落ち着いて読み返してごらん。わたしが正誤について提示した論理はこれだ。

「語の正しい意味とは、多数の人々がその意味に従って用いてきたという、現在までの実績により定まる。」

この条件を満たす正しい用法は、現代日本語にも当然ある。したがって君の反論は正しくない。

それにも関わらず辞書において古典の用例が引かれる理由もまた、この論理から明らかだろう。
ある用法が正しいとか間違っているとかいうことは、過去の用例を見ることによってしか言えない。
規範から逸脱した誤用ですら、それが正しい用法として定着するには、歴史的な蓄積を必要とする。
その歴史を体現するものが、遠い過去に書かれ、現代まで継続的に参照されてきた古典というわけだ。

だから上の論理を否定しない限り、古典が現代日本語の理解に資するという主張もまた否定しえない。
「格好がつくから、なだけ」などと非論理的な願望を口走っただけでは反論にはならんよ。