理系が古文・漢文をやる意味は何だろう
東工大:センター比率0%、二次でも国語なし、国語自体が害悪というスタンス
マーチ文系:文学部でも古文・漢文やらない試験形態がある
慶應文系:小論文で古文・漢文の力もはかれるというスタンスからやらないところが多い
一橋:漢文の記述問題は必要ないから出さないというスタンス
東大理系:理系でもなぜか古文・漢文が重要だから二次試験に出すというスタンス
>176 名前:165 投稿日:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:4K8OG3UZ
>古文にしても漢文にしても、現代語に直してある文章に触れるだけでも充分情緒を感じられると思うけどね
--------------------------------------------------------------------------
プッ
馬鹿丸出し(爆笑)
古代人と現代人の感性の異なる点を、翻訳者がすでに現代向きに解釈・訂正して
訳していることも知らない無知(嘲笑)
実は、現代人の感覚では違和感がある点こそ、古典を読む意義が大きい所であることを知らない
古典知らずの馬鹿の戯言ですた。(大爆笑)
あははははははははははははははははははははははははははははははははははは 古文を勉強すると ID:pRGAtJlIみたいな知恵遅れになっちゃうの? >>180
知恵遅れにとっては、これがせいいっぱいの 「 反 論 」 か(プッ
あははははははははははははははははははははははははは 翻訳や現代語訳は、原文のプロット(筋立て)は伝えられるけど、ディテール(言葉遣い)までは伝えない。
だからレマルクの「西部戦線異状なし」のように文章は凡庸だけどストーリーは万人の心を揺さぶる、
といった作品は翻訳を読んでも原文を読む人の感動を大部分は共有できると思うけど
ジョイスの諸作品のように言葉遊びや様々な文体を使って表現の可能性を追求した作品だと、
翻訳だけ読んで原文の妙味を味わうことはまあ不可能だろう。
漢詩や和歌のような詩的作品はもちろん、散文でも方丈記なんかはたぶん後者に属する。
あれは現代語で読むと大したことは言ってないんだが、文章の流麗な美しさは余人のよくするところではない。
それに史記や源氏物語のように、プロットで感動できてなおかつディテールも美しいという本物の名作も存在する。
そういう作品は、多少時間をかけてもできれば原文かそれに近い形で読んだ方が良いと思う。 それと、スレの趣旨とは直接関係のない話だが。
中国人や韓国人を主語として、それらがバカだ、劣っているといった評価を下すことは、
約14億人の中国人と韓国人の中に、自分より優れた人間が一人も存在しないという主張と、論理的には同義だ。
ではそのような評価を下す当人は、実際にどれだけの中国人や韓国人と会ったのか。十人?百人?
仮に千人の中国人と会って話して、その全員が自分より劣っていると判断したとしても、まだあと約14億人が残る。
つまり「中国人はバカだ」という言明は観察せざる多数を評価している点でまず誤りであるし、
また観察した中国人全員が自分より劣っていると安易に評価したこと自体も、
当人の聡明さよりはむしろ思い上がりを、すなわち愚かさを証明するだろう。
孔丘いわく、「われ三人行えば必ず我が師を得」と。 知者とは他者から学ぶことのできる者の謂いなのだから。 >>181
ブーメラン突き刺さってるぞw 真正の知恵遅れw
で?
運動方程式の意味は何だ?
ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜だ
回答できないのか?
自称 理系の知恵遅れクン(大爆笑)
あははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは
はははははははははははははははははははははははははははは >>183
馬鹿丸出し(爆笑)
言葉を変えてごまかさずに、正確に使って答えろ、ヴォケ(プッ
現在の支那人・朝鮮人を嫌悪し、軽蔑することが、
な ぜ 知 性 ・ 教 養 が な い
ことになるのか説明してもらおうか。
説明できねえだろ、
この軽薄丸出しの知恵遅れ(爆笑)
そもそも、何の根拠も無い平等主義こそ、人類史上でここ数十年しかない単なる一つの「主義」
に過ぎないことすら自覚できていない馬鹿(嘲笑)
テメーの無意識の思考の呪縛が自覚できない、典型的古典が読めない馬鹿のサンプルですた(大爆笑)
あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは ただ、漢文に関しては、訓読というのは翻訳に他ならないから、訓読文は原文ではない。
だから原文での鑑賞をすすめる立場から言えば、漢文は中国語で直読するべきだし、
漢文は訓読で鑑賞すれば十分という立場を取るなら、現代語訳を読めば良いという主張には反論しにくいと思う。 >153
古文漢文を真面目に勉強して、苦労して文科省の役人になった人が、「古文漢文を外す?そんなのありえないだろ」と主張してるんだろうね。
>156
その学部・学科でやる内容と直接関係が無くても、何か役に立つんであれば試験科目にあってもいいと思うんだ。社会人になるとそれは出来なくなるし。それが高校生の特権だと思う。
しかし古典文法は役に立たない。思考力の訓練にもならない。課すメリットが感じられない。 ん?役に立つと既にさまざまに指摘されてると思うけど、読まなかったのかな?
古文漢文は歴史の浅い現代日本語の諸要素の規範を提供する源泉であり、
古文の原文や漢文の訓読文を読むことは、和語・漢語に対する語感を鍛え、語彙を増やし、文体のリズムを体得させ、
もって日本語の読解力、表現力、文章力を向上せしめる。
ゆえに日本語を用いて何らかの情報を摂取したり発信する必要のある人間にとっては役立つ。
難しい? 流れ的には……
教養古典の意義(と魅力)までは皆さんあまり否定なさっておらず、
語彙と文語文法(漢文でいえば各種の句形等)の方はえてして
「不要」のやり玉にあがってる
って理解でいいのかな? 紫式部や清少納言の文は感情と感覚の襞を写しとる微妙繊細な言葉の使い方を教え、
孟子や司馬遷の文は出来事と論理の核心を捉える鋭利簡潔な言葉の使い方を教える。
万葉古今の歌には身近な和語の細やかな質感と、それらがおりなす和文脈のリズムを学べるし、
六朝唐宋の詩賦からは高雅な漢語語彙の豊饒と、それらを配した漢文脈の抑揚を学ぶことができる。
古文漢文というのは何より日本語の基礎的な能力を高めるためのテキストなんだよ。
貧弱な読解力と粗末な文章力しか持たない人間が、情報の摂取と発信に不利を被るのは当たり前のことで、
古文漢文は日本語を用いて何らかの知的活動にあずかろうと思うならすべからく修めるべきものだ。 >160
その通りかもしれないけど、文学部志望ならともかく、理数系を中心に勉強する理系の学生が、「語の質感をかぎ分ける繊細な感覚」を「養う」必要があるかな?そんな時間はあるかな?
高校の三年間で理系が「国語」に費やせる時間はかなり短いのに…。 まあ日本の国語教育での古文漢文偏重は明らかにバランスを欠いているね。
古典原文を死んだ言葉で読むのは一部の研究者でいい。義務教育で必須教科にする必要はなく高校でも選択にすればいいよ。
海外でもラテン語などの古典は選択教科になってることがほとんどだしね。 おそらく古文漢文の成績が良かったであろう官僚が書く文章読んでみたら、古文漢文勉強したところで語の質感をかぎ分ける繊細な感覚がどうのこうのなんて関係ないことがわかると思うよ。 余裕のない子はできなくても仕方ないと思うよ。
読解力や文章力などの基礎的な日本語能力の不足によって、
受験では英文和訳をはじめとする記述問題で不利を被り、
入学後もレポートや論文の執筆をはじめとする諸々の言語表現において
相対的に低いパフォーマンスを甘受するだけの話で、
別に生きていけなくなるわけじゃないから。
まあ同じように言えば、大学なんか行かなくても生きていけるけど。w センター試験で選択がないのは国語だけ。大学で学ぶことによって必要とされる基礎知識がことなるのはあたりまえ。
自然科学やろうとする者に文学部に行くものと同じ問題出す方がおかしいね。 >>195
君の言ってることは抽象的なことばかりでなにひとつエビデンスがないね。 >>197
造反有理とわめくばかりでなんの実証もしないのは自分だろ。 古文漢文の学習が日本語能力の向上に資する根拠は、既に何度もこのスレで挙げられている。
理系文系を問わず、日本語を用いて情報を摂取し発信する限り、日本語能力はパフォーマンスに影響する。
その上でどの程度の日本語能力を必要とするかは、個々人が選択すれば良いだけ。 >>199
最近ここに来たんだけど日本語能力の向上に質する根拠はどこに書いてあるの? 可能な論証の一つを挙げれば、こんなとこかな。
一、言語は語義、語法、文体などにかかる一群のルールと定型の上に成り立つ記号体系である
二、そのルールと定型すなわち規範は、自然言語においては歴史的に蓄積された用例によって定まる
三、とくに古典籍における用例は歴史を通じて参照され続けるために規範への影響力が強い
四、現代日本語の書き言葉は約百年前に成立したばかりで、歴史的蓄積が浅い
五、そもそも現代日本語は古文と漢文訓読体を基礎として成立しており、その規範を包摂している
六、ゆえに古文漢文の古典籍を読むことは、
現代日本語の語義、語法、文体などにかかる一群のルールと定型の基礎を理解せしめ、
以て日本語能力の向上に資する。 >>201
現代日本語の語義、語法、文体などにかかる一群のルールと定型の基礎の理解って現代語の勉強で学べるでしょ。
古文漢文をやらなきゃ現代日本語力が向上しないことなんて無いと思うけど。
現代語を伸ばすなら現代語をより深くより広く追求していくべきだと思うんだよね。 三から六の指摘を踏まえた反論になっていないな。
現代日本語は歴史が浅く、そのテクストのみを源泉として規範を完結できる独立性を有していないし、
またそもそもそうした独立性を得ようと古典籍から継承した語彙の淘汰を図っているわけでもない。
各時代で参照されてきた古典籍は歴史の浅い現代語のテクストより規範に対する高い影響力を有する。
試しに小学一年生で習うような最も簡単な漢字でいいから漢和辞典で意味を調べてみろ。
まっとうな辞典ならばそこに載ってる例文は現代日本語のテクストではなく、漢籍から引かれているはずだ。 「うれしい」という和語を説明するために広辞苑に引かれている例文は拾遺和歌集。
「たのしい」「かなしい」の用例は万葉集から引いてあるし、「さびしい」は源氏物語から引かれている。
「美」という漢語を説明するために漢字源で引かれているのは詩経。「楽」の用例は論語から、「悲」は帰去来辞から。
残念ながら現代日本語の最も基礎的な語彙ですら、その解説には古典籍が引かれる。
古典籍の歴史的蓄積と影響力の上に規範を形成している日本語のあり方をよくあらわす事実だろう。 ここでレスしている人は、古典文学や言語学を専攻したような人ばかりなの?文章が高尚過ぎて理解できん…。
古典勉強したくないからそれを正当化できる理由を探すのがこのスレの目的では…。冗談だが。 物性物理専攻だが、192のような主張に対して率直な感想を言うと
古文漢文にせよ数学理科にせよ高校で学ぶ内容なんてのは初歩の初歩、教養のための入門編であって
数学理科をやるために古文漢文の勉強する余裕も無いほどいっぱいいっぱいの子は、
数学や物理のセンスも大したことないと思うし、専門家として食っていくのは厳しいんじゃないかと思う。
受験レベルは生ぬるいから高校生だけど高木貞治の解析概論やファインマンの赤本読んでます、
面白すぎて古文漢文やってる暇がありません、というのならまだ分かるが。 >>203
>>204
漢和辞典も広辞苑も無いから詳しくは分からないけど、それらは現代日本語で説明、解説できるものではないのか?
古文や漢語が無いと説明できないのか? 現代日本語より古典の方が語の正しい用法を示すのに適しているから、
現に漢和辞典や広辞苑は古典から用例を引いているんだろうね。 それは無いだろ。現代日本語の言葉なんだから現代日本語で用例を示した方が理解しやすいに決まってるだろ いや…君らが何を言っても現実に辞書がそうしてるのだから仕方ないだろう。
なぜ広辞苑や漢和辞典が古文漢文の用例を引くのか少し考えてごらん。 広辞苑に権威はないな。
というかまともな日本語の辞書がない。 広辞苑や漢和辞典が古文漢文の著名な書から用例を引いている事実は、
古典が現代日本語の規範に影響力を持つことの証左に他ならない。
「辞書がおかしい」と駄々をこねるのは自由だが、反論としては何の意味もない。
もっとも、普通の頭で考えれば、辞書が古典の用例に頼るのは、まったく当然のことだ。
語の正しい意味とは、多数の人々がその意味に従って用いてきたという、現在までの実績により定まる。
各時代に読み継がれ参照されてきた古典と、現代の誰かが書いた文と、いずれがよくこの条件を満たすか。
引き比べるまでもなく、答えは明らかだろう。 >>212
お前の論理だと、現代日本語は間違いで古文が日本語として正しいことになるぞ?
結局、辞書が古文を載せるのは
格好がつくから。だけな気がするけど。 落ち着いて読み返してごらん。わたしが正誤について提示した論理はこれだ。
「語の正しい意味とは、多数の人々がその意味に従って用いてきたという、現在までの実績により定まる。」
この条件を満たす正しい用法は、現代日本語にも当然ある。したがって君の反論は正しくない。
それにも関わらず辞書において古典の用例が引かれる理由もまた、この論理から明らかだろう。
ある用法が正しいとか間違っているとかいうことは、過去の用例を見ることによってしか言えない。
規範から逸脱した誤用ですら、それが正しい用法として定着するには、歴史的な蓄積を必要とする。
その歴史を体現するものが、遠い過去に書かれ、現代まで継続的に参照されてきた古典というわけだ。
だから上の論理を否定しない限り、古典が現代日本語の理解に資するという主張もまた否定しえない。
「格好がつくから、なだけ」などと非論理的な願望を口走っただけでは反論にはならんよ。 >>214
いや、辞書の機能として過去の実績とかいらないから。
単に言葉の正規の意味を載せればいいだけだから。
結局、過去の実績を裏付けるために載せてるとしても、辞書の機能としてそんなのいらないんだから「格好がつくから」載せてるだけという範疇を出ないんだけど? 正しい意味を載せるために古典の用例を引くのだが。
未だに理解できないのか。 だから古典の用例じゃ分かり辛いだろ。現代日本語を載せた方がいいだろって話なんだが。
理解できてないのはお前だぞ。 辞書の目的が、語の「正しい」意味とその用例を示すことにあるとして、
その「正しさ」は歴史的な用例の蓄積によって担保されるのだから、
歴史的に参照され続けてきた、それゆえに影響力を持つ古典に用例を採るのだよ。
現代語のテクスト、例えば君の2chへの書き込みを例文に採用したとして、
それが正しい用法に従った用例だということは、どう証明する?何が正しさを担保してくれる?
正しさを証明しようとすれば、結局過去を参照して、
歴史的にそのような用例が使われてきたことを示さざるを得ない。
ならば最初から古典の用例を引いた方が確実だ。
つまり語義のような言語の規範に関しては、
古典は現代語のテクストよりソースに近く、情報としての価値が高いのだよ。 >>219
お前は辞書で調べようとしてる人間自身が辞書の意味や用法が正しいかどうか見極める必要があると思ってるのか?
辞書に載ってる時点で正しさは担保されてるとは考えない田舎者なの? 辞書の記述は執筆者の主張。古典での用例はそのソースだ。
ソースなど不要、辞書執筆者の主張は無条件に正しい、という君の殊勝な姿勢は結構だが、
それは「格好がつくから」などといい加減な編集方針を推定した態度とは明らかに矛盾する。
バカだから仕方ないとはいえ、論理の整合性にはもう少し気を配った方が良いぞ。
まあ、君が幾ら辞書執筆者への信仰心を説いたところで、
その執筆者が語の正しい用例を示すために古典を参照している以上、
結局「古典を読むことは現代語の理解に資する」という事実は否定できないんだけどね。 は? どう矛盾するの?
「辞書に書いてあることは無条件で正しい。だから格好つけという理由だけで古典の用例を載せている。」
で論理的に筋が通ってるけど?
あと、現代日本語の辞書に古典の用例が載ってるからと言って
古典は現代日本語の理解に大きな手助けになる、とはならないんだけど?
まずは 古典の用例は現代日本語の理解の手助けになる理由を書きましょう 「無条件に正しい」という執筆者への信仰と、「格好つけたいだけ」という執筆者の不合理な動機の推定は、明らかな矛盾だな。
執筆者を無条件に正しいとするのであれば、用例も語の解説に資するという合理的な理由に基づいて付されたと考えなければおかしい。
また、執筆者ないし辞書の読者が言葉の正しい意味を定めるプロセスに古典の参照を要したことは、
そのまま古典の参照が現代語の理解に役立つということの、例証。というか、そのもの。 ついでに指摘しておくと、
古文漢文の学習が現代語の理解に役立つことは、語彙だけでなく文法においても然り。
「○○すべし」
「○○せざるをえず」
「見よ」
「すべからく」
「よかれあしかれ」
「いずれにせよ」
「怒れる」
「悲しき」
こんな言葉は現代日本語でも普通に使うが、いずれも中学で習う口語文法では説明できない。
現代日本語の文法は実際のところ口語を主体としつつ文語も多用されていて、
両方を知っていないと理解できない/正しく使えない表現が無数にある。
だから古文漢文をちゃんと勉強してないと、例えば
「ポル・ポト政権下で知識人はすべからく虐殺された」
などと言葉を誤用して恥をかく者は実際にいる。
かく古文漢文は現代文とそもそも対立する別個の知識ではなく、
数学と物理のように一方が他方に依存する関係にあるもの。
微積分や複素解析を学ばずに理解できる物理は高校レベルを越えないのと同様、
古文漢文を学ばずに扱える日本語は小中学校教科書レベルを越えないだろう。 >>223
「正しい」と「適切な選択」は違うよ。
辞書に載ってる言葉の意味も用例も無条件に正しいけど、
現代日本語なんだから現代日本語の用例を載せる方が適切。
つまり古典の用例も間違った使い方の用例ではないけど現代日本語の用例を載せるべき。
>古典の参照が現代語の理解に役立つ
いや、古典の参照は豆知識レベルのことで普通の人たちには必要ないものだから。
だいたい、古典を用例にしてる言葉は現代日本語では殆ど使われてない言葉では無いのか?
>>224
現代日本語でも一般的に使われてる一部の古文語を持ち出して、古文全体を正当化するのはダメだよ。
現代日本語でも使われている古文語は現代日本語でもあるわけだから勉強のなかに残すべきであるが、現代日本語で使われてない古文語は必要ないんだから科目から無くすべきなんだよ。 おやおや。
つまり古文漢文が日本語能力の養成に資することは認める、と。 は?
どこをどう読んだらそう読み取れるんだ?
お前は古文漢文をやる前に現代日本語能力を何とかした方がいいぞ? 225において、
古文漢文に現代日本語で用いられる部分が存在することを明らかに認めてしまってますな。
そうすると、「古文漢文は現代日本語で使わない」という主張から
「使われていない古文語は必要ない」まで主張を後退させたのは、自覚のない撤退だったわけか。
まあ、言い返すことに必死で自分の当初の主張を忘れてしまうのは、バカにはありがちなことだが。 古文漢文というのは学校でやる科目のことなんだけど?
それらをやらなくても現代日本語で必要なものは現代語の授業もしくは日常的に覚えるんだから古文漢文という科目は要らないよねっていう話しなんだけど話をすり替えないでね。
>言い返すことに必死
これ明らかにお前自身の自己投影だよね。
今までのお前のレス見てると議論に負けないことを目標にしてて揚げ足を取ろうと必死になってるもんな。
俺は最初から古文漢文の必要性の是非のみを議論してるだけなんだからお願いだから君と一緒にしないでね。 要はID:6cp01hez自身も古文漢文の必要性を見いだせてないからそこの議論をできずに議論自体の勝ち負けに意識が行ってしまってるんだよね ID:6cp01hez
次から次へと論破されててワロタ 論破認定まで始めちゃったか。そこまで追い詰めてしまって何だか申し訳ないな。
古文漢文は要らないと君が判断することは別に構わないし、どうでも良いのだよ。
必要な日本語能力の水準は人によって異なる、と言ったろう。
小学校教科書程度の文章しか扱えない水準に留まる自由は誰にでもある。
論点となりうるのは、事実として古文漢文が日本語能力の向上に役立つか否か、だ。
君はそれに対して当初、否と言っていたし、227でも否定している。
ところが同時に225において、古文漢文で教わる内容が現代日本語において用いられることも認めてしまった。
そしてその二つは論理的に両立しえない。
整合性を守るにはどちらかを撤回するしかないよ。 お前は勝手に解釈するなよ。スレタイをよく見ろ。
ここで論点になってるのは古文と漢文の科目が役に立つかというところだ。
>小学校教科書程度の文章しか扱えない水準
お前の妄想を書き込むなよ。
そもそも古文漢文を推してるお前の日本語能力が稚拙な時点で矛盾してんじゃん。 結局 ID:hNoU+3kJは論破されて涙目で逃亡か >>195
経済産業研究所によれば高校時代の教科のうち数学の出来が年収にもっとも大きな影響を及ぼすんだけどな。
そして次が理科。
国語がもっとも影響が弱い、というか国語が得意だって答えてる奴らは一番年収が低いという結果が出てるわけだがw そもそも数学ができる奴は国語もできるんだな。
その逆は必ずしも成り立たないけどな。 国語ができない理系は二流、数学ができない理系は論外、というだけの話だろ 1999年 2ちゃんねる開設(5月30日)、フシアナ騒動、Leaf騒動
2000年 ネオ麦事件
2001年 閉鎖騒動、911 田代砲
2002年 ちんこ音頭 タカラギコ騒動、アフガン相撲
2003年 ネオ烏龍事件 練炭自殺事件、川崎祭
2004年 VIP開設、電車男(2ch内的)、イラク人質事件、ニート24歳騒動 、ソニーメルアドGK発覚、yahoo知恵袋開設
2005年 電車男(社会現象的)、ドワンゴCM放送、のまネコ騒動、FLASH末期、ハピマテ騒動
2006年 山田ウイルス、YouTubeの台頭、ハルヒダンスブーム、佐賀騒動、ケツ毛バーガー騒動、銚子電鉄支援運動、福岡中2いじめ自殺事件折鶴贈呈
2007年 ニコニコ動画開設、らき☆すた(聖地巡礼)ブーム、ドメイン事件、画像ch事件、アサヒる騒動、ヤフコメ開設、恋空・スイーツ(笑)騒動
2008年 切込ひろゆき裁判
2009年 2ch譲渡、けいおん!ブーム、草なぎ事件、左翼ブーム、大規模規制、有名人薬物事件 政権交代(自民→民主)
2010年 韓国からのDOS攻撃、ツイッターの普及・台頭
2011年 冒険の書開始、東日本大震災、韓流フジテレビ抗議デモ、まどマギステマ発覚
2012年 芸能人の生活保護騒動、大津いじめ自殺事件、竹島尖閣騒動、政権交代(民主→自民)
2013年 アベノミクス >>237
違うね。
国語ができても数学ができなければ年収が低くなるってことだよ。
理系とか文系とか関係なしにね。 自然科学を研究するのに必須なのは数学的思考力と英語力であって、国語力は中学現代文レベルで十分。まして古文漢文の知識などゼロでもなんら支障がないわけだが。 その論理において、収入が下がることの原因は数学ができないことでしょ?
国語の成績と収入の相関が負だとか、国語と数学の成績の相関が負だというなら分かるが
そうでない限り数学の方が収入に寄与すると幾ら喚いても、
「国語はやらなくていい」っつう話にはならんぞ >>241
将来金を稼ぎたいのなら国語を勉強する時間を削ってその分を数学に回した方がいいってことだよ。 いや、国語を勉強しないで数学をやるべきというのは、上でも言ったが
国語の成績と収入か、国語と数学の成績が負の相関を持つ時に言えることであってな…。
まあ、無理に理解せんでも良いが。
どうせ収入が高い人間が数学が得意だった傾向を言うだけで、
数学やれば金を稼げるという解釈自体が論理的におかしいし。 参考までに俺が京大の一回生で最初に受けた専門の授業でのことだが、
教授が物理系校舎の窓から見える法・経済学部が入ってる建物の方を指さして
「あっちの子たちは生涯平均で君たちより3割ほど余計に稼ぎます」と
冷酷な事実を教えてくれた素敵な思い出がある。
まあ数学やるのは理系として当然だからそれは良いんだが、
収入の期待値を上げることを目的に勉強するなら、文系目指すのが正解だと思うな。 >>244
就職も理系より文系の方が有利なのかね? 収入の期待値なら医学部で決まりだろ。
東大卒の平均年収を下回る医者なんてほとんどいないから。 > 数学やれば金を稼げるという解釈自体が論理的におかしいし。
お前、京大入った割には頭悪いね。京都産業大学とか京都女子大を無理矢理略してるんじゃないのw
数学得意だとより高い年収が得られる確率が上がることを言ってるわけだが。 > 国語の成績と収入か、国語と数学の成績が負の相関を持つ時に言えることであって
だからさ、得意科目と年収の関係の調査なんだってば。
数学や理科を得意としていた者の年収は国語を得意としていた者より高いというデータなんだよ。
数学と国語の成績の相関云々じゃなくて、それぞれ別の因子として考えてどちらが年収増に影響が大きいかということね。
勉強に使える時間は限りがあるから、国語を勉強すればその分数学を勉強する時間は減る。将来金稼ぎたいならより年収に影響の大きい教科に力を注いだ方がいいだろって話な。 特に古文漢文なんて成績良くても年収に全く影響を与えなさそうだよね 数学が得意な者は年収が高い傾向がある
↓
国語を勉強せずに数学を勉強すると年収が上がる
↓
でも一流大では文系の方が理系より年収が高い
↓
しかし一流大の医学部卒はもっと年収が高い
…という流れならもう医学部行くしかないな。
ちなみに東大理三・京医には当然のことながら
国語が必要。 教養なんだから古文、漢文をして当たり前
そんなこと言ったら使いもしない
もしくは使えもしない英語に
無駄な時間を使う方がおかしい 本発表は荻生徂徠が撒き散らし大流行させたAIDSから、それに感染した山本北山
らの主張した「ポジ種ご褒美説」への主張の転換とその背景について、「無料雄まんこ」という視
点から考察するものである。周知の通りこの転換については すでに日野龍夫ら
によってAIDS感染を契機とするケツビジネスの売り専ボーイからコールボーイへの独立、あるいは糞みそ化の
過程として詳細に論じられているが、ゲイ・男色史の枠組みに留まらず、その
歴史的意義を広く<人間革命>から位置づけることもできるだろう。まずは共通
テーマである「ホモセックス」の持つ両面性や概念そのものを整理しつつ、当初は「遊」
の領域にあった衆道や江戸漢詩がや商業主義や雪隠(!)の中で「日常性」を獲得し
ていくことを論じていきたい。 >166
>受験科目としては他に比べて頭も使わないし、労力もかからないし、
…そうであっても、役に立たない要素をやる必要は無いと思う。
>古文漢文の勉強に拒否感持っちゃう子は、そもそも読書が嫌いな子なんじゃないかな。
…俺は読書は嫌いじゃなかったけど、特有の言い回し(文法・単語)を調べるのが億劫になって、読む気が無くなった。 それは本当に好きではないな。
それでも素直に努力して向上しようとすればなんとでもなる。
しかし自分が努力しようともせずあまつさえまわりを恨み他人を引きずり下ろそうとする者には誰もかまいはしない。 なんで古文漢文は必要ないって声がリアルで上がらないんだろうな そもそも義務教育じゃないから
やる価値があると思った奴だけがやれば良い話で
誰もやれとは強制してないし、できないわけだが。
必要ないと連呼してる子が何を求めてるのかよく分からん は? 現状、大学に行きたい場合や進学校に通う場合は古文漢文をやらなきゃ行けない場合が殆どだろ。
それが必要ないってことだよ 自分に必要ないと判断したなら、やらなくて良い。
自分に必要だと判断したら、やれば良い。
好きにしろ。 >>259
お前馬鹿すぎるから黙っててくれるか?
その頭じゃ中卒だろうし まあまあ。
>257・259
確かに、やらない進路選択はあるけど、理系の国公立に行きたい場合は大体古典が受験科目に入るから、ある程度勉強しないと合格できない。
でも理学にしても工学にしても古典の知識なんか全く必要無いし、社会常識としても役に立たない。理系科目で選別されるのは理に適っているが、何でこんな科目(古典)で合否決められるワケ?って事。 文語表現が正しく扱えるようになるとか
現代語の語彙や文法への理解が深まるとか
文章力や読解力が語彙力が上がるとか
過去の優れた精神に他者の解釈のフィルターを通さず学ぶことができるとか
原文の言葉づかいの美を享受できるとか
古典を直接読むメリットは既に挙げられてるだろう?
何の役に立つかという一般的な問いに答えることはできても、
それが必要かどうかは個々人がどういう能力を得たいかによるわけ。
「オレには必要ない」と連呼しても、他人にとってはどうでもいいし、
必要ない人間にやるべきだと勧める理由もない。 やる必要を見いだせない勉強を嫌々やることほど愚かなことはない。
俺なら古文漢文が必要ないと思う人間には、「やらなくてもいい」というより、
むしろ「やるべきではない」と勧めたい。261君のママが何を言おうと、断じてやるな。
俺じしん京大とその院に六年いた経験から言えば、
「○○は役に立たないからやらない」みたいに自分の知識と視野を狭く限定しようとする発想は、
それ自体はけっして悪いことではないし、職人気質みたいでカッチョイイとすら思うんだが、
少なくとも東大や京大のような軟派で教養主義志向の根強い学校には合わないと思う。
俺らって欲張りだから、直接メシの種にする専門知識と、視野を広げる教養との両方が欲しいのね。
しかも傲慢だから、その両方が得られると思ってる。「広く深く」が自分には可能だと思ってる。
だから少なくとも学部のうちは、可能な限り自分の食指を広げるようとする。
例えば工業化学科の奴が「ジュリスト」を購読してたり、
文学部の奴が分子生物学の勉強会に参加したり、
理学部物理系の奴がレジュメに荘子の一節を引用したりするのね。
入試はその学校が学生に何を求めるかというニーズの表現だから、
学校としてもそういう教養主義と親和性の高い学生を求めてるのは確か。
そういうのに拒否感持っちゃう子は、行かない方が良い。
わざわざこんなイカれた学校に行かなくても、
古文漢文の読めない技術者や研究者になるためのルートはたくさんあるから、
自分に合った道を進むのが一番良いと思うよ。 >>262
>メリットは既に挙げられてる
当時の人たちの精神や文化を学べるというメリット以外は全部メリットを否定されてるだろ。
ちゃんと最初のレスから読め。
>必要ない人間にやるべきだと勧める理由もない。
現状、必要ない人間もやらなきゃいけないんだが。
お前やっぱり高校や大学のことを知らない中卒だろ。 今のところ国語力に資する点について否定する論理は出てないな。
「中学レベルで十分」と個人的な要不要にスライドして回避しただけ。
まあ、頭の出来は人それぞれだから、無理に理解する必要はないけど。 そもそもID:cpKsdM/tの頭の出来が悪すぎて国語力に資する点とやらを挙げられてないよ。 ああ、機能性文盲なのか。確かにこの子に古文漢文を読めと言うのは酷だな。はは。
とまれ、古文漢文をやりたくない子の意志を、俺は支持する立場だよ。
少なくとも自分の人生に必要かどうかという判断は本人の意志が全てだし、
他人の人生にも必要ないと信じることも、それで安心できるなら信じるべきだと思う。
他人にとってはどうでも良いことだからね。
義務教育を終えた以上、その後に何を学び何を学ばないかは全て、自分の自由意志で決めることができる。
だから自分にとって不要と判断したことを学ぶのはただ愚かなことだ。 >>267
逃げ回らないで 国語力に資する点を挙げてみろよカス。
お前頭が悪すぎてマトモに答えられないんだろ? 明治の末年、鴎外・漱石の文名、愈以て天下に遍し。或時漱石自ら省みて曰く、「余は文学の意を国史左漢より学び得たり」と。
また学生あり、鴎外に問うて曰く、「文章上達の極意は如何。」
先生応えて曰く、「重ねて左伝を読むべし」と。
漱石鴎外にして漢籍に文を学び、また自らそれを後世に薦む、以てその功を証するに足れり。
人これに駁さんと欲さば、漢籍を読まずして両文豪を越える名文をものすべし。 この程度の文語文が読めなかったということか。
大した国語力だな。笑 普通、国語力って現代語に関してはてはまるものなんだが
お前、現代語さえ不自由なのか 結局、古文漢文を学ぶメリットを一切示せない知恵遅れの古文信者 「文語なんて読めなくてもいい」という価値判断は君の自由。
文語が読めないという日本語能力における劣位は客観的な事実。
これで262で挙げられた「文語表現が正しく扱える」というメリットが示されたな。
さらに言えば269の内容において「文章力の向上に資する」ことが示されているのだが、
そもそも文語が読解できないなら仕方ないな。はは。 文語表現が正しく扱えるようになる
→別に必要ない。
現代語の語彙や文法への理解が深まる
→深まらない
文章力や読解力が語彙力が上がる
→上がらない
過去の優れた精神に他者の解釈のフィルターを通さず学ぶことができる
→そこまでする必要は無い。翻訳で十分
原文の言葉づかいの美を享受できる
→必要性を感じない
古文信者、完全論破されてるよー 言語能力の差と論理とでねじ伏せられて悔しいのは分かるけどさ。
「必要ない」という個人的な事情や、「深まらない」という断言を繰り返しても、
論破にはならないんだわ。ごめんな。 参考までに、丸谷才一の『文章読本』から引いておこう。
「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに尽きる。事実、古来の名
文家はみなそうすることによって文章に秀でたので、この場合、例外はまったく
なかったとわたしは信じている。 我々は常に文章を伝統によって学ぶからであ
る。人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学
ぶ学び方の才能に他ならない。」
「名文がわれわれに教えてくれるものは、第一に言葉遣いである。 われわれはそ
れを意識の底に数多く蒐集しておき、時に応じて取り出してはこれを用いること
ができる。 すなわち、先人の語彙、過去の言い回し、別の文脈のなかでのレト
リックは、今われわれの文章を織るための糸となる。 われわれはまったく新し
い言葉を創造することはできないのである。可能なのはただ在来の言葉を組み合
わせて新しい文章を書くことで、すなわち、言葉遣いを歴史から継承することは
文章を書くという行為の宿命なのだ。」 「石川(淳)や左藤(春夫)の場合、文語体によく親しんでいるからこそ口語文
に巧なのだ(中略)これは容易に納得のゆくことで、口語体ははじまってからま
だ百年と経たない未熟なものに過ぎず、しかもそれは文語体を基本として成立し
たものだからである。 そこで我々のなすべきことは自ずから明らかになる。
文語体で書けるところまではゆかなくとも、とりあえず文語体の名文をたくさん
読むことである。」
文章上達のために「春秋左氏伝を繰り返し読め」という明治の文豪の助言は、
戦後の日本においても有効ということだな。