ふと考えた」ことの方が重要なんだよ。
戦後の日本の教育とメディアがムキになって「戦前」を抹消してしまった結果、
近世と現代を結ぶ言語と文化の連続性が絶たれているのがこの状況。
中高生が古文ではない「文語」に触れる機会なんて、
明治に創立された学校の校歌や応援歌ぐらいしかない。
それだってどんどん廃止され改訂され気息奄々だ。
そういう事を一方的にしているのは、思想的に非常に偏った人たち。
その人達はむかしゲバ棒を振り回し、浅い言葉で受け売りの「理想」を押し付けていたのだ。
今も彼らの言葉は浅薄で押し付けがましく聞くに堪えない、とても子供に聞かせられないものだ。
____
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/ _ノ ヽ_ \
/ (●) (●) \
| (__人__) | これには激しく同意だお
\ `⌒´ ,/
/ ー‐ \
>>110
韓国は漢字を棄てて学力が下がったから、再び漢字教育を導入したらしいね。
そんなこといったら、外人だってラテン語学ぶ必要無くなるだろ 現在具体的に役に立つことしか認めないっていうのも怖い思想だな ニホンゴ の コテン は ともかく カンブン は いらない な。 >>119
今使ってる漢字熟語とか単語とかほとんど全部
古文漢文由来だぜ。 古典なんか専門家だけがやってればいいだろ。古典なんかなくして情報増やせばいいのに。 古文、漢文、歴史、理科を捨てて勉強したから、
いまさらになって後悔。 主演:キム・テヒの反日発言のまとめ
*なお、このドラマは花王の一社提供です。
「日本人は醜い猿」
「独島は韓国領土」
「日本人観光客見ると反吐が出る」
「日本に行くのはお金の為、日本は嫌い、吐き気がする」
「日本は韓国より劣ってる発展途上国」
「日本は他国の領土を侵略しようとする、嘘をつくとんでもない国だ。」
「韓国人の方が優秀、日本人のノーベル賞は全部ロビー活動によるもの」
「日本文化は全部韓国文化のコピー、日本は文化泥棒、韓国は文化大国」
「日本の歴史は全て捏造、韓国はアジアを支配していた」
「日本で韓流が流行るのは日本人俳優のレベルが低すぎるから、
私が本物の演技を日本人に教えてあげたい」
「日本のお菓子が韓国のコピーばかりで驚きました」
日本史大好きなので、必要ないとは言わないが、授業内容が、暗記ばかりなのはどうなのよ?
あり、おり、はべり、いまそかり!
らりりるれれ!
(せ)○きししか○!
訳分からんわw
もっと、古典文学の素晴らしさみたいなのを伝えて、
日本文化に興味を持たせるような授業にはならないのか? 小学校初期から正假名を教えるべし
いとゐとひやえとゑとへなどの違いは
文法や成り立ちから来てるんだから
正假名を教えることで正しく文法を学べる
正字の漢字は趣味でいいよ
>いとゐとひやえとゑとへなどの違いは
>文法や成り立ちから来てるんだから
>正假名を教えることで正しく文法を学べる
こういうのを学術語使って説明してごらんよw >>125
学校は趣味のための機関ではないから
古典の素晴らしさを味わいたければ自宅で勝手に学べばいい。
教育現場では数学や物理と同じく文法中心の詰め込み方式を徹底すべき。 基礎からわかる 古典文法 [単行本]
中村菊一 (著)
この本はどうですか? 教科書基礎レベルがわかっていれば、だいたいは読めるんだよ、古典なんて。
つか、この大変な時代に、教員は何考えるんだろ?頭おかしくない?
「日本人ロボット化計画」みたいなのの一環なんだろうよ。 英語の背後に流れているのは二千年続いた古典
聖書やホメーロスです。
日本の古典も知らないで国際人には成らないでしょう。
英語だけまなびたいのなら移住したほうが良い。
移住した国ではその国の背後に流れる古典を
身に着けて本当にその国の人になるわけだが。 古文漢文は必修にして
理系大学入試でも出題すべき
士大夫たるべき知識層が四書五経兵書史書の漢籍に通じるのは当然のたしなみ
湯川秀樹なんか学者並に漢籍に通じていた。
そして「荘子」からヒントを得てノーベル賞を受賞。
理系も漢籍に通じてないと発想が貧困になって駄目。 >発想が貧困になって駄目
付け加えるなら、
どうヒントを得てどう生かしたかって事が大事だな。
ひとつの見地を提供したという事実を評価できない人間が学問について話しても無駄。大学に来るべきじゃない。
>>134
東工大:古文漢文なんざ時間の無駄だから受験数学やれ >>1
こういうやつに限って現代文学のげの字も知らないんだよな 東大が理系に国語の記述をやらせて東大受験生も国語の勉強が楽しい
って言ってる現状じゃ高校の授業から外れることはないと思うぜ? >>1 古典あっての現代語だ。したがって教育課程から古典をなくすことに強く反対する。 漢文の素養は、明治時代の西欧文明を吸収するのに役立ったと言われている。
夏目漱石や森鴎外、正岡子規や中島敦といった文学者らの、優れた著作の背景には漢文の素養があった。
しかし、日本人は漢文を捨て、西欧を採入れようとしましたが、現在まで実際には失敗している。
英文学者の漱石でさえ「漢文は理解出来るが、英語は理解出来ない」と言っている。
漢文の素読が、かつての日本人の国語力を一定のものにしたことは事実であり、それは今の日本人の国語力以上のものであった。
今の漢文教育は、「さわり」をやるだけなので意味が全くない。
古文・漢文と共に、国語は今の授業時間数では絶対に足りない。
数学理科など減らしてでも、国語の時間は増やすべきである。
国語力とはものを考える力であり、他の教科の基礎であるばかりでなく、人の生き方の本質に大きく関わるものだからである。 役だった、ってもう完全に過去形じゃん
今ではもう何の役にも立たないでしょ 文法は大事だろうけど味わうのも大事だと思います。
何の役に立つのか分からなくて面白くもないものはそのうち誰もやらなくなって廃れる気がする。
「内部留保の溜め込みはけしからん」なんていう嘘をころっと
信じてしまうような人間である限り、いくら源氏とかが読めても
まったく無意味。時間という資源は有限である以上、物事には
優先順位をつけなくてはいけないが、残念ながら古典文学は最劣位。
趣味としてやる分にはいいと思うから、学校教育においては古文漢文
ともに完全廃止し、そのかわり地域の少年サッカーチームやピアノ
教室のような古典教室を需要に応じて作ればいい。 >>146
>「内部留保の溜め込みはけしからん」なんていう嘘をころっと
信じてしまうような人間である限り、いくら源氏とかが読めても
まったく無意味。
アホ臭い文章w 802 名前:明るく楽しい大阪城 ◆V9NFYlHDBE []: 2012/08/01(水) 10:02:25.35 ID:eMaKp2iU
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
論語なんてのがありますが
これを漢字はおろかひらがなもおぼつかない未就学児に与えても分からん訳です
当たり前ですわな、それを消化してこなすだけの土台というものができていないのですから
その幼児がこう言うわけですな、ボクに理解できないから、論語には価値がない
論語がより多くの読者を得るにすべて今風に内容を書きなおした方が良かろう
なんならマンガにすべきだと言い出すわけですな
なるほど幼児なら、それでいいかもしれませんが厳しい国際競争社会では
誰も生き残るための良い知恵や答えをいちいち日本人に教えてくれんのですな。
自ら問題を定義し、学び、考え、答えを出す癖がない幼児は厳しい時代を生き残れませんな。
自分を高みに上げる努力をするでなく、相手に降りてこいと言う
挙句がオレに分かるように説明できないからオマエはバカだとのたまう、価値がないと放言する
これは学び楽しむ人間の謙虚な態度じゃございませんな、こんな手合いが自分は賢い日本人でございと
大手を振って生きているのが今の日本の凋落の一因となってるんでしょうなぁ、嘆かわしいことです とりあえず一旦科目から外してみてそれで問題おきるかどうか調べればいいだろ
そういう発想がなぜできない
ってできないから文系なのか >>149
>とりあえず一旦科目から外してみてそれで問題おきるかどうか調べればいいだろ
そういう発想がなぜできない
http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_1013.php
>というのは「この教育方法でやってみたら、うまくゆきませんでした」ということを教育する側は
絶対に言うことができないからである。学校教育の相手は生身の人間である。「出来の悪い
教育プログラムを与えたせいで、学力が劣化しました」といって放り出すわけにはゆかない。
教育において「実験」は許されない。だから、教育機関の卓越性は科学的には考量不能なのである。
http://blogos.com/article/42441/
>しかし、純粋数学といった、謂わば論理の殿堂を理解するのに、必要な数学能力と国語能力に高い相関があるようです
>本をよく読む学生は、文章に日頃接することで、自ずと論理能力が鍛えられているのに対し、
文章を日頃読むことが少ない学生は、論理能力が未発達なのではないかと思います。
古典を学ぶことで日本語能力が深く複雑になり論理能力もまた向上すると思う。 古典やるより現代国語や日本語の勉強に力を注いだ方がよっぽどいいわ >>151
>しかし、純粋数学といった、謂わば論理の殿堂を理解するのに、必要な数学能力と国語能力に高い相関があるようです
さもありなん。人と猿の違いは言語能力と言われている。
あらゆる能力の礎なんだろうな。
その言語能力をあらゆる手段で鍛えるべきだな。
古文や漢文の文法を学んだり、それらを読んだりする時間で
より多くの近現代日本語の文章が読めるだろうし、
現代日本語での作文練習ももっと多くできるだろう。
その方が論理能力も発達すると思うよ。
ときに、漢文に出てくるロジックって、アナロジーが多くて
現代人の――特に理系の目から見ると、あんま論理的じゃないよね…。
漢籍を読ませることの意義って、基本的に漢語の語彙力の獲得だよね。
論語や荘子でこの先生きのこる知恵を学ぶんだ、とか言う人もいるみたいだけど、
内容を求めてるなら現代語訳の方が効率良く摂取できるだろうし、
じっさいそういう人たちも現代語訳のない論語や荘子を読むわけじゃないし。
言うなれば漱石の草枕とか、平野啓一郎の日蝕みたいな文章を読んだり書いたりする能力。
でもああいう非日常的な漢語を散りばめた装飾的な文章って、
今の価値観で言うと、あまり誉められたものじゃない。
もちろんペダンティックな欲望を満足させるオナニーはできるだろうが、
それは文章の論理的な正しさ、簡潔さや明晰さとは逆ベクトルの動きなわけで。 漢文の返り点の読み方や、古文の文法を学ぶことで、
どういう能力を身につけさせたいのか。
それがなぜ重要なのか。現代文の学習ではそれはできないことなのか。
そういう視点から古文漢文の有用・無用を功利主義的に議論するのは有益だと思う。
俺としては古文も漢文よりは現代日本語の教育が優先されるべきだし、
文法や漢文・古文語彙の暗記は、
それ自体は読解力や作文力に結び付く応用性が低いから、
なくすべきだと思う。
つまり、文法や語彙を暗記して古文漢文の原文をちまちま読むよりは、
現代語訳で多くの古文漢文作品を読ませるのが良い。
古文の時間は谷崎や与謝野訳の源氏を読む。
漢文の時間は現代語訳された史記や戦国策を読む。
こうやって暗記よりテキストの読みに多くの時間を割いた方が、
古典から知恵を得るという点ではずっと役に立つはず。 たしかに数学や科学の論理に慣れた我々からすると
中国の諸子百家が説得に使う論理って詭弁そのものだし
それで相手が説得されちゃう展開見ておいおいって思うよな。
「五十歩逃げた兵士が百歩逃げた奴を笑うようなものです」
ええーっ同じなの?って。w
まああんなもんばっかり読んでた前近代の中国の文人に
論理的思考が身につくはずもなく、
近代化に失敗して列強の半植民地にされたのも当然だと思う。 >>154-157
次は漫画で表現しろになるのかな。
>ときに、漢文に出てくるロジックって、アナロジーが多くて
現代人の――特に理系の目から見ると、あんま論理的じゃないよね…。
言語で論理能力を高めるというのはそういう意味で
言ってるんじゃないと思うよ。
今使ってる言葉を歴史的にも空間的にも脳内で深め
言語の構造も深く複雑なものをそのまま理解習得することで
自然と人間本来に備わっている能力が引き出されてくるという意味が大きんじゃないかな。
>漢籍を読ませることの意義って、基本的に漢語の語彙力の獲得だよね。
多分漢文で語彙力はつかない。原典を読むという意味のほうが大きいと思う。
人間が考えた思想は既に出尽くしている。後はその原典に何度でもぶつかっていく。
そのたびに違った解釈が生まれ、人類の思想は深まっていく。
そういう姿勢を高校生に実感させるのもいいんじゃないかな。
聖書、仏典、哲学書、文学みな繰り返し読解されてそのたびに違う解釈が生まれ深くなってきた。
そんなに複雑な漢文は出てこないでしょう。効率。効率と言っていると
そのうちプログラミングを教えたほうが効率がいいとか言い出すかも。
あれは機械のための言語で使ってる人を見てると・・・
>>158
もう少し論理的な文章を書いてくれると嬉しい。
>今使ってる言葉を歴史的にも空間的にも脳内で深め
おそらく日本語の歴史的な発達過程を踏まえることを言いたいのだろうが
空間的に脳内で深めるという表現は何のアナロジーなのか、
そもそも意味を考えて書いた言葉なのか不明瞭。
>言語の構造も深く複雑なものをそのまま理解することで
まあ何となく言いたいことはわかるが日本語としておかしい。
>自然と人間本来に備わっている力が引き出されてくる
具体的なプロセスを誤魔化すフレーズとして疑似科学によく見られる言い回しだが
ここでも具体的になぜそうなるのかという説明が抜け落ちている。
少なくとも>>158の文章を見る限り、まったく論路的思考力は引き出されていない。
まあ158くんはあまり古文漢文を読まなかったのかも知れないが。
もちろんどのような学問や知識体系でも、
それが形成された歴史的な背景を学ぶことでより深い理解を得られるのは確かだ。
経済学なら経済学史、物理学なら物理学史、数学なら数学史を学ぶことで、
それぞれの学問のパラダイムを相対化することが容易になる。
古文漢文の学習を通じて日本語の語彙や文法、文体が現在そうある理由を
歴史的に理解する上では有用だろう。
それは日本語を何かのーー例えば論理的な思考や表現のーー手段として、
その利用を洗練させる訓練と言うよりは、
日本語自体を理解の目的とするものであって、
そこから一足飛びに論理的思考が手に入ったり、
人間本来の能力が引き出されたりするというのは、
論理の飛躍という他ない。 >>158では>>154-6に対して>>154-6がなんの疑問も抱かず前提にしている国語力で論理能力をつけることの解釈が
単純過ぎるためあえて違う解釈もできると示した。「国語力で論理能力をつける」ということは>>151のリンク先によって
提示されているがそれは公理というものではなく個人の経験から導き出された仮説に過ぎない。しかし教育に関しては
或いは人間の脳内で起こっていることについての解釈は往々にしてそういうものに頼らざるを得ない。それは人間の脳
を解剖したりして分かるものでもない。また子供を分けて極端に違う教育を与えて実験することもできない種類のものだ
から。したがって自分が>>158で示した仮説もまた証明のしようがない事を手探りで説明しようとしたものである。さて
>>154-6は国語教育で論理能力をつけるという仮説の立場を支持しながら、漢文教育の意味は漢文に出てくるロジック
或いは漢語の語彙力の獲得などという定義をした自分は其れに対してあえて其れだけではないと思ったので、>>151の
リンク先の考えを僭越ながら忖度しそういう意味で言ってるんじゃないと思うよと提案した。その内容が論理的ではない
と言う事が>>159-60にはあるかもしれないがそれならばまず前提にしている国語教育で論理能力をつけるという事を
自分が論理的に国語教育によって脳内で起こっていることを説明するべきではないか。
プログラミングに詳しいと思われる人つまり日本語をあまり使わず英語やプログラミング
言語ばかりを使っている人が往々にして日本語の助詞の使い方を間違えたりすることか
ら浮かんだこれも仮設ではあるが。例えば「は」「が」は前に来るのが未知のものと既知
のものとよく言われる。(当然いろんな説があるはず)そういう区別は現代文だけではな
く古文も読むことによって補強される多分脳内では無意識に未知既知という時間的空間
的な判断をしているだろう。もちろん証明はできない。文章を読んで意味を理解したり、
語彙を増やすだけが国語教育によって起こることとは思えない。こういう教育に関する
ことは人類の長年の経験によって、ああしたほうが結果的にはいいという積み重ねの部
分が大きいと思う。国語を教えるなら深く古典にまでいったほうが、結果として有為な人
材が輩出されるんではないだろうか。其れを否定するためには非論理的な感情的な古典
排斥論ではなく冷静な万人を納得させる論理が必要ではないか。
ひどい文章だなぁ。句読点の打ち方から勉強しなおして来た方が良いぞ。 学校でやる勉強って卒業した後に何か学ぼうとか親しもうとした時の助けになるような役割も大事だと思う。
高校で習う事とか忘れちゃう人が多い気がするんですよね。
>>164
そういう漠然とした理由付けだと、
なぜフランス語や会計学やヴァイオリンや心理学でなく
古文漢文なのか、という問いに答えられない。
卒業後に何か学ぼうとしたときの助けになることなんて無限にあるからね。
「視野をひろげる」などの間接的な理由付けも同様。
古文漢文に直接的に求めるものが何なのか、
それは例えば現代文や数学といった他教科に割ける時間をあえて利用してまで、
習得させるべきものなのか。
そういうことを考えるべきだと思うんだ。 敢えて古文漢文を難じる立場を取らせてもらうと、
どちらも古文や漢文を読む能力の助けになる――もちろん、あくまで助けで
あって、それで読めるようになるわけではない――ことは確かだが、
それは現代日本語を扱う能力には、必ずしも良い影響を与えないと思う。
古文漢文はなまじ現代日本語に近い分、そこでの語彙や文法・文体が
本人が使う現代日本語に影響しやすい。
例えば(しばしば装飾的・衒学的な)漢語語彙の多用や、
古典日本語文法の現代語との混用としてね。
こういうことを表現力の拡張だと喜ぶ人間もいるだろうが、
正確な情報伝達という言語の基本的な機能に照らすと、
語彙や文法の煩雑さは歓迎すべきことではない。
こうしたデメリットをもたらすリスクを無視して古文漢文を教える前に、
十代の若者には何よりもまず、
現代日本語による正確かつ平易な表現力を身につけさせることが必要だろう。 和歌・川柳・俳句の区別を中学で教わらなかった高校生は、
悲惨だぜ。
自分の感情を表現する自由を奪われているようなもの。
和歌や俳句でしか自分の感情が表現できない高校生って、いたら嫌だなぁ。w
まあ古文漢文を高校で教えることの是非と何の関係もないが http://www.r4tt-shop.com/
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DS/DSL/DSi/DSiLL/3DS全機種対応 俺はセンターの古文漢文で満点を取り、京大の理系学部に入った。
ので、中高の教科書レベルの知識はひととおり頭に入っていると思う。
それ以上の専門的な内容を学んだことは(学部の一般科目を含めて)全くないが。
で、中高レベルの古典をいちおう修し終えただけの立場から言うと、
英語、数学、理科、そしてとりわけ現代文といった教科については、
高校で修めたそれらの知識や能力が
卒業後の知的活動において死活的に重要だと日々実感しているし、
日本史、世界史、地理といった社会科の諸教科も
現在の日本と世界のありようを理解する上で必須の素養だったと思う。
しかし古文漢文については、上述の他教科と比較したときに、
その知識の応用性、利用の機会において甚だ見劣りするのは、
実感として否定しがたい。
もちろん趣味として俺は源氏物語や杜甫の詩を読むことを愛する。
(もっとも源氏はもっぱら現代語訳だし、杜詩も返り点などを打って読んだりはしない
――つまりその鑑賞において中高で習った文法事項など全く必要としないが。)
しかしそれはトーマス・マンやバルザック、トルストイの文学に向けられる愛と、
或いはバッハの音楽や奈良の古建築に向けられる愛と同じ類のものであって、
そうした趣味のために中高の授業時間を割くことが適当かというと、首をかしげざるを得ない。
だからこのスレで提示されるような疑問はもっともだと思う。 仮に古典教育を、美術や音楽といった芸術科目の教育と同様の目的において
理由付けるとしても、
古文や漢文の文法を幾ら暗記したところで
一篇の漢詩も我々は作らないし、古文を用いた作文をするわけでもない。
「日本と中国の古典は素晴らしい芸術的価値を持つから
その鑑賞ができることはそれだけで非常に有難いのだ」
ということも可能かも知れないが、
俺が読んだ限り、ギリシア、ローマ、インド、中東、ヨーロッパ等等の
世界の錚々たる古典文学・思想・宗教作品群に対して
日本と中国の古典がその質において格別な地位を占めるとは思わない。
それらを原書で読むために(どうせ読めやしないが)古文単語や返り点の打ち方を学ぶ時間に
現代日本語訳の史記やプラトンやシェイクスピアを読ませた方が、
遥かに人格形成に有益な古典教育たりうるのではなかろうか。 条件を捨象し限定すれば華麗で完璧に思える論理は展開できる。
しかし現実や自然はそれではとらえきれず
指の間からこぼれる砂のように抜け落ちてゆく。 >>171
確かに世界的に見て日本の古典が格別優秀かと問われると
日本人以外にとっては、まだしも読むに値するのは「源氏」くらいだろう。
ただ、そのような人類普遍的な価値とは別に、国民国家アイデンティティの形成という意味で
自分の祖先が何を考えてたかを知るのは意味があると思う。
日本人として日本や古代中国の文化や精神を受け継ぐことは大事なことだ。
まあ、だったら文法暗記より現代語で多読すべきと言われればその通りだが
文章を練る場合、駄文さえ書けて意思が通じればいい、
と考えれば、古典なんかどうでもいい。
日本人の感受性なんかは、枕草子・紫式部日記にも現れている。
原文で読めるかどうかの違いは、理解度だ。
サルトルなんかの哲学書を原文で読むと、頭にしみこんでくる。
>>174のコメントなど全く非論理的な文章で、
およそ意思さえ通じない駄文だが、
古典やサルトルの原文(笑)を読んだ成果は一体どこに行ったのかと
疑問に思わざるを得ない。
現代日本語による優れた文をものしたければ、古文や漢文の語彙や文体や構成を学ぶよりも、
まず現代日本語の優れた文をできるだけ読み学び、それらを手本とした作文の訓練を積むことだ。
古文漢文を学ぶことが悪いとは言わない。
しかし中学高校水準の基礎的な教育においては、
現代日本語を扱う能力を鍛えることの方が重要だと言ってるんだ。
現にこのスレの古漢文教育を擁護する書き込みを見ても、
その文章力のお寒い水準は覆うべくもないだろう?
>>176
現代日本語で規範になる文章ってあまりないですよ。
新聞でも誤用がたくさん有ったり、TVのテロップでも一日一回は間違いに遭遇するような時代。
漢文も含めて、古文や歴史の素養がないと、まともな文章はやっぱり書けない。
あえて言うけど、近年の日本語の乱れは、朝鮮学校卒とか、まともな日本の素養がない人間がマスコミや文筆家になってるから
生じてるんだと思う。
本来文章を書く仕事をしちゃいけない人がそういう仕事についてるから。
その一方、中学生、高校生でも見事な文章を書く人間もかなりいる。
文章は素養も含めて、その人の蓄積してる内面が反映されるから、
大人が「古文は必要ない」とか色々言おうと、自分で自分をちゃんと高めてる人
好きで学んでる人は、誰に言われなくても、自然に立派な文章を書きますよ。
…と君が書き散らしたその文章が、まさに現代日本語であって、
古文でも漢文でもないのはもちろん、擬古文や擬漢文ですらないんだよ。
現代日本語の規範は直接的には現代日本語を参照することによってしか
定め得ない。
そこで古文漢文の文法や言い回しを混用することは誤りですらありうる。
もちろん古文、漢文、のみならずフランス語や英語やウルドゥー語の素養が
間接的に現代日本語のまともな文章を書くために必須だと主張したければ
それもいいが、少なくともそうなる論理的なプロセスくらい示そうぜ。
立派な文章にお詳しい御仁なら尚更、な。
>>179
単語の意味にせよ、文法にせよ、実際の用例から帰納されるものだからね。
現代日本語の規範を学べるのは、現代日本語の文を読むしかない。
ただ、文法や語義上の正しさにとどまらず、
説得力のある論理や構成という点まで含めて文章力の意味を広く取るなら、
現代文以外の要素も関与してくると思う。
例えば>>174や>>178のように「論理的なプロセス」を書かずに
結論だけを書いた文章が多いが、こうした悪文は数学的な素養の欠如に由来するのではなかろうか。
出来の良い生徒は「途中の式を書け」という教師の教えを会得しているだろうから。
俺だったら例えばこんな風に論理を展開するだろう。
『ある内容を伝えたい場合に(特殊なものでなく、一般的な例であるほど望ましい)、
古文漢文の素養がないとこのような文章しか書き得ない。(実例提示)
これに対し古文漢文の素養があると、このような文章を書くことができる。(実例提示)
前者の文章はこのような点が日本語としてまともでない。
いっぽう後者の文章はこのような点で前者に優れる。
したがって古文漢文の素養はまともな日本語の文章を書くために必須である。』
何かを主張するための論理と構成を備えたまともな文章って、こういうもんだろ。 >>180 例えば>>174や>>178のように「論理的なプロセス」を書かずに
その結論を尊重せずに、
自分が分からないから、
そのように考えるに到った経緯を書いて欲しいなんて、
自己チューな考え方に到った履歴を披露して欲しいものだ。
さて、哲学・思想は、数学的な基盤の基に成り立っているのだろうか。
サルトルにせよ、孔子にせよ、キリストにせよ、
自分の知見・経験をもとに抽象化して説を立てているだけ。
無意味な批判に時間を消費しない方がいい。 「何でそうなるの?」
「分からないのか!理由を聞くなんて自己中な奴め!」
ダメだこりゃ。w 要するに信仰、宗教のたぐいなんだよな。
「古文漢文を学ばないとまともな日本語が書けない」「駄文しか書けない」
――その結論はどういう論理過程によって導かれるの?
――古文漢文の素養を必須とする「まともな」文、
現代文の素養だけで書いた「まともでない」文って、
それぞれ具体的にどんな文?
この単純な問いに答えられないなら、ただの思い込みということだろう。
ソクラテスでなく神の子や聖人を引き合いに出して言葉を濁すあたり、
薄々自覚はしてるのかも知れんが。
漢文の素養がないと絶対に書けない文の例。
”この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺※(糸+賺のつくり)
なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、
かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得る
の点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、
万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。”(SN、1906年)
”数か、数か。紅篋の度牒、袈裟、剃刀、噫又何ぞ奇なるや。道士の霊夢、
御溝の片舟、噫又何ぞ奇なるや。吾嘗て明史を読みて、其奇に驚き、
建文帝と共に所謂数なりの語を発せんと欲す。”(RK,1919年)
”隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで
江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、
賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。”(AN,1942年)
ちなみに漢文の素養をろくに持たないままこの種の文をものそうとすると、
平野啓一郎の『日蝕』のようなものができあがる。
素人にはお勧めできない。 >>184
不必要に難解で装飾的な用語、JIS第二第三水準の漢字の多用。
執筆された時代や題材を勘案すれば、或いは文学作品として見るならともかく、
およそ日本人一般が目指すべき現代日本語の規範的な文章ではないな。
それにそういう文は少時から四書五経の素読を仕込まれた世代だから形になるのであって、
現今の中高の国語授業を全て使ってもそのレベルに至ることなど不可能だろう。 >>185
もちろんこんな文は今の日本人には書けもしないし、書くべきでもない。
ただ、このような文は、「漢字の多い文章=難しい文章=知的な文章」みたいな
小学生レベルの認識の人たちにとっては、まぎれもない日本語の名文なんだよ。
古典を何のために学ぶのかという問いに、
「まともな/立派な日本語を書くため」と答える人が(特に文章力の低い人の間に)多いのは、
畢竟このような擬古文・文語文への崇拝や憧憬によるのではないかと思う。
俺なんかは、古典を何のために学ぶのかと聞かれれば、
「古典を読むためだ」という答えで必要十分だと思うけどね。 数学的論理だけで何でも説明できるとか考えている連中の方がよっぽど宗教じみてるよ。
数学なんてのは、「数」という現実ではありえないほど単純化した素材を並べて遊んでいるだけのゲーム。
そんなものをいくら積み重ねても、複雑な現実の事象など説明できない。
まして、人間の言語というのは極端に複雑な代物。
数学的論理の権化であるコンピューターがこれだけ発達しても、言語を解明できないことからもそれは明らか。
その証拠に、機械翻訳は日本語の絡む翻訳はおろか、西欧語間の翻訳ですら惨憺たる有様だ。
だから、古典語の習得と現代語の作文力との関係だの、古典語の必要性だのといった途方もなく大きな話題を、
数学的論理ごときが扱えるわけもない。
「現代日本語を習得するには現代日本語を勉強すべき」なんて論理は、「1+1=2だ」と主張するのと同じ。
それを永遠に喚き続けていれば、論理的破綻はしない代わりに、何の意味もなさないだろうよ。 まあここに沸いているアンチはどうせガキなんだろうな。
日本文化の何たるか、日本語の何たるかも知らずに偉そうな減らず口ばかりを叩いているが、
まあ数十年後に「俺も若いころは恥ずかしい書き込みをしたものだ」と思うだろうさ。 >>186
古典を読むべきだ、という主張には俺も同意するにやぶさかでない。
ただ、古典を読むべきだからこそ、文法の暗記に労力を費やすよりも、
現代語訳で左伝や源氏、ソフォクレスやシェイクスピアを読むほうが、
古人の精神を学ぶという意味でも、日本語の能力を鍛えるという意味でも、
有益なのではないか、というのが俺の主張。
ツルゲーネフの翻訳から近代日本文学の文体が創造されたこと想起するまでもなく、
古文漢文よりは現代日本語の規範を学ぶのに好適でもあろうよ。
>>189
しかし日本の古典はホメロスやウェルギリウスやシェイクスピアのような
国際的なカノンでは現にないし、将来そうなるとも思えないので
日本人が読まないと、
日本の古典を原文で読む人が地球上にほとんどいなくなってしまうのよね。
まあだからといって中高生に強制的に学ばせるというのも
それはそれで歪んだ享受のありかたという気もするが
古文やる意味わかんないけど・・・
「ね」を10回描いて読めとかいうやつは結構面白かったwww
強制的に読ませないと読者がいなくなるようなつまらない作品なら、
なおのことわざわざ文法を学ぶ労を払って原文で読む必要がない。
日本でしか読まれないのは、つまり人類一般に訴える普遍性を持たないということだろう。
そんな駄作は打ち捨てておいても構わないし、少なくとも高校で教える必要はない。
人生は有限で、普遍性を持った価値ある古典は無数にあるのだから。
下手な文章はかえって味があったりするんだが、幼稚な文章というのはダメだな。 ちなみに僕の幼稚な文章の判断基準は文章技術ではない
書いている人を想像するという感覚的非論理的なもの
そして>>193の文章を読んでわがままな高校生の顔が浮かんだ。
外れているかもしれない。w >>194
当然、グローバル化という観点からも現行の古典教育の批判は可能だと思うよ。
結局のところ古典教育の意義は共通知としての教養を培うこと
(による人格形成云々)にあるのだし、
知の営みが英語を公用語としたグローバルな活動となりつつある現状では
(科学に関しては百年前からすでにそうだったが)、
日本人の間にだけに通用するローカルな教養の価値は、
国民の大半が一生外国人と会話しなかった時代と同じではいられない。
ならば日中一色の古典教育の構成も見直されてよいだろう、という話になる。 ふと思ったが
古文を原文で読むことを重視する人って、
漢文訓読についても否定するのかな?
語順を改変して恣意的に訓読を織り交ぜるのも、
原文の鑑賞からは遠ざかるものなんだが… >>198
漢文訓読は、重宝なもの。
中国の留学生も絶賛するもの。
ただ、原文理解では、中国語読みが優先される。 >>193
普遍性にこだわっているようだ。
個性的にはこだわらないのだな。
いっそのこと、家政科に志望変更するか、
海外移住を考えた方がいい。
【文章添削】
×漢文訓読は素晴らしい。なぜなら中国人留学生が絶賛しているからだ。
○漢文訓読は素晴らしい。なぜなら■■という利点があるからだ。
×個性的にはこだわらないのだな。いっそのこと
○独自性にもこだわるべきだ。なぜなら■■という利点があるからだ。
日本と中国の古典のみを教える固陋を批判しているのだが、
普遍性をいっさいかえりみる必要がないというのならば、
数学の時間にも和算のみを教えるべしと主張してはどうかな。 >>199-201
自演か
文章が幼稚だから子供か。 漢文訓読の手法って、実は中国で言う古文にしか適用できなくて、
水滸伝や紅楼夢、三国志演義、西遊記などの白話小説は読めなかったりする。
かといって論語や荘子のような古文を読もうとすると、語句の意義が不明瞭で、
注釈や現代語訳なしに正確に理解することは素人にはまず不可能。
つまるところ返り点にほる訓読なんてのは、小手先の誤魔化しに過ぎない。 >>203
韓国には古代から万葉仮名や片仮名と同様の文字があったが、
15世紀のハングル創製まで国文は発達しなかった。
知識人が白文で漢文を読めたため、
日本のように漢文訓読が定着しなかったのがその一因。
小手先のテクニックとは言え、
それによって生まれた漢文訓読体が日本語の母体となったことは事実 現在使われている日本語の形成には、
ヨーロッパ言語の翻訳文も
語彙・文体の両面で多大な役割を果たしてるよ。
むしろ翻訳文学を抑えないと、
前近代の古文漢文がどう近現代の日本語とリンクするのかが分からない。
日本語形成史を学ぶという点でも今の古典教育は片手落ちだ。 横から>>205に
>抑えないと
抑は抑圧が原義
また「漢文訓読体が日本語の母体となった」を読めてない。 >>205
俺もそう思うよ。
ただし後半部分は「古典教育の目的が日本語形成史の教授にあるなら」という条件付きで。
漢文と上古の和文を現代日本語の祖父母、和漢混交文を母とするなら、
欧文は現代日本語の父親みたいなもんと言えるかも知れん。
じっさい紅葉、一葉、鏡花、露伴、漱石、鴎外あたりの文体を並べた上で
二葉亭四迷の仕事やその後の書き言葉における欧文脈の影響を教えたら
非常に面白いし有益だろうね。
高校の古典の授業でやるべきことかどうかは分からんが。
日本語の形成史を教えることが主眼でないなら、
つまり古典を読むことそのものに古典教育の目的があるなら、
結局、現代語訳で東西の古典を読ませる方がその目的に適う。
高校習う程度の古文文法を修めたところで、
現代語訳を読む方が内容について正確な理解を得られることは確かだろうから。